2025年12月11日木曜日

ハーモニカと人生後半の幸福について

 
Juke 2nd 12 Bar ”2nd hole bend"

久しぶりにリトル・ウォルターの『Juke』を吹いてみました。何十年経っても、この曲を前にすると、気持ちが17歳にもどってしまいます。私にとって『Juke』という曲は、人生の長い旅(?)の途中に時おり姿を現して、「おい、まだやってんのか?」と笑いかけてくる古い友人のような存在なのです。

ウォルターとの“邂逅”

私がリトル・ウォルターに出会ったのは、まだ10代の後半、大阪ミナミの街を彷徨していた頃でした。心斎橋の阪根楽器というレコード屋で、たまたま流れてきた彼のブルースハープの音に、心をすっかり持っていかれ、「黒人のブルース音楽」に引きずり込まれたのです。

すぐに10穴のブルースハープを手に入れて、意気揚々と吹いてみるのですが、まあ、出てくるのは自分でも笑ってしまうほどのフォークソング調の頼りない音でした。吸っても吹いても、どうひっくり返しても、あの“ウォルターの黒い音”はどこにも転がっていません。「特別なハーモニカでも使っているんじゃないか?」と本気で思ったほどです。

当時は何の参考資料もなく、もちろんYouTubeの解説動画なんて夢のまた夢。手探りでふーふー吸っては吹き、吸っては吹き……。今思えば、よく集合住宅の近所から苦情が来なかったなと不思議なくらいです。

特に『Juke』の12バー(小節)の2サイクル目。あの1〜8バーは、10代の私はもちろん、50代、60代になっても、まともに「分かった」と言えるレベルに届きません。半世紀たった今でも、あの部分は私にとって“永遠の宿題”のようなものです。

『Juke』という奇跡の曲

リトル・ウォルターの『Juke』という曲は、1952年に発表された、ブルースハーモニカの歴史を塗り替えた名曲です。ハーモニカだけでR&Bチャート1位を取ってしまうなんて、今でいうと大谷翔平レベルの快挙です。

彼はアンプリファイド・ハーモニカ――つまりハーモニカをマイクにくっつけて、増幅した“電気ハープ”の先駆者で、まるでアルトサックスのような、鋭く、それでいて温かく震える音色を作りました。あの不安定なユラユラする音を初めて聴いたときの感動は、半世紀経った今でも色褪せません。

ウォルターの革新性は、テクニックだけではなく、それを軽々と、まるで道端を鼻歌まじりで歩くように吹いてしまうところにあります。こちらは必死に息を吸っては吹いているのに、ウォルターは「Hey, man. Take it easy」とでも言うような余裕のある音を響かせる。この温度差がまた、彼に惹かれる理由なのです。

半世紀たっても“敵わない相手”がいる幸せ

私には音楽の才能はありません。これは、長年周囲からも念押しされ、そして自分でも納得している事実です。しかし、才能がないからといって、やめてしまったら、それこそ人生はつまらなくなってしまいます。

『Juke』に挑むと、いつも「ああでもない、こうでもない」と悩みながらも、どこか楽しい。ウォルターの音を探して彷徨いつつ、見つからないまま今日まで来てしまいましたが、最近ようやく「見つからないのもまた楽しさの一部なのでは?」と感じるようになりました。

50代以降になって分かったのは、「敵わない相手」がいてくれることのありがたさです。人生の後半で、まだ越えられない壁がポツンと残っているというのは、なんだか嬉しいものです。壁があるからこそ、人は前に進める。ウォルターは、私にとってそんな存在です。

「ないもの」ではなく「いまあるもの」に気づく

人はどうしても「自分にないもの」に目を向けがちです。若い頃の私は、まさにその典型でした。ウォルターのような音が出ない。でも彼のように吹きたい。どうしてできないんだ、、、、。

しかし、半世紀かけて分かったことがあります。
人生は、ないものを数えても豊かにはならない。今あるものを数えてこそ豊かになる。

才能はなくてもいい。うまくなくてもいい。むしろ下手なほうが、長く楽しめるのかもしれません。もし若い頃から上手に吹けてしまっていたら、私はきっと今ほどハーモニカを続けていなかったと思います。

この感覚は、和田秀樹先生の新刊『医師しか知らない 死の直前の後悔』にある多くのエピソードにもつながっているように思います。和田先生は、長年高齢者医療に携わる中で、人が人生の最後に何を後悔するのかを丁寧に綴っています。

