2026年2月21日土曜日

芥川龍之介とAI ――「ぼんやりとした不安」という時代感覚

 
ぼんやりとした不安(誰もいない吉祥寺駅前)  

芥川龍之介が遺書「或旧友へ送る手記」に記した「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉は、日本近代文学史の中でも最もよく知られた一節の一つです。三十五歳で自ら命を絶つ直前、彼は不安の原因を具体的な一事件に帰すことなく、「ぼんやり」としか表現しませんでした。この曖昧さこそが、かえって読む者の胸を打ちます。そこには、個人的事情を超えた、時代の空気のようなものが漂っています。

もちろん、芥川の不安には具体的な背景がありました。家庭の経済的負担、心身の衰弱、実母の発病に由来する遺伝への恐怖、そして作家としての行き詰まりです。とりわけ大正末期は、関東大震災後の社会不安や思想的分裂が広がり、文学の潮流も変わりつつありました。芸術至上主義的な作風は、台頭するプロレタリア文学の熱気の中で居場所を失い始めていました。自らの立脚点が揺らぐ感覚――それは単なる私的苦悩ではなく、近代という足場そのものの不確かさに触れた知性の震えだったのではないでしょうか。

私はいま、日本における生成AIの急速な普及を見ながら、この「ぼんやりとした不安」を思い出しています。AIは、言葉を書き、絵を描き、音楽を作り、人間の知的営為の多くを模倣し、時には凌駕します。かつて人間だけの領域と信じられてきた創造の場が、静かに侵食されているように感じられます。その変化はあまりに速く、しかも全体像が見えません。便利さと効率の向上に歓喜する声がある一方で、「何かが変わってしまう」という感覚が、言葉にならないまま胸の奥に残ります。

芥川龍之介は、自らの知性を信じながら、その知性が自分を救わないことを悟っていました。合理的であろうとすればするほど、世界の亀裂が見えてしまいます。生成AIの時代においても同様です。論理やデータの集積が高度化するほど、人間の独自性とは何かという問いが鋭く突きつけられます。AIは過去の膨大な言語データを学習し、「芥川風」の文章さえ生成できます。では、人間が書く意味とは何でしょうか。独創とは何でしょうか。現実を言葉へと翻訳し続けた芥川が晩年に抱いていたであろう葛藤が、いまや社会全体の問題として浮上しています。

さらに言えば、この不安の本質は「輪郭が見えない」ことにあります。明確な敵や危機であれば、人は対処できます。しかし、生成AIがもたらす変化は、雇用の再編なのか、教育の変質なのか、思考力の衰退なのか、それとも新しい創造性の解放なのか、まだ定まっていません。だからこそ、不安は具体化せず、「ぼんやり」と広がります。芥川の時代が近代化の奔流に揺れていたように、私たちもまたデジタル化とアルゴリズムの奔流の中にいます。

もっとも、芥川の不安と現代の不安を単純に重ねることはできません。彼の苦悩は極めて個人的で、切実で、最終的には取り返しのつかない結末に至りました。しかし、その言葉が百年近くを経てもなお響くのは、時代の転換点に立つ知性が共有する感覚を言い当てているからではないでしょうか。不安とは、古い秩序が崩れ、新しい秩序がまだ姿を現さない「過渡期」に生じる震えなのだと思います。

生成AIの時代もまた、過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、その「ぼんやりとした不安」を自覚し、言語化し、思考の対象にすることではないでしょうか。不安を感じるということは、何か大切なものが揺らいでいると直感している証でもあります。芥川の言葉は、逃避ではなく、むしろ時代の変化を凝視するための出発点として読み直されるべきものだと感じています。

将来に対する「唯ぼんやりした不安」。それは、生成AIがもたらす得体の知れない変化を前にした私たちの心情とも重なります。しかし芥川の悲劇を繰り返さないためには、その不安を沈黙のままにせず、思索へと昇華させる必要があります。時代の震えを感じ取る感受性を保ちながら、なお主体的に選び取る意志を持てるかどうか。そこに、AI時代を生きる私たちの課題があるのではないでしょうか。

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2026年2月20日金曜日

思考なき加速 ―― 生成AI時代の構造転換

 

