2026年2月18日水曜日

生成AIは子どもの社交性を伸ばせるか?――信頼を育てる新しい学び方

 

このスライドは、コミュニケーションのレベルに応じて信頼の度合いが変化することを示したものです。縦軸が「信頼度」、横軸が「協力関係」を表しています。コミュニケーションが防御的な段階では、相互作用は「1+1=0.5」にもなりかねません。つまり、互いに力を削ぎ合い、足を引っ張り合う状態です。そこから、相手に敬意を表す段階に進むと「1+1=1.5」になります。最低限の協力が生まれます。そして、相乗効果を生むレベルに到達すると「1+1=3」にもなるのです。信頼が高まり、心理的安全性が確保されると、人間は想像以上の力を発揮します。

しかし現実には、多くの組織や個人が「敬意」のラインを越えられず、防御的コミュニケーションに留まっているのではないでしょうか。コミュニケーションは単なる情報交換ではありません。関係性を設計する行為です。信頼を生み出すのも、壊すのも、日々の言葉の積み重ねなのです。

ところが、現代の日本社会を見渡すと、コミュニケーションの土台そのものが弱体化しているように感じます。本を読まないために語彙や概念が蓄積されない。読解力が低下する。 思想がないから文章を書かない。こうした状況では、深い対話が成立するはずがありません。

コミュニケーションの基本は「明瞭さ(CLARITY)」です。自分は何を考え、どう感じ、何を望んでいるのか。それを言語化する力がなければ、信頼は生まれません。ところが日本社会では、意思をはっきり伝えることが直截的で好まれない傾向があります。「曖昧さ」が美徳とされる文化です。そのため、外国語でのコミュニケーションはなおさら困難になります。低文脈文化の社会では、言葉にしないことは存在しないのと同じです。察してもらうことは前提ではありません。

書くことの難しさも同様です。アメリカのオンラインショッピングは、トラブルも多いですが、彼らは粘り強くクレームレターを書きます。しかも状況に応じて文面の強度を変える。実に戦略的です。私は英語でも中国語でも、十分に説得力のある文章を書くことができませんでした。これは単なる語学力の問題ではありません。日頃から自分の頭の中で考えていないと、どの言語でも良い文章は書けないのです。そして、文章が書けないということは、実は思考が鍛えられていないということでもあります。

アメリカでは幼少期からSHOW&TELLで鍛えられます。人前で話すこと、意見を述べること、アイ・コンタクトを取ることが日常です。彼らは自分の考えを表明することに躊躇がありません。これは性格の問題ではなく、訓練の成果です。一方、日本では沈黙が思慮深さと受け取られることがあります。しかし異文化の場では、沈黙は無関心や拒絶と誤解されかねません。

ここに、日本人の社交性の課題があります。社交性とは饒舌さではありません。自分を適切に開示し(これが重要!)、相手に関心を示し、関係性を築こうとする姿勢です。しかし私たちは「間違えてはいけない」「完璧でなければならない」という心理的ブレーキを強くかけてしまいます。その結果、発言を控え、存在感を消してしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

ここで登場するのが生成AIです。このスライドを作成した当時(1990年代)には想像もしなかった存在ですが、生成AIは日本人の社交性向上に大きく貢献できる可能性があります。

第一に、失敗が許される練習環境を提供してくれます。恥をかくことなく、何度でも会話を試せる。気難しい取引先役を設定し、ロールプレイをすることもできます。即座にフィードバックも得られます。

第二に、「型」を提供してくれます。雑談はセンスではなく技術です。どのように話を広げるか、どう自己開示するか、どのタイミングで共感を示すか。生成AIはそのパターンを示してくれます。

第三に、思考の整理を助けます。自分の意見を文章にまとめ、それを添削してもらう。結論と理由を明確にする訓練を重ねることで、明瞭さが身につきます。これは信頼の基盤です。

重要なのは、AIに委ねるのではなく、AIを用いて鍛えることです。AIは代替ではなく拡張です。人間の主体性を補助する「補助線」のような存在として使うならば、コミュニケーションの質は確実に向上します