 「もっと家族を大切にすればよかった」
 「もっと旅行すればよかった」
 「もっと仲間と交流しておけばよかった」

これらは、すべて“今あるものを大切にする”ということの裏返しです。人は、失ってからようやく気づく。けれども、本来は、生きているうちに気づいたほうがいいに決まっています。

高齢化社会の日本で、「幸福」をどう育てるか

日本は世界でもトップクラスの高齢化社会です。否が応でも、「老後の幸福」というテーマに向き合わざるを得ません。ただ、ここで大事だと思うのは、「国がどうするか」ではなく、「自分がどう生きるか」です。

そして、人生後半の幸福の本質は、とてもシンプルなものだと思うのです。
  • 自分の好きなことをゆっくり続けられること
  • 心を許せる仲間がいること
  • 何度でも読める本が一冊でもあること
  • 今日のご飯が美味しいと思えること
  • そして、明日の自分が、今日よりほんの少しだけ機嫌よくいられること
この「今日より明日を少しだけ良くする」という感覚は、ハーモニカの練習そのものと似ているように思います。昨日より、ちょっとだけ良い音が出せた。今日は昨日より少し長く吹けた。それくらいのペースで十分なのです。

高齢者が幸せになるためには、特別な才能も、高価な趣味も必要ありません。
“今あるもの”を丁寧に味わう力。それだけで人生は十分に豊かになる。
私はそう信じています。

『Juke』が教えてくれたこと

久しぶりに『Juke』を吹いてみて、あらためて思いました。

10代の頃にリトル・ウォルターと出会えたのは、私にとって間違いなく幸運でした。半世紀かけても攻略できない曲がいまだに存在するというのは、考えようによっては、とても贅沢なことです。

人生の後半では、「人より劣っているところ」よりも、「自分だけの幸せ」を一つずつ増やしていくことのほうが大切なのだと思います。ウォルターの音は一生出せないかもしれません。でも、下手なりに吹き続けて、時おり「あ、今日はちょっとだけマシだな」と思える瞬間、それが楽しくてたまらない!

人生もまた同じではないでしょうか。
完璧を目指す必要はありません。
昨日より今日、今日より明日を、少しだけ良くしていく。
その積み重ねが、人の幸福をそっと育てていくのだと思います。

そして私は、これからもウォルターと対話しながら、『Juke』の2サイクル目に挑み続けるつもりです。70代になっても、80代になっても、たとえ吹けなくても、その時間そのものが、きっと私の人生を豊かにしてくれるはずです。

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2025年12月10日水曜日

個人主義の不在:漱石の警告と日本社会のいま ~ 考える自由より、従う安心を選ぶ国民へ

 

私の個人主義と、いまの日本という舞台について

高校生の頃に夏目漱石の「私の個人主義」を読んだとき、私は大きな衝撃を受けました。漱石が大正三年、学習院の学生に向けて語ったあの講演は、百年以上前のものとはとても思えないほど現代的で、そして鋭いものでした。「修養を積まない個人に、自由を扱う資格はない」「自由の背後には義務がある」という漱石の言葉は、私自身の人格形成に強く刻まれました。

半世紀以上経った今でも、私の考えはほとんど変わっていません。変わらないどころか、最近の日本社会のあり様を見ていると、むしろ漱石の言葉の重さは増す一方です。政治家も、メディアも、そして私たち国民も、「自由」と「責任」の関係性をどこかで取り違えているのではないかと感じるからです。

「自由」と「自分勝手」が混同されている国

そもそも日本では、「自由」と聞くと、どこか悪いことのように思われている節があります。子どもの頃から「勝手なことをしてはいけません」と言われ続け、そのまま大人になった私たちは、「自由=わがまま」という誤った等式を知らぬうちに心の中につくりあげてしまったのではないでしょうか。

自由とは、本来、互いの自由を尊重し合うためのルールを引き受け、責任を背負う覚悟をもつことです。しかし、日本では「責任」という言葉が出てきた瞬間、多くの人がスッと後ずさりする。責任を取る覚悟がないから、自由に近づくことすら避けてしまう。ある意味、非常に合理的です。面倒ごとを避けたい人にとって、「自由を放棄する」という選択は、責任も一緒に手放せる便利な方法なのです。

その結果、「個人の自由」よりも「空気を読む」という、世界でもかなり特殊な社会的ルールだけが異様に発達しました。自由よりも空気の方が強い社会。漱石が見たら、苦笑いしながら筆を走らせそうです。

