
2026年2月11日水曜日
問いを失った政治、考えなくなった社会 ――衆議院選挙とAI時代の人間

2026年2月10日火曜日
人はいつ成長するのか ――家を買い、部下を切った経験から
人は、いつ「教育された」と実感するのでしょうか。
教室で知識を得たときでしょうか。それとも試験に合格したときでしょうか。私自身の経験では、人はもっと現実的な場面で、一気に成長するように思います。利害打算ではなく、現実的であるということであり、自分の信条に忠実であるということだからです。「持ち家派か、賃貸派か」という議論は、時代を超えて繰り返されてきました。住居は単なる生活の器なのか、それとも人生観を左右する選択なのか。私はこの問いに対して、少し違った角度から考えています。なぜなら、私は日本とアメリカの両方で、マンションや一軒家を数回ずつ購入し、そして売却してきたからです。
不動産の売買は、想像以上に人を鍛えます。特に海外での不動産取引は、制度も文化も言語も異なる中で、すべてを自己責任で判断しなければなりません。大抵の場合、強引で癖のある不動産業者(トランプのような人物)や、理不尽とも思える主張を押し通そうとする売り手側の弁護士が前面に出てきます。価格交渉、契約条件、税務、為替――その一つ一つについて、自分で判断し、決断を下さなければなりません。住居を持つという行為は、安定というよりも、むしろ精神的な緊張と決断の連続でした。
もっとも、家を買うことは、部下を切ることとは決定的に違う側面も持っています。それは、そこに「楽しみ」があるという点です。自分が住みたい場所を考え、街の空気を感じ、間取りや日当たり、周囲の環境など、さまざまな要素を天秤にかけながら、自分たちの予算の中で最善の選択を探していく。その過程は決して苦しいだけのものではありません。しかも、その判断は自分一人で完結するものではなく、家族との共同作業になります。意見が食い違うこともありますが、それも含めて、家族として一つの人生を歩む。家探しは、人生の一部分として記憶に刻まれていきます。
ここで、少しだけニューヨーク郊外で一軒家を購入したときの経験を振り返ってみたいと思います。
それでもなお、不動産購入が人をタフにする経験であることに変わりはありません。大きな金額を動かし、後戻りのできない決断を自分の名前で引き受ける。その経験は、後になって振り返ると、確実に判断力と精神的な耐性を鍛えていました。
この「仕事や人生の中で、人を一皮むけさせる経験」について、非常に体系的に整理しているのが、モーガン・マッコール『ハイ・フライヤー』(2002年)の第三章です。同章では、優秀なリーダーが成長過程で必ずと言っていいほど経験している「成長を促す仕事経験」が分類されています。そこには、初めての仕事、初めてのマネジメント、ゼロからの立ち上げ、事業の立て直し、視野の変化、そして修羅場とも言える失敗や喪失が含まれています。
私自身のキャリアで、最も精神的な負荷が大きかった経験の一つは、アメリカのコンサルティング会社でのマネジメントでした。そこでは「アップ・オア・アウト」と呼ばれる評価制度があり、一定期間ごとに成果を出し昇進できなければ、組織を去ることになります。3〜6か月に一度、部下の評価を行い、下位パフォーマーと判断された20〜25%は、問題行動を起こしていなくても「カウンセルアウト」されます。端的に言えば、クビを切らなければなりません。
部下を解雇するという行為は、何度経験しても慣れるものではありません。家を買うときのような前向きな高揚感は、そこには一切ありません。毎回悩み、考え込み、自分の判断が正しいのかを自問します。しかし、その苦しさから逃げずに向き合うことで、組織で働く者として、そしてマネジメントとして、一皮むけた段階に進むのも事実です。
組織の成果を守るために、個人の人生に影響を与える決断を下す。その責任の重さが、決断力と精神的な強さを鍛えていきます。『ハイ・フライヤー』で言う「修羅場」の経験とは、まさにこのような場面を指しているのでしょう。
翻って、日本企業の役員の多くはどうでしょうか。自らの判断で部下を解雇した経験を持たないまま、役員になるケースが少なくないのではないかと感じます。制度や慣行として「誰かが決めたこと」を追認することはあっても、個人として重い決断を引き受ける機会が極めて少ない。その結果、決断を避け、責任を曖昧にしたマネジメントが温存されているようにも見えます。
