2012年3月23日金曜日

知識や経験を上手にキャピタライズした高橋是清


高橋是清(1854年~1936年)は豪傑でした。国会の本会議でも茶碗に冷酒をいれて飲んでいたそうです。 二・二六事件において青年将校らに暗殺される少し前に書いた自叙伝の中で、「自分は楽観的な性格だった」と言っています。 過度に楽観的なのも困ったものですが、「楽観的」というのはリーダーの資質で重要なことだし、グローバルに活動する場合でも生き残るカギのような気がします。

大蔵大臣や総理大臣としての高橋是清は、多くの人が語りつくしています。 あまり知られていない若い頃を少々ご紹介することにします。

江戸の絵師の家に生まれた高橋是清は、生後まもなく仙台藩の足軽の家に養子に出されました。 12才の頃、お寺の小姓(雑用)をしていたら、仙台藩のお侍さんの目にとまりました。 このお侍さんは、福沢諭吉と懇意だったこともあり、様々な外国の事情を福沢から入手していました(高橋自伝によると、このお侍さんは「時勢に目覚めた人」)。 そして、 仙台藩から英仏の学問をする者を横浜に派遣しようということになった時、寺の小姓であった高橋是清を抜擢したのです。

13才の時に勝海舟の息子・小鹿(ころく)らと同じ船でサンフランシスコに渡ります。 ホームステイの先駆けですね。 幕末の日本は先見性のある藩は独身の若者(子供?)を海外に派遣しました。1860年代にはサンフランシスコ-香港-上海-横浜を結ぶ定期航路も就航していました。 高橋是清のホームステイはすんなりとは行かなかった。 留学斡旋業者みたいな横浜のアメリカ人貿易商にお金を着服されたり、ホームステイ先の夫婦に騙されて奴隷のように売られたりと散々な目にあいます。 それでも何とか明治元年(1868年)に帰国します。

しかし、このひどい目にあった経験で一気に成長したのでしょうね。 帰国後に出くわす困難な状況に対しても、持ち前の楽観的な性格と度胸で乗り切っていきます。 高橋是清の若い頃の武器は英語です。 英語を武器に職を得ていきます。英語という「知識(スキル)」の部分と度胸と楽観的な性格という「メンタル」な部分がうまくかみ合ったのでしょう。九州唐津藩で英語の先生の仕事をしているときも、石炭を積みに寄港した外国船と交渉して、外国人と会ったことがない生徒たちに英会話の実地研修をさせました。 また、当時は全国各藩で、智能弁舌の士が他藩に遊説し議論を闘わして相手を負かすことで面目とすることが流行っていたそうです。 藩対抗のディベート合戦ですね。 お隣の佐賀藩にいつもやり込められていた唐津藩を代表して高橋是清がディベートに登場、討論の結果、唐津藩の面目をたてることができ藩の人々を大いに喜ばせたそうです。

その後、初代文部大臣である森有礼の支援もうけて中央政治の世界に入っていきます。森有礼とはサンフランシスコで会っていたのでしょう。 英語の知識や若い時の海外での経験、人との出会いを上手にキャピタライズ(資本化)していきました。 短期的に人生を考えていたのでは資産・資本は積み上がっていきません。 高橋是清は自伝の中で「自分は運がいい」と言っていますが、私は上手に人生のバランスシートを運用した人だと思います。 二・二六事件で暗殺されても悔いはなかったのではないでしょうか?

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