信頼関係は鶏と卵の関係です(chicken and egg paradox)。良いコミュニケーションが信頼を生み、信頼がさらに良いコミュニケーションを生みます。生成AIは、その好循環の第一歩を踏み出すための安全な訓練場になり得ます。

1+1を3にするか、0.5にするかは、結局のところ私たちの姿勢次第です。明瞭に語り、誠実に聴き、勇気をもって自己開示する。その積み重ねの先に、真の協力関係が生まれるのだと思います。

その力を、私たちは子どもたちにどう手渡すのか。それが、生成AI時代の教育の核心なのだと思います。

***

2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

***

2026年2月16日月曜日

教育と主体性 ― 制度を変えても、空気は変わらない

 

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2026年2月14日

立ちすくむ日本を動かす教育とは何か―AI時代に求められる「問い」と言語の力

日本不在のアジア最前線─教育と低リテラシーが招く空洞化 第4回

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40220


私は長年、新聞を読まないと言い続けてきました。ビジネス誌の類も、読まなくなって20年以上が経ちます。とはいえ、完全に情報を遮断しているわけではありません。オンラインで見出しだけは確認し、気になるものがあれば中身を読む。最近は有料記事が増え、YouTubeも広告だらけで、結局テレビと変わらなくなってきました。そんな中、たまたま目に留まり、しかも無料で読めた記事がありました。自分の備忘録の意味も込めて、ここに考えを整理しておきます。

この記事の主張はもっともだと思っています。日本の教育が「正解を早く出す能力」に偏り、「問いを立てる力」を十分に育ててこなかったという指摘には強く共感します。社会が複雑化し、不確実性が増している時代に、与えられた選択肢の中から無難な答えを選ぶだけでは足りない。自分で問いを立て、状況を読み解き、責任を引き受ける力が必要だという認識は、私の問題意識とも重なります。

日本の教育は自己形成の順番を誤っているのではないか。本来、十代半ばは自我を鍛え、自分の信条を模索する時期のはずです。しかし現実には、受験という枠組みの中で「外から与えられた正解」に適応する力ばかりが評価される。その結果、問いを持たないまま大人になる人が増えているのではないか。記事が言う「社会を動かす力としてのリテラシー」の不足は、私が長く感じてきた違和感と確かに重なっています。

ただし、もう一段深いところに不安を抱いています。記事は教育制度の再設計に希望を託しています。しかし制度だけで社会は変わらないのではないか。日本社会には、問題が起きると「制度が悪い」と言い、制度を変えれば解決すると期待する傾向がある。しかし主体性とは、本来制度の外側でも発揮されるものです。制度が整っても、空気が同調を求め、摩擦を避ける文化が残るなら、主体性は十分には育ちません。私は、教育制度以上に、その「空気」のほうが根深い問題ではないかと感じています。

さらに私は、生成AIの存在を重く見ています。生成AIは思考を助ける道具になり得ますが、同時に思考を外部化する装置にもなります。問いを立てる前にAIに聞き、判断に迷えばAIに委ねる。そうした使い方が広がれば、主体性はさらに弱まるでしょう。私は「AIに任せること」と「AIに委ねること」は違うと考えています。前者は能力の拡張ですが、後者は判断の放棄に近い。

記事に同意するのは、教育と主体性が日本社会の鍵だという点でが、距離を置くのは、制度改革に過度な期待を寄せる点です。私は、教育改革だけでは足りず、社会の空気そのもの、そしてAIとの向き合い方まで含めて考えなければならないと思っています。

制度を整えることに反対しているわけではありません。しかし最終的に社会を成熟させるのは、一人ひとりがどこまで自分の問いを持ち、自分の判断を引き受けるかです。教育はその土台になりますが、それだけでは完結しない。

AI時代だからこそ、私が重く受け止めているのは、「主体性をどう守るか」ではなく、「教育の中で主体性をどう醸成するか」という問いです。制度設計の巧拙以上に、子どもたちが自ら問いを立て、言葉を尽くし、判断を引き受ける経験をどれだけ積めるか。その積み重ねこそが、社会の空気を少しずつ変えていくのだと、私は思っています。

