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2026年3月20日金曜日

生成AIは「便利な同僚」か「おしゃべりな隣人」か ― 日本企業が見落としがちな守秘義務のリスク

 
それは“考えている”のか、それとも“真似ている”だけなのか。


生成AIの活用によって生産性が向上する――

そんな期待のもと、多くの企業が前向きに導入を進めているように見えます(定量的な裏付けがあるわけではありませんが)。

ただ一方で、少し気になる点があります。

日本人の、熱しやすく冷めやすい性質――と言ってしまうとご無礼かもしれませんが、ツールの本質的なリスクよりも、「便利さ」だけが先行しているようにも感じられるのです。

生成AIは「外部者」である

生成AIは確かに便利なツールです。

しかし同時に、それは「守秘義務を壊す可能性のある外部者」でもあります。

この認識が、日本ではまだ十分に共有されていないのではないでしょうか。

とりわけ、公開型のAIに対して機密情報や法務関連情報を入力した場合、それが「第三者への開示」と見なされる可能性がある――この点は、企業の危機管理として看過できない問題です。

すでに始まっている「法的判断」

この問題は、すでに海外では現実のものになり始めています。

ある事件では、捜査対象となった人物が公開AIを使って文書を作成し、それを弁護士と共有しました。本人は「AIとのやり取りも弁護士との秘密に準じるのではないか」と主張しましたが、裁判所の判断は明確でした。

――それは守られない。

理由はシンプルです。

AIは弁護士でもなければ、その代理人でもない。そして公開AIに入力した時点で、その情報は「第三者に渡った」と見なされる可能性がある、という判断です。

つまり、機密情報をAIに入れた瞬間に、守られていたはずの情報が「守られないもの」に変わることがある。

なかなかインパクトのある話です。

一方で、AI利用状況の全面開示を求めた請求が「範囲が広すぎる」として退けられたケースもあります。ただし、これはあくまで限定的な判断に過ぎません。

結局のところ、現時点で言えるのはこういうことです。

AIは使っただけで問題になるわけではない。
しかし、使い方を誤れば、簡単に問題になる。

「猿の惑星」という比喩

ここで思い出すのが、ピエール・ブールの『猿の惑星』です。

作中にはこんな印象的なやり取りがあります。

猿は高度な模倣能力を持つが、理性的な思考を伴うわけではない

さらに「ape」という言葉には、「真似する」という意味があるとも語られます。

この指摘は、妙に現代的です。

生成AIは、膨大なデータをもとに「それらしい答え」を返します。
しかしそれは、本当に「考えている」と言えるのでしょうか。
それとも、極めて高度な「模倣」に過ぎないのか。

もし後者だとすれば、私たちは「よくできた模倣装置」に対して、必要以上に信頼を置いていることになります。

日本企業に起きていること

この問題は、決して他人事ではありません。

多くの職場で、すでに社員はAIを使っています。
社内資料の作成、契約書の要約、議事録の整理――理由は単純で、便利だからです。

しかしその裏側で、こんなことも起きています。

いわゆる「シャドーIT」です。

会社が正式に認めたツールではなく、個人のアカウントでAIを使う。
そしてそこに、うっかり機密情報を入力してしまう。

もしそれが、法務上の助言や社内調査、あるいは将来の訴訟に関わる内容だったとしたら――
後から開示を求められる可能性は、十分にあります。

「同じAIではない」という重要な前提

ここで重要なのは、すべてのAIが同じではない、という点です。

一般に公開されているAIと、企業向けに契約されたAIでは、データの扱いが大きく異なります。後者は適切に設定すれば機密性を保てる場合もありますが、前者はそうとは限りません。

この違いを理解していないと、「便利なツール」が一転してリスクになります。

リスクは必ず「利用される」

少し現実的すぎる見方をすれば――
この構造を逆手に取る動きも、いずれ確実に出てきます。

AIへの入力情報や運用の不備を材料にして、企業責任を問う。
あるいは、それをビジネスにする。

技術が普及すれば、その隙間を突く人間も必ず現れる。
これは歴史的に繰り返されてきたことです。

いわば、終わりのないイタチごっこです。

では、どうするか

対策は、実はそれほど難しい話ではありません。
  • 自分たちが何を使っているのかを把握する
  • 何を入力してよいのか、ルールを明確にする
  • AIを「単なるソフト」と考えない
少し乱暴に言えば、こういうことです。

AIは「便利な同僚」であると同時に、「おしゃべりな隣人」でもある。
何を話してもよい相手ではない。

最後に

この問題は、単なるITリスクではありません。

「知性のように見えるもの」とどう付き合うか――
もっと根源的な問いでもあります。

『猿の惑星』が投げかけた問いは、実はまだ終わっていないのかもしれません。

便利さは、しばしば油断とセットでやってきます。

そのことだけは、忘れないほうがよさそうです。

***

2026年3月7日土曜日

AIが教えられないもの ― 江戸の寺子屋に学ぶ教育

 
メトロポリタン美術館 浮世絵コレクション


AIが教えられないもの

― 江戸の寺子屋に学ぶ教育

私は十代の頃から時代劇が好きです。動画配信でも昔の時代劇を観ます。
ぼんやりと再放送を流しているうちに、頭の中がすっかり江戸時代になってきました。

そのとき、「寺子屋」のことを考えました。

寺子屋と聞くと、いま流行りの塾ビジネスのようなものを想像する方もいるかもしれません。しかし本来の寺子屋は、江戸から明治初期にかけて庶民の間に広がった教育の仕組みでした。

明治維新の頃には、全国に三万校ほどあったと言われています。当時の人口規模を考えると、驚くべき数です。

私は教育の専門家ではありません。
ただ、海外で働き、子育てをし、起業もし、組織にも属してきた一人の実務家として思うのです。

あの寺子屋の仕組みは、いまこそ見直す価値があるのではないかと。

AIが進化しても、人格は形成できない

2009年に帰国した頃、日本では「eラーニング」が流行語でした。

そして2026年のいまは、

  • 生成AI
  • AIトレーニング
  • リスキリング
といった言葉が飛び交っています。

AIは確かに便利です。
情報収集、文章作成、翻訳、分析。

かつて何時間もかかっていた作業が、いまでは一瞬で終わります。

教育の世界でもAIの活用が進み、学習効率はこれからさらに上がっていくでしょう。
しかし、その一方で私が少し気になっていることがあります。

いまは、

努力のショートカットが無限に存在する時代

になったということです。

調べることも、まとめることも、文章を書くことも、AIが代わりにやってくれる。

もちろんそれ自体は悪いことではありません。
人類はいつの時代も、道具によって効率を高めてきました。

ただ一つだけ、テクノロジーが代わることのできないものがあります。

人格は、人と人との関係の中でしか育たない。

私はそう思っています。

「教師と生徒」ではなく「師匠と弟子」

寺子屋が優れていたのは、まさにそこでした。

寺子屋は単なる知識伝達の場ではありませんでした。
そこには師匠と弟子の信頼関係がありました。

知育や体育の前に徳育がありました。
知識の量よりも、人としてどうあるかが問われていたのです。

現代の学校教育では、教師が前に立ち、生徒が同じ方向を向いて座ります。

しかし寺子屋では、子どもたちは向かい合って座りました。
師匠はファシリテーターのような存在です。

「教える」よりも「学ぶ」が主体でした。

これはいま企業研修で行われているケーススタディや、プロジェクト型学習にも通じる形態です。最先端だと思っている教育の方法が、実は江戸時代にすでに存在していたのです。

