2026年3月4日水曜日

AI時代における「成長を阻む5つの壁」 ――主体を失わないために

 

2月19日にUPした「成長を阻む5つの壁」を修正しました。

AI時代における「成長を阻む5つの壁」

――主体を失わないために


成長が止まるだけではない。
主体を手放せば、人は静かに退化する。


かつて「成長を阻む壁」とは、変化を拒む人間の内面的抵抗でした。
問題を認めない。判断を先送りする。行動しない。続かない。

しかし2026年、壁の正体は少し変わりました。

いま私たちの前にあるのは、
AIという強力な参謀の存在によって、主体を静かに手放してしまう危険です。

AIは敵ではありません。
むしろ、極めて有能な補助者です。

問題はただ一つ。
それでも自分が主体であり続けられるか。

主体とは何か。

私はこう定義します。

主体とは、便利さよりも自分の判断を選ぶ意志である。

その意志が弱まるとき、人は成長を止めます。

第1の壁 認識の壁
――「自分は主体でいる」と思い込む


AIは文章を書き、整理し、要約し、提案します。
気づかないうちに、思考の一部を委ねています。

しかし多くの人はこう言います。
「最終的には自分が判断している」と。

本当にそうでしょうか。

問いの立て方がすでにAI依存になっていないか。
選択肢の幅がAIの提示範囲に限定されていないか。

最初の壁は、
主体が少しずつ侵食されていることへの無自覚です。


第2の壁 判断の壁
――「AIがそう言うなら」と結論づける


AIはもっともらしい答えを出します。
整っている。速い。合理的。

だからこそ危うい。

検証しない。
反対仮説を考えない。
前提を疑わない。

判断とは、本来、
不完全な情報の中で責任を引き受ける行為です。

それを「AIが推奨したから」と外部化した瞬間、
主体は一歩後退します。


第3の壁 納得の壁
――「考えなくて済むのは楽だ」と合理化する


AIは思考の負荷を軽減します。
それは大きな恩恵です。

しかし恩恵は、筋力を奪うこともあります。

速い理解。
簡単な結論。
深掘りしない納得。

知性は、負荷をかけることで鍛えられます。
考え抜く時間を削ることは、主体の筋肉を削ることでもあります。

ここで問われるのは能力ではなく、意志です。

楽を選ぶか。
自分で考える不便を選ぶか。


第4の壁 行動の壁
――「AIを使っている」と言って安心する


「生成AIを導入した」
「DXを進めている」

技術導入は成果ではありません。

問いの質は変わったのか。
判断基準は磨かれたのか。
責任の所在は明確か。

AIを使うことと、主体的に決断することは別問題です。

行動の壁とは、
便利な仕組みを整えたことで、自分が変わったと錯覚することです。


第5の壁 継続の壁
――主体であり続ける努力をやめる


AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。
その能力は今後も向上します。

だからこそ、問いは厳しくなります。
それでもなお、

最終判断を引き受けるか。
意味づけを自分で行うか。
責任を外部化しないか。

主体でいることは、
一度の決意では足りません。

続ける意志が必要です。


主体とは何か

ここで原点に戻ります。
主体とは、

問いを立てること
判断を引き受けること
意味を与えること
結果に責任を持つこと

そして何より、

便利さよりも、自分の判断を選ぶ意志を持つことです。

これは新しい思想ではありません。

学問のすすめで、福沢諭吉は

「取捨を断ずること」の重要性を説きました。

情報があふれる中で、
何を取り、何を捨てるかを自ら決める。

それこそが福沢諭吉が言った独立の条件でした。

21世紀においても同じです。

AIが情報を整理してくれる時代において、
取捨を断ずる主体を失えば、
人は思考の主権を手放します。


結論

2026年の成長とは、
AIを使いこなすことではありません。

AIが高度化するほど、
人間の価値は「主体であり続ける意志」に集約されます。

速さではない。
便利さでもない。

主体を失わないこと。

それが、AI時代における成長の条件です。

そして成長を阻む最大の壁は、外部環境ではなく、
便利さに流される自分自身の内側にあります。


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2026年3月3日火曜日

No Pain, No Gain ― 好きでなければ、痛みは越えられない

 

