2015年12月30日水曜日

リトマス試験紙の一年

自動車に何を求めるのか?
つけまつける号は見て音を聞いてガソリンの匂いをかいで楽しむものです

今年もあっという間に過ぎてしまいました。今年は興味深い一年だったですね。 右側の人も左側の人も本質が分かるリトマス試験紙のような年でした。

桃井真さん(故人)が昭和51年の対談で軍事力について以下のように言っています。桃井真さんは国際政治学者であり軍事アナリストで、女優桃井かおりのお父さんです。

「軍事力は、相手からの好まない政治的あるいは経済的な決断を迫られたとき、それを断り得る心のささえになる。全く軍事力がなくて、相手に何か強制された場合には、政治家も国民自身も恐怖を感じて、手をあげたほうが早いという議論になりかねない。それが国家のためにいいのかどうかと、自分自身問い直してみる必要があります」。

安全保障の議論は、変化にどう対応するかという意味で、小林秀雄が 『無常という事』(昭和17年)で言いたかったことだと思います。 SEALDs の学生さんや国会議事堂前のデモに参加した知識人や大学教授からは、そういったレベルの議論は微塵も出てこなかった。 残念ですね。

「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」。 これは『無常という事』最後の一行です。 刻々と変化する国際情勢(これが無常です)の中で、半独立国家である日本はどう振る舞うか、つまり、どう外交を展開するのかは非常に難しい舵取りだと思います。 昭和の軍国主義真っ只中に小林秀雄は警鐘を鳴らしたわけですが、今の国際情勢は当時よりも何百倍も複雑に変化していると思います。 

不可逆的な変化だって、どんなにコストを支払っても無理矢理可逆的に変えようとするものです。

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2015年12月25日金曜日

煮卵のトッピング


先日、ibg 中国の中国人総経理がやって来ました。 ウチの近所の尾道ラーメンで、トッピングの煮卵を注文しました。

「近所であまりへんなことしないでくれ~」。

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2015年12月20日日曜日

一匹と九十九匹と


先週は天王洲アイルまで行く機会があったので、電車の中で久しぶりに福田恆存 『一匹と九十九匹と』(昭和2111月) を読みました。 今は文庫本 『保守とは何か』(文春学芸ライブラリー) に収録されています。 何度読んでも難解ですが、ぼんやりと自分なりの解釈ができかけてきました。 移民・難民で揺れ動いている世界の問題の本質をついているのかも知れません。

福田恆存が言うところの「集団的自我」とは、家族、企業、国など、様々の集団に属してその中で必要な役割を演じる自我であり(九十九匹)、「個人的自我」とは、そうした集団に帰属させ得ない純粋な個人としての自我です(一匹)。 人は「集団的自我」によって政治、経済といった社会的な活動を行い、「個人的自我」によって精神的な諸事、つまり、文学や宗教に向き合う。

今の世界は、集団的自我(エゴ)や個人的自我(エゴ)が充満していて(要するに、多様化やグローバリゼーションです)、エゴだらけで、エゴとエゴの戦いじゃないでしょうか? 宗教が自我を緩和するのではなく増長する。 そして、一匹を癒す文学者たり得る文学者は何處にもいない

ぼくたちの思惟が他人の思惟とくいちがうとき、あるいは現実の抵抗を感ずるとき、ぼくたちのなさねばならぬことは、それらを性急にくみふせようとあせることではなく、まず自己の発生の地盤を見いだすことである(『一匹と九十九匹と』)。

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2015年12月13日日曜日

マリリンモンローも野坂昭如もノーリターン

手元に残っているのはこの一冊でした

野坂昭如が亡くなった。 直木賞受賞作の『火垂るの墓』は西宮市の満池谷(まんちだに)が舞台です。 子供の頃に従兄が満池谷に住んでいたのでよく遊びに行きました。

野坂は言います。 「満池谷は特別といっていい意味を持った、ひとつの忘れ得ぬ、なつかしい場所である。 戦中に見た蛍の乱舞をしみじみ生きのびた実感がわいた。 この時の印象を、ぼくは忘れない」。

司法試験の問題を教え子に漏らしたとして明治大学法科大学院の教授が起訴されました。 私はこの事件を聞いて、野坂昭如の四畳半作品を思い出しました。

「色こそは天のなせるわざ、故に師無し、人それぞれに大道を行くべし」(色籬大学四畳半)。 

籬(まがき):遊郭で、遊女屋の入り口の土間と店の上がり口との間の格子戸。

マリリンモンローも野坂昭如もノーリターン(R.I.P.)。

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2015年12月8日火曜日

本当の手作り


デパ地下に行くと 「手作り~~~」 っていっぱい売っていますが、自分で作るのが一番。 たとえ不格好でも安全で美味しいのです。


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2015年12月3日木曜日

他人の養分を食べて消化できるか?

この1945年製造のC11は姫路機関区の播但線を走っていたそうです
(新橋駅前 SL広場)

今週は久しぶりに新橋からSL広場を抜けて虎の門に出て、日比谷公園から有楽町へと散歩をしました。 新橋の南側は高層ビルが立ち並び様変わりですが、反対側は昔のままです。

『渡り鳥』は太宰治の昭和23年4月の作品です。 太宰の死が昭和23年6月13日ですから死の直前に発表されたものです。

主人公は大学生ですが、闇屋をやったり出版社のアルバイトしながら暮らしています。「ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。 どっちだっていいじゃないか」。 主人公が日比谷から有楽町界隈で偶然出会った3人の相手とのやりとりを書いた短編です。 軽佻浮薄な主人公は戦後の日本人の態度を皮肉ったものだと言えるし、自分の人生を自虐的に振り返っているとも言えます。 死の直前に書かれたものだけに意味深長です。

もともと、このオリジナリテというものは、胃袋の問題でしてね、他人の養分を食べて、それを消化できるかできないか、原形のままウンコになって出て来たんじゃ、ちょっとまずい。 消化しさえすれば、それでもう大丈夫なんだ。 昔から、オリジナルな文人なんて、在ったためしは無いんですからね。 真にこの名に値いする奴等は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。 だから、あなたなんか、安心して可なりですよ。 しかし、時たま、我輩こそオリジナルな文人だぞ! という顔をして徘徊している人間もありますけどね、あれはただ、馬鹿というだけで、おそるるところは無い。 ああ、溜息が出るわい『渡り鳥』 太宰治 1948年)。

自分で考えて消化することなく、流行りのものや勝ち馬に相乗りする傾向は、70年経った今でも続いています。 2015年の日本もそういった出来事ばかりだったと思いませんか?

