2013年4月24日水曜日

人の価値を関西で考えると

司馬さんは対談集がいい(1975年第十一刷)

「人の価値って死ぬまでわからん」て言わはるけど、本人は死ぬわけやから、結局、オノレでオノレの価値は分かりまへん。 そやろ?

国でも会社でも「人の価値」が問われとるようやね。 コモディティ化した世界では、「人そのものの価値が大事や」ちゅうことでっしゃろけど、死ぬまで分からんならどうすればええん? わいもよーしらんけど、悩みながらひたすら今日を生きるしかないんやろね。

日本って国は、明治維新から今にいたるまで日本なんや。 要するになあ、内弁慶な幼児性は変わりまへん。 せるふえすちーむ(自尊心)ちゅーもんが乏しいだけに、異質なもんや他人への羨望は激しいねたみを伴うんが特徴や。 福沢諭吉はんが『学問のすすめ』で言わはった「怨望」や。 つまりやで、劣等意識の表れちゅうことや。 わかりまっか?

どうしようもおまへん。 「働きかた」や「生き方」なんて、そう簡単に変わるもんちゃう。 せやけどアンタ、国や企業の生き残りを考えた場合、「人」はどう生きて、どうやって価値を上げていくかを真剣に考えるべきやと思うんや。 いつまでも便乗しとったらあきまへん。 はようオストリッチ・ポリシーから脱却せなアカン。 オストリッチ・ポリシー? ダチョウはな、危険が迫ると頭を砂に隠してじっとしとるやろ? 現実逃避の自己欺瞞ちゅうことや。

追)文章は司馬さんとは関係ありません。 司馬さんに聞いてみたかったことでした。

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