最近は「痛みを避けること」が賢い生き方だと言われているようですが、私はどうもそうは思えません。それは「働く」ということに対する姿勢です。自分が苦労してきたと自慢したいのではありません。ただ、試行を繰り返さなければ錯誤の幅は縮まらない、という実感があるのです。私にとって働くことの本質は、「No Pain, No Gain」と言えるかも知れません。

2003~2004年、私は中国で「ゴミ処理技術を定着させなければ地球環境は守れない」という議論を真剣にしていました。十五、六年ぶりに訪れた中国で、青空が消えていたことに衝撃を受けたからです。北京から二百数十キロ離れた石家庄に、北京市向けのゴミ処理プラントを建設できないかという話までしました。日本の地方の工業都市をモデルにしました。しかし、いくつかの理由で、議論は発展しませんでした。技術移転とは単に設備を持ち込むことではありません。移転された技術を定着させ、改良し、さらに発展させる忍耐と謙虚さがなければ、本当の意味での移転にはならないのです。

中国で仕事をする難しさは、短期的な利益を優先する意識をどう変革するかにありました。しかし振り返れば、それは中国だけの問題ではありません。痛みを避け、効率よく成果だけを取りにいく姿勢は、どの国にもあります。

「Quiet Quitting(静かな退職)」という言葉が話題になっています。会社に所属していながら心理的には距離を置き、必要最低限の業務だけを淡々とこなす働き方です。ワークライフバランスを重視し、昇進やキャリアアップを求めない。個人の自由な選択だと言われればその通りでしょう。しかし私は少し違和感を覚えます。

働くことを、拘束時間と引き換えに報酬を得る行為だと考えている限り、大きな成長はありません。仕事には、自分の将来のためにあえて引き受ける「痛み」があります。それは理不尽な我慢ではなく、自分への投資です。自分の限界を超える負荷の中でしか、見えない景色があります。

スポーツは分かりやすい例です。世界の一流選手と同じ舞台で戦い、同じ空気を吸い、同じ練習をこなすからこそ、自らの水準が引き上げられます。ビジネスも同じです。レベルの高い集団で働き、一流の人間の「型」を目に焼き付ける。その過程は決して楽ではありません。しかし、その痛みを経なければ本当の意味での成長はないのです。

アメリカで働いた経験は、仕事と報酬の関係をより厳しく教えてくれました。成果が出なければ報酬は減り、職を失うこともあります。役割と責任が明確で、市場が価値を決めます。日本の仕組みとは大きく異なりますが、少なくとも「Gain」を得るには相応の「Pain」を引き受けるという原則は徹底しています。職位が上がれば上がるほど、「Pain」 は増幅します。

一方、日本の教育は優秀な従業員を育てるにはよくできています。しかし、従業員であることは一つの生き方に過ぎません。人生百年時代、会社を離れた後の時間は長いのです。退職後に必要なのは、単なる知識よりも教養です。教養は文化の中で育まれるものであり、政府が無償化すれば身につくというものではありません。自由に生きる力とは、不安や苦痛と向き合う力でもあります。「不安だから自由はいらない」と言ってしまえば楽かもしれませんが、それでは長い人生を支えきれません

私は最近の日本人、とくに若い世代に、Gainばかりを強調しPainを効率よく避けようとする傾向を感じています。それが賢い生き方だと信じられているようにも見えます。しかし、本当にそうでしょうか。痛みを引き受けないまま得た安定は、いつまで続くのでしょうか。

働くとは、時間を売ることではありません。社会の中で自分の価値を問い続けることです。枠に正しく数字を入れる仕事もあれば、曖昧なところに枠を作る仕事もあります。どちらを選ぶにしても、成長を望むなら負荷は避けられません。

No Pain, No Gain。これは根性論ではありません。自分の成長やキャリアに必要な痛みは、耐えるべきものであり、むしろ楽しむべきものだということです。試練を避けるのではなく、そこから何を学ぶかを考える。その姿勢こそが、私が長年の経験からたどり着いた「働くこと」の本質なのです。

