2010年10月5日火曜日

学問のすすめ

幕末から明治維新を生きた福沢諭吉は、日本人に欠如しているものとして「人間交際(じんかんこうさい)」を訴えました。

これは「社交のすすめ」のことです。幕末から明治にかけてアメリカとヨーロッパ諸国を見た福沢諭吉は、「列島の中で日本人に限定される交際でなく世界と交際をしなさい」と訴えました。江戸時代にはすでに日本文化をベースとする日本人の人間交際はできていたのでしょう。落語が描く世界が証明しています。落語というのは誇張された創作話ですが、江戸時代の庶民の生活を表現しています。

今の日本はどうでしょうか?

日本国内、日本人だけでも人間交際ができているとは言えません。とても世界と人間交際するレベルに達していないのです。これは、やはり今の教育の理念や戦略が間違っていると言わざるを得ません。アメリカの義務教育が日本より優れていると主張するつもりはありませんが、少なくとも、「教育とは?」「教養とは?」と言うことを理解していると思います。そして、厳しいアメリカ社会の現状を理解しているから、子どもたちに社交(ソーシャル・スキル)、つまり、人間交際を理解させ、自尊心を育むことに主眼を置くわけです。以前、サマーキャンプのことを書きましたが、サマーキャンプは人間交際の第一歩です(http://ibg-kodomo.blogspot.com/2009/12/blog-post_11.html )。

「学問のすゝめ」は十七編から成り立っています。

九編十編は手厳しい福沢諭吉の(明治初期の)現状認識です。目指す姿に到達するには現状認識が重要で、現状が認識できないのであれば、目指す姿とのギャップはわかりません。ギャップがわからないと言うことは目指す姿に近づく作戦、つまり、戦略が立案できないということです。今の日本は、何を目指しているのか曖昧ですし、自分の立ち位置や周りの国との距離がどうなっているのか分かっているとは思えません。だから、戦略の立案なんて無理だと思います。まさか、福沢諭吉は130年後の日本がこうなっているとは想像だにしなかったでしょうね。

人たるものはただ一身一家の衣食を給しもって自ら満足すべからず、人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉(つと)むるところなかるべからず。

九編と十編は二つで一つです。九編のまとめが十編の冒頭に上のように書かれています。「衣食が足りただけで満足しちゃアカンよ。世界の一員として全世界のために尽くさないと、愚かものか虫けらのようなものなのよ」と解いています。どこかの隣国に言ってやりたいようなことですね。

今の日本人に対しては、「社交を大事にしなさい。社交ネットワーク(人間交際)の中で自分の役割を果たしなさい。将来的に必ず見返りがあります。質の高い社交の輪に自分の身をおけば自分も必ず成長します。そうやって教養を高めて魅力的な人になりなさい」と聞こえます(大胆な拡大解釈ですが、、、、)。

自由独立と言うときには、その字義の中に自ずからまた義務の考えなかるべからず。独立とは一軒の家に居住して他人へ衣食を仰がずとの義のみに非ず。こはただ内の義務なり。なお一歩進めて外の義務を論ずれば、日本国に居て日本人たるの名を恥しめず、国中の人と共に力を尽くし、この日本国をして自由独立の地位を得せしめ、始めて内外の義務を終えたりと言うべし。

上の部分は現代の政治家先生によく考えて頂きたいことですね。「日本人として国際的に立派な人になりなさい、そして日本を自由独立の一流の国にしなさい、日本人の名を辱めるのはアカンよ」と言っているように聞こえます。今の日本は、どこの国のために奉仕しているのか、何に命をかけているのか分からない人まで大臣をやっていますからね。

子どものころから「教育」だけでなく「人間交際」を通じて「教養」を高めないと、立派な責任ある政治家先生は生まれないですね。早くてあと30年?

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