2026年2月28日土曜日

トランプ関税は「みかじめ料」か?――春の誕生日と28ドルの理不尽

 

3月の初めは、孫と嫁の誕生日です。
毎年、日本からささやかなプレゼントを送ります。

この荷物を出すと、「ああ、冬が終わるな」と感じます。三寒四温をへて、やがて桜の季節へ。遠く離れたテネシー州ナッシュビルの孫たちに、日本から小さな春を届ける――それが、ジージとバーバのささやかな季節行事です。

ところが、今年は様子が違いました。

追跡サービスで確認すると、荷物はきちんとアメリカに到着し、シンシナティの中継地を経由して、目的地であるナッシュビルまで届いている。よしよし、順調だ――と思ったら、画面に冷たい文字が出ました。

「支払い待ち」

何の支払いだ?
誕生日プレゼントにツケが回るのか?

息子に確認すると、返ってきた答えは一言。

「トランプ関税だよ」

なるほど。

これは日本からアメリカへの「輸出」と見なされ、受取人である息子に輸入関税28ドルの請求が来たというのです。

申告額は40ドル(手品用品)と40ドル(文房具)、合計80ドル。
実際はもう少し安いかもしれません。何しろ1ドル155円の円安ですから、ドル換算すると日本の品物は何でも安く見える。いいのか悪いのか分からない。

それにしても、80ドルに対して28ドル。

ざっと35%。
なかなかのパンチ力です。

なんだか、ヤクザのみかじめ料を取られた気分になりました。

「ここを通るなら払ってもらおうか」

そう言われたようなものです。
こちらは商売をしているわけでもない。レアアースでもない。
子ども用の手品道具と文房具です。

それでも28ドル。

トランプの国家戦略というのは壮大だそうですが、最前線はどうやら我が家の小包がターゲットらしい。

ジージとバーバにとって誕生日プレゼントは、品物の値段ではありません。
送るという行為そのものが、うれしいのです。送料が高くても仕方がない。

そこに「支払い待ち」。

なんとも味気ない。興ざめです。

まあ、払うでしょう(実際は受け取る息子が)。
孫の誕生日に、政治と喧嘩しても仕方がない。

それでも今年の春は、少しだけ苦い。

小さな手品道具と文房具に、
28ドル分の現実が添えられました。

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2026年2月27日金曜日

抽象度を上げて見るということ――阿Qと生成AIのあいだ

阿Qという精神は、過去の物語なのだろうか。


生成AIが急速に普及するなかで、日本でもさまざまな議論が交わされています。仕事はどう変わるのか、教育はどう対応すべきか、規制は必要か。いずれも重要な問いです。しかし、それらの多くは「どう使うか」という運用の次元にとどまっているようにも感じます。そこには鋭い指摘もありますが、人間そのものへの問いは、まだ十分に立ち上がっていないのではないでしょうか。

ここで必要なのは、抽象度を一段上げて見る姿勢です。生成AIを単なる便利な技術ではなく、「思考を外部化できる装置」として捉えるとき、問題は効率や制度ではなく、人間の主体のあり方へと移ります。

百年前、『阿Q正伝』を書いた魯迅は、敗北を合理化する精神の構造を描きました。阿Qは打ちのめされても「精神的勝利法」によって自分は負けていないと言い換えます。魯迅が問うたのは社会制度ではなく、現実を直視できない精神の型でした。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介は「ぼんやりした不安」と書き残しました。さらにさかのぼれば、夏目漱石は日本の近代化を「上ッ滑り」と表現しています。明治は「和魂洋才」を掲げましたが、結果として西洋の制度や技術を取り入れながら、それを支える思索の訓練を十分に育てられなかったのではないでしょうか。

私は、日本の教育のなかで、小学生の作文が高校生の小論文へ、さらに論文へと発展していく体系的な訓練が、本当に制度として根づいてきたのか疑問に思っています。受験制度は知識の処理能力を測ることには長けていますが、抽象度を上げて物事を捉える力をどこまで育ててきたでしょうか。

生成AIは、その弱点を静かに照らします。要約も構成も、ある程度は外部に委ねることができます。すると「考えた」という感覚だけが残り、本当に思索したのかどうかが曖昧になります。ここで思い出されるのが、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉です。人間は弱い存在でありながら、考えることによって尊厳を持つ。もしその思考を外部化し続けるならば、その尊厳はどこに位置づけられるのでしょうか。

