2025年6月21日土曜日

英語教育ブームに感じる違和感

    












井の頭弁財天 手水舎

  
英語教育ブームに感じる違和感 

~ 言語とは何か、という根本的な問い

最近、文部科学省の調査によって、英語などで授業を行う義務教育の小中学校が、この5年間で約2倍に増加していることが明らかになりました。たとえば、東京都世田谷区の私立小学校では、国の認可を受けて定員36人の「国際コース」を新設し、授業の6割以上を英語で行っているそうです。このように、“グローバル人材”の育成を掲げる学校は、保護者の間でも人気を集めているようです。専門家はこの傾向について、「通常の学校でも英語で授業を受けさせたいというニーズが高まっている」と分析していますが、正直なところ、その程度のコメントには少なからず驚きを覚えました。 

英語で授業を行えば、それだけで“国際的”になると考えているとすれば、それは言語に対する根本的な誤解があるのではないでしょうか。言語は、単なる意思や情報を伝えるための「道具」ではありません。伝達手段という理解だけでは、言語の本質を捉えることはできないのです。 

人間の意識は、言語から離れて存在することはできません。言語は意識の外側にあるものではなく、むしろ意識そのものを形づくる構造なのです。私たちは、言語によってしか自分の思考や感情を認識することができません。「考える」とは、「言葉で構築する」ことであり、言語こそが脳のフレームワーク、つまり思考空間を形成しているのです。

かつてフロイトは、「人間の意識活動は無意識によって規定される」と述べましたが、ここでいう無意識のひとつのかたちは、幼少期から身体化された母語による世界理解(概念の蓄積)にほかなりません。主観である「私」と、客観的な「モノ」のあいだにある「意識」という場は、言語によってかたちづくられているのです。

そのように考えると、母語による思考構造や文化的文脈を深く理解しないまま、単に英語で授業を行うことに、どれほどの意味があるのか、大いに疑問を感じます。英語で学ぶことが、そのまま「グローバル化」を意味するわけではないでしょう。むしろ、どのような言語であれ、それが人間の思考や人間関係をどうかたちづくっているのかを理解することこそが、真の意味で国際的な感性につながるのではないでしょうか。

「英語で教えれば国際的になる」という安易な幻想の背景には、「言語とは何か」という最も本質的で根源的な問いへの想像力が欠けているように思えてなりません。私は教育者でもなければ、言語学者でもありません。単なる高齢者の独り言でした。
  
   
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