2010年8月4日水曜日

三島由紀夫

去年の夏、帰国のために本の整理をしていたら、橋本治の「三島由紀夫とはなにものだったのか?」という文庫本が出てきました。引越しの最中に読んでみました。 私が言うなんて「身の程をわきまえない」ですが、橋本さんは三島由紀夫に嫉妬しているのではないかと感じました。ちなみにこの評論は第1回小林秀雄賞を受賞したそうです。 つまり、この三島由紀夫評論は非常に高く評価されているということです。

「三島由紀夫とはなにものだったのか?」の中で、「三島には明治時代に対する憧れとか天皇制思慕がある」と言っていますが、私はそうじゃないと思います。三島の視点は、万葉の世界までさかのぼっています。戦後の日本で「日本の価値観」とか「日本の美学」がなくなったことを悲しんで憤っているような感じがするのです。「戦後の日本は空っぽの世界になってしまった」と。これは軍国主義復活を言っているのではなく、もっと精神的なもの(絶対的価値観)の復活だろうと思います。 文学作品や戯曲を通じて日本や日本人を考えに考えたのだろうと思うのです。

夏目漱石は、形式だけを真似ても中味が伴わない明治をユーモアたっぷりに批判しています。批判するにもユーモアがあるのがいいですね、夏目さん好きですよ。しかし、私は明治時代は物質的に貧しくても結構よかった時代だったんじゃないかと思っています。皆が国を近代化するために一生懸命になった時代で、確かに2つの戦争や暗い事件はありましたが、精神的には向上心いっぱいで、前向きに生きた時代ではないかと思うのです。イギリスを見てきた夏目漱石には、明治の日本は地に足がついていないと映ったのでしょうね、腹立たしい気持ちがあったのでしょう。「中味と形式」は漱石一流の愛国心の表現だと思います。

毎年8月になると私の頭の中は三島由紀夫になります。なぜでしょうね?

三島由紀夫は、自分の死を完全に計算し尽くして、自分の書いたシナリオ通りに主人公を演じ自刃したのだろうと思います。三島が死んだのは11月25日ですが、私の中では、8月15日と三島由紀夫はつながってしまうのです。それは、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄や広島、長崎の一つ一つが、「悲哀」ということで三島由紀夫の死とつながるからだと思います。

マッカーサー呪縛世代やその後の団塊世代の人たちにとっては、三島由紀夫は目立ちたがり屋のコンプレックスのかたまり、ファナティックな右翼作家であるほうが都合がいいのかも知れません。今の日本には「醒めたインテリ」が政財界、文学界、日本の至る所にいるんじゃないだろうかと思います。三島由紀夫が憂いたことは、彼が死んだ昭和45年(1970年)よりも、今の日本のほうがもっともっと増幅されているでしょう。もしかしたら、すでにリカバリー不能なところまで来ているのかもしれません。

敗戦後65年を経て、国のかたちがどんどんぼやけていく日本はどこにたどり着こうとしているのですかね? みんな、あまり関心ないんでしょうね、たぶん。


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