***

2026年2月15日日曜日

考えているつもり、になっていないか ――生成AIと、新しい「閉ざされた言語空間」

 


江藤淳からAI時代へ

小林秀雄は、かつては教科書にも載っていましたから、名前だけは知っている学生さんもいるでしょう。しかし、江藤淳となるとどうでしょうか。おそらく、ほとんどの若い人は知らないのではないかと思います。私は、江藤淳の二冊――『閉ざされた言語空間』と『忘れたことと忘れさせられたこと』――は、ぜひ若い世代に読んでほしいと願っています。

二十年ほど前、私は鎌倉にある江藤淳の家を訪ねたことがあります。もちろん中に入ったわけではなく、外から眺めただけです。通りに面した場所に浴室があり、江藤はそこで自ら命を絶ちました。その事実を思うと、のちに多摩川で自死した西部邁のことも重なります。思想家が最後に沈黙を選ぶとはどういうことなのか。その問いは、いまも私の中で消えていません。

しかし正直に言えば、私の問題意識は江藤の著作から始まったのではありませんでした。

もっと前、高校生のころにさかのぼります。ボブ・ディランの『I Shall Be Released』に出てくる “I was framed” という一節を聴いたときのことです。当時の私は、政治も占領史も知りませんでした。江藤淳の名さえ知らなかったでしょう。それでも、どういうわけかその言葉を自分と重ねてしまい、説明もできないまま共感し、大阪ミナミの街を彷徨していたのです。

framed とは、無実の罪を着せられた、という意味にとどまりません。他人の構図の中に配置され、あらかじめ決められた物語の中に組み込まれている、という感覚です。高校生だった私は、理屈ではなく、直観としてその感覚を抱いたのだと思います。

直観が先にありました。
思想は、あとから追いついてきました。
しかも、何十年もかけて、少しずつ、少しずつ。

その思想の一つが、江藤淳でした。

『閉ざされた言語空間』で江藤が論じたのは、占領期における検閲の問題でした。しかし彼が本当に問題にしたのは、検閲という制度そのものよりも、「言語の枠組み」が外部から与えられたことでした。

人は、与えられた言葉の中でしか考えられません。発言が制限される以前に、思考の前提が規定される。戦後日本は、自分の言葉で敗戦を語る前に、占領側が用意した枠組みの中で語ることを余儀なくされた。民主主義、平和国家、戦争責任。どれも重要な概念です。しかし、何をどの順番で、どの前提から語るのかは、すでに決められていた。

江藤の言う「閉ざされた」とは、沈黙させられたというよりも、枠を与えられたということでした

「ごっこの世界」という感覚です。思考しているつもりで、実は与えられた舞台装置の上で演じているだけではないか。電車ごっこや戦争ごっこと同じように、「考えごっこ」をしているだけではないか。政治も政治ごっこですね。
外交なども、時にそのように見えます。

高校生のころに感じた framed の感覚は、ここでようやく言葉を得ました。私はすでに枠の中にいたのではないか。その疑問は、江藤の議論によって輪郭を持ち始めたのです。

もう一冊の『忘れたことと忘れさせられたこと』は、記憶を扱います。日本人が自ら忘れたものと、外から忘れさせられたもの。その区別を通じて、戦後精神の変質を描きました。こちらは、「思い出せない」という感覚につながります。心を虚しくして思い出すという営みそのものが衰えているのではないか、という問いです。

言語と記憶。

この二つが外部化されるとき、人間の内部には何が残るのでしょうか。

いま、生成AIが広がる時代に、私は再び同じ問いの前に立っています。AIは検閲をしません。むしろ自由に、整った答えを返します。しかし、その整い方そのものが一つの枠ではないでしょうか。平均的で妥当で、どこにも引っかからない言葉。それを読んで「なるほど」と思うとき、私たちは本当に考えたのでしょうか。それとも、整えられた言語空間に収まっただけなのでしょうか。

