ある有名な実務家の方が、AIに関する動画で非常に明快な整理をされていました。技術の原理を構造的に捉え、それをどのように経営や業務に実装していくかを論じる内容です。AIを道具としてどう使いこなすか、その際に何が本質で何が誤解なのかを丁寧に解きほぐしておられました。実務の最前線に立つ方ならではの視点であり、多くの示唆を含んでいると感じました。
その議論は、「AIをどう扱うか」という高度にあります。つまり、AIを使う主体がどう理解し、どう設計し、どう活用するかという問題です。企業や組織がAIを導入し、生産性を高め、競争力を維持する。そのために必要な知識や視座を提示することは、きわめて重要です。
しかし、動画を拝見しながら、私は自分の関心が少し別の場所にあることを改めて自覚しました。
私が気になっているのは、「AIに囲まれた社会で、人間はどう変わるのか」という高度です。技術の有効性や利便性ではなく、それが私たちの思考様式や精神のあり方をどのように変質させるのか、という問いです。
生成AIが高度な文章を即座に生み出し、問いに答え、思考を構造化してくれるようになると、人間はどこまで自分で考え続けるのでしょうか。とりわけ日本社会において、もともと標準化や同調の傾向が強い中で、思考までもが外部化されていくことに、私は一抹の不安を覚えます。
優秀な若者が、自ら問いを立て、迷い、逡巡し、思索する時間を失ってしまわないか。便利で整った答えが常に与えられる環境は、知らぬ間に精神の筋力を弱めてはいないか。そうした懸念は、単なる保守的感情ではなく、社会の質に関わる問題のように思えます。
生成AIの時代は、いまなお過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、そのどちらかを選ぶことではなく、自分の内に生じている「ぼんやりとした不安」を自覚し、それを思考の対象にすることではないでしょうか。
「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残したのは、芥川龍之介です。この言葉は、近代人の繊細な内面を象徴するものとして語られることが多いものです。しかし私は、それを単なる絶望の言葉ではなく、時代の変化を敏感に感じ取る感受性の表れとして読み直したいと思います。
芥川龍之介は、近代文明を身にまといながらも、それを精神の深部まで消化できない日本の姿に、かすかな不安を抱いていたのではないでしょうか。文明は輸入できる。しかし文化や精神は、それほど容易に更新されない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に凝縮されているように思えます。
芥川は、文明開化後の日本を生きながら、その近代が精神の深部まで統合されていないことに違和を抱いていたのではないでしょうか。西洋の文明は取り入れられても、それを支える文化や精神の強度は容易には変わらない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に結晶しているように思えます。
AIをめぐる議論は、活用法や制度設計、競争力といった実務的課題に集中しがちです。それは当然重要です。しかしその一方で、私たちがどのような精神の状態でこの技術と向き合うのかという問いが、後景に退いてはいないでしょうか。
実務の高度と、文明の高度。
使いこなす能力の問題と、使われる側の精神の問題。
この二つは対立するものではありませんが、階層は異なります。AIを扱う能力を高めることと、AI時代における人間の精神の強度を保つことは、別の努力を要します。
AIの進歩を止めることはできません。であるならば、せめて私たちは、不安を感じ取る感受性を失わず、その不安を言語化し、思考し続ける責任を持つべきではないでしょうか。
技術の議論の上に、精神の議論を重ねること。
それこそが、AI時代を主体的に生きるための最低限の態度なのだと、私は考えています。







