今朝、散歩の途中でふと足を止めました。
目の前をゆっくり歩いていたのは、あの白い斑点のあるカミキリムシ~ゴマダラカミキリ。思わず立ち尽くして、携帯で写真を撮りました。たぶん、50数年ぶりの再会です。
あれは昭和30年代の終わりから40年代のはじめ、福岡の暑い夏の日の記憶です。
小学生の低学年の頃、私は毎日のように虫取りに走り回っていました。
友泉団地から田島方面、梅光園団地を抜けて六本松の九大教養学部あたりまで。
見た目は非常によく似ていますが、上翅の光沢や胸部の白斑といった細かい点で区別できるそうです。今朝見つけたのは、私の記憶の中にある、在来のゴマダラカミキリだったと思います。たぶん。
でも、正直そんな違いを識別できる人が今どれだけいるのでしょう。この街でゴマダラカミキリを知っている子どもが何人いるのか。そもそも、虫を素手で捕まえるような子がどれほど残っているのか。
記憶にとどめておくこと。そして、その記憶を誰かに手渡していくこと。
そうした偶然の出会い——邂逅は、ただの懐かしさでは終わらず、
未来のどこかに何かを残すきっかけになるのかもしれません。
人生において、邂逅ほど大切なものはないのではないかと思っています。
人との出会いも、思いがけない経験も、その一つひとつが自分を形づくってきた。大した能力のない私でも、多くの邂逅に恵まれて、今の自分があります。
他者(自然といった環境も含めて)こそが、自分という存在をつくりあげてくれたのだと、そんなことをあらためて感じた朝でした。
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あれは昭和30年代の終わりから40年代のはじめ、福岡の暑い夏の日の記憶です。
小学生の低学年の頃、私は毎日のように虫取りに走り回っていました。
友泉団地から田島方面、梅光園団地を抜けて六本松の九大教養学部あたりまで。
カブトムシやクワガタは、当時の子どもたちの憧れでしたが、そう簡単に見つかるものではありませんでした。だから、ゴマダラカミキリは、私たちにとって「そこそこ嬉しい戦利品」でした。クワガタが手に入らない日は、「まあ今日はゴマダラで我慢しとくか」となるのです。
高校時代は大阪。街のど真ん中にある学校に通いました。
福岡とは違い、虫取りの思い出を持つ同級生はほとんどいませんでした。
ある日、街でゴマダラカミキリを見つけて、私はいつものように素手でつかまえようとしました。
高校時代は大阪。街のど真ん中にある学校に通いました。
福岡とは違い、虫取りの思い出を持つ同級生はほとんどいませんでした。
ある日、街でゴマダラカミキリを見つけて、私はいつものように素手でつかまえようとしました。
すると、一緒にいた友人が大げさに飛びのいて「え、それ猛毒とかじゃないの!?」と叫んだのです。
大阪育ちの彼は、ゴマダラカミキリを見たことがなかったようです。
白い斑点があるだけで「危ない虫」に見える、それが都会というものなのでしょう。
そんな記憶が、今朝目の前に現れた一匹のカミキリムシによって、鮮やかに蘇ったのです。なんとなく気になって「ゴマダラカミキリ」と検索してみたら、目を疑いました。
「ゴマダラカミキリを見つけたら、必ず市役所までご連絡ください。外来種の害虫です。」
え? ゴマダラが、害虫? Never heard of it. 子どものころ、さんざん追いかけていたあの虫が、今や駆除対象になっているとは。
詳しく調べてみると、実は「ツヤハダゴマダラカミキリ」という、別の外来種が問題視されているらしい。
白い斑点があるだけで「危ない虫」に見える、それが都会というものなのでしょう。
そんな記憶が、今朝目の前に現れた一匹のカミキリムシによって、鮮やかに蘇ったのです。なんとなく気になって「ゴマダラカミキリ」と検索してみたら、目を疑いました。
「ゴマダラカミキリを見つけたら、必ず市役所までご連絡ください。外来種の害虫です。」
え? ゴマダラが、害虫? Never heard of it. 子どものころ、さんざん追いかけていたあの虫が、今や駆除対象になっているとは。
詳しく調べてみると、実は「ツヤハダゴマダラカミキリ」という、別の外来種が問題視されているらしい。
見た目は非常によく似ていますが、上翅の光沢や胸部の白斑といった細かい点で区別できるそうです。今朝見つけたのは、私の記憶の中にある、在来のゴマダラカミキリだったと思います。たぶん。
でも、正直そんな違いを識別できる人が今どれだけいるのでしょう。この街でゴマダラカミキリを知っている子どもが何人いるのか。そもそも、虫を素手で捕まえるような子がどれほど残っているのか。
記憶にとどめておくこと。そして、その記憶を誰かに手渡していくこと。
どこまで有効なのか、わかりません。でも、50年という時間を越えて、ひとつの虫が幼い日の記憶を引き出し、それが今の社会や環境問題と結びついていく。
そうした偶然の出会い——邂逅は、ただの懐かしさでは終わらず、
未来のどこかに何かを残すきっかけになるのかもしれません。
人生において、邂逅ほど大切なものはないのではないかと思っています。
人との出会いも、思いがけない経験も、その一つひとつが自分を形づくってきた。大した能力のない私でも、多くの邂逅に恵まれて、今の自分があります。
他者(自然といった環境も含めて)こそが、自分という存在をつくりあげてくれたのだと、そんなことをあらためて感じた朝でした。
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