2010年5月6日木曜日

優雅に年を取るには「私立」じゃなくちゃ


生き甲斐と言うほど大袈裟ではないですが、公から引退して私的な生活を楽しむことができない場合、なかなか苦しい老後になりそうですね。私的な生活を楽しむということの前提は、福沢諭吉が言うところの「私立」です。つまり、自分で立つということです。「自立できない中高年の心のケア」なんて言うのが、国会の最大の議題になる時が来るかもしれません。

「考へるヒント」(昭和37年)で小林秀雄が福沢諭吉について書いています(台湾のカブちゃんに教えてもらいました)。「考へるヒント」は何十年も前に読んだのですが、当時は何も理解していなかったんですね。しかし、何度も読める本は本当に価値がある。おまけに経済的です。

小林秀雄によると、福沢諭吉の言う「私立」の本義とは「痩我慢」、我慢自体に価値を求めんとする心の動きだそうです。「私情と公道の緊張関係の自覚である」と。なるほど、「私」と「公」のバランスですね。多様性を楽しみ、その中でバランスをとることに長けていた福沢諭吉の本質じゃないかと思います。

どうも、日本人は多様性の中でバランスをとることが苦手のようです。

穏やかで温厚な民族なのに極端から極端に走りやすい。軽信しやすいとも言えます。だから、軽佻浮薄なテレビ・新聞にコロッと騙されます。個人としての多様性が集団としての多様性を生み、組織、または、国家としてのダイナミズムにつながります。外国人をこの狭い日本列島に招き入れて多様化だなんてダメですよ。先ずは、日本人が個人としての多様性、つまり、「私」と「公」のバランス感覚を身につけないと、外国人が混じると難度は更に高くなるでしょう。愚鈍な(愚直ではないですよ)リーダーでは無理です。

蛇足ながら、ワシントン・ポストのコラムニストには「loopy」なんていまに消えて無くなるような言葉じゃなくて、「perpetual puerility(永遠に幼稚であること)」くらいは使って欲しかった。loopy は groovy と一緒で今の若者からするとダサイ言葉ですね。

私の場合、多様性がありすぎて何一つまともに出来たためしがない。コントロール不能に陥っています。

連休中にストラトキャスターの弦を極太に交換しました。バカですねぇ、スティービー・レイボーンと同じ太さの弦を張ると同じように弾けるのではないかと考えたんですね。

***

2 件のコメント:

  1. お!0.13-ですか?!
    私もしたことありますが、普通のフレットだとかなり疲れますね。「Testify」を延々と弾いていました。
    最初のところだけですが(笑)

    返信削除
  2. お察しの通りです。「Testify」と「Lenny」に挑戦する連休でした。どちらの曲も12フレットのところで弾きまくる。どっちの曲をやっているのか分からなくなります、、、。

    何十年もギターを弾いてなくて、音楽も聴いてなかったもので、白状しますが、レイボーンを聞き出してまだ5,6年です。私の音楽時計は1980年頃に止まって、2003年頃に動き出しました。

    ***

    返信削除