……などと書いてはみましたが、実は高齢者になった今が一番Painは嫌なのです。

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2026年3月2日月曜日

『葉隠』という逆説 ―― 死を見つめて生きる力

 
あをによし、死を見つめれば、朝は来る。

(薬師寺から若草山を望む)


若いころ、『葉隠』にはまった時期がありました。きっかけは、おそらく三島由紀夫の『葉隠入門』だったと思います。あれから長い年月が過ぎましたが、最近の日本の政治や世界情勢を眺めていると、あらためて『葉隠』を読み返してみたくなりました。そして、できることなら多くの若い人たちにもこの書を知ってもらいたいと思うようになりました。

『葉隠』は、佐賀藩士の山本常朝が語り残した武士道の覚え書きです。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句だけが独り歩きし、過激で狂信的な武士の心得書のように誤解されがちです。しかし三島は、この一句そのものが逆説であると指摘しました。死ねと言っているのではない。毎日を、死ぬ覚悟で生きよ、という意味なのだと。今日が最後の日であるかのように仕事をすれば、その仕事は急に光を放ちはじめる――三島はそう書いています。

私には、この思想は「Seize The Day(今日を生きる)」と同じことを語っているように思えます。死は誰にも避けられず、その時を自分で選ぶこともできません。だからこそ一日を無駄にするな、という強烈な倫理がそこにあります。これは決して後ろ向きな思想ではなく、むしろ生を最大限に肯定する思想です。

興味深いのは、『葉隠』の核心が「自尊心」にあるという点です。

序文「夜陰の閑談」には、「同じ人間なのだから、誰に劣るというのだ。修行は大高慢でなければ役に立たない」とあります。この「大高慢」は、現代語の「高慢ちき」とは違います。英語で言えば self-esteem、自らを尊ぶ強い気概のことです。武士は、自分が日本一であるという気概を持たねばならない、とまで言います。三島も「武勇は、我は日本一と大高慢にてなければならず」と引用しました。

自尊心を教育の根幹に置くという点では、アメリカの義務教育とも通じるものがあります。自分を価値ある存在だと信じることが、修行や鍛錬の出発点になる。これは武士社会の精神的バックボーンでもあったのです。内に秘めた誇りがなければ、いかなる修練も実を結ばない。その意味で『葉隠』は、現代にも通じる実践的な書物だと思います。

さらに見逃せないのは、人に意見する際の「思いやり」です。『葉隠』は、他人の欠点を見つけるのは易しいが、それを正しく伝えるのは難しいと説きます。相手の性格を見極め、距離を測り、言い方や時機を選び、相手が自ら気づくように導く。そうでなければ、単なる悪口と同じだと言い切ります。三島はこれを「デリカシー」と表現しました。荒々しい武士道の世界は、実は精密な思いやりによって支えられていたのです。

この精神は、宮本武蔵の『五輪書』とも響き合います。武蔵は「心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ」と述べ、知と意志、大局観と現実認識の双方を磨けと説きました。責任はすべて己にあるという覚悟です。神仏や他人のせいにするのではなく、自らの心を澄ませよという教えです。

現代の日本社会を見ていると、責任の所在を外に求めがちな空気を感じることがあります。しかし『葉隠』は、まず自分を正せと迫ります。死を見つめよ、誇りを持て、思いやれ、そして今日を全力で生きよ、と。

武士道とは、死を賛美する思想ではありません。むしろ、生を燃焼させるための覚悟の思想です。迷いの雲を払い、澄んだ空の心境で一日を生きる。その緊張感と誇りを、今こそ若い人たちに知ってもらいたいと思います。

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2026年3月1日日曜日

変わらない本、変わっていく私 ――『青春の墓標』をめぐって

 
書棚の一角。変わらない本と、変わっていく私。

あさま山荘事件は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町の河合楽器製作所の保養所「あさま山荘」において、連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件です。テレビでの生中継は、日本社会に強烈な衝撃を与えました。