家を買うこと、部下を切ること。性質は異なりますが、どちらも「自分の名前で決断し、その結果を引き受ける」という点では共通しています。『ハイ・フライヤー』が示すように、人を本当に成長させるのは、こうした避けがたい決断の積み重ねです。
成長とは、知識を増やすことではなく、覚悟を引き受ける回数を重ねることなのかもしれません。その意味で、仕事経験とは、人の精神を鍛える最高の道場なのだと、私は実感しています。
2026年2月9日月曜日
バラバラの知識を“使える力”に変える教育 ――30年前に描いた一枚のスライドから
第1章:概念提示(シンセサイジング機能とは何か)
シンセサイザーの比喩
「シンセサイザー」と聞くと、電子音楽やテクノポップを思い浮かべる方も多いかもしれません。私自身、黒人音楽のシンプルなブルースやソウルを好んできたアナログ人間ですから、正直に言えば電子音楽は今でもあまり得意ではありません。しかし、ここで言うシンセサイザーは音楽の話ではありません。「シンセサイジング機能」の話です。
音楽におけるシンセサイザーとは、音をデジタル化して要素を組み合わせ、調整し、一つの音楽として成立させる装置です。私は30年ほど前、この考え方こそが、ビジネスや組織、さらには社会や国家の運営において最も重要な能力だと考え、まとめたのが上のスライドです。
多領域のピース
スライドの左側には、政治、経済、法律、情報システム、心理学、哲学・思想、数学、文学、歴史、語学といった、バラバラのピースが描かれています。これらは、いずれも現代社会を理解するうえで欠かせない分野ですが、単独では不完全です。専門知識をいくら深めても、それだけで複雑な現実の問題に対処することはできません。
現実の課題は、必ず複数の領域が絡み合って現れます。経済問題は政治と切り離せませんし、技術の問題は法律や倫理と無縁ではありません。にもかかわらず、私たちはしばしば、部分だけを見て全体を見失います。
統合とコミュニケーション
そこで必要になるのが、中央に示した「シンセサイジング機能」です。異なる分野の知識や視点を統合し、首尾一貫した全体像として理解する力、そしてその統合結果を他者に伝え、共有する力です。単に「分かっている」だけでは不十分で、「伝わる」形にすることが求められます。
スライドの右側に描かれているのが「ビジネス」、すなわち現実の意思決定と行動です。知識の量や専門性の高さだけでは、この領域には到達できません。統合し、判断し、他者と合意を形成して初めて、現実は動きます。
リーダー不在・教育問題への接続
約10年前、私は「迷走する日本の原因は、広い視野と深い洞察力を備えたリーダーの欠如にある」と書きました。この認識は、残念ながら今も変わっていません。私がよく思い出す、ある時代劇の言葉があります。「大義名分の『名分』を手に入れた悪党ほど恐ろしいものはない」という水戸黄門の言葉です。シンセサイジング機能を欠いた権力の危うさを端的に表しています。
部分的な正論や制度の正当性だけを振りかざし、全体を見渡す力を持たない人間が権力を握ったとき、国民は容易に人質になってしまいます。日本にバランスの取れたリーダーが育ちにくい背景には、戦後の教育制度の影響もあるでしょう。専門を細かく分断し、正解を早く当てる能力を競わせる教育では、統合する力は育ちません。
第2章:具体例(コンサルティングという実装例)
シンセサイジング機能が、現実の仕事でどのように使われているか。その分かりやすい例が、コンサルティングです。コンサルティングのビジネスは、「仮説を立て、その仮説を検証する」ことを骨子としています。闇雲に情報を集めたり、相手の話を漫然と聞いたりすることが仕事ではありません。
限られた時間の中で本質的な問題を見極めるためには、まず「問い」を立てる必要があります。その問いに基づいて論点を構造化し、仮説としてまとめていきます。
論点を売る
この役割を担うのが、コンサルタントの中でもパートナーと呼ばれるリーダーです。パートナーの頭の中には、常に「論点を売る」という意識があります。商品やサービスを売るのではありません。「この問題を考えるなら、何が本質的な論点なのか」という枠組みそのものを提示することです。
事前に、議論の目的を明確にし、考えられる論点を「漏れなく、ダブりなく」整理し、それぞれについて仮説を立てます。仮説は暫定的な答えにすぎず、正しいかどうかは検証して初めて分かります。
Sense & Respond
打ち合わせの場では、「何かお困りですか」と聞くだけの御用聞き営業にはなりません。また、「話したいことを話す」こともしません。相手が最も関心を持っている論点は何か、その論点について仮説は妥当かどうか。相手の反応を感じ取りながら、論点を絞り込み、仮説を検証していきます。これが「Sense & Respond」と呼ばれるプロセスです。