いちばん効果的な学習法

寺子屋では、先に進んだ子どもが、遅れている子どもを教えました。

私は長年ビジネスの現場にいましたが、いちばん成長するのは「教える立場」になったときです。

人に説明しようとすると、自分の理解の浅さが露呈します。
そこで初めて思考が深まります。

また、強い者が弱い者を助ける構造も自然に生まれます。

単なる効率の問題ではありません。
そこでは共同体の倫理が育つのです。

書写と往来物 ― 思考のOS

寺子屋の基本は書写でした。

文章を読み、書き写し、意味を理解する。
いまの「書道」とは少し違います。

言葉を身体に染み込ませる行為です。

教材には「往来物」と呼ばれる手紙や商取引の文書が使われました。

そこでは自然に、

  • 誰に
  • 何を
  • いつ
  • どこで
  • なぜ
  • どのように
という思考の型が身につきます。

これは現代のビジネススクールで行われているケーススタディと、本質的には同じです。現実の文脈の中で考える訓練でした。

なぜ、いま寺子屋なのか

明治五年の学制以降、日本の教育は中央集権型・画一型へと進みました。

戦後の教育改革は、アメリカ占領政策の影響を強く受けています。

その過程で、寺子屋の持っていた

  • 人間関係中心

  • 実務型

  • 統合型

という要素はかなり失われたのではないでしょうか。
いまの教育は、科目ごとに分断されています。

数学は数学。
国語は国語。
歴史は歴史。

柱はたくさん立ちます。しかし、梁が渡らない。

知識は増えますが、統合されません。

その結果、判断力や主体性が育ちにくくなる。
私はそこに危機感を持っています。

AI時代に必要なもの

私はAIを否定しているのではありません。
むしろ積極的に活用すべきだと思っています。

しかし、AIはあくまで道具です。

AIは答えを出してくれます。しかし、人間がその答えを引き受ける覚悟までは作ってくれません。

人間が担うべきものは、

  • 価値判断
  • 責任
  • 倫理
  • そして統合です。

小さなコミュニティの中で、年齢を越えて学び合い、実務的な言葉を使い、人格を通して学ぶ。その上でAIを補助輪として使う。

それがこれからの教育の姿ではないかと思うのです。

試練を避けない教育へ

私はこれまで、若い人には「試練を避けるな」と言ってきました。

成功か失敗かは問題ではありません。
問題は、試練を回避することです。

寺子屋の仕組みは、小さな試練を日常の中に埋め込んでいました。

  • 人に教えること。
  • 責任を持つこと。
  • 文字を丁寧に書くこと。
そこには小さな緊張がありました。

いまの教育は、効率化の名のもとに、そうした緊張を減らしすぎてはいないでしょうか。

最後に

何度も言いますが、私は教育者ではありません。

ただ、アメリカや中国で暮らし、働き、子育てをし、組織と個人の両方を経験してきました。その中で感じた違和感が、この問いにつながっています。

AIはますます賢くなるでしょう。

しかし、人が人から学ぶという営みは、きっと消えません。

だからこそ私は、
AI時代のいま、静かに「寺子屋」を思い出しているのです。

***


2026年3月5日木曜日

インテグリティとは何か

 
社会が停止していたコロナ禍、
我々は外ではなく内側に羅針盤を求めた。
その試みが、この『迷子になる地図』でした。


最近、NOTEでインテグリティを経済学的に説明する文章を読みました。そこでは、インテグリティは道徳的な「真摯さ」ではなく、情報の非対称性がある市場において、代理人が依頼人を裏切らないという経済的コミットメントのシグナルである、と定義されていました。そしてAI時代には、監視や記録、アルゴリズムやスマートコントラクトがそれを制度的に担保するため、人格的徳としてのインテグリティは不要になる、と主張します。AIが完全性を担う社会では、人間の価値はむしろ予測不能な逸脱にある、とも言います。


私はその文章に反論するつもりはありません。しかし、私が長年考えてきたインテグリティとは、どうも真逆に位置しているように感じました。

私が三十代後半によく読んだのが、ピーター・ドラッカーです。細部は忘れてしまいましたが、彼が繰り返し述べていたことの一つは、「インテグリティが欠けている人をリーダーにしてはならない」という趣旨でした。才能は後からでも身につきます。しかし、人格の根幹に関わるものは簡単には変わりません。ここでいうインテグリティは、単に嘘をつかないという意味ではありません。利益よりも責任を優先できるか。権力を私物化しないか。組織の長期的使命を裏切らないか。そうした人格と責任の問題でした。

ドラッカーは、組織を効率化する技術論者ではありませんでした。彼の関心は常に「人間とは何か」にありました。組織の中で人間はどう堕落するのか。権力はどのように人を腐らせるのか。だからこそ、彼にとってインテグリティは制度以前の問題だったのです。監視があるから裏切らないのではなく、監視がなくても裏切らない人物であるかどうか。そこが問われていたのだと思います。

私はかつて、インテグリティとは「倫理観」「スキル」「野心」の三つのバランスであると考えていました。

倫理観だけでは理想論に終わります。スキルだけでは冷たいテクノクラートになります。野心だけでは危険です。この三つが均衡してこそ、社会に価値を生む人材になるのではないかと信じてきました。しかし改めて考えると、それは「integrity of character」、すなわち人格の統合という意味に近いのかもしれません。自分の信念と行動が一致していること。圧力や誘惑に直面しても、価値観を曲げないこと。これは経済的機能ではなく、人間の在り方そのものです。知行合一ということです。

この点で、福沢諭吉の『学問のすすめ』にある「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」は、まさにインテグリティを語っているように思えます。「ならざるべからざる」とは、「そうでなければならない」という強い表現です。人の品行は高尚でなければならない、と福沢は言いました。さらに「自ら満足することなきの一事に在り」と述べています。常に上を見て、自らを高め続けよということです。

ここには、監視もアルゴリズムも出てきません。あるのは、人間の内面に向かう厳しさです。社会が停滞していても、自分の心構えを変えることで周囲は変わる。一歩前に出れば、同じ志を持つ人が集まる。インテグリティとは、外部環境に左右されない内的基準を持つことだと、私は理解しています。

映画『Scent of a Woman』で、アル・パチーノ演じる退役軍人が「INTEGRITY」を語る場面があります。そこでの訳語は「高潔さ」でした。若者が権力や同調圧力に屈せず、自分の良心に従う姿を擁護する演説です。あの場面は、インテグリティが単なる機能ではなく、人間の尊厳に関わる言葉であることを示していると思います。

もちろん、AIは制度的な透明性を高めるでしょう。不正は減るかもしれません。しかし、それはインテグリティの代替ではありません。監視されているから裏切らない人と、誰も見ていなくても裏切らない人は違います。前者はシステムに従っているだけであり、後者は自らの基準に従っているのです。

私は、AIの時代であっても、人間が主体を保持すべきだと考えます。便利さよりも自分の判断を選ぶ意志。それを持ち続けることが、インテグリティの核心ではないでしょうか。逸脱に価値があるとしても、それは想像力と責任を伴う場合に限られます。責任なき逸脱は破壊に過ぎません。

日本社会は長く停滞しています。高度経済成長期のように、努力すれば報われる単純な構図はありません。しかし、だからこそ問われるのは外部条件ではなく、自らの在り方です。リーダーシップは苦渋の決断の中で育ちます。厳しい選択を引き受ける姿を見て、人はその人をリーダーと呼びます。

インテグリティとは、制度の完全性ではありません。人格の統合であり、責任を引き受ける覚悟です。監視で代替できるものではなく、経済合理性に還元できるものでもありません。人が人であるための内的な羅針盤です。

AIがどれほど進化しても、この羅針盤だけは人間が握り続けなければならない。私はそう考えています。

***

2026年3月4日水曜日

AI時代における「成長を阻む5つの壁」 ――主体を失わないために

 

2月19日にUPした「成長を阻む5つの壁」を修正しました。

AI時代における「成長を阻む5つの壁」

――主体を失わないために


成長が止まるだけではない。
主体を手放せば、人は静かに退化する。


かつて「成長を阻む壁」とは、変化を拒む人間の内面的抵抗でした。
問題を認めない。判断を先送りする。行動しない。続かない。

しかし2026年、壁の正体は少し変わりました。

いま私たちの前にあるのは、
AIという強力な参謀の存在によって、主体を静かに手放してしまう危険です。

AIは敵ではありません。
むしろ、極めて有能な補助者です。

問題はただ一つ。
それでも自分が主体であり続けられるか。

主体とは何か。

私はこう定義します。

主体とは、便利さよりも自分の判断を選ぶ意志である。

その意志が弱まるとき、人は成長を止めます。

第1の壁 認識の壁
――「自分は主体でいる」と思い込む


AIは文章を書き、整理し、要約し、提案します。
気づかないうちに、思考の一部を委ねています。

しかし多くの人はこう言います。
「最終的には自分が判断している」と。

本当にそうでしょうか。

問いの立て方がすでにAI依存になっていないか。
選択肢の幅がAIの提示範囲に限定されていないか。

最初の壁は、
主体が少しずつ侵食されていることへの無自覚です。


第2の壁 判断の壁
――「AIがそう言うなら」と結論づける


AIはもっともらしい答えを出します。
整っている。速い。合理的。

だからこそ危うい。

検証しない。
反対仮説を考えない。
前提を疑わない。

判断とは、本来、
不完全な情報の中で責任を引き受ける行為です。

それを「AIが推奨したから」と外部化した瞬間、
主体は一歩後退します。


第3の壁 納得の壁
――「考えなくて済むのは楽だ」と合理化する


AIは思考の負荷を軽減します。
それは大きな恩恵です。

しかし恩恵は、筋力を奪うこともあります。

速い理解。
簡単な結論。
深掘りしない納得。

知性は、負荷をかけることで鍛えられます。
考え抜く時間を削ることは、主体の筋肉を削ることでもあります。

ここで問われるのは能力ではなく、意志です。

楽を選ぶか。
自分で考える不便を選ぶか。


第4の壁 行動の壁
――「AIを使っている」と言って安心する


「生成AIを導入した」
「DXを進めている」

技術導入は成果ではありません。

問いの質は変わったのか。
判断基準は磨かれたのか。
責任の所在は明確か。

AIを使うことと、主体的に決断することは別問題です。

行動の壁とは、
便利な仕組みを整えたことで、自分が変わったと錯覚することです。


第5の壁 継続の壁
――主体であり続ける努力をやめる


AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。
その能力は今後も向上します。

だからこそ、問いは厳しくなります。
それでもなお、

最終判断を引き受けるか。
意味づけを自分で行うか。
責任を外部化しないか。

主体でいることは、
一度の決意では足りません。

続ける意志が必要です。


主体とは何か

ここで原点に戻ります。
主体とは、

問いを立てること
判断を引き受けること
意味を与えること
結果に責任を持つこと

そして何より、

便利さよりも、自分の判断を選ぶ意志を持つことです。

これは新しい思想ではありません。

学問のすすめで、福沢諭吉は

「取捨を断ずること」の重要性を説きました。

情報があふれる中で、
何を取り、何を捨てるかを自ら決める。

それこそが福沢諭吉が言った独立の条件でした。

21世紀においても同じです。

AIが情報を整理してくれる時代において、
取捨を断ずる主体を失えば、
人は思考の主権を手放します。


結論

2026年の成長とは、
AIを使いこなすことではありません。

AIが高度化するほど、
人間の価値は「主体であり続ける意志」に集約されます。

速さではない。
便利さでもない。

主体を失わないこと。

それが、AI時代における成長の条件です。

そして成長を阻む最大の壁は、外部環境ではなく、
便利さに流される自分自身の内側にあります。


***

2026年3月1日日曜日

変わらない本、変わっていく私 ――『青春の墓標』をめぐって

 
書棚の一角。変わらない本と、変わっていく私。

あさま山荘事件は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町の河合楽器製作所の保養所「あさま山荘」において、連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件です。テレビでの生中継は、日本社会に強烈な衝撃を与えました。