さらにAIは、私たちの代わりに記憶を保持します。検索すれば何でも出てくる。要約もしてくれる。その結果、「思い出す」という内的営みが衰える危険はないでしょうか。

小林秀雄は、無常が分からないのは常なるものを失ったからだと言いました。常なるものがあってこそ、移ろいの意味が分かる。

江藤淳は、その常なるものを支える言語空間が壊れたと見ました。

私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。

しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。

AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。

私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。

思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。

あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。

江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。

***

2026年2月14日土曜日

AI時代の『無常という事』

 

高校生の頃、私は小林秀雄の『無常という事』を読みました。しかし正直に言えば、何を書いているのか、よく分かりませんでした。「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい」という一文の重さも、「常なるものを見失ったからである」という断定の意味も、頭では追えても、身には入っていなかったのです。

同じことは、松尾芭蕉のいう「不易流行」にも言えます。当時の私には、「不易」と「流行」の両立など、単なる文学上の技巧にしか見えませんでした。しかし人生の終盤に差しかかった今、ようやく少しだけ、その意味が分かるような気がしています。

不易とは、変わらぬもの。流行とは、移ろいゆくもの。無常を見つめるとは、単に変化を嘆くことではなく、移ろいのただ中でなお変わらぬものを見出す営みなのだと思います。小林が言う「常なるもの」とは、単に教義ではなく、人間存在の芯のようなものではないでしょうか。

生成AIが日常の道具となった今、世界はますます流行の側へ傾いています。情報は瞬時に生成され、文章は一瞬で整い、記憶は外部に保存されます。私たちはかつてない速度で「答え」に到達できるようになりました。思考の生産性は確かに上がります。私自身も、それを否定する気はありません。

しかし、私はこの便利さが人間を強くしているとは、どうしても思えません。

私たちは、考えているのでしょうか。それとも、考えた「ような形」を受け取っているだけなのでしょうか。

敗戦後80年の日本は、どこか「ごっこ」の世界に見えます(江藤淳『閉ざされた言語空間』)。制度は整い、言葉は並びます。しかし、それが本気の思索や責任を伴っているのかと問われれば、私は首をかしげざるを得ません。

小林秀雄は、多くの歴史家が一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているからだと言いました。心を虚しくして思い出すことができない、と。これは、単なる知識偏重への批判ではありません。情報が多いことと、深く思い出すことは違う、という指摘です。聞くよりも聴く。見るよりも観る。量ではなく、深さの問題なのです。

AIは、まさに記憶の外部装置です。私たちの代わりに蓄積し、整理し、提示してくれます。それ自体は悪いことではありません。しかし、自分の内部で熟成させる時間、自分の問いとして抱え込む苦しさを飛ばしてしまえば、私たちは「人間になりつつある一種の動物」に逆戻りしてしまうのかもしれません。


AIに任せることと、AIに委ねることは違います。前者は拡張です。後者は放棄です。

道具として用いる限り、それは流行の側の力として私たちを助けます。しかし、自分で問いを立てることをやめ、判断を預け、思索を外注するならば、私たちは不易の側を失います。

無常とは、移ろいそのものではありません。移ろいの中で、なお変わらぬものを探す営みです。敗戦も、経済の盛衰も、技術革新も、すべて流行の側に属します。そのなかで、なお人間とは何か、教育とは何か、責任とは何かを問い続ける姿勢こそが不易なのだと思います。

高校生の頃には理解できなかった小林秀雄や松尾芭蕉が、人生の終盤に差しかかってようやく少し分かる気がするのは、おそらく私自身がいくらか無常を経験してきたからでしょう。失敗や別れや衰えを通して、変わらぬものの輪郭がかすかに見えてきたのだと思います。

AI時代において無常を語るとは、技術を拒むことではありません。むしろ逆です。流行の最先端に身を置きながら、不易を失わないこと。その緊張の中で生きることです。

生成AIは、私たちの思考を速くします。しかし、深くするかどうかは、私たち次第です。心を虚しくし、問いを抱え、時間をかけて思い出す。その営みを手放さない限り、AIは敵ではありません。