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2015年11月28日土曜日

電柱の移動


昨日、やっと古い電柱が撤去されました。

電柱は新しくなりましたが、上を見ると電話線や光ケーブル、数種類の電気の送電線、CATVのケーブルが乱雑に空を覆っています。

人生には、やってみないことには分からないことだらけです。

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2015年11月21日土曜日

自動運転車が走り出すと、、、

ウチのつけまつける号は徒歩圏内限定車

自動運転の車が公道を走るようになったら、私は運転を止めるでしょうね。 もっとも、それより先に高齢者運転の制限にひっかかるようになるか?!

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【外信コラム】
西海岸から 自動運転車に思う

米カリフォルニア州マウンテンビュー市で、公道を試験運転中の米グーグルの自動運転車が、交通パトロール中の警察官に停車を命じられるというニュースが先日、米メディアで報じられた。IT産業の集積地、シリコンバレーを象徴する未来っぽいニュースと思いきや、止められた理由は、ノロノロ運転で、渋滞が発生しつつあったからだ。

 時速約56キロの制限速度の公道を約38キロで走行しており、警察官が遅く走っている理由をたずねようと停車させたら、グーグルの自動運転車だった。グーグルによると、自動運転車は安全面を考慮して、最高速度を時速約40キロに抑えている。

 警察官は、不測の事態に備えて同乗している関係者から事情を聴いたが、同州の道路交通法に違反していなかったため、反則切符を切ることはなかった。

 だが、もしこれが速度超過などの交通違反だったら、誰が罰せられるのか。プログラミングの誤作動や故障による危険性はどこまで克服できるのか。自動運転車が爆弾テロなどに使用されたら…。

 折しも、安倍晋三首相が未来の投資に向けた「官民対話」で、2020年の東京五輪・パラリンピックで自動運転技術を生かしたタクシーの実用化に言及したタイミングでのできごとだっただけに、いろいろ考えさせられた。(産経新聞)

2015年11月16日月曜日

故きを温ねてばかりいたら

人生を変えた一枚(3枚組のレコードですが、、、)

故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし

ふるきばかりを温(あたた)めていたら、とうとう今年も11月も半ばになってしまいました。 やはり、私の師は10代の頃に聞いた音楽です。

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2015年11月10日火曜日

無関心か勉強不足が原因

油淋鶏

歴史問題でも同じですが、ものごとを信じ込む人は、自分でものを考えない人たちなのです。自分の信じる対象に利用されているだけで、自分を利用する誰かを必要としている。 これは、哲学者のニーチェが言った言葉です。 自分をないがしろにし、あることにひた向きに一生懸命になることが信仰であるとも言いました。

日本の場合、宗教の原理主義や独裁政治によって真実を直視できなかったり誠実な人に敵対することではなくて、問題の多くは無関心か勉強不足が原因でしょう。 もっとも、日本国憲法とか憲法9条とかいった原理主義的な壁はあるようですが、、、。

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2015年11月7日土曜日

まだやってないこと


人生、まだやってないことはいっぱいあります。 電柱の移動なんて、普通は一生に一度もやらないですよね? 

9月にNTT多摩サービスセンターに申請を出して、上の写真が昨日(115日)の状況です。 やっとこさ新しい電柱(写真の右側)が立ったところです。 電線類が全て新しい電柱に乗ったら旧い電柱(左側)の撤去となるそうです。

下請けの多重構造のせいなのか、いつになったら全ての工事が終了するのか分かりませんが、今回の件で良かったことは、ほとんど付き合いのなかった近所の方々と会話をすることができたことです。

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2015年10月27日火曜日

台湾の定番 魯肉飯(る~ろう ふぁん)


魯肉飯(るーろう ふぁん)とは、台湾の屋台料理の代表的存在です。 豚バラ肉の塊を適当に切って、炒めた後に煮込んで、ご飯にかけたものです。

豚バラ肉を炒めたあとに、醤油と砂糖と紹興酒と水で2時間ほど煮るだけです。 YouTube 台湾の料理番組でレシピをチェックしたら、ドライ・エリンギを使っていました。 ドライ・エリンギが手に入らないので、私は吉祥寺の成城石井で購入したドライ・オニオンをガバっと投入します(1時間ほど煮こんだ後に)。

美味しいですよ。 是非試してみて下さい。

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2015年10月23日金曜日

リーダーシップと同じくらい大切な事とは?

庭でとれたオリーブの実

ラグビーなどのチームスポーツは、チームがいいキャプテンをつくるし、いいキャプテンがいいチームをつくります。 ところが、日本人の組織は、互いに足を引っ張り合い、真逆のデフレスパイラルになることが多いと思います。

日本企業では、リーダーシップが弱いという少々自虐的な認識はあるようですが、同時に大事なフォロワーシップは軽視されがちです。 いいチームがキャプテンを育てるということが、会社組織などで見うけられない。 部下が上司を盛り立てていくフォロワーシップは、リーダーシップと同じくらい大事なことなのですが、なぜフォロワーシップが育たないのでしょう? 

私は日本の組織には愛情が不足していることが原因ではないかと考えています。 上司の部下に対する愛情、部下の上司や会社に対する愛情。 愛情が不足している場合、信頼や尊敬の相互関係はなかなか成り立ちません。 

先ずは、リーダーがメンバーに対して強い愛情を持つことから始める。 メンバーはリーダーの愛を感じたら、フォロワーシップを発揮すると思います。

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2015年10月13日火曜日

チャーリーの権利と義務


10月8日夜明け前 東の空 (月と明けの明星)

チャーリはペットの犬ですが、生き物なので犬なりの生存権があります。 私の身勝手な行為によってチャーリーの人生(犬生)を破壊してはなりません。 チャーリーも平等に生きる権利を持っているのです。 ただし、権利といっても「アニマルライツ」などと言う人権団体が訴える大げさなものではありません。 あくまでも私の従属犬としての権利です。また、チャーリーにはペットとしての教育を受ける権利があります。 ただ、チャーリーのオツムのキャパを考えると、権利を行使できるかどうかは不明です。 3大権利の最後の一つの参政権ですが、犬なので国政に参加する権利はありません。

