2018年12月30日日曜日

幸田露伴『努力論』(明治45年)


努力論 (岩波文庫)

自序

努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である(青空文庫より)。

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露伴は「努力」には二種あると言っています。直接と間接、つまり、間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものです。仕事とは関係ない本を読んだりすることです。

今の日本人の多くは余裕がないのか間接の努力を軽視し、直接の努力のみがフォーカスされているようです。少々拡大解釈すると、間接の努力の前提となるものは「志」であり「自分の物差し」であり「こだわり」であり「美意識」といったものです。企業であれば「ビジョン」や「存在意義」にあたります。そういったものがない場合、往々にして直接の努力のみが用いられることになります。

これは自力の人生ではなく、失敗したときにも周りや運命のせいにする他者依存の賜物ではないでしょうか? (このあたりは『努力論』本編の「運命と人力と」に説明があるので別途書くことにします)。

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