バベルの塔
ブリューゲル(ウィーン美術史美術館 1563年)
昔話で聞いたことのある「バベルの塔」。人間たちが天まで届くような塔を建てようとしたとき、神さまはその傲慢さに怒り、彼らの言葉を通じなくしてしまったそうです。それが原因で、人々は協力できなくなり、塔は完成しませんでした。
なぜ神さまは、言葉を乱すという方法を選んだのでしょうか。それは、言語が単なる伝達の道具ではなく、人間そのものの「考え方」や「感じ方」を形づくっているからです。話し手の意思も、聞き手の理解も、実は言葉の中にある。頭の中に先に思考があって、それを言葉に「翻訳」しているように思いがちですが、実際はその逆で、私たちの考えや気持ちは、言葉によって形作られているのです。
つまり、言語を持つこと自体が人間であることの証なのです。他の動物と人間の決定的な違いは、ここにあると言ってもいいでしょう。だからこそ、神さまが怒りの矛先として「言葉」を選んだというのは、とても象徴的です。
さて、現代の私たちは、また別のかたちで「言葉」に向き合っています。AIの進化、とくに言語モデルの発展によって、翻訳も、会話も、文章作成も、驚くほどスムーズになりました。まるで、かつて神によって壊された「言葉の統一」を、もう一度取り戻そうとしているようにも見えます。
しかし、注意が必要です。AIが使っている「言葉」は、意味を理解して発しているわけではありません。あくまで膨大なデータをもとに、もっともらしい言葉を並べているにすぎません。そこには、話し手としての「意思」も、聞き手としての「共同主観」もありません。何だか今の日本にピッタリなので危険なのです。
もし私たちが、言葉をただの情報伝達の手段としてしか見なくなったら、言葉の本質、ひいては人間らしさそのものを見失ってしまうかもしれません。だからこそ、国語の勉強も、外国語の勉強も、「正しく伝える」だけでなく、「言葉の中に人間がいる」という視点を大切にするべきです。
バベルの塔の物語は、決して昔話の中だけの出来事ではありません。AIと共に生きるいまこそ、あらためて「言葉とは何か」「人と人が分かり合うとはどういうことか」を、考えるチャンスなのだと思います。
***
0 件のコメント:
コメントを投稿