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夏目漱石の柴又帝釈天
柴又帝釈天と言えば『男はつらいよ』、寅さんですが、実は夏目漱石が『彼岸過迄』で柴又を書いています。 心が納得しないと、知識やスキルだけでは人は動かない。 もしかしたら、夏目漱石は自分を客観的にみて、自分の足りない部分を反省して『彼岸過迄』を書いたのかも知れません。
『彼岸過迄』 夏目漱石 (1912年)
この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台(今の京成線 国府台)の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた(これはリリーも歩いた江戸川沿いです)。敬太郎は久しぶりに晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆かけ船だのを見廻した。須永も景色だけは賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れたような顔をして跟(つ)いて来た。
二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚(かわじん)という家へ這入って飯を食った(川甚は今でもあります)。 そこで誂(あつ)らえた鰻の蒲焼が甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。先刻から二人の気分が熟しないので、しんみりした話をする余地が出て来ないのを苦しがっていた敬太郎は、この時須永に「江戸っ子は贅沢なものだね。細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね」と聞いた(夏目漱石は新宿生まれの江戸っ子です!)。
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