もちろん、芥川の不安には具体的な背景がありました。家庭の経済的負担、心身の衰弱、実母の発病に由来する遺伝への恐怖、そして作家としての行き詰まりです。とりわけ大正末期は、関東大震災後の社会不安や思想的分裂が広がり、文学の潮流も変わりつつありました。芸術至上主義的な作風は、台頭するプロレタリア文学の熱気の中で居場所を失い始めていました。自らの立脚点が揺らぐ感覚――それは単なる私的苦悩ではなく、近代という足場そのものの不確かさに触れた知性の震えだったのではないでしょうか。
私はいま、日本における生成AIの急速な普及を見ながら、この「ぼんやりとした不安」を思い出しています。AIは、言葉を書き、絵を描き、音楽を作り、人間の知的営為の多くを模倣し、時には凌駕します。かつて人間だけの領域と信じられてきた創造の場が、静かに侵食されているように感じられます。その変化はあまりに速く、しかも全体像が見えません。便利さと効率の向上に歓喜する声がある一方で、「何かが変わってしまう」という感覚が、言葉にならないまま胸の奥に残ります。
芥川龍之介は、自らの知性を信じながら、その知性が自分を救わないことを悟っていました。合理的であろうとすればするほど、世界の亀裂が見えてしまいます。生成AIの時代においても同様です。論理やデータの集積が高度化するほど、人間の独自性とは何かという問いが鋭く突きつけられます。AIは過去の膨大な言語データを学習し、「芥川風」の文章さえ生成できます。では、人間が書く意味とは何でしょうか。独創とは何でしょうか。現実を言葉へと翻訳し続けた芥川が晩年に抱いていたであろう葛藤が、いまや社会全体の問題として浮上しています。
さらに言えば、この不安の本質は「輪郭が見えない」ことにあります。明確な敵や危機であれば、人は対処できます。しかし、生成AIがもたらす変化は、雇用の再編なのか、教育の変質なのか、思考力の衰退なのか、それとも新しい創造性の解放なのか、まだ定まっていません。だからこそ、不安は具体化せず、「ぼんやり」と広がります。芥川の時代が近代化の奔流に揺れていたように、私たちもまたデジタル化とアルゴリズムの奔流の中にいます。
もっとも、芥川の不安と現代の不安を単純に重ねることはできません。彼の苦悩は極めて個人的で、切実で、最終的には取り返しのつかない結末に至りました。しかし、その言葉が百年近くを経てもなお響くのは、時代の転換点に立つ知性が共有する感覚を言い当てているからではないでしょうか。不安とは、古い秩序が崩れ、新しい秩序がまだ姿を現さない「過渡期」に生じる震えなのだと思います。
生成AIの時代もまた、過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、その「ぼんやりとした不安」を自覚し、言語化し、思考の対象にすることではないでしょうか。不安を感じるということは、何か大切なものが揺らいでいると直感している証でもあります。芥川の言葉は、逃避ではなく、むしろ時代の変化を凝視するための出発点として読み直されるべきものだと感じています。
将来に対する「唯ぼんやりした不安」。それは、生成AIがもたらす得体の知れない変化を前にした私たちの心情とも重なります。しかし芥川の悲劇を繰り返さないためには、その不安を沈黙のままにせず、思索へと昇華させる必要があります。時代の震えを感じ取る感受性を保ちながら、なお主体的に選び取る意志を持てるかどうか。そこに、AI時代を生きる私たちの課題があるのではないでしょうか。






