2012年11月24日土曜日

感謝祭(1989年と1996年)

 1989年の感謝祭と7年後

1989年感謝祭 

1989年11月も終盤、THANKS GIVING WEEKEND(感謝祭の週末)に入った。ここ2、3日、「とうとうニューヨークの冬だなぁ」と言う気温になってきた。

この街は、冬の顔が一番似合っているような気がする。

グランド・セントラル・ターミナルからマディソン街を北に向かうと、すぐ右手のビルの壁にある電光掲示の温度計は、華氏30度(摂氏0度)を表示している。路上からは、ところどころスチームの湯気が温泉場のように立ち昇り、視界を遮る。それをすり抜けて相変わらず忙しそうな人の波はそれぞれのビルへと消えていく。

マディソン街を歩く人達は、日に日に寒くなってくる気温とともに、その歩調を一層速めるような気がする。街角のホットドッグ売りは背中を丸めて、白い息をはいている。ショーウインドーの飾り付けが、赤と緑を基調にしたクリスマス用のものに変わってきている。おでこをウインドーにつけるようにして見ているオバアサンは、真っ赤なマフラーを首に、片手には食べかけのホットドッグをもっている。マンハッタンの冬には色がある。東京自由が丘商店街が、マディソン街と姉妹タウンになったそうである。どうもピンとこない。日本で来ていたようなトレンチ・コートは、薄過ぎて、まにあいやしない。トレンチ・コートを着て歩いている人は、裏に厚手のライナーを付けているのだ。

私の働く営業所では、感謝祭の休日直前に、200人余りの営業所員全員があつまりミーティングが開かれた。部屋に入る手前から、通路がテープや風船で飾り付けられていて、部屋に入るとまるで幼稚園の学芸会場だ。部屋の入り口で新入社員が皆に七面鳥の形をしたチョコレートを配っている。

『このまま行くと、ノルマの114%は皆のおかげで達成出来る。これを130%にしようじゃないか。それにはやるだけだ。JUST DO IT!

インディアンの酋長に変装した営業所長が、みんなのヤンヤの喝采を浴びながら、激を飛ばす。そのあと十数人いる課長連中が壇上に上がり、それぞれの部下の名前をもりこんだ歌を大合唱する。そういえば、最近やけに連中のミーティングが多いと思っていたら、奴らこれを練習してたのか。

感謝祭は、11月の第4木曜日で、マンハッタンでは木曜の朝のメイシーズの大パレードで始まる。金曜日は休日ではないが、普通、ほとんどの会社は休みで、4連休の感謝祭の週末(THANKS GIVING WEEKEND)となる。今年(1989年)の感謝祭は、前の日の夜から降り始めた雪が、感謝祭の朝まで降り続き、パレードは、一面真っ白のセントラルパーク・ウェストからのスタートとなった。感謝祭を過ぎると、人々は、クリスマスや冬物の買い出しをしたり、あわただしい。感謝祭の次の日、金曜日からあちらこちらで、バーゲンセールとなる。

ニューヨーク郊外、グランド・セントラル・ターミナルから電車で40分程のウエストチェスター・カウンティーにあるホワイト・プレーンズには、ブルーミングデール、サックス・フィフス、メイシーズ、B・アルトマン、JCペニー、ニーマンマーカス、ローダンテイラー、たいがいの有名百貨店が店舗を持っていて、この金曜日からセールに入る。セールを目指して車が渋滞するところは、東京の郊外、例えば二子玉川園の日曜日を思い出させる。ホワイト・プレーンズは、私の住む日本人村から車で十分程のとこにあり、ウエストチェスター・カウンティーでは、一番大きな街になっていて、百貨店だけでなくかなり大きなオフィスビルもある。

感謝祭の翌日、金曜日の朝、渋滞に一層の拍車をかけたのは、B・アルトマンが閉店セールをするからだ。ニューヨークの名門デパートは、ほとんどが外国人オーナーになっていたり、資金難で、売りに出ていたりする。B・アルトマンは、買い手が見つかる前に倒産してしまい、閉店を余儀なくされてしまった。なぜ、日本企業に話しを持っていかなかったのだろう?それとも日本人にとって、ブルーミングデールやサックス・フィフス程、ネームバリューが無いために、金持ち日本人といえども買い手が付かなかったのだろうか?とにかく、B・アルトマンは、百貨店としての売却ができずに閉店セールとなってしまった。