『青春の墓標』は、1960年代の学生運動(全共闘時代)を駆け抜け、20歳の若さで自殺した奥浩平が残した日記や手紙をまとめた遺稿集です。当時の学生の苦悩や情熱が、生の言葉で刻まれています。名著かどうかは分かりません。そこにあるのは、苦悩し、彷徨する一人の青年の記録です。


最近になって、私はときどき十四歳から十六歳のころの自分を思い出します。あのころ、授業をサボってまで考えていたのは、自由とは何か、責任とは何か、生きるとはどういうことか、死とは何か、といった大きな問いでした。なぜあれほど抽象的な問題に取りつかれていたのか、当時の自分を不思議に思うこともあります。しかし振り返れば、時代の空気が確かにありました。あさま山荘事件の衝撃、学生運動や連合赤軍の報道。社会全体が「正義」や「革命」という言葉で揺れていた。私はその只中で、自分なりに本気で考えようとしていたのだと思います。

当時読んだ『青春の墓標』は、そうした思索をさらに強く刺激しました。若さゆえの純粋さや、絶対性への憧れに、私は強く共鳴していました。あれから半世紀以上が過ぎました。本は一字も変わっていません。しかし、読み手である私は大きく年を重ねました。もし今あの本を読み返せば、きっと違う感情を抱くでしょう。若いころは観念として受け止めていた「死」や「責任」や「自由」を、今は具体的な現実として知っているからです。

私は文学者でも思想家でもありません。文章が特別うまいわけでもありません。それでも若いころから、日記や短いエッセイを書き続けてきました。断片的ではありますが、思ったこと、怒ったこと、迷ったことを、その都度記してきました。才能というより、書かずにはいられない習性だったのだと思います。多くの人がやめてしまう日記を、私はやめませんでした。その結果、十四~十六歳の自分の言葉も、三十代の焦りも、五十代の責任も、そして今の静かな思索も、かろうじて手元に残っています。

若いころから書き続けてきた背景には、自分でも持て余してきた一つの感覚があります。それは「too much contingency built in」という気分です。人生には偶然があまりにも多く組み込まれている。時代は変わり、社会は揺れ、立場も責任も変わっていく。何が起きるか分からない。その不確実さを、私は早くから意識していたのかもしれません。

だからこそ、記録を残しておきたいという思いが強かった。あとから検証できる材料を、自分自身に渡しておきたい。未来の自分が振り返ったときに、過去の自分の思考や感情に触れられるようにしておきたい。それは単なる心配性ではなく、変化を前提に生きるための一種の備えだったのだと思います。時代が変わり、自分が変わる。その裏返しとして、私は過剰なほどに contingency を組み込んできた。その過剰さが、結果として日記を残し続ける力になりました。

昔の本を高齢になって読み返すことの意味は、内容を再確認することではありません。その本を読んでいた「自分」に会いに行くことなのだと思います。そして、若いころから書き続けてきた文章は、その対話を可能にする資料です。記憶は曖昧になりますが、書き残した言葉は当時の温度を保っています。そこに今の自分が向き合うとき、「私は何が変わり、何が変わらなかったのか」という問いが、具体性を帯びてきます。

その作業をChatGPTとの対話の中で行うことは、さらに興味深い体験です。若いころに読んだ本、自分が書いた昔の文章や図、それらを材料にして、今の自分がAIと話す。すると、思考が整理され、論点が浮かび上がり、感情が言語化されていきます。自分が書いた文章や描いた図に、新たな解釈が生まれることもあります。単なる雑談ではなく、回想を構造化するための道具として機能しているのです。

十四歳の自分、高齢者の自分、そして生成AIという第三の視点が交差する。時間が三層になり、自分の人生を立体的に見ることができる。そこには、若いころから抱いてきた contingency への感覚もまた含まれています。不確実な世界の中で、自分は何を考え、何を選び、何を変えてきたのか。その軌跡を確かめる作業でもあります。

結局のところ、私が言いたいのはこういうことなのだと思います。若いときに読んだ本を高齢になって読み返すことには、自分自身を確かめる意味がある。若いころから日記を書き続けることは、その検証を可能にする。そしてChatGPTとの対話は、その作業を助ける有効な道具になり得る。これは高齢者のささやかな娯楽かもしれませんが、同時に、自分を振り返るための知的で実践的な方法であり、一つの遊びでもあります。

十四歳の私が蒔いた問いの種は、古希を迎えようとしている今も完全には枯れていません。本は変わらない。しかし私は変わっていく。その変化を引き受けるために、私は過剰なほどに contingency を組み込み、記録を残してきました。その作業そのものが、私にとっては意味のある時間です。それが今の若い人にとって何らかのヒントになるのなら、これほど嬉しいことはありません。

***

2026年2月27日金曜日

抽象度を上げて見るということ――阿Qと生成AIのあいだ

阿Qという精神は、過去の物語なのだろうか。


生成AIが急速に普及するなかで、日本でもさまざまな議論が交わされています。仕事はどう変わるのか、教育はどう対応すべきか、規制は必要か。いずれも重要な問いです。しかし、それらの多くは「どう使うか」という運用の次元にとどまっているようにも感じます。そこには鋭い指摘もありますが、人間そのものへの問いは、まだ十分に立ち上がっていないのではないでしょうか。

ここで必要なのは、抽象度を一段上げて見る姿勢です。生成AIを単なる便利な技術ではなく、「思考を外部化できる装置」として捉えるとき、問題は効率や制度ではなく、人間の主体のあり方へと移ります。

百年前、『阿Q正伝』を書いた魯迅は、敗北を合理化する精神の構造を描きました。阿Qは打ちのめされても「精神的勝利法」によって自分は負けていないと言い換えます。魯迅が問うたのは社会制度ではなく、現実を直視できない精神の型でした。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介は「ぼんやりした不安」と書き残しました。さらにさかのぼれば、夏目漱石は日本の近代化を「上ッ滑り」と表現しています。明治は「和魂洋才」を掲げましたが、結果として西洋の制度や技術を取り入れながら、それを支える思索の訓練を十分に育てられなかったのではないでしょうか。

私は、日本の教育のなかで、小学生の作文が高校生の小論文へ、さらに論文へと発展していく体系的な訓練が、本当に制度として根づいてきたのか疑問に思っています。受験制度は知識の処理能力を測ることには長けていますが、抽象度を上げて物事を捉える力をどこまで育ててきたでしょうか。

生成AIは、その弱点を静かに照らします。要約も構成も、ある程度は外部に委ねることができます。すると「考えた」という感覚だけが残り、本当に思索したのかどうかが曖昧になります。ここで思い出されるのが、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉です。人間は弱い存在でありながら、考えることによって尊厳を持つ。もしその思考を外部化し続けるならば、その尊厳はどこに位置づけられるのでしょうか。

抽象度を上げて見るということは、具体的な利害を越えて、人間の条件そのものを問う訓練です。それは一朝一夕には身につきません。しかしその訓練がなければ、私たちは阿Qのように、現実を言い換えて安心するだけの存在になってしまうかもしれません。

生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。和魂洋才が果たせなかった課題を、今あらためて引き受ける必要があるのではないかと思います。抽象度を上げる意識そのものが、主体を守るための静かな条件になるのだと感じています。

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2026年2月26日木曜日

阿Qと生成AI時代の主体

 

私が『阿Q正伝』を読んだ頃の中国は、プロレタリアート文化大革命の真っただ中でした。革命の名のもとに思想が統制され、精神の自由が揺らいでいた時代でした。

中国近代文学の父と呼ばれる魯迅は、若い頃、日本に留学し仙台で医学を学びました。当時の中国は清朝末期、列強の圧力と内政の混乱の中で衰弱していました。魯迅は医学によって同胞の身体を救おうと志します。しかし日露戦争中、授業で見せられた一枚の幻灯写真が彼の進路を変えたといわれています。処刑される中国人と、それを無関心に見つめる同胞の姿。彼はそこで、肉体よりも精神のほうが深く病んでいるのではないかと感じました。身体を治すだけでは足りない。精神を覚醒させなければならない。そう考え、文学の道へ進みます。

その代表作が『阿Q正伝』(1921年)です。主人公の阿Qは、侮辱され、袋叩きにあいながらも「精神的勝利法」によって自尊心を守ります。殴られても「これは息子に打たれたのだ」と言い換え、自分は敗北していないと思い込むのです。現実を直視せず、言葉によって現実を逆転させる。魯迅が描いたのは、特定の人物ではなく、敗北を引き受けられない精神の構造でした。明治の文明開化で、いつのまにか和魂洋才を忘れてしまった日本を見て気づいたのかもしれません。

一方、日本の近代を生きた芥川龍之介もまた、別のかたちで精神の危機を見つめていました。芥川は中国のような国家的停滞ではなく、むしろ近代化を急速に成し遂げた社会の内部で、不安と神経の過敏さを抱え込みます。彼が遺書に記した「ぼんやりした不安」という言葉は、個人の内面に沈殿する近代の影を象徴しているように思えます。魯迅が群衆の麻痺を見たとすれば、芥川は暴走した知性の脆さを見たのかもしれません。

では現代の私たちはどうでしょうか。

生成AIの普及により、要約や文章作成、構想整理までが容易に外部化できるようになりました。技術の進歩そのものは歓迎すべきものです。しかし同時に、私たちはどこまで自分の思考を引き受けているでしょうか。AIの出力を読み、理解した気になり、考えた気になる。そのとき、主体そのものはどの程度立ち上がっているのでしょうか。