『青春の墓標』は、1960年代の学生運動(全共闘時代)を駆け抜け、20歳の若さで自殺した奥浩平が残した日記や手紙をまとめた遺稿集です。当時の学生の苦悩や情熱が、生の言葉で刻まれています。名著かどうかは分かりません。そこにあるのは、苦悩し、彷徨する一人の青年の記録です。


最近になって、私はときどき十四歳から十六歳のころの自分を思い出します。あのころ、授業をサボってまで考えていたのは、自由とは何か、責任とは何か、生きるとはどういうことか、死とは何か、といった大きな問いでした。なぜあれほど抽象的な問題に取りつかれていたのか、当時の自分を不思議に思うこともあります。しかし振り返れば、時代の空気が確かにありました。あさま山荘事件の衝撃、学生運動や連合赤軍の報道。社会全体が「正義」や「革命」という言葉で揺れていた。私はその只中で、自分なりに本気で考えようとしていたのだと思います。

当時読んだ『青春の墓標』は、そうした思索をさらに強く刺激しました。若さゆえの純粋さや、絶対性への憧れに、私は強く共鳴していました。あれから半世紀以上が過ぎました。本は一字も変わっていません。しかし、読み手である私は大きく年を重ねました。もし今あの本を読み返せば、きっと違う感情を抱くでしょう。若いころは観念として受け止めていた「死」や「責任」や「自由」を、今は具体的な現実として知っているからです。

私は文学者でも思想家でもありません。文章が特別うまいわけでもありません。それでも若いころから、日記や短いエッセイを書き続けてきました。断片的ではありますが、思ったこと、怒ったこと、迷ったことを、その都度記してきました。才能というより、書かずにはいられない習性だったのだと思います。多くの人がやめてしまう日記を、私はやめませんでした。その結果、十四~十六歳の自分の言葉も、三十代の焦りも、五十代の責任も、そして今の静かな思索も、かろうじて手元に残っています。

若いころから書き続けてきた背景には、自分でも持て余してきた一つの感覚があります。それは「too much contingency built in」という気分です。人生には偶然があまりにも多く組み込まれている。時代は変わり、社会は揺れ、立場も責任も変わっていく。何が起きるか分からない。その不確実さを、私は早くから意識していたのかもしれません。

だからこそ、記録を残しておきたいという思いが強かった。あとから検証できる材料を、自分自身に渡しておきたい。未来の自分が振り返ったときに、過去の自分の思考や感情に触れられるようにしておきたい。それは単なる心配性ではなく、変化を前提に生きるための一種の備えだったのだと思います。時代が変わり、自分が変わる。その裏返しとして、私は過剰なほどに contingency を組み込んできた。その過剰さが、結果として日記を残し続ける力になりました。

昔の本を高齢になって読み返すことの意味は、内容を再確認することではありません。その本を読んでいた「自分」に会いに行くことなのだと思います。そして、若いころから書き続けてきた文章は、その対話を可能にする資料です。記憶は曖昧になりますが、書き残した言葉は当時の温度を保っています。そこに今の自分が向き合うとき、「私は何が変わり、何が変わらなかったのか」という問いが、具体性を帯びてきます。

その作業をChatGPTとの対話の中で行うことは、さらに興味深い体験です。若いころに読んだ本、自分が書いた昔の文章や図、それらを材料にして、今の自分がAIと話す。すると、思考が整理され、論点が浮かび上がり、感情が言語化されていきます。自分が書いた文章や描いた図に、新たな解釈が生まれることもあります。単なる雑談ではなく、回想を構造化するための道具として機能しているのです。

十四歳の自分、高齢者の自分、そして生成AIという第三の視点が交差する。時間が三層になり、自分の人生を立体的に見ることができる。そこには、若いころから抱いてきた contingency への感覚もまた含まれています。不確実な世界の中で、自分は何を考え、何を選び、何を変えてきたのか。その軌跡を確かめる作業でもあります。