上のスライドは、私が1980年代前半から関わってきた情報システムの変遷を、一枚にまとめたものです。

MRPやRDBの時代から、ERP、インターネット、携帯電話、そしてクラウドへ。2007年のiPhone登場、2012年の第三次AIブーム、そして2023年以降の生成AIの爆発的普及。振り返れば、ITは常に変化してきました。しかし、今起きていることは、単なる技術の進歩とは質が違うように感じています。

2000年頃から、ITに関して学習すべきことは飛躍的に増えました。新しい言語、新しいフレームワーク、新しいクラウドサービス。エンジニアは常に何かを追いかけ続けなければならなくなりました。同時に、多くのテクノロジーはブラックボックス化していきました。かつては内部構造を理解しながら使っていたものが、いつの間にか「APIを呼び出せばよいもの」「クラウドに任せればよいもの」へと変わっていきました。

それでも、その時代にはまだ一つの前提がありました。それは「習得する」というプロセスです。三か月学び、半年試し、ようやく現場で使えるようになる。その積み重ねがエンジニアとしての自負を支えていました。スキルの賞味期限は短くなりましたが、「習得する」という行為そのものには意味がありました。

ところが、コロナ禍が終息する頃から状況は一変します。生成AIが爆発的に普及し、「習得」というプロセスを飛び越えて、いきなりアウトプットに到達できるようになりました。ある技術を知らなくても、AIに指示を出せば数秒でコードが生成される。エンジニアが必死に追いかけてきた「表層的なスキル」は、一瞬でコモディティ化しました。

ここに、何とも言いがたい違和感があります。これまでブラックボックス化してきた技術は、少なくとも仕様やインターフェースは明確でした。しかし生成AIは、「なぜその答えが出てくるのか」を完全には説明できない、真の意味でのブラックボックスです。私たちは論理ではなく、対話や直感によってシステムを動かし始めました。これはコンピュータ史においても、極めて異例の事態ではないでしょうか。

さらに大きな変化は、「エンジニアリング」から「オーケストレーション」への転換です。自ら楽器を演奏するようにコードを書く時代から、AIという演奏者にどう指揮を執るかという時代へ。スキルを追いかけるのではなく、AIを乗りこなす能力が問われるようになりました。従来のITスキルの延長線上では捉えきれない領域に入りつつあります。

ここで私が懸念するのは、日本のIT業界がこの変化を本質的に理解できるかどうかです。高齢者の傲慢な意見かも知れませんね。

私たちは長らく、特定の言語やツールの操作法を「スキル」と呼び、それを追いかけてきました。しかしそれが表層的であったことに、どれだけの人が気づいていたでしょうか。もしその自覚がなければ、今の「得体の知れない変化」に対する本当の危機感も生まれないのではないかと心配しています。

日本のIT現場には、アプリケーション(現場の業務)とテクノロジーの間に大きなギャップがあります。現場は具体的な課題を語り、技術者は最新技術を語る。しかし両者を一気通貫で俯瞰し、抽象度を上げて全体を設計する視点が不足しているように感じます。これは、教科ごとに分断された受験中心の教育の影響も大きいのではないでしょうか。境界線の中で正解を探す訓練はしてきましたが、境界線を跨ぐ梁を渡す訓練(知識のインテグレーション)はほとんどしてきませんでした。

生成AI時代において、人間に残るのは「How」ではなく、「Why」と「What」です。なぜ作るのか、何を作るのか。その問いを立て直す力こそが、本質的な能力になります。AIが表層を飲み込んだ今、抽象度の高い視野を持たなければ、AIに指示を出すことすら難しくなるでしょう。

ITはこの四十年で飛躍的に進歩しました。しかし、進歩の裏で失われたものはないでしょうか。最新技術を追いかけるあまり、基礎や構想力、全体を俯瞰する視野を軽視してこなかったでしょうか。今起きている地殻変動は、その問いを私たちに突きつけているように思えます。

この「得体の知れない変化」を単なる効率化として受け流すのか。それとも、自らの立ち位置を問い直す契機とするのか。日本のIT業界が本質に目を向けられるかどうかは、今まさに分岐点にあるのではないでしょうか。