阿Qの「精神的勝利法」は敗北の合理化でした。現代においては、思考の外部化が「安心」の装置となり、別の形の合理化を生んでいる可能性もあります。魯迅と芥川がそれぞれの時代に見つめた精神の危機は、形を変えながら続いているのではないでしょうか。生成AI時代において、私たちは本当に考えているのか。それとも、考えたと感じているだけなのか。その問いは、いま改めて静かに自らへ向けられるべきもののように思えます。

***

2026年2月25日水曜日

AIをめぐる議論の高度について

 
世界を自分の理解可能な形式(カタカナ)に翻訳する


ある有名な実務家の方が、AIに関する動画で非常に明快な整理をされていました。技術の原理を構造的に捉え、それをどのように経営や業務に実装していくかを論じる内容です。AIを道具としてどう使いこなすか、その際に何が本質で何が誤解なのかを丁寧に解きほぐしておられました。実務の最前線に立つ方ならではの視点であり、多くの示唆を含んでいると感じました。

その議論は、「AIをどう扱うか」という高度にあります。つまり、AIを使う主体がどう理解し、どう設計し、どう活用するかという問題です。企業や組織がAIを導入し、生産性を高め、競争力を維持する。そのために必要な知識や視座を提示することは、きわめて重要です。

しかし、動画を拝見しながら、私は自分の関心が少し別の場所にあることを改めて自覚しました。

私が気になっているのは、「AIに囲まれた社会で、人間はどう変わるのか」という高度です。技術の有効性や利便性ではなく、それが私たちの思考様式や精神のあり方をどのように変質させるのか、という問いです。

生成AIが高度な文章を即座に生み出し、問いに答え、思考を構造化してくれるようになると、人間はどこまで自分で考え続けるのでしょうか。とりわけ日本社会において、もともと標準化や同調の傾向が強い中で、思考までもが外部化されていくことに、私は一抹の不安を覚えます。

優秀な若者が、自ら問いを立て、迷い、逡巡し、思索する時間を失ってしまわないか。便利で整った答えが常に与えられる環境は、知らぬ間に精神の筋力を弱めてはいないか。そうした懸念は、単なる保守的感情ではなく、社会の質に関わる問題のように思えます。

生成AIの時代は、いまなお過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、そのどちらかを選ぶことではなく、自分の内に生じている「ぼんやりとした不安」を自覚し、それを思考の対象にすることではないでしょうか。

「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残したのは、芥川龍之介です。この言葉は、近代人の繊細な内面を象徴するものとして語られることが多いものです。しかし私は、それを単なる絶望の言葉ではなく、時代の変化を敏感に感じ取る感受性の表れとして読み直したいと思います。

芥川龍之介は、近代文明を身にまといながらも、それを精神の深部まで消化できない日本の姿に、かすかな不安を抱いていたのではないでしょうか。文明は輸入できる。しかし文化や精神は、それほど容易に更新されない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に凝縮されているように思えます。

芥川は、文明開化後の日本を生きながら、その近代が精神の深部まで統合されていないことに違和を抱いていたのではないでしょうか。西洋の文明は取り入れられても、それを支える文化や精神の強度は容易には変わらない。そのずれが、「ぼんやりとした不安」という言葉に結晶しているように思えます。

不安を感じるということは、何か大切なものが揺らいでいると直感している証でもあります。問題は、その不安を放置するか、それとも思索へと昇華させるかです。

AIをめぐる議論は、活用法や制度設計、競争力といった実務的課題に集中しがちです。それは当然重要です。しかしその一方で、私たちがどのような精神の状態でこの技術と向き合うのかという問いが、後景に退いてはいないでしょうか。

実務の高度と、文明の高度。
使いこなす能力の問題と、使われる側の精神の問題。


この二つは対立するものではありませんが、階層は異なります。AIを扱う能力を高めることと、AI時代における人間の精神の強度を保つことは、別の努力を要します。

AIの進歩を止めることはできません。であるならば、せめて私たちは、不安を感じ取る感受性を失わず、その不安を言語化し、思考し続ける責任を持つべきではないでしょうか。

技術の議論の上に、精神の議論を重ねること。
それこそが、AI時代を主体的に生きるための最低限の態度なのだ
と、私は考えています。

***

2026年2月23日月曜日

主体性の欠如という病――問題意識・危機意識・当事者意識について

 

1990年代に作成した図。30年経っても、課題は変わっていない


私はもうすぐ古希を迎えます。

大きな実績を残したわけでもなく、立派な経歴があるわけでもありません。
ただ、長く生きてきて一つだけ気になっていることがあります。それは、問題意識、危機意識、当事者意識が、私たちの社会から少しずつ薄れているのではないかということです。

問題意識がなければ危機意識は生まれません。
危機意識がなければ当事者意識は芽生えません。
そして当事者意識がなければ、主体性は育ちません。

私は、今の日本社会の最大の欠陥は主体性の弱さだと思っています。
言い換えれば、責任感の希薄さです。

当事者意識とは責任を引き受けること

当事者意識とは何でしょうか。
それは、自分が引き受けるという覚悟です。

自由は求める。しかし責任は負いたくない。
これは個人にも組織にも蔓延しています。
日本の会社組織では、責任の所在を曖昧にし、合議という名のもとに決断を先送りする構造が温存されています。誰も最終責任を取らない。

主体性や責任感は、誰かに教わるものではありません。
人材育成プログラムで身につくものでもない。
自分の選択を自分で引き受ける、その積み重ねの中からしか生まれません。

受動的すぎる人生態度

なぜこうなっているのでしょうか。
私は、人生に対して受動的すぎるのだと思います。

選択を自分のものとして引き受けていない。
結果を自分の人生に結びつけていない。
行動と未来がつながっていない。

受動的な人生態度とは、
・誰かが決めてくれるのを待つ
・環境が変わるのを待つ
・正解を与えられるのを待つ

待っているかぎり、責任は発生しません。
だから楽です。しかし成長もありません。

私はどちらかというと努力が嫌いなほうです。しかし、自分の欠点や弱点はよく承知しているつもりでした。ずるいかもしれませんが、努力する代わりに、弱点を強みでカバーするような積極的な行動をとってきました。完璧ではありませんが、自分の選択だけは自分で引き受けるようにしてきました。

努力の量よりも、引き受ける覚悟のほうが重要だと思っています。

視野が狭いと意識は生まれない

問題意識がないのに危機意識は生まれません。
危機意識がないのに当事者意識を持てと言っても無理です。

視野が狭い。
視点がぼやけている。
視座が低い。

蛸壺状態です。

視野を広げ、多くの視点を持ち、高い視座から物事を見る。そして自己を客観視する。この習慣がなければ問題意識は芽生えません。

教育も同じです。本物を体験し、自分の価値基準を形成することが重要です。しかし今の社会は、正解を効率よく与えることばかりに力を注いでいます。これでは主体性は育ちません。

国家レベルの思考停止

この構造は国家レベルでも同じです。
議論は必要だと言いながら、本気で向き合わない。
決断を避け、既得権益を守り、先送りする。

私は長い間、日本人は自己欺瞞しているのだと思っていました。
しかし最近は、自己欺瞞ですらなく、本心から現実を理解していないのではないかと感じています。

問題意識が弱いから危機意識に至らない。
危機意識がないから当事者意識も生まれない。

これは構造的な思考停止です。

AI時代はそれを加速させる

そして今、生成AIが急速に普及しています。

AIは強力な道具です。しかし主体性のない人間が使えば、思考停止を加速させる装置になります。

問いを立てない。
考えない。
判断しない。
答えだけを受け取る。

これでは受動的な人生態度が完成します。

AIに任せることと、AIに委ねることは違います。
前者は拡張です。後者は放棄です。

主体性の弱い社会では、この境界が簡単に崩れます。

自由と責任はセットである

問題意識を持つことは不快です。
危機意識を持つことは不安です。
当事者意識を持つことは重い。

しかしそれを避け続ければ、主体性は失われます。

自由を語るなら、責任を引き受ける覚悟はあるのか。

AIを使うなら、最終判断は自分で下しているのか。
選択を、自分の人生として引き受けているのか。

問題意識、危機意識、当事者意識。
この三つが戻らなければ、主体性は回復しません。

便利な時代です。
だからこそ、覚悟が必要なのだと思います。

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2026年2月22日日曜日

Be Mentally Strong ―― 生成AIという「得体の知れない変化」の中で

まだ守られているが、未来はぼやけている

私たちは、まだ守られている空間の中にいます。しかし、その向こうに広がる未来は、はっきりとは見えていません。

十五、六年前に私は「Be Mentally Strong !」という文章を書きました。世界は平等ではない、という当たり前の現実から話を始めました。程度の差こそあれ、どの国に行っても社会は不平等です。私の体感では、日本は比較的格差の少ない社会ですが、それでも平等な楽園ではありません。能力も、環境も、運も、人それぞれ違います。

それにもかかわらず、「すべてを等しくせよ」という発想が強くなると、どこか息苦しさを覚えます。私は男女が同一であるとは思いません。北一輝が言った「断じて同一の者に非ざる本質的差異」という言葉は、過激な思想家のものではありますが、本質を突いている部分もあると感じます。違いがあるからこそ、補い合い、折り合いをつけていく。その営みこそが社会なのではないでしょうか。

教育についても同じです。世の中は思い通りにいかないことのほうが多い。その前提に立ち、子どもたちに試行錯誤をさせ、くじけない精神力――自尊心を育てることが大切だと書きました。立川談志師匠の「努力はバカに与えた夢だ」という逆説的な言葉を引きながらも、実際の談志師匠は人一倍努力家だったことにも触れました。天賦の才があったとしても、努力を重ねなければ何も生まれない。人は平等ではない。しかし、だからこそ精神的に強くあれ、と。