政治家たちの「自由」はなぜか経費で育つ

こうした「自由と責任の不均衡」は、日本の政治の世界ではより露骨に現れています。政治資金収支報告書に並ぶ、社会通念上どう考えても首を傾げる支出の数々。遊興費、高額な備品購入、そして“何に使ったのかよくわからない”謎の項目。まるで、自由とは「公金を自由に使う権利」だと勘違いしたまま成長してしまった大人たちが、国会という舞台で演じているかのようです。

しかも驚くべきことに、これらは政治家個人の倫理観の問題であるにもかかわらず、「政治資金パーティーの仕組みが悪い」「法律が十分ではない」といった、責任転嫁のための舞台装置まで完備されています。責任を取るべき立場の人ほど、責任の所在を曖昧にする術だけは抜群に長けている。その姿は、漱石が説いた「修養ある個人」とは対極です。

 世襲議員が幅を利かせ、社会経験が乏しいまま政治家になれる仕組みも、この国の「個人主義の欠落」を象徴しているように思います。漱石が「権力を扱う価値のある人とは、修養を積んだ人だ」と語ったことを、ぜひ議員宿舎の枕元に貼っておきたいくらいです。

メディアは「国益」よりも「クリック数」を追う

政治家と並んで、もうひとつの大きな問題はメディアです。ジャーナリズム精神はどこへ行ったのか、まるで国全体を視聴率で運営しているのではないかと思う瞬間が増えています。

事実よりも数字、検証よりもスキャンダル、国益よりも炎上。結果として、政治家はますますパフォーマンスに走り、有権者は刺激ばかりを求めてしまう。社会全体が「考える力」を奪われ、責任をもたないまま「自由に批判するだけの存在」になってしまいました。

これでは、漱石が説いた「変化に対応できる個人主義」など育つはずがありません。変化に対応するどころか、変化を伝える側が率先して扇情的な情報で社会をかき回しているのですから。

責任を放棄した社会の行き着く先

こうして政治家、メディア、国民の三者がそれぞれの場で「責任」を回避し、「自由」を誤って運用していけば、社会はどうなるでしょうか。

 政治家は修養より集金力を磨き、
 メディアは探求心より煽り文句を磨き、
 国民は判断力より空気読みを磨く。

日本社会には、「自由なはずなのに責任を誰も取らない」という、奇妙な無責任のアンサンブルが完成します。現在の日本は、残念ながらそのハーモニーがあまりに“美しく”響いてしまっているように思えてなりません。

いま必要なのは、漱石と諭吉のあいだにあるもの

漱石は「自由には義務が伴う」と言いました。福沢諭吉は「人望とは実学を含む修養によって生まれる」と説きました。二人が共通して語ったのは、「個人の成長が社会の成長の前提である」という思想です。
  • 自由を主張するなら、その自由が他者と共存するための責任を引き受けること。
  • 社会を批判するなら、その社会を構成する一員として自分の役割を考えること。
  • 人望を求めるなら、人と交わり、苦労し、考え続けること。
これらは、百年前の日本にも、今の日本にも等しく必要な姿勢です。

政治家の不祥事やメディアの扇動に目を奪われがちな現代ですが、本当の問題はもっと深いところにあります。それは、「私たち一人ひとりが自由と責任の関係を理解しているか」という問いです。

 自由を望むなら、責任から逃げないこと。
 責任を果たすなら、自由を他者と分かち合うこと。


その積み重ねこそが、健全な民主主義を支える土台になるのだと、私は今でも信じています。

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2025年12月9日火曜日

読解力の育成に必要なものとは?

 
https://president.jp/articles/-/105582

 「絵本」でも「小説」でもない…「読めるけど分からない子」の"理解力"を伸ばす本の種類読んだ先から「何の話だっけ?」となるのは理解できていない証拠

PRESIDENT Online 2025年12月5日

船津 洋(言語学者)

記事の要約

多くの子どもは「文字を読めている」ように見えても、実際には内容を理解していないことがある。これは、「文字を音に変換する力(音韻符号化)」はあるが、「内容を頭の中でイメージ化する力(心内表象化)」が弱いことによって起こる。「読める=理解している」と思い込む親や教師が多く、この問題が見過ごされやすい。

こうした子どもは読解力が低いにもかかわらず気づかれず、そのまま学年が上がるため、学校や塾は「理解」ではなく「記憶」に頼った指導へと偏りやすくなる。

研究によると、読書量は語彙力向上に効果があるものの、理解力(読解力)の向上には読書ジャンルが重要であり、特に説明文の読書が効果的だという。一方で、絵本や小説は語彙力には良いが、理解力には直接つながりにくい。