結局のところ、私が言いたいのはこういうことなのだと思います。若いときに読んだ本を高齢になって読み返すことには、自分自身を確かめる意味がある。若いころから日記を書き続けることは、その検証を可能にする。そしてChatGPTとの対話は、その作業を助ける有効な道具になり得る。これは高齢者のささやかな娯楽かもしれませんが、同時に、自分を振り返るための知的で実践的な方法であり、一つの遊びでもあります。

十四歳の私が蒔いた問いの種は、古希を迎えようとしている今も完全には枯れていません。本は変わらない。しかし私は変わっていく。その変化を引き受けるために、私は過剰なほどに contingency を組み込み、記録を残してきました。その作業そのものが、私にとっては意味のある時間です。それが今の若い人にとって何らかのヒントになるのなら、これほど嬉しいことはありません。

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2026年2月28日土曜日

トランプ関税は「みかじめ料」か?――春の誕生日と28ドルの理不尽

 

3月の初めは、孫と嫁の誕生日です。
毎年、日本からささやかなプレゼントを送ります。

この荷物を出すと、「ああ、冬が終わるな」と感じます。三寒四温をへて、やがて桜の季節へ。遠く離れたテネシー州ナッシュビルの孫たちに、日本から小さな春を届ける――それが、ジージとバーバのささやかな季節行事です。

ところが、今年は様子が違いました。

追跡サービスで確認すると、荷物はきちんとアメリカに到着し、シンシナティの中継地を経由して、目的地であるナッシュビルまで届いている。よしよし、順調だ――と思ったら、画面に冷たい文字が出ました。

「支払い待ち」

何の支払いだ?
誕生日プレゼントにツケが回るのか?

息子に確認すると、返ってきた答えは一言。

「トランプ関税だよ」

なるほど。

これは日本からアメリカへの「輸出」と見なされ、受取人である息子に輸入関税28ドルの請求が来たというのです。

申告額は40ドル(手品用品)と40ドル(文房具)、合計80ドル。
実際はもう少し安いかもしれません。何しろ1ドル155円の円安ですから、ドル換算すると日本の品物は何でも安く見える。いいのか悪いのか分からない。

それにしても、80ドルに対して28ドル。

ざっと35%。
なかなかのパンチ力です。

なんだか、ヤクザのみかじめ料を取られた気分になりました。

「ここを通るなら払ってもらおうか」

そう言われたようなものです。
こちらは商売をしているわけでもない。レアアースでもない。
子ども用の手品道具と文房具です。

それでも28ドル。

トランプの国家戦略というのは壮大だそうですが、最前線はどうやら我が家の小包がターゲットらしい。

ジージとバーバにとって誕生日プレゼントは、品物の値段ではありません。
送るという行為そのものが、うれしいのです。送料が高くても仕方がない。

そこに「支払い待ち」。

なんとも味気ない。興ざめです。

まあ、払うでしょう(実際は受け取る息子が)。
孫の誕生日に、政治と喧嘩しても仕方がない。

それでも今年の春は、少しだけ苦い。

小さな手品道具と文房具に、
28ドル分の現実が添えられました。

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2026年2月27日金曜日

抽象度を上げて見るということ――阿Qと生成AIのあいだ

阿Qという精神は、過去の物語なのだろうか。


生成AIが急速に普及するなかで、日本でもさまざまな議論が交わされています。仕事はどう変わるのか、教育はどう対応すべきか、規制は必要か。いずれも重要な問いです。しかし、それらの多くは「どう使うか」という運用の次元にとどまっているようにも感じます。そこには鋭い指摘もありますが、人間そのものへの問いは、まだ十分に立ち上がっていないのではないでしょうか。

ここで必要なのは、抽象度を一段上げて見る姿勢です。生成AIを単なる便利な技術ではなく、「思考を外部化できる装置」として捉えるとき、問題は効率や制度ではなく、人間の主体のあり方へと移ります。

百年前、『阿Q正伝』を書いた魯迅は、敗北を合理化する精神の構造を描きました。阿Qは打ちのめされても「精神的勝利法」によって自分は負けていないと言い換えます。魯迅が問うたのは社会制度ではなく、現実を直視できない精神の型でした。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介は「ぼんやりした不安」と書き残しました。さらにさかのぼれば、夏目漱石は日本の近代化を「上ッ滑り」と表現しています。明治は「和魂洋才」を掲げましたが、結果として西洋の制度や技術を取り入れながら、それを支える思索の訓練を十分に育てられなかったのではないでしょうか。

