2011年8月23日火曜日

間違った教育ほど恐ろしいものはない

1965年の小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』(新潮文庫)を読んで、上のスライドを作ってみました。 岡さんは、知性や理性がいくら発達しても、情緒、つまり、心から積み上がって来たものでないと意味がないと言っています。 なんだか、どこかの首相に聞かせたいですね。 人の心がわからないと、テクニックだけで政治はできません。 ましてや、テクニックを駆使する官僚にまで嫌われたのでは、、。

評論家と数学者という違いはありますが、両者の人生観は似通っていると思います。岡さんは、その過激な発言や行動から(本質をついていたわけですが)、晩年は日本の政界教育界からは嫌われたみたいですが、46年前の2人の対談を、震災後の今だからこそ上手に思い出して、日本の将来につなげて欲しいですね。

岡さんは、教育に関して以下のように言っています(『六十年後の日本』1964年)。

『私は人というものが何より大切だと思っている。私たちの国というのは、この、人という水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。これが国の本体といえる。ここに澄んだ水が流れ込めば、水槽の水は段々と澄み、濁った水が流れ込めば、全体が段々に濁っていく。それで、どんな人が生まれるかということと、それをどう育てるかということが、何より重大な問題になる。人という存在の内容が心であり、こころが幼いころに育てられるとすれば、とりわけ義務教育が大切であることはいうまでもない』。 

『ただ、どう育てるかが問題だといっても、教育でどんな子でも作れるというのではい。 本当は人が生まれるのは大自然が人をして生ましめているのであって、各人はそれを自分の子と思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝わしめているのが教育なのである。それを思い上がって、人造りとか人間形成とかいって、まるで人造人間か何かのように、教育者の欲するとおりの人が作れるように思っているらしいが、無知もはなはだしい。無知無能であることをすら知らないのではないか。教育は、生まれた子が、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であってそれ以上によくすることはできない。これに反して、悪くする方ならいくらでもできる。だか ら教育は恐ろしいのである。しかし、恐ろしいものだとよく知った上で謙虚に幼な児に向かうならば、やはり教育は大切なことなのである』。

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