この意味で、コンサルタントの仕事は「答えを出すこと」ではなく、「正しい問いと論点を設計すること」にあると言えます。
ここで重要なのは、仮説は否定されることを前提としている点です。コンサルタントが陥りやすい落とし穴の一つが「思い込み」です。準備した仮説に固執し、「準備した通りに違いない」と信じ込んでしまうことです。
もう一つの落とし穴は、すべての論点、すべての仮説を検証しようとする「ローラー作戦」です。緻密さが求められる場面では有効ですが、意思決定の場では本質を見失います。必要なのは、統合と選択です。
第3章:起源(アメリカのエッセイ教育)
エッセイ=説得と検証この思考様式のルーツは、アメリカの作文教育にあります。アメリカの入学のための統一試験には、必ずエッセイが組み込まれています。エッセイとは、自分の主張を明確にし、その根拠を示し、読み手を説得する文章です。単なる感想文ではありません。
エッセイは、他人を説得し、自分の目的を達成できるかどうかを問う訓練です。自分の考えと目的がなければ、そもそも成立しません。この訓練を通じて、問いを立て、論点を構造化し、仮説を検証する力が自然と身についていきます。
一方、日本の中学・高校の国語教育では、この視点が決定的に欠けているように感じます。多くの場合、求められるのは無難な感想や正解らしいまとめです。その結果、社会人になっても、自分の主張を持てず、小学生の作文の域を出ない文章を書き続けることになります。チャットや生成AIが中身の空洞化を指数関数的に加速します。
30年前に私が「シンセサイジング機能」を問題提起した背景には、この教育と社会の断絶があります。部分最適の知識は増えても、それを統合し、目的を持って使う力が育たない。その延長線上に、迷走する組織や国家の姿があるのではないでしょうか。文系だ理系だという単純な問題ではない。
シンセサイジング機能は、特別な才能ではありません。本来、社会を担う人間すべてに求められる、基礎的な力なのです。
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2026年2月8日日曜日
中庸とは何か――三つの国民性から見える「assertive」という技術
それでもなお、アメリカの教育現場では繰り返しこう言われます。
Be assertive!
- Assertive ≠ Aggressive
- 主張せよ。しかし、攻撃するな
- 意見は言う。相手は尊重する
- assertive(自己主張)
- aggressive(攻撃・威圧)
一方、日本はどうでしょうか。
日本人は人の話を聞き、相手を尊重し、場の空気を読む力に長けています。これは本来、assertive になるための極めて重要な土台です。しかしその一方で、「意見を言うこと」がいつの間にか対立や攻撃と同一視されてきました。
このスライドが伝えたい本質は、「中庸とは、静的な真ん中ではない」という点にあります。
人は時に強く主張し、時に引きます。行き過ぎたら戻れること、足りなければ踏み出せること。その振れ幅を自覚し、理性的に調整できる力こそが中庸です。「意見を言うことは、対立でも攻撃でもない」
この認識を、社会全体で共有し直すこと。日本人はすでに、相手を尊重し、耳を傾ける力を十分に持っています。欠けているのは、その土台の上で、「私はこう考えます」と、言葉にする訓練です。
正解を当てる必要も、相手を説き伏せる必要もありません。先ずは、自分の立場を提示してみる。その小さな一歩を許容する文化と教育があって初めて、日本人は攻撃的になることなく、理性的に自己主張する――本当の意味での assertive に近づくことができるのではないでしょうか。
2026年2月7日土曜日
「引き出し」は才能じゃない。習慣だ。 ――日々の概念の蓄積が、人生の即興力を決める
引き出しとは何か――知識ではなく「概念の総量」
引き出しとは、習慣的に蓄積された「概念の総量」です。
この図が伝えようとしているのは、日頃から概念を蓄積している人は、必要な場面で自然とネタを引き出し、臨機応変に使うことができるという、ごく本質的な事実です。ここで言う「引き出し」とは、整理整頓された知識の箱ではありません。知識、経験、違和感、失敗、読書、他者との会話──そうしたものが、長い時間をかけて自分の中に沈殿した思考の材料です。意識して集めたものもあれば、無意識のうちに刷り込まれたものもある。その総量こそが、その人の引き出しなのです。
