2025年5月11日日曜日

自分の心構えを変える


サキソフォンもハーモニカも息継ぎが難しい。ロングトーンをキープして、上手に息継ぎをしないとリズムに乗ってグルーブ感を出すことはできません。政治やビジネスだとコミュニケーションの能力と言えるかも知れません。

日本の社会は数年、否、数年どころか数十年変わらないと考えておいた方がいいような気がします。だったらどう対応するのか?

自分の生きている社会が変わらないなら自分の心構えを変えるしかない。高度経済成長期(1955年頃~1973年頃)やそれに続く期間(1975年頃~1991年頃)は、みんなが高度経済成長の波に乗っていた。一生懸命自分の仕事をすれば昇進もするし給料も上がった。頑張っただけのリターンがあったのです。ところが、今はそうじゃない。これからも数十年、もしかしたら半世紀ほどは変わらないかもしれない。

ピーター・ドラッカーが、著書で「integrity of character」という言葉を使っています。これは「人格の一貫性、統合、完全性、高潔さ、誠実さ」ということです。前提は一人ひとりが自分の人格を持っていることです。その上で「integrity of character」を意識して生きるということです。

Integrity of character refers to the quality of being honest, ethical, and having strong moral principles, consistently reflected in one's thoughts, words, and actions. It means maintaining a whole and complete moral compass, unwavering in adherence to a code of values, and acting in alignment with one's beliefs, even when faced with pressure or temptation.

我が国の福沢諭吉先生は明治時代に『学問のすすめ』の中で同じようなことを言っています。福沢さんの方がドラッカーよりも先ですね。

『学問のすすめ』12編の後半は、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」です。「ならざるべからざる」なんて難しいですね。これは、漢文では不可不~の二重否定です。つまり、「高尚でないといけない」と言っています。さて、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」ですが、これは、まさしくインテグリティ(integrity)のことを言っているのだろうと思います。
   
インテグリティは日本語に翻訳しにくい。「志」という人もいれば、「誠実」と訳す人もいる。しかし、どうもしっくりこない。私は、「倫理観」と「スキル」と「野心」の3つのバランスがとれていることがインテグリティであると長いこと信じていました。しかし、福沢さんに「人の見識を高尚にしてその品行を提起するの法如何すべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、自ら満足することなきの一事に在り」と言われると、これがインテグリティかとも思います。

日本の社会がどれだけ停滞していても、一歩前に踏み出すと今までとは違った人格の持ち主が集まって来る。これまで足を引っ張ったり頭を叩いていた人たちが遠ざかって行くものです。要するに自分の「心構え」を変えることで、周りの状況を変えることはできる。日本社会がどうだこうだ批判ばかりしてみてもしょうがない。日本の政治家を見ても大企業の経営陣を見てもインテグリティを備えた人格者は極めて少ないのが今のニッポンなのです。

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2025年5月5日月曜日

憲法記念日に考えた

これから何年生きるか分かりませんので、言いたいことは言っておきましょう。

佐藤功の『日本国憲法概説』

50年前の本です。東海林さだおの本やちばてつやの漫画は不本意ながら全部捨てたのに、なぜ佐藤功の『日本国憲法概説』はまだ持っているのでしょうか? 私は反感しかありませんでしたが、この本を「権威」としてキャリアを積んできているのが日本の中枢(エリート)でしょう。佐藤の憲法を知らない政治家もいっぱいいますが、、、。

憲法改正はやりたくない

憲法改正の手続きを定めた96条でさえ議論・検討できない政治家に憲法を改正するなんて面倒なことはやりたくない。官僚や弁護士は憲法は既得権益だから改正なんてとんでもない。覚えたことが無駄になる。護憲は憲法の「憲」ではなく既得権益の「権」なのです(江藤淳?)。つまり日本の国柄とか伝統や文化に根ざした人権でも何でもないのです。もちろん、アメリカ政府のゆるぎない対日戦略のプレッシャーもあります。

決断力の欠如

日本国憲法がアメリカ人によって書かれた終戦直後は、アメリカ人でさえ広島・長崎に「原爆までおとしちゃった」自責の念に駆られて、現実離れした理想を幾ばくかの正義を有した一部の若者が作文したのでしょう。一言も変更することなく80年ものあいだバイブルとしている日本人、驚きを通り越して、怒りはしないだろうけど絶対に信頼できるパートナーとは思っていないでしょう。決断力(determination)の欠如だと思うからです。  

国家の三要素

日本国憲法や特に憲法9条は宗教みたいなもので、イスラム教徒に多神教を認めさせるのと同じです。どう説明してもダメ、論理的にどうのこうのではありません。「マルクス主義の武装解除が9条の戦争放棄と同じことだ」と言っても無駄です。国家破戒の最大の障害は軍隊と国内治安の警察力です。国家の三要素は国法と防衛と治安なのです。日本の場合「治安」しか残っていないのですが、最近の凄まじい犯罪ニュースや移民問題を見ていると、最後の砦である治安も危ういですね。

