2022年9月23日金曜日

これからの日本社会を問うてみた

東大寺(今は亡き父の撮影)

陰徳を積む


日本文学者のロバート・キャンベルさんは、江戸時代の書物を例にだし陰徳を積むことが大切であると言っています。日本人がとっくに忘れ去った言葉をご存じだ!何が真理であるか判らない時代、個人で出来ること、個人が自己責任としてやるべき事は徳を積む、道徳心を養うことです(自らの思想を形成することでもある)。江戸も末期に近い天保時代って、現代の社会情勢に似てる気がします(precarity:不安定)。武士の序列社会が腐敗し武士は武士道を忘れ蓄財のために悪徳商人と手を結び、民は無能なリーダーの下で生活もままならない。そこに天災や飢饉が起こる、、、。 現代の日本の政治家は大企業の係長か課長補佐のようにもっと小粒で、天保の江戸幕府にも劣るような気がします(老中水野忠邦は賛否は両論でも天保の改革を実行した)。民だって最後には一揆を起こして黙っていなかった。一方、現代の日本の民は虚無的で公に「もっと、もっと!」と依存しすぎる。

大衆の反逆(オルテガ 1929年)

オルテガの言う「大衆」の定義:

① みんなと同じである
② 大衆社会を代表する
③ 自己否定する

大衆的人間は議論をするつもりもなければ、そもそも相手の話を聞くつもりもない。大多数の人が信じている常識や偏見をうのみにし、それを一方的に押し付けてくるだけである。大衆はみんなと違う人を排除する。多くの団塊世代や高齢者が台風の中なぜ国会前に集まったのか?(数は報道の10分の1ほどだったようですが)。彼らは2000年以上の日本や日本人を否定し、戦後77年を信じます。なぜか? それは彼らは陰徳を積んでいないからです。直近の半世紀余りが豊である(あった)という自惚れが強いから、過去を否定したくなるのです。彼らは往々にして歴史的経緯をちゃんと勉強していないし、豊かさや便利さを享受するだけで、何のために生きているのか分からない。オルテガは『大衆の反逆』の中で、自分のなすべきことが分からないと、人間は自己否定するものであると言っています

改めて自己責任

一時「自己責任」という言葉が流行りました。「情報化」がもたらす問題の一つが、中心なき社会、権威なき社会です。社会全体に規範意識(norm)がなくなり、日本では個人としても確固たるアイデンティティは存在しない。だれも責任をとらない社会の出現です。それがオルテガのいう大衆社会と同じなのです。だとすると、これからのポストモダン、ポストコロナの日本社会はどういった統制原理でまとまる必要があるのか? 国のリーダーたちはそれを議論すべきなのです(これからの「個と公共の関係」)。政治家が、葬儀に参加する・しないで大騒ぎする場合じゃない!

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