抽象度を上げて見るということは、具体的な利害を越えて、人間の条件そのものを問う訓練です。それは一朝一夕には身につきません。しかしその訓練がなければ、私たちは阿Qのように、現実を言い換えて安心するだけの存在になってしまうかもしれません。

生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。和魂洋才が果たせなかった課題を、今あらためて引き受ける必要があるのではないかと思います。抽象度を上げる意識そのものが、主体を守るための静かな条件になるのだと感じています。

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2026年2月26日木曜日

阿Qと生成AI時代の主体

 

私が『阿Q正伝』を読んだ頃の中国は、プロレタリアート文化大革命の真っただ中でした。革命の名のもとに思想が統制され、精神の自由が揺らいでいた時代でした。

中国近代文学の父と呼ばれる魯迅は、若い頃、日本に留学し仙台で医学を学びました。当時の中国は清朝末期、列強の圧力と内政の混乱の中で衰弱していました。魯迅は医学によって同胞の身体を救おうと志します。しかし日露戦争中、授業で見せられた一枚の幻灯写真が彼の進路を変えたといわれています。処刑される中国人と、それを無関心に見つめる同胞の姿。彼はそこで、肉体よりも精神のほうが深く病んでいるのではないかと感じました。身体を治すだけでは足りない。精神を覚醒させなければならない。そう考え、文学の道へ進みます。

その代表作が『阿Q正伝』(1921年)です。主人公の阿Qは、侮辱され、袋叩きにあいながらも「精神的勝利法」によって自尊心を守ります。殴られても「これは息子に打たれたのだ」と言い換え、自分は敗北していないと思い込むのです。現実を直視せず、言葉によって現実を逆転させる。魯迅が描いたのは、特定の人物ではなく、敗北を引き受けられない精神の構造でした。明治の文明開化で、いつのまにか和魂洋才を忘れてしまった日本を見て気づいたのかもしれません。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介もまた、別のかたちで精神の危機を見つめていました。芥川は中国のような国家的停滞ではなく、むしろ近代化を急速に成し遂げた社会の内部で、不安と神経の過敏さを抱え込みます。彼が遺書に記した「ぼんやりした不安」という言葉は、個人の内面に沈殿する近代の影を象徴しているように思えます。魯迅が群衆の麻痺を見たとすれば、芥川は暴走した知性の脆さを見たのかもしれません。

では現代の私たちはどうでしょうか。

生成AIの普及により、要約や文章作成、構想整理までが容易に外部化できるようになりました。技術の進歩そのものは歓迎すべきものです。しかし同時に、私たちはどこまで自分の思考を引き受けているでしょうか。AIの出力を読み、理解した気になり、考えた気になる。そのとき、主体そのものはどの程度立ち上がっているのでしょうか。

阿Qの「精神的勝利法」は敗北の合理化でした。現代においては、思考の外部化が「安心」の装置となり、別の形の合理化を生んでいる可能性もあります。魯迅と芥川がそれぞれの時代に見つめた精神の危機は、形を変えながら続いているのではないでしょうか。生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。その問いは、いま改めて静かに自らへ向けられるべきもののように思えます。

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2026年2月25日水曜日

AIをめぐる議論の高度について

 
世界を自分の理解可能な形式(カタカナ)に翻訳する


ある有名な実務家の方が、AIに関する動画で非常に明快な整理をされていました。技術の原理を構造的に捉え、それをどのように経営や業務に実装していくかを論じる内容です。AIを道具としてどう使いこなすか、その際に何が本質で何が誤解なのかを丁寧に解きほぐしておられました。実務の最前線に立つ方ならではの視点であり、多くの示唆を含んでいると感じました。

その議論は、「AIをどう扱うか」という高度にあります。つまり、AIを使う主体がどう理解し、どう設計し、どう活用するかという問題です。企業や組織がAIを導入し、生産性を高め、競争力を維持する。そのために必要な知識や視座を提示することは、きわめて重要です。

しかし、動画を拝見しながら、私は自分の関心が少し別の場所にあることを改めて自覚しました。

私が気になっているのは、「AIに囲まれた社会で、人間はどう変わるのか」という高度です。技術の有効性や利便性ではなく、それが私たちの思考様式や精神のあり方をどのように変質させるのか、という問いです。