ニューヨーク・タイムスには、サービス低下による客離れ等を百貨店凋落の原因としているようだ。その原因にうなずくところも大いにあるが、それに加え、購買力の低下と並べられている商品に魅力が乏しいことにも原因があるように思う。百貨店の売買を仲介しているアメリカの銀行などは、現実問題として、金のあるところへ話しを持って行き、買収を成立させなければならない。それが今、金のある日本企業に向いている。

日本企業がこれらの百貨店を手に入れるかどうか知らないが、もし、日本の企業が買収することになり、ニューヨーカーの非難が集中するようだと、どこにこういった原因、つまり、百貨店そのものが輸出品になってしまった原因があったのか、はっきりさせておかねばならない。それは、アメリカに対する日本のPRにもなる。アメリカの商売のようにサービスが悪く、品質もさほどよくなく、なおかつ値段が高いとなると、客足は自ずと遠退く。消費者は世界中のどこでも、質のいい、安い、そして魅力のある物を求め、サービスの行き届いた雰囲気の良いところで買いたいものである。

たまたまこれを書いているとき、ブルーミングデールの会長が日本に出向き、日本の百貨店に買収をアピールする記者会見を開いたというニュースが伝わってきた。このブルーミングデールは、 B・アルトマンより日本人にとって知名度が高いが、アメリカ国内企業の所有物ではない。カナダの不動産会社が、ブルーミングデールの親会社を買収したことはしたのだが、すぐに、資金難となり、早急な売却を余儀なくされている。ニューヨーク・タイムスが、『アメリカの最大輸出品は百貨店』と書いたこともあり、金持日本に早速の売り込みとなった模様である。

、、、と、ここまでが1989年の感謝祭の印象である。


七年後の感謝祭

あれから7年がたった。アメリカと日本の情況は随分と変わった。一体どう変わったのだろうか?

1989年、「アメリカの最大輸出品は百貨店」とアメリカの経済はどん底であった。通産省にバックアップされた「ザイバツ」や「ケイレツ」でもって戦う絶好調日本に、企業の独自性で勝負しなければならないアメリカ企業に勝ち目はないと言われた。一般の消費者にとっても当時私が感じたように、サービスや品質の悪さ、そして値段の高いことなどかなりレベルは低いものであった。感謝祭に街に出ても店はどこも開いてなかった。マクドナルドまで閉まっていたのである。ところが今は、ファースト・フードの店はだいたいどこでも開いているし、ショッピングモールでもWIZなどの大型電気スーパーやレコードショップまで開いているのだ。感謝祭にアメリカ人が働くようになったのである。

デパートや商店の店員の態度も非常によくなった。サックス・フィフス・アベニューなどのデパートでもターゲット別(客層毎)にきめ細かなセールス・キャンペーンを行っている。例えば、年間2,000ドル以上買っている客だけにダイレクト・メールで特別セールの知らせをする。その日はコーヒーやクッキーを売場でサービスしたりして金持ち客の機嫌をとる。7年前とは大きな違いである。

一方、日本はどうであろうか? バブルがはじけ政治・経済いたるところでボロが出はじめた。今まで表沙汰にならなかったことが次々と明らかになってきた。闇から闇へと葬られるよりいいことだが、あまりにもあきれた事件が多すぎる。今年(1996年)は、ほぼ半年を日本で過ごした。新聞紙上を賑わす事件に愕然としたのは勿論だが、街を歩いていても色んなことに驚いた。その一つにデパートや店の店員の態度の悪さがある。「1980年頃の中国で買い物をしている感じ」がしたのである。新宿のデパートに行くと、人がいっぱいで上海は南京路の第一百貨店と大差ない。さすがに、買った物を放り投げたりはしないけれど、若い店員はニコリともしない。最初は私がオジサンになって嫌われているのかとも思ったがそうでもない。魅力的なものはあるが、あまりにも値段が高くて買えない。