一方、チャーリーが自分の権利として認識していると思われることは次の通りです。

まずは、一日三回の散歩。 体内時計を持っているのか、散歩の時間になると怒涛のような催促です。 二つ目は、肉やシーチキンのトッピングがのっているドッグフードの食事です。 これは一日2回。 ドッグフードだけだとプイっと拒否権を発動します。夕食が終わり自分が寝る時は、ご主人さまである私の添い寝が必須です。 朝は朝で、自分が目覚めたらご主人さまも一緒に起きること。 私はベッドの中で読書やiPadでネットをチェックしていたいのですが、「起きるのじゃ!」と犬のくせにネコパンチで襲い掛かってきます。

チャーリーは自分の義務に対する認識は全くありません。 納税の義務はないし、教育を受けさせる義務はありません。 保護したり命令したりする従属者はいないのです。 チャーリーは自由主義者なので、勤労の義務なんて社会主義のような義務は全く無視です。

チャーリーの生き様は極楽トンボですねぇ~~、。 おっと、どこかの国民と大差がないか!?

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2015年10月8日木曜日

大村さんのおかげです。

12月で三歳になります。

ウチのチャーリーは月に一度フィラリアの薬をのんでいます。 このフィラリアの薬も大村さんの研究の成果です。 世界中のペットの犬や猫の寿命が大村さんのおかげで倍になったのです。

日本のメディアはノーベル賞の受賞に大騒ぎです。 

でも、大村さんや梶田さんのノーベル賞受賞って、計画されたことが遂行された結果ではありませんね。 何かが熟すまで忍耐強く継続した結果として生まれたものです。 わかるかな?

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2015年9月29日火曜日

改めて思う、教育って恐ろしい

習近平主席と基文国連事務総長(Xinhua Press)

今、NYに世界各国の首脳が集まっています。 中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領、フランスのオランド大統領、イギリスのキャメロン首相、イランのロウハニ大統領、インドのモディ首相、韓国の朴槿恵大統領 等々。 シリアのアサドさんはいませんね、、、、。

最近、日本で凶悪な強盗殺人事件が増えたような気がしませんか? 犯人は自分よりも強いものからは奪おうとしません。 大抵の場合、盗みやすい者から盗み、自分より弱い者を殺すのです。

アメリカは南北戦争によって無理矢理 「United States of America」 という統一国家をつくりました。 日本だって、明治維新から中央政府が有無を言わせず強引に国家を建設しました(会津戦争や西南戦争を経て)。 昭和に入り軍国主義主流の時、つまり、「天皇無くして国家なし」の流れの中で、美濃部さんが天皇機関説を出してきて、「国家無くして天皇なし」といって天皇を国家元首とし、「国家」をトップに置きました。 

戦前の日本においては、軍国主義という大きな間違いはあったけど、国家意識はあったのです。

今の日本って、国を意識するのは、恐らくスポーツの国際大会の時くらいでしょう。 それでも「国」であって、「国家」には至らない。 国家はあくまでも「悪」というイメージなのです。 憲法9条や国連があれば平和であるという迷信、国家を否定しながらグローバリゼーションを叫ぶ考えの浅薄さ。  

要するに、平和も国家も国民が努力してつくるものだという認識が足りない、自己防衛の感覚がない。 やはり、長年続く教育って恐ろしいですね。

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2015年9月20日日曜日

ニーチェと国会前デモ

ひよこ豆(ガルバンゾ)のオリーブオイルサラダは美味しい!

最近、ニーチェが気になっていました。 そうしたら、新聞のコラムにニーチェが出てきました。 

情熱的な精神状態に入ってしまうと、一人になって頭を冷やすことなんてできません。 自立してない、つまり、個としての考えがないから、声高に叫ぶスローガン(ラップのリズム?)に身を任せるのが心地よいのかも知れません。

ニーチェは、一人ぼっちになって迷路の中を進んでいくこと、身の回りだけでなく遠くまで見渡せる眼を持つこと、新しい音楽を聞き分ける耳を持つこと、これらの事が意志の力であり、大切なことだと言っています。 福沢諭吉のようでもあり、小林秀雄のようでもあります。

【産経抄】
9月19日
 
哲学者、ニーチェはこう喝破している。「狂気は個人にあっては稀有(けう)なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」。安全保障関連法案をめぐるここ数日の国会の与野党攻防などを眺めていて、この警句を思い浮かべた。

 ▼集団心理(群集心理)という言葉がある。集団の中で人は他者に引きずられやすくなり、暴力的で狂気じみた行いにも疑問を感じなくなる。それが大規模となれば、魔女狩りや暴動、公開処刑、虐殺へとつながりかねないから恐ろしい。

 ▼参院平和安全法制特別委員会での安保法案採決時の与野党「肉弾戦」には、目をそむけたくなった。民主党参院幹部は「(不測の)軍事衝突みたいなものだ」と語るが、「平和」を掲げていたはずの議員らが、最後は当たり前のように腕力に訴える姿にむなしさを覚えた。

 ▼安保法案の参院特別委採決時には複数のけが人が出たが、一部メディアが新しい民主主義だともてはやす国会前デモも、暴力とは無縁ではない。警察関係者によると、7月15日から9月17日までに公務執行妨害や暴行の現行犯で逮捕されたデモ参加者は24人に上る。

(以下 省略)

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2015年9月14日月曜日

礼儀のない社会


「国家存続の要件は礼儀である」と言ったのは荀子(中国戦国時代の思想家)です。

今の日本は卑怯で臆病で、更に、礼儀がなくなったと思うことが多々あります。 荀子は「集団がうまく機能するためには、規律・秩序が確立していなければならない。 それは礼儀によってこそ可能となる」と言っています。 また、「集団を構成し社会を営む能力をもつところに、人間のもつ他の動物とは違った優秀性がある」とも言っています。 


これは、明治19年に福沢諭吉が「教育の要点は、人生を豊かにし、あらゆる心身の能力を鍛錬し、鳥や獣の世界から出来る限り遠いところに進歩させることである」と言っていることと同じです。 つまり、人間の賢いか愚かかは、鳥や獣からの距離の遠近にあるというのです。