その思いを決定づけた一つの出来事があります。1998年、ワールドシリーズ制覇直後のジョー・トーレ監督を招いた講演会でした。彼はニューヨーク・ヤンキースを率い、「New York, mentally tough city, mentally tough people」と語りました。ニューヨークは精神的にタフな街であり、そこに住む人々もタフだ、と。NYという特殊な街でレギュラーの座を守るには、技術だけでは足りない。何よりもmentally tough(プレッシャーに負けるな、歯を食いしばれ)であることが前提だというのです。

当時の私は、日本はサファリパークのようなものだ、と感じていました。ある程度守られ、餌も用意されている。しかしこれからはジャングルになる。会社が突然潰れるかもしれない。朝出社したら解雇を告げられるかもしれない。給料が止まるかもしれない。そうした不条理の中でも平常心を保てるかどうか。それがmentally toughだと書きました。

そして今、私はもう一つの「得体の知れない変化」に直面しています。生成AIの爆発的な普及です。かつては専門家だけが扱っていた技術が、誰もがボタン一つで文章を書き、画像を作り、分析を行う時代になりました。便利であることは間違いありません。私自身もその力を実感しています。

しかし同時に、どこか底知れぬものを感じるのです。自分で考え、迷い、言葉を紡ぐ過程を、簡単に外部へ委ねてしまう危うさです。かつて私は「世界は平等ではない」と書きましたが、生成AIは一見すると「能力の平準化」をもたらします。誰でもそれなりの文章を書ける。誰でもそれなりの答えを出せる。けれども、それは本当に力を得たことになるのでしょうか。

もし思考のプロセスを手放してしまえば、人は内側から弱くなります。困難に直面したとき、自分の頭で問いを立て、仮説をつくり、試行錯誤する力がなければ、AIが使えない状況になった瞬間に立ち尽くしてしまうでしょう。ジャングルで生きる術とは、道具を持つことではなく、道具がなくても立っていられる精神のことです。

生成AIは強力な道具です。しかし、道具に使われるか、道具を使いこなすかは、人間の側の問題です。便利さに身を委ねきってしまうのは、ある種の「全体主義」にも似ています。皆が同じ答えを出し、同じ表現をし、同じ速度で反応する世界。それは平等に見えて、実は思考の多様性を失った世界かもしれません。

だからこそ、私は改めて「Be Mentally Strong」(折れない心を持とう、賢く強く生きよう)と言いたいのです。世界は平等ではない。変化もまた平等には訪れません。生成AIという波に飲み込まれるのではなく、その波の中で自分の足で立つ。自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の責任で判断する。そのうえでAIを使う。

大学生のみなさんに、かつて「一流大学、一流企業を目指しなさいという甘言に乗るな」と書きました。いまならこう付け加えます。「AIがあるから大丈夫」という甘い考えを持つな、と。

サファリパークは、もう以前の姿ではありません。私たちが安全だと思っていたサファリパークのフェンスは、もう万全ではありません。ところどころに穴が空き、餌の供給も不安定になっています。 その中で生き残る条件は、昔も今も変わりません。mentally toughであること。得体の知れない変化の中でも、静かに、しかし確かに、自分を保ち続ける力。それこそが、これからの時代に最も求められる資質ではないでしょうか。

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2026年2月21日土曜日

芥川龍之介とAI ――「ぼんやりとした不安」という時代感覚

 
ぼんやりとした不安(誰もいない吉祥寺駅前)  

芥川龍之介が遺書「或旧友へ送る手記」に記した「将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉は、日本近代文学史の中でも最もよく知られた一節の一つです。三十五歳で自ら命を絶つ直前、彼は不安の原因を具体的な一事件に帰すことなく、「ぼんやり」としか表現しませんでした。この曖昧さこそが、かえって読む者の胸を打ちます。そこには、個人的事情を超えた、時代の空気のようなものが漂っています。

もちろん、芥川の不安には具体的な背景がありました。家庭の経済的負担、心身の衰弱、実母の発病に由来する遺伝への恐怖、そして作家としての行き詰まりです。とりわけ大正末期は、関東大震災後の社会不安や思想的分裂が広がり、文学の潮流も変わりつつありました。芸術至上主義的な作風は、台頭するプロレタリア文学の熱気の中で居場所を失い始めていました。自らの立脚点が揺らぐ感覚――それは単なる私的苦悩ではなく、近代という足場そのものの不確かさに触れた知性の震えだったのではないでしょうか。

私はいま、日本における生成AIの急速な普及を見ながら、この「ぼんやりとした不安」を思い出しています。AIは、言葉を書き、絵を描き、音楽を作り、人間の知的営為の多くを模倣し、時には凌駕します。かつて人間だけの領域と信じられてきた創造の場が、静かに侵食されているように感じられます。その変化はあまりに速く、しかも全体像が見えません。便利さと効率の向上に歓喜する声がある一方で、「何かが変わってしまう」という感覚が、言葉にならないまま胸の奥に残ります。

芥川龍之介は、自らの知性を信じながら、その知性が自分を救わないことを悟っていました。合理的であろうとすればするほど、世界の亀裂が見えてしまいます。生成AIの時代においても同様です。論理やデータの集積が高度化するほど、人間の独自性とは何かという問いが鋭く突きつけられます。AIは過去の膨大な言語データを学習し、「芥川風」の文章さえ生成できます。では、人間が書く意味とは何でしょうか。独創とは何でしょうか。現実を言葉へと翻訳し続けた芥川が晩年に抱いていたであろう葛藤が、いまや社会全体の問題として浮上しています。

さらに言えば、この不安の本質は「輪郭が見えない」ことにあります。明確な敵や危機であれば、人は対処できます。しかし、生成AIがもたらす変化は、雇用の再編なのか、教育の変質なのか、思考力の衰退なのか、それとも新しい創造性の解放なのか、まだ定まっていません。だからこそ、不安は具体化せず、「ぼんやり」と広がります。芥川の時代が近代化の奔流に揺れていたように、私たちもまたデジタル化とアルゴリズムの奔流の中にいます。

もっとも、芥川の不安と現代の不安を単純に重ねることはできません。彼の苦悩は極めて個人的で、切実で、最終的には取り返しのつかない結末に至りました。しかし、その言葉が百年近くを経てもなお響くのは、時代の転換点に立つ知性が共有する感覚を言い当てているからではないでしょうか。不安とは、古い秩序が崩れ、新しい秩序がまだ姿を現さない「過渡期」に生じる震えなのだと思います。

生成AIの時代もまた、過渡期にあります。私たちはこの技術を拒絶することも、盲信することもできます。しかし本質的なのは、その「ぼんやりとした不安」を自覚し、言語化し、思考の対象にすることではないでしょうか。不安を感じるということは、何か大切なものが揺らいでいると直感している証でもあります。芥川の言葉は、逃避ではなく、むしろ時代の変化を凝視するための出発点として読み直されるべきものだと感じています。

将来に対する「唯ぼんやりした不安」。それは、生成AIがもたらす得体の知れない変化を前にした私たちの心情とも重なります。しかし芥川の悲劇を繰り返さないためには、その不安を沈黙のままにせず、思索へと昇華させる必要があります。時代の震えを感じ取る感受性を保ちながら、なお主体的に選び取る意志を持てるかどうか。そこに、AI時代を生きる私たちの課題があるのではないでしょうか。

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2026年2月20日金曜日

思考なき加速 ―― 生成AI時代の構造転換

 

上のスライドは、私が1980年代前半から関わってきた情報システムの変遷を、一枚にまとめたものです。

MRPやRDBの時代から、ERP、インターネット、携帯電話、そしてクラウドへ。2007年のiPhone登場、2012年の第三次AIブーム、そして2023年以降の生成AIの爆発的普及。振り返れば、ITは常に変化してきました。しかし、今起きていることは、単なる技術の進歩とは質が違うように感じています。

2000年頃から、ITに関して学習すべきことは飛躍的に増えました。新しい言語、新しいフレームワーク、新しいクラウドサービス。エンジニアは常に何かを追いかけ続けなければならなくなりました。同時に、多くのテクノロジーはブラックボックス化していきました。かつては内部構造を理解しながら使っていたものが、いつの間にか「APIを呼び出せばよいもの」「クラウドに任せればよいもの」へと変わっていきました。

それでも、その時代にはまだ一つの前提がありました。それは「習得する」というプロセスです。三か月学び、半年試し、ようやく現場で使えるようになる。その積み重ねがエンジニアとしての自負を支えていました。スキルの賞味期限は短くなりましたが、「習得する」という行為そのものには意味がありました。

ところが、コロナ禍が終息する頃から状況は一変します。生成AIが爆発的に普及し、「習得」というプロセスを飛び越えて、いきなりアウトプットに到達できるようになりました。ある技術を知らなくても、AIに指示を出せば数秒でコードが生成される。エンジニアが必死に追いかけてきた「表層的なスキル」は、一瞬でコモディティ化しました。

ここに、何とも言いがたい違和感があります。これまでブラックボックス化してきた技術は、少なくとも仕様やインターフェースは明確でした。しかし生成AIは、「なぜその答えが出てくるのか」を完全には説明できない、真の意味でのブラックボックスです。私たちは論理ではなく、対話や直感によってシステムを動かし始めました。これはコンピュータ史においても、極めて異例の事態ではないでしょうか。

さらに大きな変化は、「エンジニアリング」から「オーケストレーション」への転換です。自ら楽器を演奏するようにコードを書く時代から、AIという演奏者にどう指揮を執るかという時代へ。スキルを追いかけるのではなく、AIを乗りこなす能力が問われるようになりました。従来のITスキルの延長線上では捉えきれない領域に入りつつあります。