概念とは何か――具体から本質を抜き出す力
重要なのは、その場で集めた情報は、引き出しにはならないという点です。流行の言葉やハウツー、誰かの受け売りを覚えても、それは概念として自分の中に定着しません。概念とは、個別の出来事を一回きりの現象として消費するのではなく、そこに通底する共通項を抜き出し、文脈を超えて使える形にまで抽象化されたものです。因数分解で共通項をカッコの外に出すように、本質的な要素だけを取り出していく作業とも言えます。
概念を使って考えるとは、具体例を並べることではありません。多様に見える問題の共通点を見つけたり、逆に、同じように見える現象の本質的な違いを区別したりすることです。その結果として、問題をより大きな構図の中に位置づけることができ、目の前の事象に振り回されず、自分なりの判断軸を持つことが可能になります。コンサルタントに求められる抽象的思考力とは、まさにこの力です。
基礎体力としての抽象思考――教育・仕事・対話の空白
ただし、これはコンサルタントだけの話ではありません。むしろ、すべての人にとって必要な思考の基礎体力だと言えるでしょう。本来であれば、中学・高校の段階でこの訓練が行われるべきなのです。絵日記が作文になり、やがて小論文や論文へと移行していく。その過程で、具体から抽象へと視点を引き上げる訓練が必要なのですが、日本の現行の教育システムには、この回路がほとんど存在しません。その結果、社会人になっても小学生の作文の延長線上の議論が横行することになります。日本のコンサルティング会社ですら、大同小異です。
コミュニケーションがうまくいかない理由も、ここにあります。賛成できなくても相手を理解しようとするには、自分の引き出しが必要です。スマホでのチャットのように、反射的に反応するだけでは、考える「間」は生まれません。間がなければ、蓄積されたネタが立ち上がる余地もありません。対話とは、言葉の応酬ではなく、引き出しの中身が静かに動き出す時間を含んだ営みなのです。
日頃から概念を蓄積していなければ、考えるための材料がない。これは厳しい現実です。優れたギタリストが、演奏中に考え込まずとも自然にフレーズを引き出せるのは、日々の練習と長年の蓄積があるからです。
日本人ギタリストのCharさんも同様で、即興(Improvisation)とは才能ではなく、蓄積が反応として現れた結果にほかなりません。その背景には、幼少期のピアノ訓練で身につけた音楽理論という基礎があり、その上に「概念」が積み重なっています。基礎があるからこそ、自由に発想が膨らむ。この構造は、思考やビジネスの世界でもまったく同じです。
AI時代の引き出し――考える責任は誰のものか
右側に描かれた「頑固ジジイ」は、否定される存在ではありません。彼は、「MBAだとか、上滑りのハウツーを追いかける前に、もっと地道に概念を蓄積しろ」と言っているのです。
環境問題、教育、個と公共、文化と文明、異文化コミュニケーション、デジタル化といった言葉は、それ自体が完成された概念なのではありません。むしろ、それぞれが概念を収集し、蓄積するための“引き出し”のラベルだと考えるべきものです。各引き出しの中に、具体的な概念が十分に詰まっていなければ、将来世代への責任や国際的な合意といったテーマについても、表層的な賛否をなぞることしかできません。問題なのは意見の違いではなく、引き出しそのものが空っぽであることなのです。
考える力は、その場で身につくものではない。日々の習慣として概念を蓄積してきた人だけが、必要な場面で気の利いた意見を言える。引き出しとは、整理された棚ではなく、時間をかけて積み上がった思考の堆積層なのです。
そしてAI時代だからこそ、あえて強調しておきたい。考えることまでAIにアウトソースしてはいけません。AIは引き出しを代わりに作ってはくれませんし、概念を自分の血肉にしてくれるわけでもありません。考える責任だけは、人間が引き受け続けなければならないのだと思います。
2026年2月6日金曜日
映画が単なる「娯楽」ではなく「人生」だった時代 ――アメリカ映画と昭和日本映画、その底流にある人間性
私は、小学生から中学生にかけて、アメリカに強い影響を受けて育ちました。地方都市の公団住宅でテレビっ子だったのです。私が観ていた映画やテレビは、当然のことデジタル以前のアメリカです。1940年代から60年代にかけてのアメリカであり、その時代の映画でした。
『カサブランカ』『哀愁』『素晴らしき哉、人生!』『風と共に去りぬ』に胸を打たれ、『理由なき反抗』や『十二人の怒れる男』に、言葉にならない違和感と正義感を教えられました。
