2025年6月17日火曜日

冷奴が主役だった日

 豆腐丼

冷奴が主役だった日

~ 冷奴と自衛隊と、私の豆腐史

小学生の頃、私は福岡の公団住宅に住んでいました。当時の団地には子どもがたくさんいて、放課後になると団地の広場に集まり、三角ベースの野球をする日々でした。日本全体がまだそれほど豊かではなく、今のように目に見える経済格差を意識することもありませんでした。団地には、板付の米軍基地で働くお父さんを持つ家庭もありました。医者の子どもは、団地のすぐ外にある一軒家の立派な家に住んでいましたが、子どもたちの間に上下の意識はほとんどなかったように思います。家の広さや肩書きなんて関係なく、皆が一緒に遊び、笑い、同じ空の下で時間を過ごしていたのです。

そんな暮らしのなかで、子供会はちょっとした“社会”でもありました。夏のラジオ体操に始まり、団地の野球チーム、そしてその中には「自衛隊一日体験入隊」という、少し風変わりな行事もありました。

行き先は福岡県の築城基地でした。当時、今の福岡空港は「板付空港」と呼ばれ、まだ米軍の管理下にありましたが、築城基地はすでに日本に返還され(1957年返還)、航空自衛隊のジェットパイロットの訓練基地となっていました。とはいえ、「入隊」といっても子ども向けの社会見学のようなもので、特別な訓練があるわけでも、迷彩服を着るわけでもありません。それでも、自衛隊基地に足を踏み入れるという非日常の体験に、子どもながらに高揚した気持ちを覚えました。

その日のハイライトは、昼食でした。無機質なアルマイトの食器に、ご飯と沢庵、そして冷奴が配られました。ふりかけはあったかもしれません。「おかずはまだかな」とわくわくしながら待っていたのですが、それ以上何も出てきません。やがて、冷奴こそが“メインディッシュ”だったのだと悟ります。

小学生にとって、冷奴は決してうれしい食べ物ではありませんでした。特に嫌いというわけではありませんが、カレーやハンバーグのような、わかりやすいごちそう感はなく、淡白で地味な存在です。楽しみにしていた昼食が冷奴だったという事実に、なんともいえない肩透かしを食らったような思いをしたのを覚えています。

ですから、あの冷奴が私を豆腐好きにしたわけではありません。冷奴が好きになったのは、大人になってからでした。ビールの美味しさがわかるようになって、夏の夕方、風呂上がりに冷たいビールとともに冷奴を口にするようになってから、その良さに気づきました。冷奴が、日本人としての身体になじんできたのです。

最初は絹ごし豆腐のなめらかさが好きでしたが、年齢を重ねるにつれて、しっかりとした食感の木綿豆腐を好むようになりました。そして最近では、大豆の味が濃くて崩れにくい沖縄の島豆腐を選ぶことが増えています。豆腐という食べ物の奥深さを、いまさらながら感じています。

築城基地の昼食がきっかけで冷奴が好きになったわけではありません。でも、あの日の記憶がどこかに残っていたからこそ、冷奴にまつわる風景や気持ちを、今の自分なりに味わえるようになったのかもしれません。

人の好みは、時間とともに静かに変わっていきます。たとえそれが一丁の豆腐であっても——おそらく、思想も。

築城基地
F-86セイバー(第一世代のジェット戦闘機)と小学生の私(昭和30年代)

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