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2026年2月19日木曜日

2026年版 AI時代の「成長を阻む5つの壁」

 

かつて「成長を阻む壁」といえば、組織改革や個人の自己変革を妨げる心理的な抵抗を指していました。しかし2026年の現在、その壁はより見えにくく、より深刻な形へと変化しています。私たちはいま、AIとの関係性の中で、新しい種類の壁に直面しているのです。

1.認識の壁

――「AIは便利な道具にすぎない」と思い込む


多くの人は、AIを単なる効率化ツールだと考えています。資料作成を助けるもの、検索を早くするもの、文章を整えてくれるもの。その理解自体は誤りではありません。

しかし実際には、AIはすでに判断の補助、意見形成の補助、文章生成、さらには問題設定そのものにまで入り込んでいます。私たちは気づかないうちに、思考の一部を外部へ委ね始めています。

問題は、その影響の深さを認識していないことです。
AI時代の最初の壁は、「自分の思考がどこまでAIに依存しているのか」に無自覚であることにあります。

2.判断の壁

――「AIが出した答えだから正しい」と受け入れる

かつての判断の壁は、「改革は不要だ」という現状維持の甘さでした。
しかし今の甘さは、「AIがそう言っているから正しいだろう」という無批判な受容です。

ソースを確認しない。
前提を検証しない。
反対仮説を考えない。

こうした姿勢が常態化すれば、批判的思考は確実に衰えます。AIは確率的にもっともらしい答えを提示しますが、それが真理である保証はありません。

判断の壁とは、思考の責任をAIに委ねてしまうことです。

3.納得の壁

――「考えなくて済むのは楽だ」と無意識に依存する

AIは確かに便利です。考える負荷を減らし、時間も節約してくれます。しかし、しかしそこには、静かな落とし穴があります。

苦労しない理解。
速すぎる結論。
思考プロセスの省略。

これらは知性の筋力を徐々に弱めます。筋肉と同じで、使わなければ衰えるのです。

ここで求められるのは、楽な道を選ばない精神の制御力です。思考を省略しない自制心。自分の頭で一度は考え抜くという姿勢。それがなければ、知的成熟は起こりません。

4.行動の壁

――「AIを活用した」と言って満足する

組織でも個人でも、「AIを導入した」「生成AIを使っている」「DXを推進している」と言いながら、本質的な思考の質が変わっていないケースは少なくありません。

技術を使うことと、成長することは別問題です。

AIを導入しても、意思決定の構造が変わらなければ意味はありません。生成AIを使っても、問いの質が低ければ成果は限定的です。

行動の壁とは、技術導入そのものを成果と錯覚することです。
本当の変革は、思考様式と判断基準の刷新にあります。

5.継続の壁

――「主体的思考を保ち続けられない」


最も難しいのは、この壁です。

AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。その能力は年々向上しています。自分で考えるより速く、自分で書くより正確な場面も増えています。

それでもなお、最終判断は人間が引き受けるという姿勢を維持できるか

これが2026年最大の壁です。
便利さに流されず、思考の主権を手放さない覚悟が問われています。

現代思想的アップデート

20世紀は「情報の量」が問題でした。情報が不足していた時代です。
しかし21世紀は「判断の主体」が問題になります。情報は過剰にあり、AIが整理してくれます。では、誰が最終的に判断するのか。

AIは人間を直接置き換える存在ではありません。むしろ、人間の内面を静かに空洞化させる可能性を持っています。

だからこそ、いま必要なのは単なるデジタルデトックスではありません。機器から離れることではなく、思考の主権を取り戻すことです。

新しい将来像(VISION)

AIと共存する社会において必要なのは、

・批判的思考
・倫理的責任
・克己(セルフコントロール)
・判断の引き受け

です。

要するに、「考える人間」であり続ける意志です。

AIが高度化すればするほど、人間の価値は思考そのものに集約されていきます。

2026年の成長とは、AIを使いこなすことではなく、
AI時代においても思考の主体であり続けることなのです。

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2026年2月18日水曜日

生成AIは子どもの社交性を伸ばせるか?――信頼を育てる新しい学び方

 