私は、日本の教育のなかで、小学生の作文が高校生の小論文へ、さらに論文へと発展していく体系的な訓練が、本当に制度として根づいてきたのか疑問に思っています。受験制度は知識の処理能力を測ることには長けていますが、抽象度を上げて物事を捉える力をどこまで育ててきたでしょうか。

生成AIは、その弱点を静かに照らします。要約も構成も、ある程度は外部に委ねることができます。すると「考えた」という感覚だけが残り、本当に思索したのかどうかが曖昧になります。ここで思い出されるのが、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉です。人間は弱い存在でありながら、考えることによって尊厳を持つ。もしその思考を外部化し続けるならば、その尊厳はどこに位置づけられるのでしょうか。

抽象度を上げて見るということは、具体的な利害を越えて、人間の条件そのものを問う訓練です。それは一朝一夕には身につきません。しかしその訓練がなければ、私たちは阿Qのように、現実を言い換えて安心するだけの存在になってしまうかもしれません。

生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。和魂洋才が果たせなかった課題を、今あらためて引き受ける必要があるのではないかと思います。抽象度を上げる意識そのものが、主体を守るための静かな条件になるのだと感じています。

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2026年2月26日木曜日

阿Qと生成AI時代の主体

 

私が『阿Q正伝』を読んだ頃の中国は、プロレタリアート文化大革命の真っただ中でした。革命の名のもとに思想が統制され、精神の自由が揺らいでいた時代でした。

中国近代文学の父と呼ばれる魯迅は、若い頃、日本に留学し仙台で医学を学びました。当時の中国は清朝末期、列強の圧力と内政の混乱の中で衰弱していました。魯迅は医学によって同胞の身体を救おうと志します。しかし日露戦争中、授業で見せられた一枚の幻灯写真が彼の進路を変えたといわれています。処刑される中国人と、それを無関心に見つめる同胞の姿。彼はそこで、肉体よりも精神のほうが深く病んでいるのではないかと感じました。身体を治すだけでは足りない。精神を覚醒させなければならない。そう考え、文学の道へ進みます。

その代表作が『阿Q正伝』(1921年)です。主人公の阿Qは、侮辱され、袋叩きにあいながらも「精神的勝利法」によって自尊心を守ります。殴られても「これは息子に打たれたのだ」と言い換え、自分は敗北していないと思い込むのです。現実を直視せず、言葉によって現実を逆転させる。魯迅が描いたのは、特定の人物ではなく、敗北を引き受けられない精神の構造でした。明治の文明開化で、いつのまにか和魂洋才を忘れてしまった日本を見て気づいたのかもしれません。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介もまた、別のかたちで精神の危機を見つめていました。芥川は中国のような国家的停滞ではなく、むしろ近代化を急速に成し遂げた社会の内部で、不安と神経の過敏さを抱え込みます。彼が遺書に記した「ぼんやりした不安」という言葉は、個人の内面に沈殿する近代の影を象徴しているように思えます。魯迅が群衆の麻痺を見たとすれば、芥川は暴走した知性の脆さを見たのかもしれません。

では現代の私たちはどうでしょうか。

生成AIの普及により、要約や文章作成、構想整理までが容易に外部化できるようになりました。技術の進歩そのものは歓迎すべきものです。しかし同時に、私たちはどこまで自分の思考を引き受けているでしょうか。AIの出力を読み、理解した気になり、考えた気になる。そのとき、主体そのものはどの程度立ち上がっているのでしょうか。

阿Qの「精神的勝利法」は敗北の合理化でした。現代においては、思考の外部化が「安心」の装置となり、別の形の合理化を生んでいる可能性もあります。魯迅と芥川がそれぞれの時代に見つめた精神の危機は、形を変えながら続いているのではないでしょうか。生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。その問いは、いま改めて静かに自らへ向けられるべきもののように思えます。

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