「AI時代の無常という事」とは、流行の奔流の中で、なお不易を探す決意のことなのかもしれません。私はそう考えています。

***

2026年2月13日金曜日

AIに思考を委ねるな ――『猿の惑星』が問う、知性の条件

 
思考の現場

AI時代に、あえて“読む”という行為を。


「ピエール・ブールの『猿の惑星』(1963年)を読んでみたらいいよ。AIの話に似ているから」。

先日、ナッシュビルに住む息子とAIに関してチャットをしていたときのことです。人間が考えなくなったらどうなるか、思考を自動化してしまったら何が起きるか、その寓話だというのです。

私は1968年公開のチャールトン・ヘストン主演の映画『猿の惑星』は観ていました。しかし原作小説は読んでいませんでした。私の中で『猿の惑星』といえば、核戦争後の荒廃した地球というイメージが強く残っていたからです。

ところが、小説版は映画とは決定的に異なる構図を持っています。

映画では核戦争が文明崩壊の原因として描かれますが、小説では人類は「暴力で滅んだ」のではありません。猿に武力で征服されたのでもありません。人類は、便利さに依存し、思考を外部化し、知的努力をやめていった結果、自ら退化していくのです。支配の逆転は侵略によって起きたのではなく、主体の放棄によって起きた。この点が、小説の核心です。

ピエール・ブールの筆致はきわめて理知的で、風刺に満ちています。そこでは文明批評が中心に据えられ、知性とは何かが問われます。知性とは能力の高さなのか、それとも使い続ける姿勢なのか。猿たちは科学を研究し、議論を重ね、体系を築きます。一方で人間は、快適な生活に安住し、自ら考えることをやめていきます。文明を築いたはずの存在が、思考を手放した瞬間に、支配の座を失う。これは単なるSFの設定ではなく、文明そのものへの知的警告です。

この構図は、AI時代と不気味なほど重なります。生成AIは、文章を書き、要約し、翻訳し、分析し、構造化します。かつて人間が時間をかけて行ってきた知的労働を、瞬時に提示します。書かなくても文章が出る。考えなくても要約が出る。調べなくても答えが出る。構造化しなくても整理される。これほど便利な道具はありません。

しかし、ここで問われるのは技術の進歩そのものではありません。私たちは、考える主体であり続けられるのか、という問いです。AIに「任せる」ことと、「委ねる」ことは違います。任せるとは、自分で問いを立て、自分で考えたうえで補助として使うことです。方向を決めるのはあくまで自分であり、AIは拡張装置です。一方で、委ねるとは、問いを立てることも、判断することも、言語化することもAIに預け、自分は確認者に退いてしまうことです。そのとき、思考は徐々に外部化され、やがて衰えていきます。

『猿の惑星』における退化は、生物学的変異というより、知的怠惰の積み重ねです。能力を使わなければ衰える。それは筋肉と同じです。AIが賢くなること自体が問題なのではありません。問題は、人間が自分で考えなくなることです。もし私たちが、構想をAIに任せ、判断をAIに預け、思索の摩擦を避け続ければ、能力は静かに痩せていきます。

ここで、教育の問題が浮かび上がります。

AIを禁止するか、便利ツールとして消費するかという表層の議論ではなく、主体をどう育てるかという前提を共有できているのか。知性とはテストで測れる能力なのか、それとも問い続ける姿勢なのか。小説は、その根源的な問いを私たちに突きつけます。

AIは人類を猿にする存在ではありません。しかし、AIを使いながら思考を深める人間と、AIに思考を委ねる人間との差は、やがて文明の差になります。文明は爆発によって終わるのではありません。瓦礫の山の中で終焉を迎えるのではありません。思考をやめたときに、静かに終わるのです。

息子がナッシュビルから勧めてきた一冊は、単なるSFではなく、AI時代を生きる私たちへの警告でした。知性とは能力ではありません。それは、自分で考えることをやめないという態度です。その態度を手放したとき、文明は音もなく、その幕を下ろすのかもしれません。