このスライドは、コミュニケーションのレベルに応じて信頼の度合いが変化することを示したものです。縦軸が「信頼度」、横軸が「協力関係」を表しています。コミュニケーションが防御的な段階では、相互作用は「1+1=0.5」にもなりかねません。つまり、互いに力を削ぎ合い、足を引っ張り合う状態です。そこから、相手に敬意を表す段階に進むと「1+1=1.5」になります。最低限の協力が生まれます。そして、相乗効果を生むレベルに到達すると「1+1=3」にもなるのです。信頼が高まり、心理的安全性が確保されると、人間は想像以上の力を発揮します。

しかし現実には、多くの組織や個人が「敬意」のラインを越えられず、防御的コミュニケーションに留まっているのではないでしょうか。コミュニケーションは単なる情報交換ではありません。関係性を設計する行為です。信頼を生み出すのも、壊すのも、日々の言葉の積み重ねなのです。

ところが、現代の日本社会を見渡すと、コミュニケーションの土台そのものが弱体化しているように感じます。本を読まないために語彙や概念が蓄積されない。読解力が低下する。 思想がないから文章を書かない。こうした状況では、深い対話が成立するはずがありません。

コミュニケーションの基本は「明瞭さ(CLARITY)」です。自分は何を考え、どう感じ、何を望んでいるのか。それを言語化する力がなければ、信頼は生まれません。ところが日本社会では、意思をはっきり伝えることが直截的で好まれない傾向があります。「曖昧さ」が美徳とされる文化です。そのため、外国語でのコミュニケーションはなおさら困難になります。低文脈文化の社会では、言葉にしないことは存在しないのと同じです。察してもらうことは前提ではありません。

書くことの難しさも同様です。アメリカのオンラインショッピングは、トラブルも多いですが、彼らは粘り強くクレームレターを書きます。しかも状況に応じて文面の強度を変える。実に戦略的です。私は英語でも中国語でも、十分に説得力のある文章を書くことができませんでした。これは単なる語学力の問題ではありません。日頃から自分の頭の中で考えていないと、どの言語でも良い文章は書けないのです。そして、文章が書けないということは、実は思考が鍛えられていないということでもあります。

アメリカでは幼少期からSHOW&TELLで鍛えられます。人前で話すこと、意見を述べること、アイ・コンタクトを取ることが日常です。彼らは自分の考えを表明することに躊躇がありません。これは性格の問題ではなく、訓練の成果です。一方、日本では沈黙が思慮深さと受け取られることがあります。しかし異文化の場では、沈黙は無関心や拒絶と誤解されかねません。

ここに、日本人の社交性の課題があります。社交性とは饒舌さではありません。自分を適切に開示し(これが重要!)、相手に関心を示し、関係性を築こうとする姿勢です。しかし私たちは「間違えてはいけない」「完璧でなければならない」という心理的ブレーキを強くかけてしまいます。その結果、発言を控え、存在感を消してしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

ここで登場するのが生成AIです。このスライドを作成した当時(1990年代)には想像もしなかった存在ですが、生成AIは日本人の社交性向上に大きく貢献できる可能性があります。

第一に、失敗が許される練習環境を提供してくれます。恥をかくことなく、何度でも会話を試せる。気難しい取引先役を設定し、ロールプレイをすることもできます。即座にフィードバックも得られます。

第二に、「型」を提供してくれます。雑談はセンスではなく技術です。どのように話を広げるか、どう自己開示するか、どのタイミングで共感を示すか。生成AIはそのパターンを示してくれます。

第三に、思考の整理を助けます。自分の意見を文章にまとめ、それを添削してもらう。結論と理由を明確にする訓練を重ねることで、明瞭さが身につきます。これは信頼の基盤です。

重要なのは、AIに委ねるのではなく、AIを用いて鍛えることです。AIは代替ではなく拡張です。人間の主体性を補助する「補助線」のような存在として使うならば、コミュニケーションの質は確実に向上します

信頼関係は鶏と卵の関係です(chicken and egg paradox)。良いコミュニケーションが信頼を生み、信頼がさらに良いコミュニケーションを生みます。生成AIは、その好循環の第一歩を踏み出すための安全な訓練場になり得ます。