ここで私が懸念するのは、日本のIT業界がこの変化を本質的に理解できるかどうかです。高齢者の傲慢な意見かも知れませんね。

私たちは長らく、特定の言語やツールの操作法を「スキル」と呼び、それを追いかけてきました。しかしそれが表層的であったことに、どれだけの人が気づいていたでしょうか。もしその自覚がなければ、今の「得体の知れない変化」に対する本当の危機感も生まれないのではないかと心配しています。

日本のIT現場には、アプリケーション(現場の業務)とテクノロジーの間に大きなギャップがあります。現場は具体的な課題を語り、技術者は最新技術を語る。しかし両者を一気通貫で俯瞰し、抽象度を上げて全体を設計する視点が不足しているように感じます。これは、教科ごとに分断された受験中心の教育の影響も大きいのではないでしょうか。境界線の中で正解を探す訓練はしてきましたが、境界線を跨ぐ梁を渡す訓練(知識のインテグレーション)はほとんどしてきませんでした。

生成AI時代において、人間に残るのは「How」ではなく、「Why」と「What」です。なぜ作るのか、何を作るのか。その問いを立て直す力こそが、本質的な能力になります。AIが表層を飲み込んだ今、抽象度の高い視野を持たなければ、AIに指示を出すことすら難しくなるでしょう。

ITはこの四十年で飛躍的に進歩しました。しかし、進歩の裏で失われたものはないでしょうか。最新技術を追いかけるあまり、基礎や構想力、全体を俯瞰する視野を軽視してこなかったでしょうか。今起きている地殻変動は、その問いを私たちに突きつけているように思えます。

この「得体の知れない変化」を単なる効率化として受け流すのか。それとも、自らの立ち位置を問い直す契機とするのか。日本のIT業界が本質に目を向けられるかどうかは、今まさに分岐点にあるのではないでしょうか。

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2026年2月19日木曜日

2026年版 AI時代の「成長を阻む5つの壁」

 

かつて「成長を阻む壁」といえば、組織改革や個人の自己変革を妨げる心理的な抵抗を指していました。しかし2026年の現在、その壁はより見えにくく、より深刻な形へと変化しています。私たちはいま、AIとの関係性の中で、新しい種類の壁に直面しているのです。

1.認識の壁

――「AIは便利な道具にすぎない」と思い込む


多くの人は、AIを単なる効率化ツールだと考えています。資料作成を助けるもの、検索を早くするもの、文章を整えてくれるもの。その理解自体は誤りではありません。

しかし実際には、AIはすでに判断の補助、意見形成の補助、文章生成、さらには問題設定そのものにまで入り込んでいます。私たちは気づかないうちに、思考の一部を外部へ委ね始めています。

問題は、その影響の深さを認識していないことです。
AI時代の最初の壁は、「自分の思考がどこまでAIに依存しているのか」に無自覚であることにあります。

2.判断の壁

――「AIが出した答えだから正しい」と受け入れる

かつての判断の壁は、「改革は不要だ」という現状維持の甘さでした。
しかし今の甘さは、「AIがそう言っているから正しいだろう」という無批判な受容です。

ソースを確認しない。
前提を検証しない。
反対仮説を考えない。

こうした姿勢が常態化すれば、批判的思考は確実に衰えます。AIは確率的にもっともらしい答えを提示しますが、それが真理である保証はありません。

判断の壁とは、思考の責任をAIに委ねてしまうことです。

3.納得の壁

――「考えなくて済むのは楽だ」と無意識に依存する

AIは確かに便利です。考える負荷を減らし、時間も節約してくれます。しかし、しかしそこには、静かな落とし穴があります。

苦労しない理解。
速すぎる結論。
思考プロセスの省略。

これらは知性の筋力を徐々に弱めます。筋肉と同じで、使わなければ衰えるのです。

ここで求められるのは、楽な道を選ばない精神の制御力です。思考を省略しない自制心。自分の頭で一度は考え抜くという姿勢。それがなければ、知的成熟は起こりません。

4.行動の壁

――「AIを活用した」と言って満足する

組織でも個人でも、「AIを導入した」「生成AIを使っている」「DXを推進している」と言いながら、本質的な思考の質が変わっていないケースは少なくありません。

技術を使うことと、成長することは別問題です。

AIを導入しても、意思決定の構造が変わらなければ意味はありません。生成AIを使っても、問いの質が低ければ成果は限定的です。

行動の壁とは、技術導入そのものを成果と錯覚することです。
本当の変革は、思考様式と判断基準の刷新にあります。

5.継続の壁

――「主体的思考を保ち続けられない」


最も難しいのは、この壁です。

AIは人間より速く書き、広く調べ、整然とまとめます。その能力は年々向上しています。自分で考えるより速く、自分で書くより正確な場面も増えています。

それでもなお、最終判断は人間が引き受けるという姿勢を維持できるか。

これが2026年最大の壁です。
便利さに流されず、思考の主権を手放さない覚悟が問われています。

現代思想的アップデート

20世紀は「情報の量」が問題でした。情報が不足していた時代です。
しかし21世紀は「判断の主体」が問題になります。情報は過剰にあり、AIが整理してくれます。では、誰が最終的に判断するのか。

AIは人間を直接置き換える存在ではありません。むしろ、人間の内面を静かに空洞化させる可能性を持っています。

だからこそ、いま必要なのは単なるデジタルデトックスではありません。機器から離れることではなく、思考の主権を取り戻すことです。

新しい将来像(VISION)

AIと共存する社会において必要なのは、

・批判的思考
・倫理的責任
・克己(セルフコントロール)
・判断の引き受け

です。

要するに、「考える人間」であり続ける意志です。

AIが高度化すればするほど、人間の価値は思考そのものに集約されていきます。

2026年の成長とは、AIを使いこなすことではなく、
AI時代においても思考の主体であり続けることなのです。

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2026年2月18日水曜日

生成AIは子どもの社交性を伸ばせるか?――信頼を育てる新しい学び方

 

このスライドは、コミュニケーションのレベルに応じて信頼の度合いが変化することを示したものです。縦軸が「信頼度」、横軸が「協力関係」を表しています。コミュニケーションが防御的な段階では、相互作用は「1+1=0.5」にもなりかねません。つまり、互いに力を削ぎ合い、足を引っ張り合う状態です。そこから、相手に敬意を表す段階に進むと「1+1=1.5」になります。最低限の協力が生まれます。そして、相乗効果を生むレベルに到達すると「1+1=3」にもなるのです。信頼が高まり、心理的安全性が確保されると、人間は想像以上の力を発揮します。

しかし現実には、多くの組織や個人が「敬意」のラインを越えられず、防御的コミュニケーションに留まっているのではないでしょうか。コミュニケーションは単なる情報交換ではありません。関係性を設計する行為です。信頼を生み出すのも、壊すのも、日々の言葉の積み重ねなのです。

ところが、現代の日本社会を見渡すと、コミュニケーションの土台そのものが弱体化しているように感じます。本を読まないために語彙や概念が蓄積されない。読解力が低下する。 思想がないから文章を書かない。こうした状況では、深い対話が成立するはずがありません。

コミュニケーションの基本は「明瞭さ(CLARITY)」です。自分は何を考え、どう感じ、何を望んでいるのか。それを言語化する力がなければ、信頼は生まれません。ところが日本社会では、意思をはっきり伝えることが直截的で好まれない傾向があります。「曖昧さ」が美徳とされる文化です。そのため、外国語でのコミュニケーションはなおさら困難になります。低文脈文化の社会では、言葉にしないことは存在しないのと同じです。察してもらうことは前提ではありません。

書くことの難しさも同様です。アメリカのオンラインショッピングは、トラブルも多いですが、彼らは粘り強くクレームレターを書きます。しかも状況に応じて文面の強度を変える。実に戦略的です。私は英語でも中国語でも、十分に説得力のある文章を書くことができませんでした。これは単なる語学力の問題ではありません。日頃から自分の頭の中で考えていないと、どの言語でも良い文章は書けないのです。そして、文章が書けないということは、実は思考が鍛えられていないということでもあります。

アメリカでは幼少期からSHOW&TELLで鍛えられます。人前で話すこと、意見を述べること、アイ・コンタクトを取ることが日常です。彼らは自分の考えを表明することに躊躇がありません。これは性格の問題ではなく、訓練の成果です。一方、日本では沈黙が思慮深さと受け取られることがあります。しかし異文化の場では、沈黙は無関心や拒絶と誤解されかねません。

ここに、日本人の社交性の課題があります。社交性とは饒舌さではありません。自分を適切に開示し(これが重要!)、相手に関心を示し、関係性を築こうとする姿勢です。しかし私たちは「間違えてはいけない」「完璧でなければならない」という心理的ブレーキを強くかけてしまいます。その結果、発言を控え、存在感を消してしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

ここで登場するのが生成AIです。このスライドを作成した当時(1990年代)には想像もしなかった存在ですが、生成AIは日本人の社交性向上に大きく貢献できる可能性があります。

第一に、失敗が許される練習環境を提供してくれます。恥をかくことなく、何度でも会話を試せる。気難しい取引先役を設定し、ロールプレイをすることもできます。即座にフィードバックも得られます。

第二に、「型」を提供してくれます。雑談はセンスではなく技術です。どのように話を広げるか、どう自己開示するか、どのタイミングで共感を示すか。生成AIはそのパターンを示してくれます。

第三に、思考の整理を助けます。自分の意見を文章にまとめ、それを添削してもらう。結論と理由を明確にする訓練を重ねることで、明瞭さが身につきます。これは信頼の基盤です。