また、未就学児への絵本の読み聞かせは、後の語彙力・読解力を高めることが多くの研究で示されている。脳の基本構造は遺伝の影響を受けるが、環境による刺激(読み聞かせ・言語体験)によって回路が発達していくためである。

☆ ☆ ☆

この記事が指摘するように、「読めるけれど理解できない」という子どもが増えているという問題意識には同意します。文字を音に変換できても、内容を頭の中でイメージし、理解する「心内表象化」が欠落している──その構造は非常に重要な指摘です。人間の生成AI化かもしれません(思考なき文章作成)。

ただし、私は読解力の育成には、説明文を読む以前に、二つの要素が不可欠だと考えています。学者ではない一個人の意見ではありますが、長年の経験から確信していることです。

第一に、親が読書を好きであること。

家庭の中で自然に本が開かれ、言葉が交わされる環境こそ、子どもの語彙力と理解力の土台になります。読書は強制されて身につくものではなく、「空気のように本がある環境」が最も効果を発揮します。

第二に、「読む」と同時に、自分で書くことが大切であること。

読むだけでは理解は深まりません。読んだものを言葉にし、絵や文章として表現しようとすると、自分の中に蓄えた語彙・知識・体験が総動員されます。逆にいえば、書こうとして初めて、読んでいない・理解していないことに気づくものです。

したがって、読解力を育てるには「書く力」の訓練が不可欠です。しかし日本の教育では、小学校の作文をそのまま延長して、論理的な文章=論文へと発展させる訓練が欠落しています。これこそが、大人になっても日本語を書くことが苦手な社会人が多い原因だと思います。

また、読解力の問題は「聴く力」にも通じます。「聞く」と「聴く」が違うように、読み方にも浅く追うだけの読みと、内容に深く踏み込む読みがあります。

私は半世紀以上ロックやブルースに親しみ、ギターやハーモニカを続けてきましたが、長い間「聞いていただけ」で、本質的に「聴いて」いませんでした。だからこそ、どれほど触れても上達しなかったのだと気づきました。プロになる人は必ず「聴く」ことを実践しています。これは読解力と全く同じ構造です。何度も何度も繰り返し「聴く」、能動的、且つ循環的に聴くということです。

記事が示す「読めても理解できない」という課題に対して、私は、読む・書く・聴くという三つの行為が相互に補い合う教育こそ、これから必要だと感じます。

さらに付け加えるなら、読める=理解していると思い込む親や教師が多い背景には、彼ら自身が子どもたちの言葉を“正しく聴いていない”という問題もあるのではないでしょうか。単に耳に入っているだけで(受動的に聞いているだけで)、能動的に聴いていないことが、子どもの理解の深さを見誤らせている──私はそう感じます。

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2025年12月8日月曜日

心の不調は誰が診るのか――日英の医療現場から

 
(ネットで見つけた画像)

'Life being stressful is not an illness' - GPs on mental health over-diagnosis

https://www.bbc.com/news/articles/cx2pvxdn9v4o?fbclid=IwY2xjawOigTFleHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZBAyMjIwMzkxNzg4MjAwODkyAAEe2SP-bOiOsBmZNoB2BgWia8-z9zRjYH_z00Uu3aXzl0pi-6d9slgpjWCJWG4_aem_JTWUg3nmf1oAAgkkTO1dAQ


心の不調は誰が診るのか――日英の医療現場から

英国BBCが報じた、全国の家庭医(GP:General Practitioner)を対象とした大規模調査は、現代の医療が抱える構造的な課題を象徴的に示していました。GPとは、本来「general=総合的に」そして「practitioner=実務に携わる医師」を意味し、地域住民のあらゆる健康問題の“最初の相談窓口”となる存在です。専門医とは異なり、身体・生活・心の問題を切り分けずに把握するという姿勢が職能の原点にあります。

しかし英国のGPたちは、いま、その本来の役割を果たしきれなくなっていると感じています。調査では、「生活がストレスフルなのは病気ではない」という意見がある一方、失恋や悲嘆といった“正常な体験”にまで診断名が付く風潮を憂える声がありました。過剰なラベリングによって、本当に治療が必要な人へのリソースが削られているという指摘は重いものです。

コロナ以降、若年層のレジリエンス(回復力)が弱まったという見方がある一方で、専門サービスの不足から医師側が診断を渋る傾向もあると議論は割れています。ただ共通しているのは、ほとんどのGPが以前よりもメンタルヘルス対応に多くの時間を費やし、生活困難が心の不調に直結している現実に向き合わざるを得なくなっているという事実です。心理療法が受けられず、やむなく薬を処方せざるを得ない例も多く、NHS(英国の国民保健サービス)が急増する精神的支援ニーズに追いついていない現実が浮かび上がっています。