生成AIが高度な文章を即座に生み出し、問いに答え、思考を構造化してくれるようになると、人間はどこまで自分で考え続けるのでしょうか。とりわけ日本社会において、もともと標準化や同調の傾向が強い中で、思考までもが外部化されていくことに、私は一抹の不安を覚えます。

優秀な若者が、自ら問いを立て、迷い、逡巡し、思索する時間を失ってしまわないか。便利で整った答えが常に与えられる環境は、知らぬ間に精神の筋力を弱めてはいないか。そうした懸念は、単なる保守的感情ではなく、社会の質に関わる問題のように思えます。

生成AIの時代は、いまなお過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、そのどちらかを選ぶことではなく、自分の内に生じている「ぼんやりとした不安」を自覚し、それを思考の対象にすることではないでしょうか。

「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残したのは、芥川龍之介です。この言葉は、近代人の繊細な内面を象徴するものとして語られることが多いものです。しかし私は、それを単なる絶望の言葉ではなく、時代の変化を敏感に感じ取る感受性の表れとして読み直したいと思います。

芥川龍之介は、近代文明を身にまといながらも、それを精神の深部まで消化できない日本の姿に、かすかな不安を抱いていたのではないでしょうか。文明は輸入できる。しかし文化や精神は、それほど容易に更新されない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に凝縮されているように思えます。

芥川は、文明開化後の日本を生きながら、その近代が精神の深部まで統合されていないことに違和を抱いていたのではないでしょうか。西洋の文明は取り入れられても、それを支える文化や精神の強度は容易には変わらない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に結晶しているように思えます。

不安を感じるということは、何か大切なものが揺らいでいると直感している証でもあります。問題は、その不安を放置するか、それとも思索へと昇華させるかです。

AIをめぐる議論は、活用法や制度設計、競争力といった実務的課題に集中しがちです。それは当然重要です。しかしその一方で、私たちがどのような精神の状態でこの技術と向き合うのかという問いが、後景に退いてはいないでしょうか。

実務の高度と、文明の高度。
使いこなす能力の問題と、使われる側の精神の問題。


この二つは対立するものではありませんが、階層は異なります。AIを扱う能力を高めることと、AI時代における人間の精神の強度を保つことは、別の努力を要します。

AIの進歩を止めることはできません。であるならば、せめて私たちは、不安を感じ取る感受性を失わず、その不安を言語化し、思考し続ける責任を持つべきではないでしょうか。

技術の議論の上に、精神の議論を重ねること。
それこそが、AI時代を主体的に生きるための最低限の態度なのだ
と、私は考えています。

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2026年2月24日火曜日

邂逅と謝念

 


昨日、1990年代後半から2000年代初めにかけて、ニューヨークで一緒に働いた仲間たちと再会しました。


当時の彼らは、皆とがっていました。若さゆえの自負もあったでしょうし、組織や常識への反発もあったのでしょう。それでも共通していたのは、能動的であること、自分の頭で考え、自分の責任で動くという姿勢だったと思います。

あれから25年以上が経ちました。

それぞれの道を歩み、立場も肩書きも変わった。紆余曲折もあったはずです。それでも昨日集まった彼らは、あの頃と変わらず主体的でした。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言う。年長者の私にも遠慮しない。その言葉には、年齢を重ねた分だけの深みと、失われていない軽やかさがありました。

本当に心地よい時間でした。

私は改めて「邂逅」という言葉を思い浮かべます。偶然のようでいて、実は人生をかたちづくる必然の出会い。あの時代に、あの場所で、彼らと共に働いたことは、私の運の一部だったのだと思うのです。

振り返れば、私はいつも周囲に支えられてきました。自主的で、責任感があり、能力の高い人たちが、自然体でそこにいた。私は特別でなくてもよかった。場を前に進めていたのは、周囲の力だったのです。

昨日の会話が、それを静かに証明していました。

人は一人で歩いているようでいて、実は出会いによって形づくられている。
邂逅とは、時間を越えて、自分の来し方を照らし返す光なのかもしれません。

「どう生きるか?」も大事ですが、そろそろ「なぜ生きるか?」を考える時です。「邂逅の謝念に生きる者は幸福である」といったのは亀井勝一郎でした(『人間の心得』1963年)。自分のこれまでを振り返ると改めて人生は邂逅と謝念だと思います。

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2026年2月23日月曜日

主体性の欠如という病――問題意識・危機意識・当事者意識について

 

