2012年5月2日水曜日

コンピュータ教育はどうあるべきか?

吉祥寺駅の切符売り場

マン・マシーン インターフェースがどんどん進歩して、それらが製品化され標準化されて行くと、これまで苦労して勉強していたエリアはいっきに新しいテクノロジの中に吸収されます。 つまり、ブラックボックス化してしまうのです。  便利になる訳ですが、ますます表面上の変化だけを追いかけるようになり、本質を理解する人がどんどん減少するということになりませんか?

これは、技術進歩のおかげでデジタル一眼レフ カメラをブラックボックス化し、ユーザーからカメラの本質を遠ざけてしまったのと似ています。  カメラの中で何がどうなっているのか全く分からない。 誰も気にしない。 車も同じです。 私が若い頃に乗っていた車はツイン・キャブレター仕様でした。 週末には分解して掃除しないと次の週にちゃんと走らない。 今頃の車はコンピュータ制御による燃料噴射装置になりました。 レクサスのような高級車はECUというコンピュータのかたまりで、町の修理工場でエンジンの調整をしてもらうなんてことは不可能です

人間はいつまでも人間ですから、テクノロジーがどんなに進歩しても、マン・マシーン インターフェースは存在し続けます。 キーボードやマウスを操作しなくても、口頭で携帯に話かけると携帯電話の中にあるコンピュータが反応してアクションを起こすようになっています。 これもマン・マシーン インターフェースの進化です。 ギャップを埋めるために新しい技術が開発されているのです。 コンピュータの歴史はマン・マシーン インターフェースの歴史ですから永遠に続きます。

これからの情報処理の教育は、どうすればいいのでしょう? これだけ世の中コンピュータがあちこちに隠れていて、コンピュータなくしては生活ができなくなっています。 同時に、ブラックボックス化はどんどん進行しているということです。 教育システムのどの段階で、どういった人たちを対象に「カラクリ」となる基礎的な部分を教えるべきなのでしょうか? 高校の必須科目なのか、それとも大学の一般教養課程で必修にするのか? 基礎的な部分も、どこまでを基礎的な部分とするのかスコープの定義も難しいですね。

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