ジェネラル・プラクティショナーという言葉を深く考える

ここで改めて、general practitioner という言葉そのものを考えてみたいと思います。日本では「ジェネラル」も「プラクティショナー」も、概念として十分に理解されぬまま使われているように思います。これは医療に限らず、コンサルティングなどの専門職にも共通する日本独自の問題ではないでしょうか。

GPに求められるのは、目の前の患者の体質や病歴、生活環境を把握し、身体と心を切り離さず「全体像を理解する」能力です(原子でなく分子)。そこには医学に加えて臨床心理学的な洞察が不可欠であり、患者の言葉の背後にある不安や状況を読み取ることが求められます。これはコンサルティングビジネスでいえば、最初に状況を読み解く“パートナー”の仕事に近い役割です。

また practitioner(プラクティショナー)という語の背景には、practice=経験の積み重ねを通じて形づくられる実践という意味があります。アメリカの社会哲学者であるエリック・ホッファーが語ったとされる「人生はボートを漕ぐようなもの」という比喩は、この考えをよく表しています。

背後に広がる川面――つまり過去の経験や慣行――だけを頼りに、左右の岸に気を配りながら、見えない未来へ向けて静かに進んでいく。その姿は、医療者が日々の診療の中で積み重ねる「プラクティス」と地続きのものです。

私は、このgeneral と practitioner の二つの語が示す洞察――“全体を見る力”と“経験を重ねる実践”――こそ、医療だけではなく、私たちの仕事や人生にとっても大切な視点だと考えています。

日本との共通点・相違点

英国と同じく、日本でも生活困難が心身に影響し、“普通の困難”と“医療的支援が必要な状態”の境界が曖昧になりつつあります。しかし、日本との大きな違いは、GPという役割に対する歴史的な理解です。

かつて日本の「町のお医者さん」は、まさに general practitioner 的な存在でした。患者本人だけでなく、親の世代から体質や生活環境まで把握し、身体と心を包括して診る姿勢が自然に根づいていました。医師は“家族の歴史を知る相談者”として地域に存在し、その信頼関係のなかで心の不調も自然と扱われていたのです。

ところが現在の日本では、大病院を中心に医療がシステム化され、プロセス管理が重視されるあまり、医師が患者よりもコンピュータ画面を見る時間のほうが長くなっています。一般外来は流れ作業化し、担当医も固定されず、生活背景や心理的要因を丁寧に扱う余白が急速に失われつつあります。

英国でGPが「心の問題は専門外だ」と感じ始めている状況と、不思議なほど共通する兆しが日本にも現れています。身体と心を一体で扱うという、本来のgeneral practitioner の視点が後退しているのではないか――それが私の懸念です。

医療の原点をもう一度考えるとき

心の不調は、生活、身体、そして社会構造の交差点で生まれます。英国のGPが直面している問題は、少し時期をずらして日本にも押し寄せつつあり、効率化が進むほど「患者の全体像を丁寧に診る」という医療の原点が失われる危険があります。

いま私たちが問うべきは、「どの診療科が担当するのか」という分断ではありません。誰が、どのような視点で、患者の全体を支えるのか。

日英の医療現場が示している課題は、医師と患者の関係そのものを見つめ直す契機になるはずです。そしてその鍵は、general practitioner という言葉に込められた、「全体を見る力」と「実践の積み重ね」という、極めて人間的な営みにあるのだと思います。

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2025年12月7日日曜日

食べることは、いちばん大切な教育

 

昨夜は今季いちばんの冷え込みでした。

こういう夜は、おでんと熱燗に限ります。きゅうりとカブの浅漬けがあれば、もうそれだけで完璧です。

二か月前にもおでんについて書きましたが、今回はその続編として、日本食と文化の話を少し続けたいと思います。

☆ ☆ ☆


子どもの頃の私は、おでんが大嫌いでした。

練り物を食べるとなぜか頭が痛くなるという、今思えば不思議な体質だったのです。ところが十代の終わり、“ナニワのブルースマン”時代になると、養老乃瀧でちくわを片手に「人生はペンタトニックやなあ」と語っていました。

