2023年5月30日火曜日

令和の日本に必要な教育とは何か?

今年もやってきました。季節の風物詩。鳥取のラッキョウ和歌山の南高梅です。


国民全体の本当の基礎教育(形而上学的なもの)が欠落し、公共心が失われつつある令和の日本に必要な教育とは何か?

教育は新しい社会システム(体系)構築の問題であり、新しい世界観からの要求に答える体系を考えるべきなのです。それにしても日本人は「システム」ということが苦手だ。主語と述語の欠落など日本語の構造が曖昧でシステムに向いていない言語であることが原因かもしれない。

結局は一人一人が倫理的主体になるしかないのだが、日本には欧米のようなエリート教育がない。子供たちが大人になるまでに意識的に倫理的な主体(中心)を作らない限り、これからの世界の混迷を乗り切る人材は生まれない。

日本は明治以降ひたすら表面的な理論や技能ばかりを猿真似してきた。和魂洋才の和魂を忘れた。学校教育は、柱をいっぱい立てる教科毎の受験制度を未だに継続している。各教科がシステムとして統合されないまま社会人になっていく。既得権益もいい加減にしてほしい。教養軽視の文明化を夏目漱石は「上っ滑り」として痛烈に批判しました(1911年)。

政府やメディアのリスキリングやChatGPTの議論を聞いていると、日本はこのまま漂流するしかないと言わざるを得ないのです。今を一生懸命生きるのはいい事なのですが、過去があり、今は未来につながる。現行の教育制度に依存するのではなく、まずは疑ってみてはどうでしょうか? 

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