当事者意識

老若男女多くの日本人は「憲法改正については深い議論が必要だと思う。同じ世代どうしでも議論していきたい」と思い続けているようです(毎年の世論調査)。太宰治の戦後の一連の作品をよく読んでみると(太宰は1948年没)、占領軍の検閲に対する憤りと、戦後180°転換した日本人に対する絶望感があるのだと思えてなりません。 憲法改正の議論の向こう側には何があるのでしょう? 保護者であるアメリカが去った後の日本を考えて議論してもらいたいものです。 護憲左翼も拝米右翼も、議論の前提となる日本の現実を見ていない。 敗戦直後の太宰治はしっかりと見ていたと思います。 今の日本は問題意識が弱いから危機意識に至らず、当然多くの国民に当事者意識はありません。 

思考停止

日本国憲法、日米同盟、核の傘という3つの噓話をリセットすることができるのは100年後でも難しい(アメリカの対日戦略が変わらない限り)。私は長い間日本人は自己欺瞞していると思っていました。しかし、最近では自己欺瞞しているのではなく、本心から現実を理解していない人が多いのだろうと考えるようになりました。思考停止(無関心または虚無)というのもマインドコントロールの結果でしょう。

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2025年5月2日金曜日

AIってどうなのよ?(最終回)

 

”Juke”の有名なイントロの部分を忘れていました。

   
ギターもハーモニカもサキソフォンも、全ての楽器の習得は外国語を学ぶことに似ています。分からないことを少しずつ解明していくからです。楽器ができなくても外国語ができなくても「気持ち」が伝わることが大事です。
   
そもそも言語にしても楽器にしても、人間の脳よりも後になって発明されたものですよね? 生成AIである ChatGPT なんてここ数年の間に出てきたものです。誰が学習したのかわからない大量の学習データをモデリングして形式化したもので中身ではない。こういった限界を理解した上でツールとして使うのはいいでしょう。しかし、最終的な意思決定や倫理的な判断を委ねることは間違っているのです。意思決定のできない日本人には非常に危険なのです。

おしまい

My apologies, I forgot the famous intro part of “Juke” .

Learning a guitar, harmonica, saxophone, or any other instrument is like learning a foreign language. It is because you gradually figure out what you don't understand. Even if you cannot play an instrument or speak a foreign language, it is important to be able to convey “feelings”.

In the first place, both languages and instruments were invented later than the human brain, right? ChatGPT, which is a generative AI, was invented only in the last few years. It is a modeling and formalization of a large amount of data that no one knows who learned it, not the content. It's fine to use it as a tool with an understanding of these limitations. But it is wrong to entrust the final decision-making and ethical decisions to them. It is dangerous for the Japanese people who are incapable of making decisions.

The End

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2025年5月1日木曜日

AIってどうなのよ?(続々)

 

「どんな人生を志向するのか」「子供たちがどんな大人に育ってほしいか」を起点に考え、だったら「何のためにAIを使うのか」を補助的に使うべきでしょう。


情報は少ないほうがいい。少ない方が自分のオツムで考えるようになる。効率とか時短とかじゃなくて感覚が大事なのです。言語というのは脳の機能の一部であり、人は言葉を発する前にオツムの中で考えている。そこが重要なのです。言葉(英語でも中国語でも日本語でも)がそうなのだから、AIはもっと中味から離れた外側のツールにすぎないのです。

音楽でも落語でもアナログの「間」というものがあって、非常に感覚的なものです。それは心がこもっているという事だと思います。AIにはない人間の心の動きです。ビジネスのコミュニケーションでも子育てでも同じです。繰り返し繰り返し読んだり聞いたり話したり失敗したりしてオツムが獲得する感覚(≒ オツムの運動神経)が大事でしょう。  

The starting point should be “What kind of life do you aspire to?” and “What kind of adults do you want your children to grow up to be?” and if that's the case, “What do you want AI for?” should be used as an auxiliary.

Less information is better. The less information you have, the more you will think with your own brains. It's not about efficiency or saving time, it's about feeling. Language is a part of brain function, and people think in their brains before your words come out from your mouth. That is what is important. Since language (whether English, Chinese, or Japanese) is like that, AI is just an external tool that is further away from the inside of your heart.

In both music and rakugo(Japanese traditional comic storytelling), there is an analog “ma(rhythm or tempo)” which is very sensual. It is the movement of the human heart, which AI does not have. It is the same in business communication and in parenting. I think it is important to have the sense (≒ motor skills of the brains) that the brains acquire by reading, listening, talking, and making mistakes repeatedly and repetitively.

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