1990年代に作成した図。30年経っても、課題は変わっていない


私はもうすぐ古希を迎えます。

大きな実績を残したわけでもなく、立派な経歴があるわけでもありません。
ただ、長く生きてきて一つだけ気になっていることがあります。それは、問題意識、危機意識、当事者意識が、私たちの社会から少しずつ薄れているのではないかということです。

問題意識がなければ危機意識は生まれません。
危機意識がなければ当事者意識は芽生えません。
そして当事者意識がなければ、主体性は育ちません。

私は、今の日本社会の最大の欠陥は主体性の弱さだと思っています。
言い換えれば、責任感の希薄さです。

当事者意識とは責任を引き受けること

当事者意識とは何でしょうか。
それは、自分が引き受けるという覚悟です。

自由は求める。しかし責任は負いたくない。
これは個人にも組織にも蔓延しています。
日本の会社組織では、責任の所在を曖昧にし、合議という名のもとに決断を先送りする構造が温存されています。誰も最終責任を取らない。

主体性や責任感は、誰かに教わるものではありません。
人材育成プログラムで身につくものでもない。
自分の選択を自分で引き受ける、その積み重ねの中からしか生まれません。

受動的すぎる人生態度

なぜこうなっているのでしょうか。
私は、人生に対して受動的すぎるのだと思います。

選択を自分のものとして引き受けていない。
結果を自分の人生に結びつけていない。
行動と未来がつながっていない。

受動的な人生態度とは、
・誰かが決めてくれるのを待つ
・環境が変わるのを待つ
・正解を与えられるのを待つ

待っているかぎり、責任は発生しません。
だから楽です。しかし成長もありません。

私はどちらかというと努力が嫌いなほうです。しかし、自分の欠点や弱点はよく承知しているつもりでした。ずるいかもしれませんが、努力する代わりに、弱点を強みでカバーするような積極的な行動をとってきました。完璧ではありませんが、自分の選択だけは自分で引き受けるようにしてきました。

努力の量よりも、引き受ける覚悟のほうが重要だと思っています。

視野が狭いと意識は生まれない

問題意識がないのに危機意識は生まれません。
危機意識がないのに当事者意識を持てと言っても無理です。

視野が狭い。
視点がぼやけている。
視座が低い。

蛸壺状態です。

視野を広げ、多くの視点を持ち、高い視座から物事を見る。そして自己を客観視する。この習慣がなければ問題意識は芽生えません。

教育も同じです。本物を体験し、自分の価値基準を形成することが重要です。しかし今の社会は、正解を効率よく与えることばかりに力を注いでいます。これでは主体性は育ちません。

国家レベルの思考停止

この構造は国家レベルでも同じです。
議論は必要だと言いながら、本気で向き合わない。
決断を避け、既得権益を守り、先送りする。

私は長い間、日本人は自己欺瞞しているのだと思っていました。
しかし最近は、自己欺瞞ですらなく、本心から現実を理解していないのではないかと感じています。

問題意識が弱いから危機意識に至らない。
危機意識がないから当事者意識も生まれない。

これは構造的な思考停止です。

AI時代はそれを加速させる

そして今、生成AIが急速に普及しています。

AIは強力な道具です。しかし主体性のない人間が使えば、思考停止を加速させる装置になります。

問いを立てない。
考えない。
判断しない。
答えだけを受け取る。

これでは受動的な人生態度が完成します。

AIに任せることと、AIに委ねることは違います。
前者は拡張です。後者は放棄です。

主体性の弱い社会では、この境界が簡単に崩れます。

自由と責任はセットである

問題意識を持つことは不快です。
危機意識を持つことは不安です。
当事者意識を持つことは重い。

しかしそれを避け続ければ、主体性は失われます。

自由を語るなら、責任を引き受ける覚悟はあるのか。

AIを使うなら、最終判断は自分で下しているのか。
選択を、自分の人生として引き受けているのか。

問題意識、危機意識、当事者意識。
この三つが戻らなければ、主体性は回復しません。

便利な時代です。
だからこそ、覚悟が必要なのだと思います。

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2026年2月22日日曜日

Be Mentally Strong ―― 生成AIという「得体の知れない変化」の中で

まだ守られているが、未来はぼやけている

私たちは、まだ守られている空間の中にいます。しかし、その向こうに広がる未来は、はっきりとは見えていません。

十五、六年前に私は「Be Mentally Strong !」という文章を書きました。世界は平等ではない、という当たり前の現実から話を始めました。程度の差こそあれ、どの国に行っても社会は不平等です。私の体感では、日本は比較的格差の少ない社会ですが、それでも平等な楽園ではありません。能力も、環境も、運も、人それぞれ違います。