色々と問題はありましたが、これまでの日本の良さと言うのは、幾ばくか礼儀があったことだと思います。


先週のことです。

総武線やメトロ東西線が乗り入れて始発駅となるJR三鷹駅では「整列­乗車・一端ドア閉め」を行っています。 最近ではラッシュ時に電車に乗ることはほぼないのですが、先週は混雑する時間帯に三鷹から四ッ谷まで行くことになりました。 中央線快速は混雑するので、時間に余裕のある私はいつも各駅停車の総武線です。

乗車客は3列に並び、1本後の始発電車を待つ客はその左に3列に並び、2本後の始発電車を­待つ客はさらにその左に3列に並びます。 到着した折り返し電車のドアが開いても、駅員や車掌が全員の降車を確認するまで乗車す­ることができません。 再度ドアが開くと待っていた客が斜め前方のドアに進み、いっせいに乗り込み、醜い席の争奪戦が始まります。 そして­後の始発電車を待つ人の列が右に移動するのです。

私は前から2番目、左には手押し車を支えに立っているおばあさんがいました。 電車が滑り込み、ドアが開き一端ドア閉めが終わりドアが開きます。 一斉に3列に並んだ乗車客が斜め前のドアに進みます。 私はおばあさんの様子をみて、必要であれば手伝ってあげようと思っていたので席の争奪戦のことは考えていませんでした。 すると、私の後ろの若い女性がスマホを片手に後ろから私を押しのけ前に出て、おばあさんには全く無関心に車内に飛び込み席に座りました。 おばあさんは手押し車を電車に乗せることに苦労しているので、私は手伝ってあげたのですが、周りの人たちは誰も関心を示さなかった。 スマホの女性は席に座ってスマホの画面にくぎ付けです。

本日の結論ですが、日本も、人間の本性は悪であるという「性悪説」をベースに、教育を含む様々な仕組みを変更する時かも知れません。

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2015年9月9日水曜日

つけまつける

習近平



胡錦濤

中国の抗日70周年パレードは凄かったですねぇ。 国会議事堂前に集まっている人たちは、どう思ったのでしょう?

私が注目するのは、第一汽車製造の中国製リムジン「紅旗」です。 胡錦濤が乗っている紅旗は、習さんの紅旗と同じように見えますが、どうでしょう? (ただし、胡錦濤さんは習近平と違って、ちゃんと右手で敬礼しています! 習さんは左手で敬礼しました)。


最新型の紅旗のヘッドライトはかわいいのです。 つけまつげをつけているようで、きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」を思い出してしまいました。










ibgの中国人コンサルタントもそうですが、中国の若い人の見方は実に冷静で、日中両国のリーダーたちの本質を見抜いています。 中国に媚びへつらうだけの日本の政治家は評価されないのです。 恐らく、アジアの他の国も同じでしょう。 EUもアメリカもアジアも、強いリーダーの不在が世界を混沌とした状況にしているのだと思います。

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2015年8月31日月曜日

コミュニケーションのための ibg ノート



ibgのノートを作りました。

  • A4横サイズ
  • ダブルリング綴じ(リング金具は白色)
  • 60P(30枚裏表)
  • 表紙 ibg ロゴ入り
  • 本文 ibg オリジナル KPT方眼5mm
  • ミシン目入り
  • 裏台紙はクラフト紙

ibg のコンサルタントが使う通常のビジネス用として作ったのですが、小さなお子さんの雑記帳や絵日記としても使えます。 子供に見開きの上のページに絵を画いてもらい、下のページには「よかったこと」、「よくなかったこと」と、右に「やりたいこと」を書いてもらい親子の会話を活性化します。 子供たちは、考えを絵にしたり、自分の考えを説明する練習にもなります。

企業社内のコミュニケーションも子供たちとのコミュニケーションも基本は同じだということです。 














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2015年8月28日金曜日

サファリパークよりも動物園が好き?

20年ほど前に作成したスライドです
(赤の丸は日本にある外資系企業で、青い丸はUSの歴史のある大企業です)

長くて少し硬い話題で恐縮ですが。。。。

先日、久しぶりに村上ファンドの村上世彰(よしあき)さんのことが話題になっていました(下の新聞記事参照)。

あちらこちらでグローバル人材の育成が話題になっていますが、今回の村上さんの件に関するメディアの報道を見ていて、まだまだ日本と欧米の間には大きなギャップがあると感じました。 それらのギャップに対する認識を深めることが、英語教育以上に重要なことなんだろうと感じました(必ずしもギャップは埋める必要はないと思います)。

そもそも、「会社(カイシャ)」に対する理解度が疑問です。 


村上ファンドが話題になった時(2006年村上ファンド事件)、「会社は誰のものか?」が話題になりました。 会社に関しては、大きく分けると2つの考え方があります。一つは、会社を商品と考え売買の対象とする、もう一つは、より良い製品やサービスを提供し社会に貢献する事業体と考えるのか。 どちらが良いとか悪いとかといった問題ではありません。 資本主義でのビジネス活動ですから、資金を金融市場や株主から調達し会社を運営し利益を還元するのはもちろんのこと、最終的には会社を商品と考えて売却して利益を得ても問題はない訳です

会社を起業し、成功させ(企業価値、つまり、会社の値段を上げ)、IPO(上場)し、売り抜けて(exitする)、若くして大金持ちになりリタイヤするのは、誰もが羨むサクセス・ストーリーです。 ところが、日本の場合は、会社は「社会に貢献する公器」という考え方が一般的ではないでしょうか? つまり、アメリカ型資本主義は「道義的にどうだろう」と考える人が多いのです。 要するに、これらが認識のギャップで、どちらの考えで会社をとらえるか、または、二つをバランスさせるかであって、会社の経営(またはガバナンス)も色々あるということです。

会社を上場した場合、買収される可能性は常にあります(黒田電気の場合)。 買収されたくなかったら上場しないことです。 黒田電気の株主の中には「投資しているんだから、儲かっているならもっと配当しろよ!」と思っている株主もいると思います。

私は村上さんの本心が分からないし、特に村上さんのファンでもありません、ただ、村上さんは会社の考え方として間違ってはいません。 メディアが、村上さんの会社の社長である娘さんも含めて、村上さんたちが極悪人であるかのような印象を拡散するのは間違っています。