黒人ブルース音楽と大阪ミナミの街、そしておでん。この組み合わせが妙にしっくりきたのです。

☆ ☆ ☆ 

大阪のおでんは「関東煮(かんとだき)」で、ちくわぶは存在しません。
昔はくじらや牛すじが普通に鍋の中に入っていて、いま思えばかなりワイルドでした。

日本のおでんは地域ごとにだしが違います。

九州は昆布+あごだし、関西は昆布だし、関東は鰹節。
四国では昆布をベースにした甘めの味噌だれが添えられる地域もあります。
だしひとつで味の世界ががらりと変わるのが、日本食の面白さです。

私はやっぱり、透明でやさしい昆布だしがいちばんしっくりきます。
練り物にも大根にも、そっと寄り添ってくれる旨味があります。

☆ ☆ ☆

日本の食文化には、狭い国土のなかに驚くほど「深い」地域性が宿っています。アメリカのように世界中の選択肢がそろう「広さ」も魅力ですが、土地の記憶と結びついた日本の「深さ」は、できるだけ失ってほしくありません。

だからこそ、日本の食文化にはあまりグローバル化してほしくないのです。

ハンバーガーが世界標準なのは構いません。けれど、おでんの味まで世界中どこでも同じになってしまったら、寂しい気がします。

寒い夜に熱燗を傾けながら「やっぱりこの地域の味やな」とつぶやく――
そのささやかな幸福は、どうか守られてほしいと思います。

☆ ☆ ☆

現実には、日本食のグローバル化は急速に進んでいます。“なんちゃって日本食”が増えるだけでなく、マグロやウニなどの寿司ネタをめぐる国際的な争奪戦まで起きています。

世界が日本食を求めるほど、肝心の日本の食卓がその恩恵を受けにくくなるという逆説まで生まれています。

これからは、現地の嗜好に合わせた柔軟さと、日本食が持つ本来の価値を丁寧に伝える姿勢の両方が必要でしょう。異文化理解を深めながら文化を共有していくことが求められているのです。

☆ ☆ ☆

そして何より大切なのは、家庭で子どもに本物の味を覚えさせてあげることだと思います。子どもの頃に本物に触れておくと、大人になって異文化コミュニケーションの場で「基準」ができます。

本物を知っていれば、偽物に対して本能的な違和感を覚えるようになります。これは料理でも、仕事でも、人でも、言葉でも同じです。

私自身、子どもの頃に出会った味や風景、あの映画館の暗がり、あのレストランの衝撃の一皿――もう存在しないものたちが、いまも私の中に確かに生きています。

☆ ☆ ☆

ここで思い出すのが、「ツーン」の感覚です。

おでんのからしが鼻を刺すあの一瞬は、単なる痛みではなく、感覚の奥で「自分は生きている」と思い出させてくれる刺激です。

文化もまた、時に理解されず、伝わらず、孤独の中を生きます。それでも静かに根を張るものこそ、本物の文化なのだと思います。

AIの時代になっても、私たちがこの「ツーン」の瞬間を忘れないかぎり、文化はまだ生き続けます。

小林秀雄が「上手に思い出すことが大事だ」と言ったように、おでんを食べてツーンと感じるとき、人は自分の原点や、大切にしてきたものを自然と思い出すのだと思います。

☆ ☆ ☆

振り返れば、あの頃に触れた「本物」が、後の人生の方向をそっと定めていたのかもしれません。食とは、記憶であり文化であり、人生の基準そのものです。

だからこそ、日本の食文化が持つ「深さ」を、これからも大切に守っていきたいと思います。
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2025年12月6日土曜日

日本の教育を問い直す──「ロボットの大量生産」を越えて


はじめに

私は日本の教育について、「不足か過剰か」という議論ではなく、「質そのものに根本的な問題がある」と感じてきました。これは教育の専門家としてではなく、長く日本の外で暮らし、改めて日本という国家の姿を外側から眺めてきた者としての違和感に基づくものです。2009年にアメリカから帰国した直後に抱いた思いは、いま読み返しても変わっていません。日本は、個性ある子どもたちを社会に開かれた人間へと育てるのではなく、受験という狭い門を通すために均質化し、結果として「ロボットの大量生産」のような教育を続けているように見えるのです。

教育の「権利と義務」は誰のものか

義務教育は、本来「子どもに教育を受けさせる義務が国民・保護者にあり、国家にはその教育を施す権利がある」という構造になっています。では国家は、正しくその権利を行使しているのでしょうか。国家の役割は、自国民を自国民として育てること、つまり国家観・歴史観を共有しうる人間を育てることにあるはずです。しかし、日本の義務教育はこの最も根本的な部分を放棄しているように感じます。