それにもかかわらず、「すべてを等しくせよ」という発想が強くなると、どこか息苦しさを覚えます。私は男女が同一であるとは思いません。北一輝が言った「断じて同一の者に非ざる本質的差異」という言葉は、過激な思想家のものではありますが、本質を突いている部分もあると感じます。違いがあるからこそ、補い合い、折り合いをつけていく。その営みこそが社会なのではないでしょうか。

教育についても同じです。世の中は思い通りにいかないことのほうが多い。その前提に立ち、子どもたちに試行錯誤をさせ、くじけない精神力――自尊心を育てることが大切だと書きました。立川談志師匠の「努力はバカに与えた夢だ」という逆説的な言葉を引きながらも、実際の談志師匠は人一倍努力家だったことにも触れました。天賦の才があったとしても、努力を重ねなければ何も生まれない。人は平等ではない。しかし、だからこそ精神的に強くあれ、と。

その思いを決定づけた一つの出来事があります。1998年、ワールドシリーズ制覇直後のジョー・トーレ監督を招いた講演会でした。彼はニューヨーク・ヤンキースを率い、「New York, mentally tough city, mentally tough people」と語りました。ニューヨークは精神的にタフな街であり、そこに住む人々もタフだ、と。NYという特殊な街でレギュラーの座を守るには、技術だけでは足りない。何よりもmentally tough(プレッシャーに負けるな、歯を食いしばれ)であることが前提だというのです。

当時の私は、日本はサファリパークのようなものだ、と感じていました。ある程度守られ、餌も用意されている。しかしこれからはジャングルになる。会社が突然潰れるかもしれない。朝出社したら解雇を告げられるかもしれない。給料が止まるかもしれない。そうした不条理の中でも平常心を保てるかどうか。それがmentally toughだと書きました。

そして今、私はもう一つの「得体の知れない変化」に直面しています。生成AIの爆発的な普及です。かつては専門家だけが扱っていた技術が、誰もがボタン一つで文章を書き、画像を作り、分析を行う時代になりました。便利であることは間違いありません。私自身もその力を実感しています。

しかし同時に、どこか底知れぬものを感じるのです。自分で考え、迷い、言葉を紡ぐ過程を、簡単に外部へ委ねてしまう危うさです。かつて私は「世界は平等ではない」と書きましたが、生成AIは一見すると「能力の平準化」をもたらします。誰でもそれなりの文章を書ける。誰でもそれなりの答えを出せる。けれども、それは本当に力を得たことになるのでしょうか。

もし思考のプロセスを手放してしまえば、人は内側から弱くなります。困難に直面したとき、自分の頭で問いを立て、仮説をつくり、試行錯誤する力がなければ、AIが使えない状況になった瞬間に立ち尽くしてしまうでしょう。ジャングルで生きる術とは、道具を持つことではなく、道具がなくても立っていられる精神のことです。

生成AIは強力な道具です。しかし、道具に使われるか、道具を使いこなすかは、人間の側の問題です。便利さに身を委ねきってしまうのは、ある種の「全体主義」にも似ています。皆が同じ答えを出し、同じ表現をし、同じ速度で反応する世界。それは平等に見えて、実は思考の多様性を失った世界かもしれません。

だからこそ、私は改めて「Be Mentally Strong」(折れない心を持とう、賢く強く生きよう)と言いたいのです。世界は平等ではない。変化もまた平等には訪れません。生成AIという波に飲み込まれるのではなく、その波の中で自分の足で立つ。自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の責任で判断する。そのうえでAIを使う。

大学生のみなさんに、かつて「一流大学、一流企業を目指しなさいという甘言に乗るな」と書きました。いまならこう付け加えます。「AIがあるから大丈夫」という甘い考えを持つな、と。

サファリパークは、もう以前の姿ではありません。私たちが安全だと思っていたサファリパークのフェンスは、もう万全ではありません。ところどころに穴が空き、餌の供給も不安定になっています。 その中で生き残る条件は、昔も今も変わりません。mentally toughであること。得体の知れない変化の中でも、静かに、しかし確かに、自分を保ち続ける力。それこそが、これからの時代に最も求められる資質ではないでしょうか

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