最後に私が一番気になっていることを申し上げておきます。

日本の場合、保身で、つまり、「自分だけよければいい」という考えの人が加速度的に増加していることです。 会社のことを考えて一生懸命働くでもなく、自分の望むような会社を起業する訳でもない。


今、USでは「coddling America」ということが言われています。 「甘やかされたアメリカ」という意味です。 アメリカがcoddlingなら、日本はどうなるのでしょうか? 日本はサファリパークを、あたかも自然の中で生きているが如く何十年もやって来たので、生存本能が消滅しかけているのでしょう。 もしかしたら、その事を分かっていて、サファリパークじゃなくて、四方を檻で囲まれた動物園のほうを求めているのかも知れません。

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村上世彰氏の社外取締役選任、否決…黒田電気

電子部品商社の黒田電気の臨時株主総会が21日に開かれ、かつて「村上ファンド」を率いた村上世彰氏ら4人を社外取締役に選任する議案は反対多数で否決された。

議案は、村上氏の長女・絢氏が代表取締役を務める投資会社C&Iホールディングスなどが提出していた。C&Iは、村上氏個人などと共同で黒田電気株を約16%保有する大株主。

C&I側は、利益の全てを株主への配当に回すことや、他の電子部品商社との合併・買収(M&A)などを進めることを求め、黒田電気と対立。6月の定時株主総会後、C&I側が臨時総会の開催を求めていた。

一方、黒田電気はすでに取締役の半数を社外取締役が占めており、「ガバナンス(企業統治)体制は十分に機能しており、さらなる社外取締役の追加選任は不要」と、C&Iの議案に反対する考えを示していた。 


2015年08月21日 14時38分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

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2015年8月20日木曜日

人として大切なこと

奈良の人力車には「奈良まちしぐれ」の手拭いが

年をとったら出しゃばらず 
   憎まれ口に 泣きごとに
  人のかげ口 愚痴言わず
  他人のことは褒めなはれ
  聞かれりゃ教えてあげてでも
  知ってることでも知らんぷり
  いつでもアホでいるこっちゃ

中国語に「修身養性」という言葉があります。 昔々の中国で、絵を画いたり楽器を演奏したりして情緒を育み、人間力を高めることを指します。 10年近く前、ibgの上海オフィスを開いた頃、大学を出たばかりの中国人新入社員に「修身養性」の話をしたことがあります。 コンサルタントを目指す若い中国人たちに「そんな古いこと言われても、、、」と一笑に付されました。

その中の一人 A さんが子育てのために退社することになりました。 この10年近くの間にボーイフレンドを見つけ、彼と一緒にマンションを買い、結婚をして子供が生まれました。 東京のプロジェクトで中延(品川区)にアパートを借り一年間滞在したこともあります。 仕事を終えて彼女が無事上海に帰国した時は、プロジェクトの成果よりも彼女の帰国のほうがホッとしたものです。

10年が経ち、今となれば果たして私に「修身養性」を語る資格があったのか気にかかります。 しかし、人として大切なことは、死ぬまで修行が続くということを自覚し、他者に対しても寛容であるということで、私はそう思うことで自己正当化しましょう。

A さん、幸福順利!

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2015年8月10日月曜日

外国語学習以前の問題


コンピュータ間で通信する際の取り決め手順をプロトコルと言います。 どのような状況でどのようなタイプのデータをどのような順番で送るかが記載されているものです。 国家間のプロトコルは、議定書と言われるもので、地球温暖化防止に関する京都議定書は英語では「Kyoto Protocol」と言います。

通常のビジネスにもプロトコルがあります。 今更何を、、、なのですが、これができていない。複数の国籍の人間が集まるプロジェクトにおいて、このビジネスプロトコルが守られない場合、プロジェクトはかなりの確率で泥沼化します。 外国語のコミュニケーション以前の問題なのです。

日本人の間でもビジネスプロトコルは重要です。 他者と向き合うことに苦手な人たちは特に注意を要します。 他者のことは理解できているというのは極めて傲慢な考えで、つまり、自分が一番正しいという謙虚さの欠如した態度でもあります。

上図はibgの設立時に作成したスライドの一つです。 お恥ずかしい話ですが、10年が経とうとしても、なかなか守られていないのです。

スライドは以下の事を説明しています。

結論が何なのかを明確にする(clarity)。 これは、話のテーマと言ってもいいものです。 相手は、理解すればいいのか、コメントを求められているか、アクションを要求されているのか判断します。そしてリアクション(応答)する。

相手から「なぜ?」と聞かれたら、理由を説明する。 理由の説明は相手が納得するまで繰り返し行う。 リアクションには、臨機応変に対応する。

コミュニケーションを完結させる(close the loop)。 欧米の比較的うまく行っている企業は、マネジメントの時間の大半をこういったコミュニケーションに使っています。

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2015年8月5日水曜日

学生諸君、安保を語る前に夏目漱石の『坊ちゃん』を読もう!

ツイッターやfacebook で集まった渋谷の高校生デモ(毎日新聞)

夏目漱石の『坊ちゃん』は卑怯なことが大嫌いな人間です。

初めて教壇に立った時に以下のように言っています(第三章)。

「先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている」。

『坊ちゃん』に出てくる数学教師の山嵐は会津出身です。会津藩の「什の掟」の四番目は「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」です。紆余曲折を経て、坊ちゃんは山嵐と親友になります。それは、卑怯や臆病を嫌う共通項があったからです。赤シャツや野だいこという卑怯で臆病な人間に立ち向かったのです。

物語の最初のほう(第一章)に坊ちゃんが兄と将棋をして、兄が卑怯な持ち駒をしたことを書いています。坊ちゃんは、勝敗よりも正々堂々としていることを重んじたのです。

「兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した」。

国会議事堂前でデモをやっている団塊世代の人たちや、渋谷に集まった高校生たちは、夏目漱石の『坊ちゃん』を読んだことがあるのでしょうか? 本来、日本人の美徳って、勝っても負けても正々堂々としていることであり、困っている人がいれば助けるというものじゃなかったですか? (世界の中で日本という島国だけが平和で有り続けるなんてないということです)。