重要なのは、AIに委ねるのではなく、AIを用いて鍛えることです。AIは代替ではなく拡張です。人間の主体性を補助する「補助線」のような存在として使うならば、コミュニケーションの質は確実に向上します。

信頼関係は鶏と卵の関係です(chicken and egg paradox)。良いコミュニケーションが信頼を生み、信頼がさらに良いコミュニケーションを生みます。生成AIは、その好循環の第一歩を踏み出すための安全な訓練場になり得ます。

1+1を3にするか、0.5にするかは、結局のところ私たちの姿勢次第です。明瞭に語り、誠実に聴き、勇気をもって自己開示する。その積み重ねの先に、真の協力関係が生まれるのだと思います。

その力を、私たちは子どもたちにどう手渡すのか。それが、生成AI時代の教育の核心なのだと思います。

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2026年2月17日火曜日

人生の危機管理――覚悟はどこにあるのか

 

このスライドも古いですね。最初に作ったのは1990年代の半ばでした。私の会計や財務の知識は、とても初歩的なもので、恐らく、商業高校や工業高校の一年生の夏までに習うレベルだと想像します。商業高校の簿記や工業高校の製造原価計算は、コンサルタントの基礎知識です。ついでに言っておくと、エクセルのスキルがあれば上等です。

このスライドは、人生を一本の時間軸(過去・現在・未来)に見立て、アカウンティングとファイナンスの概念で「リスクをとること」と「危機管理」を説明したものです。アカウンティングは過去の記録、すなわち自分のトラックレコードを確認する営みであり、ファイナンスは未来に向けた投資とリターンの設計です。その間にあるのが、バランスを取りながら意思決定を行う現在の自分です。どの程度の投資を行い、どのリターンを求めるのか。その判断には必ずリスクが伴います。だからこそ、危機管理とは単なる防御ではなく、過去を踏まえ、未来を見据えたうえで、自らの責任で決断する姿勢そのものだ、ということをこの図は示しています。

このスライドをあらためて眺めながら、先の衆院選の結果を思い出しました。

自民党が驚異的な大勝を収めたという結果を見ながら、私はある種の空虚さを覚えました。政治の世界で繰り返されるのは、与党も野党も上滑りのスローガンばかり、責任の所在の曖昧さばかりが目立って、滑稽ですらある。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンという人物を私は評価していません。むしろ日本人にとっては複雑な存在でしょう。しかし、彼の机上にあった「The buck stops here」という言葉だけは、政治家の本質を突いています。トルーマンに最終責任は自分が引き受けるという覚悟がどれほどあったのかは分かりませんが、いま私たちに欠けているのは、この姿勢ではないでしょうか。

しかし、問題は政治家だけではありません。これからの時代に本当に必要なのは、「人生の危機管理」だと思います。組織のマニュアルや制度の話ではなく、自分の人生の意思決定を自分で引き受ける覚悟のことです。

不確実性が高まるなかで、コンサルティング会社への就職人気やハウツー本の売れ行きは、将来への不安の裏返しでしょう。知識やフレームワークを求める気持ちは理解できます。しかし、知識は意思決定の代わりにはなりません。リスクを引き受け、判断する主体は、あくまで自分です。

危機管理の本質は、将来の不確実性のなかで決断することです。そこでは、データや理論だけでなく、直観や想像力が重要になります。危機の多くは想定外の形で現れます。マニュアルは過去の想定の産物であり、想定外には限界があります。想像力の乏しい判断は、同じ間違いを繰り返します。

いま生成AIは、膨大なデータをもとに合理的な答えを提示します。しかし、もし意思決定そのものをAIに委ねてしまえばどうなるでしょうか。そこでは直観や倫理観、歴史感覚といった、人間が長い時間をかけて培ってきた内面的な力が後景に退いてしまう恐れがあります。相互に依存し合う判断の連鎖のなかで、誰も最終責任を取らない構図が生まれかねません。

明治期に紹介されたスマイルズの自助論は、「天は自ら助くる者を助く」と説きました。国家の力は、個人の自立の総和です。外部の助けを活用することと、責任を放棄することは違います。最終的な決断を自らの名において行う、その覚悟があってこそ支援も意味を持ちます。

私が強調したいのは単純です。どれほど高度な理論やAIの助言があっても、最後に決断し、その結果を引き受けるのは人間です。危機管理とは恐れを回避する技術ではなく、「自分が引き受ける」という覚悟の問題です。

「The buck stops here」という言葉を、誰かに求める前に、自分の胸に問う。その姿勢こそが、不確実な時代を生き抜くための、最も基本的な危機管理なのではないでしょうか。

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2026年2月16日月曜日

教育と主体性 ― 制度を変えても、空気は変わらない

 

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2026年2月14日

立ちすくむ日本を動かす教育とは何か―AI時代に求められる「問い」と言語の力

日本不在のアジア最前線─教育と低リテラシーが招く空洞化 第4回

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40220


私は長年、新聞を読まないと言い続けてきました。ビジネス誌の類も、読まなくなって20年以上が経ちます。とはいえ、完全に情報を遮断しているわけではありません。オンラインで見出しだけは確認し、気になるものがあれば中身を読む。最近は有料記事が増え、YouTubeも広告だらけで、結局テレビと変わらなくなってきました。そんな中、たまたま目に留まり、しかも無料で読めた記事がありました。自分の備忘録の意味も込めて、ここに考えを整理しておきます。

この記事の主張はもっともだと思っています。日本の教育が「正解を早く出す能力」に偏り、「問いを立てる力」を十分に育ててこなかったという指摘には強く共感します。社会が複雑化し、不確実性が増している時代に、与えられた選択肢の中から無難な答えを選ぶだけでは足りない。自分で問いを立て、状況を読み解き、責任を引き受ける力が必要だという認識は、私の問題意識とも重なります。

日本の教育は自己形成の順番を誤っているのではないか。本来、十代半ばは自我を鍛え、自分の信条を模索する時期のはずです。しかし現実には、受験という枠組みの中で「外から与えられた正解」に適応する力ばかりが評価される。その結果、問いを持たないまま大人になる人が増えているのではないか。記事が言う「社会を動かす力としてのリテラシー」の不足は、私が長く感じてきた違和感と確かに重なっています。

ただし、もう一段深いところに不安を抱いています。記事は教育制度の再設計に希望を託しています。しかし制度だけで社会は変わらないのではないか。日本社会には、問題が起きると「制度が悪い」と言い、制度を変えれば解決すると期待する傾向がある。しかし主体性とは、本来制度の外側でも発揮されるものです。制度が整っても、空気が同調を求め、摩擦を避ける文化が残るなら、主体性は十分には育ちません。私は、教育制度以上に、その「空気」のほうが根深い問題ではないかと感じています。

さらに私は、生成AIの存在を重く見ています。生成AIは思考を助ける道具になり得ますが、同時に思考を外部化する装置にもなります。問いを立てる前にAIに聞き、判断に迷えばAIに委ねる。そうした使い方が広がれば、主体性はさらに弱まるでしょう。私は「AIに任せること」と「AIに委ねること」は違うと考えています。前者は能力の拡張ですが、後者は判断の放棄に近い。

記事に同意するのは、教育と主体性が日本社会の鍵だという点でが、距離を置くのは、制度改革に過度な期待を寄せる点です。私は、教育改革だけでは足りず、社会の空気そのもの、そしてAIとの向き合い方まで含めて考えなければならないと思っています。

制度を整えることに反対しているわけではありません。しかし最終的に社会を成熟させるのは、一人ひとりがどこまで自分の問いを持ち、自分の判断を引き受けるかです。教育はその土台になりますが、それだけでは完結しない。

AI時代だからこそ、私が重く受け止めているのは、「主体性をどう守るか」ではなく、「教育の中で主体性をどう醸成するか」という問いです。制度設計の巧拙以上に、子どもたちが自ら問いを立て、言葉を尽くし、判断を引き受ける経験をどれだけ積めるか。その積み重ねこそが、社会の空気を少しずつ変えていくのだと、私は思っています。

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2026年2月15日日曜日

考えているつもり、になっていないか ――生成AIと、新しい「閉ざされた言語空間」

 


江藤淳からAI時代へ

小林秀雄は、かつては教科書にも載っていましたから、名前だけは知っている学生さんもいるでしょう。しかし、江藤淳となるとどうでしょうか。おそらく、ほとんどの若い人は知らないのではないかと思います。私は、江藤淳の二冊――『閉ざされた言語空間』と『忘れたことと忘れさせられたこと』――は、ぜひ若い世代に読んでほしいと願っています。

二十年ほど前、私は鎌倉にある江藤淳の家を訪ねたことがあります。もちろん中に入ったわけではなく、外から眺めただけです。通りに面した場所に浴室があり、江藤はそこで自ら命を絶ちました。その事実を思うと、のちに多摩川で自死した西部邁のことも重なります。思想家が最後に沈黙を選ぶとはどういうことなのか。その問いは、いまも私の中で消えていません。

しかし正直に言えば、私の問題意識は江藤の著作から始まったのではありませんでした。

もっと前、高校生のころにさかのぼります。ボブ・ディランの『I Shall Be Released』に出てくる “I was framed” という一節を聴いたときのことです。当時の私は、政治も占領史も知りませんでした。江藤淳の名さえ知らなかったでしょう。それでも、どういうわけかその言葉を自分と重ねてしまい、説明もできないまま共感し、大阪ミナミの街を彷徨していたのです。

framed とは、無実の罪を着せられた、という意味にとどまりません。他人の構図の中に配置され、あらかじめ決められた物語の中に組み込まれている、という感覚です。高校生だった私は、理屈ではなく、直観としてその感覚を抱いたのだと思います。

