谷川俊太郎は詩人というよりも哲学者か言語学者のような人です。言葉と現実を橋渡し(インターブリッジ)する翻訳家なのです。日本語から英語のような翻訳はまだまだ表層的な問題なのです。谷川さんという詩人は平易な言葉で現実との距離を縮めようとしたのでしょうね。社会思想や哲学では近代とポスト近代が争点になる場合が多いのですが、言語学の世界でも近代と現代言語学はコペルニクス的転回をしています(ソシュールの言語学)。
モノが先か言語が先か?
赤ん坊は「りんご」という言葉を覚え、その後に「リンゴ」は食べ物で丸くて赤いものだとリンゴというモノの概念を獲得していきます。だとすると、人が言葉を覚えるということは、同時に周りの世界をどう認識するかを、自分が育つ文化圏や環境(家庭環境からはじまる)に応じて身につけていくということです。私には二人の孫がいます。二人ともアメリカで生まれアメリカで生活しています。彼らはアメリカ、それも南部という文化圏で生活しているわけですから、その中でモノの概念を獲得中だという事です。ジージとしては少し寂しいのですが、「りんご‐ ringo」といっても孫の頭の中には私が思い浮かべる「りんご」は出てこないのです。
以上は私が幼児や小学生の英語早期教育に反対の理由です。谷川さんからヒントを得ています。
りんごへの固執
紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。
花咲くりんごだ。実るりんご、枝で風に揺れるりんごだ。雨に打たれるりんご、ついばまれるりんご、もぎとられるりんごだ。地に落ちるりんごだ。腐るりんごだ。種子のりんご、芽を吹くりんご。りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうかなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。
紅玉だ、国光だ、王鈴だ、祝だ、きさきがけだ、べにさきがけだ、一個のりんごだ、三個の五個の一ダースの、七キロのりんご、十二トンのりんご二百万トンのりんごなのだ。生産されるりんご、運搬されるりんごだ。計量され梱包され取引されるりんご。消毒されるりんごだ、消化されるりんごだ、消費されるりんごである、消されるりんごです。りんごだあ!りんごか?
それだ、そこにあるそれ、そのそれだ。そこのその、籠の中のそれ。テーブルから落下するそれ、画布にうつされるそれ、天火で焼かれるそれなのだ。子どもはそれを手にとり、それをかじる、それだ、その。いくら食べてもいくら腐っても、次から次へと枝々に湧き、きらきらと際限なく店頭にあふれるそれ。何のレプリカ、何時のレプリカ?
答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに・・・・・
谷川俊太郎『りんごへの固執』
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