夏休みで暇だということは分かります。でも、戦争のことを何一つ真剣に調べることもせず、炎天下でよく分からないスローガンを声高に叫ぶより、クーラーの効いた図書館で夏目漱石でも読んでみては如何でしょう。

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2015年8月4日火曜日

集中力を高める

中小企業静岡(2003年 7月号 No.596)より

集中力というのは非常に大事だと思います。どんな領域でも、とてつもない集中力を持っている人が勝者になるからです。人並み外れた集中力を備えた人がその道の名人になるのです。

私はごく一般的な日本人なので、否、平均的な日本人より集中力では劣る、筋金入りの「ながら族」です。子供の頃から集中力がない。 小学生の頃から勉強は音楽を聴きながらテレビを見ながらでした。 私がどの道の名人にもなれなかった最大の理由は、この集中力のなさだと思っています(他にもいっぱい原因がありますが、、、)。

日本は労働生産性が低いとされています。OECD加盟34ヵ国中で第22位です(2013年)。さらに、主要先進7ヵ国では1994年から19年連続で最下位です。日本人の能力が劣っているのではなく、最大の原因は残業による労働時間が長いことです。1日24時間1年365日は世界中同じです。日本人は時間を区切り集中することなく、24時間365日をすべて満たすまで仕事が膨張する傾向にあるのです。要するに、メリハリがない。これは一つの仕事を完成させるのではなく、時間をすべて満たすまで仕事を増やしているだけなのです。

凡人の私でも僅かながら集中力を高める方法があります。

私は朝の時間を使っています。若い時から何も用事がない場合は早く寝て朝は早く起きるようにしています。5時とか6時ではダメです。3時とか遅くとも4時です。テレビにも家人にも誰にも邪魔されない時間を2~3時間とるようにするのがいいと思います。私の場合、今更早朝に集中してどうなるのかという意見もあるでしょうが、色んな事を考えることもリタイヤ後の娯楽の一つだと考えれば、早朝の数時間って楽しいのですよ。

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2015年8月2日日曜日

医者のコミュニケーション能力

今年の梅の土用干し
梅干し一つ一つにも個性があるように感じます

近所の耳鼻咽喉科と眼科に行ってきました。眼と耳の調子が同時におかしくなりました。

眼のほうは昨年12月に免許更新に行った時は問題なかったのですが、その後左目の視力がかなり落ちてきました。 2月に東名自動車道で左後方からきた覆面パトカーに不覚を取ったのも左目視力の問題があったのです(もっとも覆面パトはシルバーか白のクラウンという私の先入観もありましたが、、、)。

最初に耳鼻咽喉科に行きました。若い先生は耳の事以外に全くと言っていいほど関心を示しません。延々と聴力の検査をしてからやっと先生にお目にかかり問診となりました。鼻や体の他の部分と耳の関係に関しては何も言ってくれません。私は「脳と耳の関係が原因とは考えられませんか?」と質問したのですが、「オジサン、面倒なこと言うなよな~」って感じで、ほとんど相手にされませんでした。

眼科でも全く同じでした。延々と視力検査をしてから白内障の検査です。白内障の検査は散瞳剤を点眼し、瞳孔を開いて眼底検査を行います。やっと問診です。白内障はまだ深刻ではないとのことで、緑内障も検査したほうがいいということになりました。ところが、散瞳剤を点眼したために緑内障の検査はできないとのことでした。だったら、「最初に問診しろよ!」ってことですよ。私は百歩譲っても納得できませんでしたが、先生の出した結論は、視力が落ちているから眼鏡を交換すべきだとのことです。

私は医学に素人の患者ですから、専門家である先生のいう事を疑わずに納得すればいいのでしょうが、有機体である人間を相手にしているのですから、検査の結果を映し出すパソコンのディスプレーを見るのは最小限にして、もっと患者をほうを見て患者のスペックに合わせた診察をしてもらいたいものです。

先日のブログにも書きましたが、夏目漱石は、「英語の学習法は、会話とか文法とか読解とか、細かな科目に分けて教えるのはよくない、互いに連絡のつくように教え込んでいかなければならぬ」と言っています。医学に関しても全く同じことが言えると思います。理想的には医学の範疇を超えたあらゆる領域からの様々なアイデアを全体として統合し、それを患者とコミュニケーションする能力が必要とされるのでしょう。

武蔵野市は全国でも開業医の多い市だそうです。医者の経営も大変で効率性を求められるのでしょうが、もう少し有機的に統一のある診療に努めてもらいたいものです。

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2015年7月25日土曜日

今だから夏目漱石 ~ 語学養成法


明治44年、夏目漱石が英語教育に関する提案を行ったのをご存知でしょうか? 漱石の提案は、イギリスでノイローゼや胃潰瘍になるまで苦しんだ経験の賜物ですから非常に重みがあります。経験の積み重ねから何かが生まれる「眼高手低」というです。

漱石は、「有機的統一のある言語を、会話とか、文法とか、読解とかいうふうに、細かな科目に分けて教えるのはよくない。学生各自が互いに連絡のつくように教え込んでいかなければならぬ」と言っています。漱石は文学者だからなのか、語学だけでなく、職業や日々の生活まで有機的な統一のある人間を中心に考えていたようです。英語を細かな科目別に指導するという方法は、100年経った今でも同じです。要するに、大学受験がゴールである限り、教える側、採点する側の都合が優先されているのです。 

何も英語教育だけでなく、医学や全ての教育に云えることですね。 今の日本の基礎になってしまっている、、、、、。

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『語学養成法』(明治44年)

目次

1.      語学の力の有った原因
2.      語学の力の衰えた原因
3.      改良の効果如何
4.      改良の三要点
5.      教師の養成
6.      教師の試験
7.      教科書の問題
8.      時間の利用

漱石が7章で提案している教科書の問題は、学校や受験とは関係なく子供たちが自分で対応できることなので、学校の英語の点数がどうあろうと是非とも実践して欲しいと思います。

7.教科書の問題

教科書は大いに考ふべき問題である。

今の中学生はいろいろな書物を読んで、知らないでもいいような字を覚えるかわり、必要な字を覚えていない。まことにばかぱかしい話である。普通イギリス人はどれほどの単語を知っているかというに、きわめて僅少のものである。日本の中学生は、かれらの知らぬ字をかえって知っている。ひっきょう教科書がよく整理されていないからである。

