日本は、全体主義にも社会主義にも民主主義にも社民主義にも衆愚にもアナーキズムにも、あらゆる方向に向かっていますね。それは、日本に国としての「アイデンティティ(identity)」がないからでしょう。そして、それを修正するには義務教育から変えていくしかないと思います。 今、義務教育を総取っ替えしても、効果が出るまでに20~30年はかかってしまいます。
私は子供の頃から「日本はなぜ300万人も死ぬような馬鹿な戦争に突入したのか」と、疑問に思っていました。ところが、私の受けた日本の義務教育はそれを解明する助けにはなりませんでした。それが日本の戦後民主主義の大きな問題だろうと思います。私が義務教育を受けた頃から随分と時は経ったのですが、ここ数ヶ月日本の教育事情を調べてみて、今の日本でも何ら変わっていないことがよく分かりました。
戦後民主主義の代表のような鳩山総理は、日本という国家のアイデンティティをどう考えているのでしょうか?お祖父様の鳩山一郎さんはマッカーサーに公職追放になりました。鳩山一郎さんが言いたかったことは、アメリカ側の戦争責任も含めて戦争で亡くなった人たちのためにも戦争原因を解明し、戦争全体を振り返ることではなかったのかと思います。
このことを先送りすることによって、いつまでたってもグローバルに活躍できる日本人は出てこないでしょう。
以下は、吉田満さんの「戦後日本に欠落したもの」からの引用です。吉田満さんは、戦艦大和の生き残り将校です。
吉田 満 「戦後日本に欠落したもの」 (昭和55年 文藝春秋)
われわれ日本人は、戦争と敗戦の経験を通じて、本当に目覚めたのか。日本が孤立化の道を突き進んだ果てに、奇襲攻撃によって戦端を開かざるをえなかった経緯の底流にあるものを、正確に解明することができたのか。
自分は日本人であるという基盤を無視し、架空の「無国籍市民」という前提に立って、どれほど立派な、筋の通った発言をくり返そうとも、それは地に足のついた、説得力のある主張とはならないであろう。平和、自由、民主主義、正義。そのどれを叫んでも、言葉が言葉として空転するだけで、発言は心情的に流れ、現実の裏づけがないのである。
昭和年代の日本が戦争に傾倒してゆく過程で、最も欠いていたものは、
眼前にある現実を直視し、世界のなかで日本が占めるべき位置を見抜く大局観と、それを実行に移す勇気であった。列国とのバランスの上で日本にあたえられるべき座標を、過たずに見定める平衡感覚であった。
戦時下の日本が持っていた最もいまわしきものは、おそらく「人間軽視」「人間性否定」だったであろう。したがって今日、その反動のように、「個人の尊重」を誰もが声を大にして叫ぶが、事実、人間は人間として尊重されるようになったであろうか。今の時代は、人間らしい生き甲斐をあたえてくれているのだろうか。
人間が大切にされているように見えるのは、
人間そのものとして尊重されているのではなく、ただおのれの権力を及ぼすべき対象として、自分の利害にかかわる貴重な要員として重視されているに過ぎないのではないか。
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