***

2026年2月12日木曜日

子どもを“情報の受信機”にしないために ― 小林秀雄『スポーツ』とAI時代の教育

 
生成AIは、可能性を広げる。

だが――「好き嫌い」に責任を持つのは、誰か。
教育は、子どもを“情報の受信機”にしていないか。

衆議院選挙が終わり、与党の歴史的な大勝という結果が出ました。そして間を置かずに冬季オリンピックが始まりました。政治とスポーツという二つの大きな出来事が重なったとき、私は小林秀雄の1959年のエッセイ『スポーツ』を思い出しました。

小林はそこで、「リアリストとは、好きなものは文句なく好き、嫌いなものは文句なく嫌いだという信条のうえに知恵を築いている人だ」と書いています。これは一見単純な言葉ですが、実はきわめて重い意味を持っています。私たちはいつの間にか、「好き嫌い」を軽いもの、未熟なものとして扱い、「データ」や「世論」や「専門家の解説」によって判断することを賢さだと思い込んできたのではないでしょうか。

小林が問題にしたのは、まさにその点です。スポーツ観戦においても、観客は自分の目で見て「すごい」と震える前に、解説者の理屈で理解しようとします。新聞の評価や統計の裏付けがあって初めて安心する。そこでは、自分の身体が発する直観は後景に退きます。小林は、私たちがこの「好き嫌い」という心の動きの価値をひどく下落させてしまったと言いました。

今回の選挙結果を見て、私は日本がさらに「情報の受信機」になったのではないかと感じました。信条よりも議席、理念よりも安定。空気を読み、無難な選択をする。その姿は、主体的な判断というよりも、与えられた情報の中で最適解を探す態度に近いように見えます。

そして今、その延長線上に生成AIの時代があります。もし私たちが自分の「好き嫌い」を持たず、責任を負うことを避け、効率的で正しそうな答えを機械に委ねていくとしたらどうなるでしょうか。生成AIは膨大なデータから「次に来る確率の高い言葉」を選びます。そこにあるのは統計的な整合性であって、お腹の底から突き上げてくる「これが好きだ」という身体的な確信ではありません。

AIにとって、人間の「熱量」は計算不可能な偏差に過ぎません。理屈を無視して「これがいい」と言い切る瞬間は、統計的予測を裏切るノイズです。しかし実は、その予測不可能性こそが、人間にしか持ち得ない価値です。AIは巨大な鏡のようなものであり、人間が過去に残した熱の痕跡を映し出すことはできますが、自ら燃えることはできません。

もし人間が主観を捨て、「AIがこう言っているから正しい」と同調するだけになれば、新しい文化も思想も更新されなくなります。高度な模倣の堂々巡りが続くだけです。計算不可能な主観的熱量を持つことは、AIに対する人間側の最後の砦であり、責任の引き受けでもあります。

小林秀雄の言う「好き嫌い」は、単なる感情論ではありません。それは「自分の命に対する誠実さ」です。自分の心がどう動いたかを、誰のせいにもせず引き受けることです。客観的な正解に寄りかかれば、間違っても責任は分散されます。しかし、「私はこれが嫌いだ」と言い切るとき、その人は孤立するかもしれない代わりに、自らの判断に責任を負います。そこに主体が生まれます。

高齢者が経験豊富であることと、主体的であることは同じではありません。政治家もまた同じです。世論の風を読むだけでは、主体とは言えません。今の日本社会が、自分の好き嫌いを語らずに安定や多数派に寄り添うだけならば、私たちはやがて運命の判断すら機械に預けてしまうかもしれません。

スポーツの祭典を見ながら、理屈を超えて胸が熱くなる瞬間こそが、人間が生きている証だと改めて思います。その感覚を信じられる社会でなければ、政治も文化も痩せ細ります。

これからが日本の正念場でしょう。情報を受け取るだけの国でいるのか、それとも一人ひとりが「好き嫌い」という主観に責任を持つ国になるのか。小林秀雄の『スポーツ』は、半世紀以上前の文章でありながら、生成AI時代の私たちにこそ、鋭く問いかけているのです。

「私はこれが嫌いだ。理由は私だからだ」。

***