そこで、文部省では中学の英語教科書を作る必要がある。

その教科書は一年から五年に通じて、普通の英国人がわかる文字と事項とを、まんべんなく割り振って排列するようにする。すなわち、かれらの一般に知っている文字と事がらには、五年中どこかで出会うが、そのかわりむずかしいジョンソンの『ラセラス』に出てくるような字はまったく省いて、生徒に無用な能力を費やさせないようにしてやる。そういう教科書を作るには、どうしたらよいかというに、わたしは外国の新聞を基礎にするのがいちばんよいように思う。

『ロンドン・タイムス』でも『デイリー・メール』でも、一月一日から一二月三十一日まで通読すれば、いかなる文字といかなる事がらがいかに多く繰り返されて社会に起こるかがよくわかる。それでだいたいの統計を取れば、どの字と、どの事がらと、どの句が比較的いちばん必要であるかがわかる。わかったところを組織だてて教科書に編入する。中には三百六十五日のうち、何百ぺんとなく繰り返されるもの名あるに相違ないから、そんなものには重きをおいて、教科書中にも幾度も繰り返しておくと同時に、年にいっぺんとか、半年に一度ぐらいしか見あたらないものは、まったく省くことにする。そうすると、二三年たつうちに、かなり経済的に英語を短い時間内で教えるできる教科書が、科学的な、秩序立った系統の下に編成される訳である。

こうしてこしらえた教科書をそのままに放り出しておかずに、外国新聞を基礎として、時勢の変化に伴って起こる言語文字の推移に注意して、十年に一度くらい宛改訂するつもりで永久事業としたら、生徒は大変な利益を得ることであろう。無論この事業は前に云った試験管の平生の仕事の一とするのである。顧問として適当な西洋人を雇うのも一法である。

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2015年7月20日月曜日

英語化は愚民化


人間、型にはまると魅力がなくなります。 特徴がなくなるからです

私は東京に住んでいますが、もしウチに成長期の子供がいたならば、東京のような大都市では暮らさないかも知れません。 大都会の澱みの中につかってしまうと、標準化され協調性だけが取り柄の大人になりそうだからです。

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この週末は政治学者 施光恒(せ てるひさ)さんの『英語化は愚民化』(集英社新書)という本を読みました。 英語教育やグローバル人材育成について日頃考えていることが上手に新書にまとめられていました。

本の中にもありますが、ヨーロッパの近代化は普遍語であるラテン語を各国語(フランス語やドイツ語など)に翻訳することから始まりました。 また、日本の近代化は西欧の先進技術や考え方を一つ一つ意味を考えながら日本語に翻訳することにより成し遂げられました(福沢諭吉や新渡戸稲造の貢献は偉大です)。 外国語をそのまま使うのではなく、概念を理解し各国語(日本では日本語)に翻訳する。 適切な言葉がないならば作る。 そうやって発展途上国は学習しながら先進国になっていったのです

施光恒先生は、英語をラテン語に重ね合わせ、日本の教育を英語化(≒ ラテン語化)することは日本の近代化の真逆、つまり、国を発展途上国に逆戻りさせる愚民化政策であると言っています。 私も繰り返し言及していますが、全ての学生に対して過度な英語教育は必要ないのです。母語の授業を減らされるだけ、多くの学生さんたちは情緒が育まれず英語も中途半端になってしまいます。

ジョージ・オーウェルの小説『1984』にはニュースピークという新語が出てきます。

『1984年』の舞台となる国は思想や言論に厳しく統制が加えられています。 物資は欠乏し、国民は、テレスクリーンによって昼夜を問わず屋内でも屋外でも行動が監視されています。言語はニュースピークというものです。 ニュースピークは、思考を単純化し、思想犯罪の予防を目的として成立した新語です。語彙の量を極端に少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされて、この言語が普及すれば、反政府的な思想を表現することができなくなるというものです。

言葉を単なる手段、つまり、道具(ツール)だと考えたら、仕事や生きることが無味乾燥で味気ないものになります。 会社のような組織は合理性が支配するのですが、本質には有機体としての人間が存在します。時間をかけて人と人の信頼関係、仲間意識などが醸成されていきます。 そこには文化や習慣を背景とする母語があるのです。

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2015年7月13日月曜日

流れを読む

伊勢神宮 五十鈴川

変化を好まない?

今の日本には変化を好まない人が多すぎる


意地悪な見方かも知れませんが、変化に弱いことを承知しているため、自己防衛からなのでしょうか? 変化に弱い人というのは固定観念が強いものです。 学校の勉強がよくできて知識があり過ぎるためなのか、持っている知識をもとに自分の損得勘定に拘り過ぎる傾向があります。 世間では極めて優秀だと思われているのですが、実は状況が変化するとついていけなくなってしまいます。 リーダーにはもっとも相応しくないタイプです。

流れを読むためのセンサー


勝負に流れがあるのと同様に、人生にも流れがある


その人生の流れをつかむためには、まず流れを感じとらなければいけません。 感じとるための敏感なセンサーが必要なのです。センサーは訓練で鋭敏にできます。感度のいいセンサーが必要になる環境に身を置くことです。 蛸壺の中、つまり、鈍感なセンサーしか持ち合わせない人たちの中にいると、自分のアンテナはいつまでたっても鋭敏にはなりません。 阿片窟のジャンキーのように鈍い感度が心地よく感じるようになります。

Premature と Intensity

流れを読むことと同様に大事なことは勝つまで粘ること

迅速な判断は頭がいいからだという人もいますが、私は人生の勝負としては失敗だと思います。 成熟度が足りない、つまり、premature ということなのです。勝つまで粘ること、最後までねばり強く勝負する者が強い。 勝つまでやる。 苦戦に耐える、不幸に耐える。 それが強靭性で、英語でいうところの intensity だと思います。

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2015年7月10日金曜日

指導者の器

Screen Addiction
July 6th 2015, The New York Timesより

1980年代、大阪で中学教師をやっている友人が学級崩壊のことを話していました。相当ひどい目に遭ったのかも知れません。友人は、中学生は恐ろしいから高校に移ると言っていました。

1990年代後半から10年ほど日本の学校はゆとり教育を推進しました。2009年に帰国した私は中学高校のカリキュラムを調べて驚きました。その後、学力の著しい低下から、ゆとりはダメだと言って見直しが始まったのは皆さんご存知のことと思います。

振り返ってみると、ゆとり教育って誰のための教育だったのでしょう? 何が良い点で、何が課題だったか(明らかに学力低下は課題の一つですが)、そして継続する良い点と改善すべき課題から総合して考えだされたAction Planが、グローバルに対応する人材の育成なのでしょうか?