1+1を3にするか、0.5にするかは、結局のところ私たちの姿勢次第です。明瞭に語り、誠実に聴き、勇気をもって自己開示する。その積み重ねの先に、真の協力関係が生まれるのだと思います。

その力を、私たちは子どもたちにどう手渡すのか。それが、生成AI時代の教育の核心なのだと思います。

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2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

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2026年2月16日月曜日

教育と主体性 ― 制度を変えても、空気は変わらない

 

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2026年2月14日

立ちすくむ日本を動かす教育とは何か―AI時代に求められる「問い」と言語の力

日本不在のアジア最前線─教育と低リテラシーが招く空洞化 第4回

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40220


私は長年、新聞を読まないと言い続けてきました。ビジネス誌の類も、読まなくなって20年以上が経ちます。とはいえ、完全に情報を遮断しているわけではありません。オンラインで見出しだけは確認し、気になるものがあれば中身を読む。最近は有料記事が増え、YouTubeも広告だらけで、結局テレビと変わらなくなってきました。そんな中、たまたま目に留まり、しかも無料で読めた記事がありました。自分の備忘録の意味も込めて、ここに考えを整理しておきます。

この記事の主張はもっともだと思っています。日本の教育が「正解を早く出す能力」に偏り、「問いを立てる力」を十分に育ててこなかったという指摘には強く共感します。社会が複雑化し、不確実性が増している時代に、与えられた選択肢の中から無難な答えを選ぶだけでは足りない。自分で問いを立て、状況を読み解き、責任を引き受ける力が必要だという認識は、私の問題意識とも重なります。

日本の教育は自己形成の順番を誤っているのではないか。本来、十代半ばは自我を鍛え、自分の信条を模索する時期のはずです。しかし現実には、受験という枠組みの中で「外から与えられた正解」に適応する力ばかりが評価される。その結果、問いを持たないまま大人になる人が増えているのではないか。記事が言う「社会を動かす力としてのリテラシー」の不足は、私が長く感じてきた違和感と確かに重なっています。

ただし、もう一段深いところに不安を抱いています。記事は教育制度の再設計に希望を託しています。しかし制度だけで社会は変わらないのではないか。日本社会には、問題が起きると「制度が悪い」と言い、制度を変えれば解決すると期待する傾向がある。しかし主体性とは、本来制度の外側でも発揮されるものです。制度が整っても、空気が同調を求め、摩擦を避ける文化が残るなら、主体性は十分には育ちません。私は、教育制度以上に、その「空気」のほうが根深い問題ではないかと感じています。

さらに私は、生成AIの存在を重く見ています。生成AIは思考を助ける道具になり得ますが、同時に思考を外部化する装置にもなります。問いを立てる前にAIに聞き、判断に迷えばAIに委ねる。そうした使い方が広がれば、主体性はさらに弱まるでしょう。私は「AIに任せること」と「AIに委ねること」は違うと考えています。前者は能力の拡張ですが、後者は判断の放棄に近い。

記事に同意するのは、教育と主体性が日本社会の鍵だという点でが、距離を置くのは、制度改革に過度な期待を寄せる点です。私は、教育改革だけでは足りず、社会の空気そのもの、そしてAIとの向き合い方まで含めて考えなければならないと思っています。

制度を整えることに反対しているわけではありません。しかし最終的に社会を成熟させるのは、一人ひとりがどこまで自分の問いを持ち、自分の判断を引き受けるかです。教育はその土台になりますが、それだけでは完結しない。

AI時代だからこそ、私が重く受け止めているのは、「主体性をどう守るか」ではなく、「教育の中で主体性をどう醸成するか」という問いです。制度設計の巧拙以上に、子どもたちが自ら問いを立て、言葉を尽くし、判断を引き受ける経験をどれだけ積めるか。その積み重ねこそが、社会の空気を少しずつ変えていくのだと、私は思っています。

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2026年2月15日日曜日

考えているつもり、になっていないか ――生成AIと、新しい「閉ざされた言語空間」

 