アメリカの経済は1992年頃から活気を取り戻してきた。大きな原因はアメリカの企業が復活してきたことである。日本がバブル最盛で「アメリカから学ぶものは何もない」と言い切った頃から少しばかり様子が違ってきた。購買力も元に戻り始め、デパートなどの大型小売店はさらに大きなショッピング・モールの形態をとり、買い物客で賑わうようになってきた。アメリカの若いお父さん達は、これまでにも増して自分と自分の家族を第一に考える。ショッピング・モールでの買い物も大事な家族サービスなのだ。結果としてショッピング・モールがさらに発展して場所によっては遊園地と大差ないところまで出てきた。銀行は買物客に合わせ土曜の営業を始め、驚いた事にニューヨーク市の犯罪発生率さえ下がってきたのだ。

ではなぜアメリカ企業の業績が良くなったのだろうか?

元々そんなに悪くなかった?

まず考えられるのは、アメリカ社会の仕組や企業のシステムが元々そんなに悪いものではなかったことである。ビジネス慣行にしたって合理的なものだった。それらをささえるコンピュータ・システムに至るまで基本的なコンセプトはちゃんとしていたのである。

流通システムを見てみよう。アメリカでは小売店にいたるまでSKU番号と言われる単品管理を行っている。在庫は本当のリアルタイムなのだ。基本的な仕組みは整っていたのである。もともと中間業者が少なく責任範囲が明確で、その上コンピュータで管理しやすいような基本的な仕組みが整っているのだから、インターネットやその他の通信・コンピュータ技術の進歩によりそれらの基本的な仕組みが一層効果的になったのである。オーダーを入力することから消費者動向を分析し、消費者の求めるものを常に商店の棚に並べるようにする。一つの店、一つの地域だけでなくグローバルに企業全体の業績をリアルタイムで把握し、全体最適化を計ろうとするのである。

90年代に入り、クリントンが政権に就いたころから新しい世代が世の中の中心として活躍しだした。彼らは過去のアメリカの栄光とは別に客観的に、冷静にアメリカを見つめ始めた。日本のいいところは素直に認めた。そして、元々ある様々なインフラストラクチャーに対し、新しいテクノロジーでもって再構築を始めた。最初からコンセプトやアーキテクチャーはしっかりしていたので、効果は早急に出てきた。勿論、カリフォルニアのシリコンバレーのソフトウェア産業が大きな助けになったことは間違いない。そしてそれらはインドや中国からの不法移民で支えられているといった事実も裏にはある。

情報基盤に対する投資

次に、情報基盤に対する投資の考え方の違いがある。日本の企業は、会社全体の予算の中で、情報システムに対する投資額がアメリカの企業に比べて非常に低い。情報システムに対する考え方そのものが随分と違っているのである。どういうことかと言うと、アメリカの企業のコーポレート・プランは情報システムのプラン抜きでは考えられないし、次期情報システムへの投資はコーポレート・プラン無しには行われないと言うことである。一方、日本は情報システムと経営方針が積極的に同じテーブルで話されることはまずないのではないだろうか。

1980年代の終盤から1990年代の前半にかけて、コンピュータの役割自体が一歩前進した。コンピュータは省力や大量処理を行うだけのものから本当の意味での意思決定システムとして使われ始め、経営者にとっては不可欠な経営ツールとなったのである。意思決定システムの基本的なコンセプトは20年近く前からあったのであるが、コンセプトを実現するテクノロジーが急速にともなって来たのである。

「USA TODAY」と言うアメリカの新聞に面白い記事が載っていた。それは、「電話が1000万のユーザー数に達するのに38年かかり、パソコンは7年かかった。しかし、インターネットは2年はかからないだろう」と言うものである。新しいテクノロジーは技術的な面だけでなく様々な法規制もダイナミックに変えようとしている。「インターネットがすべてを変える」と言っても過言ではない気がする。政府や一般企業の経営者は情報システムの動向を無視して戦略のフレームワークを組めないのである。