恐らく戦後何十年も継続しているのでしょうが、特にここ数十年、指導者の「器」でない人たちが多すぎるように思いませんか? 教育だけでなく、政治もビジネス界にも共通する問題です(もちろん、自分のことは棚に置いてですよ)。

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2015年7月6日月曜日

心技体とは?

多くの勝利と一つの敗戦から何を学ぶか?

心技体とは一般に精神力(心)・技術(技)・体力(体)の総称だと言われています。 少し、心技体について考えてみました(いつものように上から目線ですよ)。

世間では心技体のそれぞれが優れていて、且つ、全体のバランスがとれていることが重要視されていると思います。 勿論、正しいのですが、それだけでは足りないような気がします。

一つは、タイミングが大事だということです(英語でいう 
PEAKING AT THE RIGHT TIME)。人生って、博打ではなく勝負なのですが、勝負に勝てる人は、最上のコンディションを決戦の時にピタリと持っていける人です。総合的に心技体のバランスがとれていても、決戦のタイミングに調子を合わせることができないと意味がありません。スポーツであれば、準決勝で燃え尽きて決勝で本来の力の100%が出ないということでは困るのです。欧米、特にアメリカ人の精神力の強さは、普段の100%の力量を決戦で120%にする集中力があることです。

二つ目は心技体の3つは同列ではないということです。福沢諭吉の子育てポリシーは、子供には9歳までは身体をつくることだけを要求し、知識の習得は身体ができてからだというものでした。体が出来ていないと、技(術)や心(精神)は積み上がっていかないと考えているのです。体が強靭であるということは、想像以上に重要なのです。

要するに、心技体の一つ一つを深堀したり、三つのバランスをとることだけを考えるのではなく、体力(健康)が基礎となることや、決戦に合わせて気持ちを最高潮に昂らせることが重要であるということを理解すると、教育や更には社会に出てからパフォーマンスに幅が出てくると思います。

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2015年7月5日日曜日

経験から勘を養う

会津に行ってきました

実践で鍛えるって大事です。それも魅力的な人たちの中で経験を積むことは非常に大事なことです。それは勘が養われるからです。 理論だけでは勝負の勘は養われません。勝った時の達成感や、負けたときの悔しさがないと駄目なのです。 

頭の良し悪しなんて、実は大した問題ではないのではないかと思うのです。 ほんの少しの違い、その違いは質と量共に充実した経験の積み重ねから来る勘です。

場数を踏んで勘を生む引き出しの数が多くなってはじめて自信のある言葉が生まれます。 だから、歳を取ってその人の雰囲気や魅力が出てくるものなのです。

















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2015年6月30日火曜日

キャリアを考えるということ


多くの人は孔子さまじゃないので30で立つのは難しい。 30歳でも「学を継続し一途に走り続ける」が理想です。 40って人生で一番迷う時だと思います。 だから、mid-life crisis なんて言葉があります。 50になって天命を知る人よりも、我欲が更に強くなる人が多い、、、。 もっとも今は寿命が長いので50で天命を知ることはないか? 60歳にして耳順(したが)うということですが、60歳になると益々人の話なんて聞かないものです。70

私はリアリストなので、嫌いなものは文句なく嫌いだということを 自分の物差し としてやってきました。 伝統の精神は我が家のチャーリーに受け継がれています。














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2015年6月24日水曜日

いつまでも従業員感覚の日本


会社には様々な役割があります。 個人の役割はどう進化するのか? 国会やメディアでの国家意識の低い憲法や集団的自衛権の議論と同じで、ビジネスや仕事に関しても、大前提となる「資本主義とは何ぞや?」を見失った議論に終始しているのが気にかかります。 

欧米、特にアメリカでは、オーナーとして起業し、出来る限り短期間で会社を商品として売ることが一つの成功の目安となります。 通常、起業は複数の仲間と一緒に行うのですが、彼らの関係は任侠に近い横の関係です。 一方、経営者(officer:役員)は株主との主従関係、つまり、縦の関係です。

日本は経営者を含めて従業員感覚が大多数を占めています。 従業員のまま現役を終えるのも一つのオプションですが、若い学生さんたちにはオプションの幅を広くもって自分にはどの役割が向いているのか考えてもらいたいと思います(実は定年退職を迎えるお父さんたちにも)。

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2015年6月14日日曜日

コミュニケーション ~ 英語より大事なフレームワーク

セルフポートレート

日本企業(日本人組織)はPDCAPlan-Do-Check-ActionPDだけを高速に回転させて、つまり、ほとんどCAに行かず日々を忙しく過ごし、一年が過ぎていく傾向にあります(上から目線ではなくて、30有余年の経験からそう感じるのです)。

これはKPTkeep-problem-try)が継続して回らないということでもあります。KPT(ケプト)とは、これまでの活動を振り返る時に、「keep」「Problem」「Try」の3つに分けて整理するフレームワークです。
  • KEEP=何が良かったのか、今後続けたいもの
  • PROBLEM=何が問題だったのか、改善が必要なもの
  • TRY=次に試してみたいこと、チャレンジしたいこと
KPT1サイクル回すだけじゃなくて、keep は蓄積されていくべきもので、これが所謂、「保守」ということであり、capitalize(資本化) するということです。ビジネス界や教育の世界でも「イノベーション、イノベーション」と声高に叫んでいるようですが、日本人や日本企業にとって大事なことは「保守」であり、KPTを継続して経験を capitalize する事だと思います。

義務教育にKPTの「振り返りフレームワーク」を取り入れれば、必ずいつの日にか役に立つと思います。

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2015年6月7日日曜日

いい塩梅

いい香り!

今年もやって来ました。梅干しを仕込む季節です。

今年の梅は紀州産、いい塩梅(あんばい)です。チャーリーの散歩に困るので梅雨は嫌いなのですが、梅の実が熟す頃だと考えると梅雨もまたよしとしますか。










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