歴史教育はその象徴でしょう。多くの学者が優れた見解を述べているにもかかわらず、その成果は教科書に十分反映されていません。歴史が歴史として教えられていない、意図的な空白がある――そう感じられる部分さえあります。自分の国の歴史を曖昧にし、誇りを持てない教育を続ければ、子どもたちが自尊心や帰属意識を育むのは難しくなります。海外に出れば、パスポートを手にし、国名で呼ばれ、自国の歴史に関する問いを向けられる。それなのに、日本人は自国の歴史に対してあまりにも無防備です。

私のアメリカ人の友人Rは、海軍の士官学校で学んだ歴史を語ります。日本海海戦、ミッドウェイ、山本五十六の戦略。彼との酒席では真珠湾攻撃をめぐる議論が何度も出ますが、そうした応酬ができるのは、お互いの国の歴史を前提として理解しているからです。歴史とは「正確さ」を競うものではなく、タイムマシンがない以上、各国が国策として示す“物語”でもあります。日本がその物語を持たず、子どもに伝えないことは、国家としての怠慢だと思います。 

日本に欠けているのは「概念」を育てる教育

あるビジネス雑誌には「人は概念によって世界を知覚する」と書かれていました。私もまったく同感です。概念は思考の土台であり、言葉よりも前に存在します。概念が貧困であると、議論の前提となるレベルセッティングができず、他者とのコミュニケーションが難しくなります。

日本の教育は、知識の量については豊富かもしれません。しかし、その知識を概念として整理し、世界観や価値観を構築する訓練には欠けています。外国語力以前に、日本語での抽象思考の力が弱い。だから変化に直面したときに、対応力が鈍くなるのです。

「日本人は変化への適応力が弱い」と言われるのも、過剰に環境へ迎合する一方で、自分の信念や観を形づくっていないからでしょう。明治維新以降、日本は西欧近代に、敗戦後はアメリカ的価値観に過剰適応してきました。夏目漱石がロンドンで苦しんだときから、日本人は劣等感と優越感の間で揺れ動き続けています。三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら、国家として総括をせず、そのまま記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さこそ、教育の質の問題です。

子どもたちが確固たる信念を持つには、日々概念を集め、自分の「観」を作っていかねばなりません。世界観、社会観、死生観……それらは読書や日記、思索を通じてしか育たないものです。本来、教育とはその基盤を整える営みであるはずです。 

個性を押しつぶす社会と、居場所のない才能

村八分(1969-1973)というバンドの存在は、教育の欠陥を象徴する例として語ることができます。彼らは時代の文脈を越えた表現をしていたにもかかわらず、日本社会の中に居場所を見つけることができなかった。ギフティッドの子どもが学校に適応できず、「問題児」とされてしまう構図とよく似ています。

欧米にも閉鎖的な共同体は存在しますが、同時にそれを跳ね返す「個人の自立」も育てています。日本は個人主義が弱いのに、共同体の規範は強い。そのため、周囲と異なる者は排除されやすく、しかも本人が跳ね返す力を持たされていないのです。これは教育の失敗と言うほかありません。

村八分の時代から半世紀が経ちましたが、地方の村八分は今も姿を変えて存続し、地方都市は過疎化し、依存心が強まる一方で住民自治は弱体化している。倫理的主体としての市民を育てない教育の帰結でしょう。 

必要なのは「ロボットではない人間」を育てる教育

日本の教育は、入試という細い門に向かって子どもたちを押し流し、均質化し、個性を削り取っていきます。保護者は疑問を抱きながらも、企業が学歴ブランドで採用する現実があるため、子どもをレールに乗せざるを得ません。学校で足りない部分は塾で補い、習い事で広げる。その構造自体が、教育の本質を見失っています。

教育とは本来、強みを育て、弱みを否定しない営みです。ところが現在の日本では、強みは矯正され、弱みは排除され、結果として「平均的な優等生」は生産されても、多様で自立した市民は育ちません。このままでは、日本は世界の多様性とダイナミズムに取り残されてしまいます。

同性愛やLGBTに関する国会議論が小学校の学級会レベルに見えるのも、抽象度の低い議論しかできない教育の帰結でしょう。個人の尊厳や自己決定という概念の土台が共有されていないから、社会的議論が深まらないのです。 

おわりに

私はこれは単なる高齢者の思い上がりではないと信じています。しかし、そう感じてしまうこと自体が、この国の教育が「自分の意見を堂々と言う力」を奪ってきた証左でもあるのかもしれません。