「アメリカ企業は日本化するしかない。しかし、個人の独創性や企業の独自性のために日本的経営は成り立たない。だからアメリカ企業は日本企業から今後もどんどん取り残される」と言われた。だがアメリカ企業は、これら日本企業がアメリカ企業の弱点としたところを逆に強みとして立ち直ってきた。インターネットなどのテクノロジーでもって仮想集団を形成し、仮想集団がバーチュアル・コーポレーションとなる。これは、1980年代から模索し続けたアメリカならではの日本への対抗策なのである。経営者は個人の自主性や企業の独自性を伸ばしやすいようにオープンな情報システムの基盤を構築した。これは、スピードと柔軟性を必要とする時代にあうものでもあった。

アメリカのベンチャー・ビジネス

三番目は、アメリカのベンチャー・ビジネスがアメリカ企業復活の重要な位置を占めたことである。

日本にもニッチなエリア(すき間)を狙ったベンチャー・ビジネスは生まれたし、ベンチャー・ビジネスの重要性も議論されている。ではなぜアメリカでベンチャー・ビジネスが全体としてアメリカ企業を活性化することになったのだろう? そして、なぜ日本ではベンチャー・ビジネスを初期段階から継続して大きく発展させることができないのだろう?

大事な点が2つある。1つはシリコンバレーのハイテク産業は、インド、中国からの移民によって支えられている事実である。彼等はすべてがすべて合法な移民ではない。アメリカと言う国はこれら移民をできるだけ自由に受け入れる懐の深さがあったということだ。2つ目は、アメリカにはこれらベンチャー・ビジネスが成り立つ明解な資本主義が確立されていることである。

アメリカへの移民に関しては、また別の機会に説明することにして、アメリカの会社が日本の会社と全く違うことにふれてみよう。

1989年と1996年でニューヨークのマジソン・アベニューの街並みで変化したことがある。それは、グランドセントラル駅から北、セントラルパークのほうへあがっていくと、1989年にはなかったコーヒーショップが数軒できたことだ。以前はちょっと座ってコーヒーだけ飲んで一休みという場所はなかった。

これらのコーヒーショップの中でもとりわけ成功した全国チェーン店に「スターバックス」というのがある。「スターバックス」はこの5年程で従業員が1万7000人の大会社に成長したベンチャーである(1996年の冬)。ただこの全従業員の4分の3はパートタイム(アルバイト)である。「スターバックス」の経営者はこのパートタイムを含む全従業員にストックオプション(自社株の購買権で、事前に決めた価格で株式を購入できる権利)の権利を与えたのである。「株式会社は株主の利益のために存在する」。従来であれば特定の会社幹部だけにストックオプションを与え、経営陣に真剣さを増させたのであるが、「スターバックス」のすごさは、パートタイムを含め全従業員にストックオプションを与えたことである。株があがればみんな儲かる。会社の株をあげるためにみんな一生懸命働くのである。当然、各店舗でのサービスレベルは上がるのである。パートを含めた全従業員を経営のパートナーとみなしているのである。

日本の企業はどうであろうか? 自社株を少しでも上げるために必死になるサラリーマンはいない。ましてや、ストックオプションなんてほとんどのサラリーマンは知らない。そして、コーヒーショップで働くアルバイトの店員さんがストックオプションを念頭に一生懸命働くことなど考えられない。日本の会社はアメリカ企業に比べ株主資本率がきわめて低く、大部分は銀行からの借金で成り立っている。株主が強いのではなく銀行が強いのである。株主総会なんて意味がないのである。意味がないのに総会屋と言われる人たちが活躍してしまう。珍しい資本主義国家である。

日本には民主主義と同じように明解な資本主義も存在しない。会社は株主の利益のためにあるのではなく、社長や上司の機嫌をとるためにあるのかも知れない。社長は社長でさえストックオプションを持つことなく、会社の業績と自分の年収がリンクしない。だから、大事な意思決定も本人が中身を十分知ることなく集団合議制にして責任の所在を曖昧にするのである。自社の情報システムに対しても興味がないのは当然である。

