2023年5月6日土曜日

いつくになっても自由は難しい

朝の日課になっている鉛筆削り

“自由”に生きることはいくつになっても難しい。

元々アメリカの自由と日本人が考えていた自由は意味が違います。アメリカの自由は「~~からの自由」です。これは束縛や拘束からの自由です(liberty)。

仏教の「自由」の意味は異なります。自由の「由」は<~による><~にもとづく>という意味です。他に由らず、独立して自存すること、即ち<自らにもとづく><自らによる>ことが「自由」なのです。ブッダは「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と言いました。人間の行動の判断は「自らに由る」よりも、むしろ「他の意見や権力によって支配される」ことが多いのでしょう。そこには「自由」がない。

仏教学者であり禅文化を世界に英語で広めた鈴木大拙は「肘外に曲がらず、これが本当の自由である」と言いました(中国の禅宗語録『碧巌録』)。「肘外に曲がらず、これが自由自在である」という。肘は外に曲がらないという制約があるから肘なんだ、いま持っている肘で精一杯生きろよということです。

現代の日本で自由というのは「何でもあり、何をしてもいい」という解釈のようです。「人を殺しても金が欲しいんだ、援助交際や売春だって自分の勝手だろ」という具合に、いつも自我中心であることが自由だと錯覚してしまう。大拙は「自由という言葉を freedom と訳すのは間違いだ。なぜなら、freedom には ‶自ずから“ という言葉がはいっていない」と言いました。

国家は個人を護らない。個人も国家を護らない。自由でありたいけど他者に依存しないと生きて行けない、、、、水戸のご老公様に言わせると、それは卑怯で無責任ということですね。

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