江藤淳からAI時代へ
小林秀雄は、かつては教科書にも載っていましたから、名前だけは知っている学生さんもいるでしょう。しかし、江藤淳となるとどうでしょうか。おそらく、ほとんどの若い人は知らないのではないかと思います。私は、江藤淳の二冊――『閉ざされた言語空間』と『忘れたことと忘れさせられたこと』――は、ぜひ若い世代に読んでほしいと願っています。二十年ほど前、私は鎌倉にある江藤淳の家を訪ねたことがあります。もちろん中に入ったわけではなく、外から眺めただけです。通りに面した場所に浴室があり、江藤はそこで自ら命を絶ちました。その事実を思うと、のちに多摩川で自死した西部邁のことも重なります。思想家が最後に沈黙を選ぶとはどういうことなのか。その問いは、いまも私の中で消えていません。
しかし正直に言えば、私の問題意識は江藤の著作から始まったのではありませんでした。
もっと前、高校生のころにさかのぼります。ボブ・ディランの『I Shall Be Released』に出てくる “I was framed” という一節を聴いたときのことです。当時の私は、政治も占領史も知りませんでした。江藤淳の名さえ知らなかったでしょう。それでも、どういうわけかその言葉を自分と重ねてしまい、説明もできないまま共感し、大阪ミナミの街を彷徨していたのです。
framed とは、無実の罪を着せられた、という意味にとどまりません。他人の構図の中に配置され、あらかじめ決められた物語の中に組み込まれている、という感覚です。高校生だった私は、理屈ではなく、直観としてその感覚を抱いたのだと思います。
直観が先にありました。
思想は、あとから追いついてきました。
しかも、何十年もかけて、少しずつ、少しずつ。
その思想の一つが、江藤淳でした。
『閉ざされた言語空間』で江藤が論じたのは、占領期における検閲の問題でした。しかし彼が本当に問題にしたのは、検閲という制度そのものよりも、「言語の枠組み」が外部から与えられたことでした。
人は、与えられた言葉の中でしか考えられません。発言が制限される以前に、思考の前提が規定される。戦後日本は、自分の言葉で敗戦を語る前に、占領側が用意した枠組みの中で語ることを余儀なくされた。民主主義、平和国家、戦争責任。どれも重要な概念です。しかし、何をどの順番で、どの前提から語るのかは、すでに決められていた。
江藤の言う「閉ざされた」とは、沈黙させられたというよりも、枠を与えられたということでした。
「ごっこの世界」という感覚です。思考しているつもりで、実は与えられた舞台装置の上で演じているだけではないか。電車ごっこや戦争ごっこと同じように、「考えごっこ」をしているだけではないか。政治も政治ごっこですね。外交なども、時にそのように見えます。
高校生のころに感じた framed の感覚は、ここでようやく言葉を得ました。私はすでに枠の中にいたのではないか。その疑問は、江藤の議論によって輪郭を持ち始めたのです。
もう一冊の『忘れたことと忘れさせられたこと』は、記憶を扱います。日本人が自ら忘れたものと、外から忘れさせられたもの。その区別を通じて、戦後精神の変質を描きました。こちらは、「思い出せない」という感覚につながります。心を虚しくして思い出すという営みそのものが衰えているのではないか、という問いです。
言語と記憶。
この二つが外部化されるとき、人間の内部には何が残るのでしょうか。
いま、生成AIが広がる時代に、私は再び同じ問いの前に立っています。AIは検閲をしません。むしろ自由に、整った答えを返します。しかし、その整い方そのものが一つの枠ではないでしょうか。平均的で妥当で、どこにも引っかからない言葉。それを読んで「なるほど」と思うとき、私たちは本当に考えたのでしょうか。それとも、整えられた言語空間に収まっただけなのでしょうか。
さらにAIは、私たちの代わりに記憶を保持します。検索すれば何でも出てくる。要約もしてくれる。その結果、「思い出す」という内的営みが衰える危険はないでしょうか。
小林秀雄は、無常が分からないのは常なるものを失ったからだと言いました。常なるものがあってこそ、移ろいの意味が分かる。
江藤淳は、その常なるものを支える言語空間が壊れたと見ました。
私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。
しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。
AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。
私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。
思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。
あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。
江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。
私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。
しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。
AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。
私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。
思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。
あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。
江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。
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