2010年12月21日火曜日

「走れメロス」をどう読むか?

大ヒットしたアメリカ映画の特徴は「ないものねだり」です。自分に無いものを映画で表現しているものです。少し分類してみました。分類なんて、コンサルタントっぽいですね。

  • ネバーギブアップ型:(「ロッキー」、「アポロ13」、「フォレストガンプ」、「ショーシャンクの空に」、「ルディ/涙のウィニングラン」)
  • ヒロイズム型(「シェーン」、「真昼の決闘」、「アルマゲドン」、「バットマン」、「大統領の陰謀」)
  • ホープ&ドリーム型(「レインマン」、「今を生きる」、「ET」、「勝利への旅立ち」、「愛と青春の旅立ち」)
  • グローイングアップ型(「ペーパー・チェイス」、「スタンドバイミー」、「セント・オブ・ウーマン」、「ベスト・キッド」、「卒業」)
  • サクセスストーリー型(「ワーキング・ガール」、「プリティウーマン」、「摩天楼はバラ色に」、「ベイビー・ブーム」)

さて、皆さんよくご存じの太宰治「走れメロス」、中学生の教科書に長年にわたり登場する作品です。「走れメロス」を中学生に教えるのは難しいでしょうね。学校ではどう教えているのでしょうか? 自分もどう教わったのか、今では覚えていません。

難しいと思うのは、作品が何を主題としているのかがはっきりしないからです。単純に友情や信義を主題とするか、それとも、時代を含む自分自身の境遇を皮肉った太宰のニヒリズムなのかと言うことです。私は知らなかったのですが、文学界では侃々諤々の議論があるようです。このあたりの背景も、先生が中学生に紹介すると面白いですね。現代史の授業にもなります。

上記のアメリカ映画の分類で言うならば、「走れメロス」は、自立したい太宰の心の表れである「グローイングアップ型が5割、単純に健康で明るく読む「ネバーギブアップ型」「ヒロイズム型のミックスが5割でしょうか。それに、時代背景、つまり、日中戦争が泥沼化し、軍部が台頭していくことに対する太宰の反骨精神がちりばめられている。これが私の解釈です。 何れにせよ太宰治はアウトプットを周到に意識した小説家ですね。

私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。

私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

***

0 件のコメント:

コメントを投稿