大きな実績を残したわけでもなく、立派な経歴があるわけでもありません。
ただ、長く生きてきて一つだけ気になっていることがあります。それは、問題意識、危機意識、当事者意識が、私たちの社会から少しずつ薄れているのではないかということです。
問題意識がなければ危機意識は生まれません。
危機意識がなければ当事者意識は芽生えません。
そして当事者意識がなければ、主体性は育ちません。
私は、今の日本社会の最大の欠陥は主体性の弱さだと思っています。
言い換えれば、責任感の希薄さです。
当事者意識とは何でしょうか。
それは、自分が引き受けるという覚悟です。
自由は求める。しかし責任は負いたくない。
これは個人にも組織にも蔓延しています。
日本の会社組織では、責任の所在を曖昧にし、合議という名のもとに決断を先送りする構造が温存されています。誰も最終責任を取らない。
主体性や責任感は、誰かに教わるものではありません。
人材育成プログラムで身につくものでもない。
自分の選択を自分で引き受ける、その積み重ねの中からしか生まれません。
なぜこうなっているのでしょうか。
私は、人生に対して受動的すぎるのだと思います。
選択を自分のものとして引き受けていない。
結果を自分の人生に結びつけていない。
行動と未来がつながっていない。
受動的な人生態度とは、
・誰かが決めてくれるのを待つ
・環境が変わるのを待つ
・正解を与えられるのを待つ
待っているかぎり、責任は発生しません。
だから楽です。しかし成長もありません。
私はどちらかというと努力が嫌いなほうです。しかし、自分の欠点や弱点はよく承知しているつもりでした。ずるいかもしれませんが、努力する代わりに、弱点を強みでカバーするような積極的な行動をとってきました。完璧ではありませんが、自分の選択だけは自分で引き受けるようにしてきました。
努力の量よりも、引き受ける覚悟のほうが重要だと思っています。
問題意識がないのに危機意識は生まれません。
危機意識がないのに当事者意識を持てと言っても無理です。
視野が狭い。
視点がぼやけている。
視座が低い。
蛸壺状態です。
視野を広げ、多くの視点を持ち、高い視座から物事を見る。そして自己を客観視する。この習慣がなければ問題意識は芽生えません。
教育も同じです。本物を体験し、自分の価値基準を形成することが重要です。しかし今の社会は、正解を効率よく与えることばかりに力を注いでいます。これでは主体性は育ちません。
この構造は国家レベルでも同じです。
議論は必要だと言いながら、本気で向き合わない。
決断を避け、既得権益を守り、先送りする。
私は長い間、日本人は自己欺瞞しているのだと思っていました。
しかし最近は、自己欺瞞ですらなく、本心から現実を理解していないのではないかと感じています。
問題意識が弱いから危機意識に至らない。
危機意識がないから当事者意識も生まれない。
これは構造的な思考停止です。
そして今、生成AIが急速に普及しています。
AIは強力な道具です。しかし主体性のない人間が使えば、思考停止を加速させる装置になります。
問いを立てない。
考えない。
判断しない。
答えだけを受け取る。
これでは受動的な人生態度が完成します。
AIに任せることと、AIに委ねることは違います。
前者は拡張です。後者は放棄です。
主体性の弱い社会では、この境界が簡単に崩れます。
問題意識を持つことは不快です。
危機意識を持つことは不安です。
当事者意識を持つことは重い。
しかしそれを避け続ければ、主体性は失われます。
自由を語るなら、責任を引き受ける覚悟はあるのか。
AIを使うなら、最終判断は自分で下しているのか。
選択を、自分の人生として引き受けているのか。
問題意識、危機意識、当事者意識。
この三つが戻らなければ、主体性は回復しません。
便利な時代です。
だからこそ、覚悟が必要なのだと思います。