江藤淳からAI時代へ

小林秀雄は、かつては教科書にも載っていましたから、名前だけは知っている学生さんもいるでしょう。しかし、江藤淳となるとどうでしょうか。おそらく、ほとんどの若い人は知らないのではないかと思います。私は、江藤淳の二冊――『閉ざされた言語空間』と『忘れたことと忘れさせられたこと』――は、ぜひ若い世代に読んでほしいと願っています。

二十年ほど前、私は鎌倉にある江藤淳の家を訪ねたことがあります。もちろん中に入ったわけではなく、外から眺めただけです。通りに面した場所に浴室があり、江藤はそこで自ら命を絶ちました。その事実を思うと、のちに多摩川で自死した西部邁のことも重なります。思想家が最後に沈黙を選ぶとはどういうことなのか。その問いは、いまも私の中で消えていません。

しかし正直に言えば、私の問題意識は江藤の著作から始まったのではありませんでした。

もっと前、高校生のころにさかのぼります。ボブ・ディランの『I Shall Be Released』に出てくる “I was framed” という一節を聴いたときのことです。当時の私は、政治も占領史も知りませんでした。江藤淳の名さえ知らなかったでしょう。それでも、どういうわけかその言葉を自分と重ねてしまい、説明もできないまま共感し、大阪ミナミの街を彷徨していたのです。

framed とは、無実の罪を着せられた、という意味にとどまりません。他人の構図の中に配置され、あらかじめ決められた物語の中に組み込まれている、という感覚です。高校生だった私は、理屈ではなく、直観としてその感覚を抱いたのだと思います。

直観が先にありました。
思想は、あとから追いついてきました。
しかも、何十年もかけて、少しずつ、少しずつ。

その思想の一つが、江藤淳でした。

『閉ざされた言語空間』で江藤が論じたのは、占領期における検閲の問題でした。しかし彼が本当に問題にしたのは、検閲という制度そのものよりも、「言語の枠組み」が外部から与えられたことでした。

人は、与えられた言葉の中でしか考えられません。発言が制限される以前に、思考の前提が規定される。戦後日本は、自分の言葉で敗戦を語る前に、占領側が用意した枠組みの中で語ることを余儀なくされた。民主主義、平和国家、戦争責任。どれも重要な概念です。しかし、何をどの順番で、どの前提から語るのかは、すでに決められていた。

江藤の言う「閉ざされた」とは、沈黙させられたというよりも、枠を与えられたということでした

「ごっこの世界」という感覚です。思考しているつもりで、実は与えられた舞台装置の上で演じているだけではないか。電車ごっこや戦争ごっこと同じように、「考えごっこ」をしているだけではないか。政治も政治ごっこですね。
外交なども、時にそのように見えます。

高校生のころに感じた framed の感覚は、ここでようやく言葉を得ました。私はすでに枠の中にいたのではないか。その疑問は、江藤の議論によって輪郭を持ち始めたのです。

もう一冊の『忘れたことと忘れさせられたこと』は、記憶を扱います。日本人が自ら忘れたものと、外から忘れさせられたもの。その区別を通じて、戦後精神の変質を描きました。こちらは、「思い出せない」という感覚につながります。心を虚しくして思い出すという営みそのものが衰えているのではないか、という問いです。

言語と記憶。

この二つが外部化されるとき、人間の内部には何が残るのでしょうか。

いま、生成AIが広がる時代に、私は再び同じ問いの前に立っています。AIは検閲をしません。むしろ自由に、整った答えを返します。しかし、その整い方そのものが一つの枠ではないでしょうか。平均的で妥当で、どこにも引っかからない言葉。それを読んで「なるほど」と思うとき、私たちは本当に考えたのでしょうか。それとも、整えられた言語空間に収まっただけなのでしょうか。

さらにAIは、私たちの代わりに記憶を保持します。検索すれば何でも出てくる。要約もしてくれる。その結果、「思い出す」という内的営みが衰える危険はないでしょうか。

小林秀雄は、無常が分からないのは常なるものを失ったからだと言いました。常なるものがあってこそ、移ろいの意味が分かる。

江藤淳は、その常なるものを支える言語空間が壊れたと見ました。

私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。

しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。

AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。

私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。

思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。

あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。

江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。

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