私は、ほぼそれらすべての映画を観て育ちました。それらは私に、成功や勝利よりも、むしろ人間の脆さを教えてくれた作品群でした。つまり、アメリカの占領政策にコロりと騙されたのかも知れません(私はもはや戦後ではないといわれた世代ですが)。
ただし、私が受け取っていたのは、理念や成功神話だけではありませんでした。そこに流れていたのは、むしろ人間の弱さでした。不条理、挫折、報われなさ。しかし同時に、愛と友情や正義が確かに存在していた。
そして、私にとってアメリカを「物語」ではなく「生活の匂い」として感じさせてくれたのが、1950〜60年代のテレビドラマでした。
『ハイウェイ・パトロール』『サンセット77』『ハワイアン・アイ』『ルート66』、『ビーバーにおまかせ』『奥様は魔女』『かわいい魔女ジニー』、そしてイーストウッドの『ローハイド』。
中でも決定的だったのは、何と言ってもリチャード・キンブル博士の『逃亡者』です。
そこに映っていたのは、英雄ではなく、市井の人々でした。広い道路、郊外の住宅、キッチンのある家庭、仕事帰りの父親、笑ったり口論したりする家族。私はそれらを通して、アメリカの街並みや一般家庭の空気を、知らず知らずのうちに刷り込まれていったのだと思います。そして、大いにアメリカに憧れ、英語という言葉にも自然と興味を持つようになりました。小学生の頃、最初に覚えた英語は「Gone with the Wind」でした。
フィルム・ノワールの陰影も、メロドラマの涙も、テレビドラマの日常性も、すべては「人間とは何か」を問い続ける営みだったように思います。
60年代に入り、『夜の大捜査線』や『卒業』を経て、『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『真夜中のカーボーイ』といった、アメリカン・ニューシネマが登場します。授業をサボって映画館に通った高校時代でした。
そこにはもはや、整った救済はありません。社会への反抗、不条理への怒り、虚無感。それでもなお、友情だけは捨てきれない男たちの姿がありました。愛があるからこそ、世界に絶望する。私は、その矛盾にこそリアリティを感じていたのだと思います。
当然のこと、学校や受験勉強からは疎遠になりますよね。
もう20年以上、私はハリウッド映画を積極的に観なくなりました。理由は単純で、どこかで「人間の匂い」が薄れていったからです。CGやシリーズ化が悪いわけではありません。ただ、私が影響を受けた映画は、すべてアナログの時代の産物でした。
近年、私が好んで観るのは、昭和の日本映画です。
敗戦後から1960年代前半までの作品。主に白黒映画です。
そこには、敗戦という決定的な喪失を背負った人間たちがいます。誇りを失い、しかし生きることをやめなかった人々。小津安二郎の静けさ、成瀬巳喜男の哀感、黒澤明の怒り。
彼らは間違いなく、ハリウッド黄金時代の映画文法を学びながら、それを日本的な人間観へと変換しました。そして興味深いことに、その日本映画が、再びハリウッドに影響を与えていく。黒澤の『七人の侍』が西部劇に姿を変え、『用心棒』がイーストウッドを生んだ。
文化は一方通行ではなかったのです。
そんな中で、唯一、私の感覚と同じ場所に立ち続けていると感じるのが、クリント・イーストウッドでした。『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』に描かれたのは、不条理な世界の中で、それでも人としてどう生き、どう終わるかという問いです。
突然断ち切られる人生。救いのない現実。それでも、最後に残るのは、他者への責任と愛でした。
アメリカ映画と昭和日本映画に共通して流れていたもの。それは、デジタルでは置き換えられない「人間性」だったのだと思います。不器用で、矛盾を抱え、完全には救われない存在としての人間。
私は、映画やテレビドラマからそれを学び、人生を考える材料を与えられてきました。今もなお、フィルムのざらつきの向こうに見える人間の姿に、私は静かな共感を覚え続けています。
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2026年2月5日木曜日
信頼関係の構築とは何か ――AI時代にこそ問われる、人と人との「空中ブランコ」
AI時代にこそ問われる、人と人との「空中ブランコ」