アメリカの「会社」は明解な資本主義の論理にのっとっている。だめな社長は簡単にクビになる。プロフィット(利益)のでない会社はチャプター・イレブンだ(日本での会社更生法の適用にあたる)。ある程度ちゃんとやっていても株価をあげる努力を絶えず行なわないと株主は経営陣のクビを切るし、別の会社に買収されるおそれさえあるのだ。

日本はベンチャー・ビジネス以前に会社そのものに関する「根本的なところ」が違っている。だから、今のままではアメリカのようにベンチャー企業が活躍し継続して発展することは考えられない。そして、NASDAQのような店頭市場を日本でやっても、ハイテク産業を育成することにはならないだろう。アメリカのベンチャー起業家はまず株をNASDAQに上場することを目指す。上場したら株価をあげストックオプションで大儲けをしてさっさと若いうちに引退してしまう。だから必死になって働く。うまく行けば見返りがあるからだ。それに、若くして成功してリタイアしても(遊んで暮らしていても)世間に羨まれることはあっても批判されたりはしない。

日本ではカジュアルウェアで会社に行くことが流行りだしたそうであるが、服装だけをシリコンバレーのようにカジュアルにしてもベンチャー精神が生れる訳ではない。

1996年感謝祭

今年の感謝祭はまったく寒くない。薄手のセーターで散歩ができる。ロックフェラー・センターに飾られるクリスマス・ツリーにうちの近所の木が選ばれた。数年前、家の増築を請け負ってくれたトニーが「あれは、6万ドルで売れたんだ」と言っていた。それを聞いて自宅のバックヤードにある木を眺めまわしてしまった。残念ながらあれほど立派な木はない。

アメリカはクリントン政権が2回目の4年に突入しようとしている。経済のほうはここに来て少しだけ頭打ちになって来ている。「アメリカ経済の好調を持続させるために、日本をバイパスして中国を中心とするアジアに展開しようとしているのではないか」と言った意見もある。1997年年初のクリントン大統領の「一般教書演説」が楽しみだ。不明瞭な社会基盤を持ち、世界の中でリーダーシップをとれない日本はアメリカが本当に日本をバイパスした場合どうやって生き残るのだろう?

今年の感謝祭には人工のターキーではなく野生のターキーが全米各地に帰ってきたと言う話題をCBSニュースで見た。数年前には、野生のターキーはもう見られないとまで言われたそうである。しかし、残り少ない野生のターキーを使って意図的に全国に分散させ、保護しながら野生のターキーが増えるようにした結果だそうである。余裕のあるアメリカならではの話題だ。土地が広く自然が残り、人が少ないから出来るのである。

中国だとどうだろう? 中国では先ず「食べること」を全ての国民に行き渡らせることを考えなければならない。野生のターキーなどすぐに食べられてしまって保護どころではない。日本はどうだろう? 悲しいほど土地が狭く人の多い日本に野生のターキーが散歩できる空間があるだろうか?

アメリカ人にとって「食べる事」さえままならない状況は考えられないだろうし、東京の住宅事情を知ったら日本は先進国家の仲間だとは思わないだろう。7年前のアメリカは随分と問題があった。だが、基礎がしっかりしていたために立ち直りははやかった。バブルがはじけた日本のカムバックは5年や10年で実現できるとは思えない。「カムバック」と言う言葉さえ少しばかり奇妙に聞こえる。私のような教養の伴わない単なるビジネスマンではなく(これは謙遜でもなんでもない事実である)、政治や経済の一線にいる人達にはもっと根本から考え直して欲しい。

感謝祭が終わると、クリスマスまではあっと言う間で新しい年に入っていく。感謝祭はアメリカ人にとってのお正月みたいなもので、子供たちは、普段離れて住んでいてめったに会わない両親の家へと帰っていく。大学生たちも故郷に戻り、幼なじみと再会する。今年は半年間家族と離れて私一人が日本にいた。今年の感謝祭は我が家にとっても家族のリユニオンである。

1996年11月末

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