今こそ、ロボットを量産する教育から、個性と概念を育てる教育へ転換すべきです。国家としての物語を教え、世界と渡り合える市民を育て、倫理的主体としての個人を大切にする。そのための教育の質を問い直すことが、日本の再生に不可欠だと私は考えています。

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2025年12月5日金曜日

AI時代の判断倫理――法と医療の現場から

 
(出典:日経新聞)

生成AI・法律・医療に共通する本質

~ 人間を扱う領域で「予測」に頼りすぎる危うさ

息子の意見をきっかけに考えたこと

アメリカで働く息子が、次のような意見をSNSにポストしていました。

”近頃、生成AIの出す誤った回答を「バグ」や「幻覚(hallucination)」と呼ぶ議論をよく耳にする。しかし生成AIの本質を考えれば、それはバグではない。AIは、過去のデータやプロンプトから「最も尤もらしい答え」を計算しているにすぎず、その仕組みは単純な予測モデルと同じ構造を持っている。もし結果が外れても、それはモデルが間違ったのではなく、人間世界そのものがモデルの予測を超えるほど複雑だからだ”。

ここで少し補足します。生成AI(Generative AI)や LLM(Large Language Model)とは、人間の言語データを大量に学習し、その統計的なパターンから「次にもっとも来そうな単語や表現」を予測して文章や画像を生成する仕組みです。つまり、何かを“理解”して答えているわけではなく、過去のデータから計算される確率の高い結果を返しているにすぎません。

法律分野では、この「外れ」が許されません。誤った判例引用や事実認定は、弁護士にとって致命的なミスになります。同じように、医療の現場でも“予測の外れ”は生命に直結します。ここに、AIの限界が最も鋭く現れるのだと思います。

医療現場も、AIが前提とする「単純さ」とは正反対の世界です

私はここ一か月、身内の看病で毎日大病院に通うことになり、その変化と現実を目の当たりにしました。三次救急(高度救命救急病院)の大病院であっても、医療者・患者・家族という三者の「人間性」が常に影響し合っており、判断や感情の揺れが診療の流れを左右します。

20年前は母親、5年前には義母の看病で同じ病院に通いましたが、そのときとは様相が変わりつつあります。若い医師と若い看護師、高齢の雑務係。患者も付き添いも高齢者が多く、コンピュータの使用率は格段に上がり、院内のセキュリティ体制も厳しくなりました。

しかし、どれほど巨大で近代的な医療機関であっても、結局は人間同士の理解、葛藤、判断が診療の中核を形づくります。この複雑さは、AIが前提とする「予測可能な世界」とは根本から異なります。

今日の医療では、電子カルテや各種端末の導入によって、医師も看護師も患者より画面に向かっている時間の方が長くなっています。効率化のために導入されたコンピュータですが、これがAIによる意思決定支援へと進めば、医療全体が「予測に頼りすぎる構造」へ変質しかねません。

しかし、医療は法律以上に、予測の外れが致命的な結果につながる領域です。もし医師や看護師が判断の核心をAIに委ね始めれば、医療者の洞察力や判断力は確実に低下し、その影響は患者の命に直撃するはずです。
 
共通するのは「人間を扱う領域で予測は万能ではない」という事実です

法律も医療も、そして社会全般も、生成AIが扱うにはあまりに複雑で多層的です。AIはデータから「最善の推測」を返しているだけで、現実の因果の複雑さまでは理解できません。原因と結果の間には、数値化できない無数の人間模様が介在しています。
  • 法律では、誤った予測は弁護士の誤りになります。
  • 医療では、誤った予測は患者の死につながります。
いずれも、人間の身体・心・関係性という数値化できない領域を扱っており、「確率モデルの限界」が最も深刻な形で現れる世界だといえます。

だからこそ、AIを使うほどに「人間が人間であること」を忘れてはなりません。効率化や自動化が必要な場面はもちろんあります。しかし、判断と責任の核心をAIに委ね始めた瞬間、法律も医療も、そして社会も成り立たなくなると感じます。

AIは道具であり、人間の代替物ではありません

AIは計算の道具であって、人間を理解する存在ではありません。人間を扱う領域では、「AIの予測をどう使うか」以上に、「人間の判断をどう守るか」が本質になると考えています。

医療でも法律でも、そして社会全体でも、私たちが本当に恐れるべきなのは、AIの間違いそのものではなく、AIに頼って人間が思考を放棄することです。

これこそが、AI時代にもっとも重要な視点であると私は考えています。

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