信頼関係の構築は、リーダーシップ、教育、組織運営、そして日常の人間関係に至るまで、あらゆる場面で根幹となるテーマです。私は16年前のブログで、日本のリーダーシップの欠陥として「信頼関係を構築できないこと」を指摘しました。当時、ワシントンポスト紙は、日本の首相が官僚機構と円滑な協力関係を築けず、危機に際して臨機応変な対応ができていない「loopyな総理」と批判していました。論調には少しだけ違和感を覚えつつも、「信頼関係の欠如」という指摘自体は的を射ていたと思います。
上のスライドは、さらに古いもので、30年近く前、チームビルディングを説明するために作成したものです。そこでは、信頼関係を「暗闇の中での空中ブランコ(Trapeze)」にたとえています。空中ブランコは、相手が確実に受け止めてくれると信じられなければ、決して手を離して飛ぶことはできません。
ここで重要なのは、「信頼するとは、相手の能力(Capability)と意志・覚悟(Commitment)を確認すること」だという点です。どちらか一方が欠けていては、信頼関係は成立しません。高いスキルがあっても、受け取る覚悟がなければ飛べない。逆に、受け取る気持ちがあっても、技量が伴わなければ危険すぎて飛べない。信頼とは、感情ではなく、極めて現実的で、命がけの判断なのです。
一般に、信頼関係はテクニックで築けるものではありません。言行一致、一貫性、誠実な謝罪、相手への関心といった、地味で時間のかかる行動の積み重ねによってのみ育まれます。約束を守ること、曖昧にしないこと、相手がいない場所でも誠実であること。いわば「信頼残高」を日々少しずつ積み上げていく作業です。
この点で、私は江戸時代の寺子屋に大きな示唆を感じています。寺子屋は、教師と生徒という関係以上に、師匠と弟子の信頼関係で成り立っていました。知識の効率的な伝達よりも、人と人との関係性、徳育を重視していた。コンピュータが人格を形成しないのと同じで、信頼はデジタルでは代替できません。
ビジネスにおいても同様です。合理性だけで動く組織は、一見強そうに見えても、予測不能な危機には脆い。有機体(Organism)としての組織、つまり人と人との信頼関係があってこそ、危機を乗り越えられます。M&Aが難しいのも、ここに理由があります。Organic growth(自律的成長)とは、単なる規模の拡大ではなく、その組織が本来持つ「稼ぐ力」「結束力」が内側から育っているかどうか、という問いでもあります。
個人の信頼関係構築の基本は、驚くほど単純です。時間を守る、約束を守る、嘘をつかない。これを愚直に、長年続けること。若い頃の私はスキルも実績もありませんでしたが、「絶対に時間に遅れない」ことだけは自分に課していました。早く着くことで生まれる余裕や静けさが、結果として自分の誇りになっていったのです。それしか取り柄がなかった、と言ってもいいでしょう。
そして今、AIがAIを騙す「フェイク everywhere」の時代に入りました。情報は溢れ、もっともらしい言葉や画像はいくらでも生成されます。だからこそ最後に問われるのは、「この人は信用できるのか」という、極めてアナログな感覚です。画面の向こうではなく、現実の行動、積み重ね、履歴が試される時代なのです。
信頼とは、「橋をかけること」だとも言えます。その橋は一夜にして完成しません。時間をかけ、何度も補修しながら、少しずつ強くしていくものです。この比喩は、空中ブランコのイメージともどこかで重なっています。飛ぶ者と受け止める者。その間に架かる、目には見えない一本の橋です。
また、信頼が試されるのは平時ではなく、困難の只中においてです。
“When you're weary, feeling small / When tears are in your eyes”
相手が弱り切っているときに、なお変わらずそこに居続けられるか。その一貫性こそが、「何度も補修されながら強くなっていく橋」を支える土台になります。
AIやSNSが生み出すデジタルな繋がりは、一瞬で築けます。しかしそれは、橋というよりも、風が吹けば崩れる「ハリボテ」に近いのかもしれません。時間はコストではなく投資です。一夜にして完成しないからこそ、その橋には重みと価値が宿ります。
信頼とは、相手を信じることそのものではありません。相手が自分を信じられるように、自分がどう在るか。その姿勢を、時間をかけて示し続けることです。
空中ブランコも、橋も、そして信頼関係も、原理は同じです。飛ぶ前に、受け止める覚悟があるか。そして、明日もその場所に立ち続けているか。
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