直観が先にありました。
思想は、あとから追いついてきました。
しかも、何十年もかけて、少しずつ、少しずつ。

その思想の一つが、江藤淳でした。

『閉ざされた言語空間』で江藤が論じたのは、占領期における検閲の問題でした。しかし彼が本当に問題にしたのは、検閲という制度そのものよりも、「言語の枠組み」が外部から与えられたことでした。

人は、与えられた言葉の中でしか考えられません。発言が制限される以前に、思考の前提が規定される。戦後日本は、自分の言葉で敗戦を語る前に、占領側が用意した枠組みの中で語ることを余儀なくされた。民主主義、平和国家、戦争責任。どれも重要な概念です。しかし、何をどの順番で、どの前提から語るのかは、すでに決められていた。

江藤の言う「閉ざされた」とは、沈黙させられたというよりも、枠を与えられたということでした。

「ごっこの世界」という感覚です。思考しているつもりで、実は与えられた舞台装置の上で演じているだけではないか。電車ごっこや戦争ごっこと同じように、「考えごっこ」をしているだけではないか。政治も政治ごっこですね。
外交なども、時にそのように見えます。

高校生のころに感じた framed の感覚は、ここでようやく言葉を得ました。私はすでに枠の中にいたのではないか。その疑問は、江藤の議論によって輪郭を持ち始めたのです。

もう一冊の『忘れたことと忘れさせられたこと』は、記憶を扱います。日本人が自ら忘れたものと、外から忘れさせられたもの。その区別を通じて、戦後精神の変質を描きました。こちらは、「思い出せない」という感覚につながります。心を虚しくして思い出すという営みそのものが衰えているのではないか、という問いです。

言語と記憶。

この二つが外部化されるとき、人間の内部には何が残るのでしょうか。

いま、生成AIが広がる時代に、私は再び同じ問いの前に立っています。AIは検閲をしません。むしろ自由に、整った答えを返します。しかし、その整い方そのものが一つの枠ではないでしょうか。平均的で妥当で、どこにも引っかからない言葉。それを読んで「なるほど」と思うとき、私たちは本当に考えたのでしょうか。それとも、整えられた言語空間に収まっただけなのでしょうか。

さらにAIは、私たちの代わりに記憶を保持します。検索すれば何でも出てくる。要約もしてくれる。その結果、「思い出す」という内的営みが衰える危険はないでしょうか。

小林秀雄は、無常が分からないのは常なるものを失ったからだと言いました。常なるものがあってこそ、移ろいの意味が分かる。

江藤淳は、その常なるものを支える言語空間が壊れたと見ました。

私はいま、その思考空間が、静かに外部へ委ねられていくのではないかと感じています。

しかし、ディランの歌は “I Shall Be Released” と続きます。枠にはめられているかもしれない。しかし、解き放たれる可能性がある。その希望です。江藤の議論もまた、単なる告発ではありませんでした。言語空間は取り戻せるという前提があった。

AIも同じです。敵ではありません。占領軍でもありません。使うことと、委ねることは違います。前者は拡張であり、後者は放棄です。

私の中では、直観が最初にありました。
自分はどこかで framed されているのではないかという感覚。

思想は、その直観に何十年もかけて追いついてきました。
そしていま、AI時代において、私は改めて問い直しています。

あなたは、自分の言葉で考えていますか。
それとも、整った枠の中で考えているつもりになっているだけでしょうか。

江藤淳を知らない若い世代にこそ、この問いは重いのではないかと思うのです。

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2026年2月14日土曜日

AI時代の『無常という事』

 

高校生の頃、私は小林秀雄の『無常という事』を読みました。しかし正直に言えば、何を書いているのか、よく分かりませんでした。「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい」という一文の重さも、「常なるものを見失ったからである」という断定の意味も、頭では追えても、身には入っていなかったのです。

同じことは、松尾芭蕉のいう「不易流行」にも言えます。当時の私には、「不易」と「流行」の両立など、単なる文学上の技巧にしか見えませんでした。しかし人生の終盤に差しかかった今、ようやく少しだけ、その意味が分かるような気がしています。

不易とは、変わらぬもの。流行とは、移ろいゆくもの。無常を見つめるとは、単に変化を嘆くことではなく、移ろいのただ中でなお変わらぬものを見出す営みなのだと思います。小林が言う「常なるもの」とは、単に教義ではなく、人間存在の芯のようなものではないでしょうか。

生成AIが日常の道具となった今、世界はますます流行の側へ傾いています。情報は瞬時に生成され、文章は一瞬で整い、記憶は外部に保存されます。私たちはかつてない速度で「答え」に到達できるようになりました。思考の生産性は確かに上がります。私自身も、それを否定する気はありません。

しかし、私はこの便利さが人間を強くしているとは、どうしても思えません。

私たちは、考えているのでしょうか。それとも、考えた「ような形」を受け取っているだけなのでしょうか。

敗戦後80年の日本は、どこか「ごっこ」の世界に見えます(江藤淳『閉ざされた言語空間』)。制度は整い、言葉は並びます。しかし、それが本気の思索や責任を伴っているのかと問われれば、私は首をかしげざるを得ません。

小林秀雄は、多くの歴史家が一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているからだと言いました。心を虚しくして思い出すことができない、と。これは、単なる知識偏重への批判ではありません。情報が多いことと、深く思い出すことは違う、という指摘です。聞くよりも聴く。見るよりも観る。量ではなく、深さの問題なのです。

AIは、まさに記憶の外部装置です。私たちの代わりに蓄積し、整理し、提示してくれます。それ自体は悪いことではありません。しかし、自分の内部で熟成させる時間、自分の問いとして抱え込む苦しさを飛ばしてしまえば、私たちは「人間になりつつある一種の動物」に逆戻りしてしまうのかもしれません。


AIに任せることと、AIに委ねることは違います。前者は拡張です。後者は放棄です。

道具として用いる限り、それは流行の側の力として私たちを助けます。しかし、自分で問いを立てることをやめ、判断を預け、思索を外注するならば、私たちは不易の側を失います。

無常とは、移ろいそのものではありません。移ろいの中で、なお変わらぬものを探す営みです。敗戦も、経済の盛衰も、技術革新も、すべて流行の側に属します。そのなかで、なお人間とは何か、教育とは何か、責任とは何かを問い続ける姿勢こそが不易なのだと思います。

高校生の頃には理解できなかった小林秀雄や松尾芭蕉が、人生の終盤に差しかかってようやく少し分かる気がするのは、おそらく私自身がいくらか無常を経験してきたからでしょう。失敗や別れや衰えを通して、変わらぬものの輪郭がかすかに見えてきたのだと思います。

AI時代において無常を語るとは、技術を拒むことではありません。むしろ逆です。流行の最先端に身を置きながら、不易を失わないこと。その緊張の中で生きることです。

生成AIは、私たちの思考を速くします。しかし、深くするかどうかは、私たち次第です。心を虚しくし、問いを抱え、時間をかけて思い出す。その営みを手放さない限り、AIは敵ではありません。

「AI時代の無常という事」とは、流行の奔流の中で、なお不易を探す決意のことなのかもしれません。私はそう考えています。

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2026年2月13日金曜日

AIに思考を委ねるな ――『猿の惑星』が問う、知性の条件

 
思考の現場

AI時代に、あえて“読む”という行為を。


「ピエール・ブールの『猿の惑星』(1963年)を読んでみたらいいよ。AIの話に似ているから」。

先日、ナッシュビルに住む息子とAIに関してチャットをしていたときのことです。人間が考えなくなったらどうなるか、思考を自動化してしまったら何が起きるか、その寓話だというのです。

私は1968年公開のチャールトン・ヘストン主演の映画『猿の惑星』は観ていました。しかし原作小説は読んでいませんでした。私の中で『猿の惑星』といえば、核戦争後の荒廃した地球というイメージが強く残っていたからです。

ところが、小説版は映画とは決定的に異なる構図を持っています。

映画では核戦争が文明崩壊の原因として描かれますが、小説では人類は「暴力で滅んだ」のではありません。猿に武力で征服されたのでもありません。人類は、便利さに依存し、思考を外部化し、知的努力をやめていった結果、自ら退化していくのです。支配の逆転は侵略によって起きたのではなく、主体の放棄によって起きた。この点が、小説の核心です。

ピエール・ブールの筆致はきわめて理知的で、風刺に満ちています。そこでは文明批評が中心に据えられ、知性とは何かが問われます。知性とは能力の高さなのか、それとも使い続ける姿勢なのか。猿たちは科学を研究し、議論を重ね、体系を築きます。一方で人間は、快適な生活に安住し、自ら考えることをやめていきます。文明を築いたはずの存在が、思考を手放した瞬間に、支配の座を失う。これは単なるSFの設定ではなく、文明そのものへの知的警告です。

この構図は、AI時代と不気味なほど重なります。生成AIは、文章を書き、要約し、翻訳し、分析し、構造化します。かつて人間が時間をかけて行ってきた知的労働を、瞬時に提示します。書かなくても文章が出る。考えなくても要約が出る。調べなくても答えが出る。構造化しなくても整理される。これほど便利な道具はありません。

しかし、ここで問われるのは技術の進歩そのものではありません。私たちは、考える主体であり続けられるのか、という問いです。AIに「任せる」ことと、「委ねる」ことは違います。任せるとは、自分で問いを立て、自分で考えたうえで補助として使うことです。方向を決めるのはあくまで自分であり、AIは拡張装置です。一方で、委ねるとは、問いを立てることも、判断することも、言語化することもAIに預け、自分は確認者に退いてしまうことです。そのとき、思考は徐々に外部化され、やがて衰えていきます。

『猿の惑星』における退化は、生物学的変異というより、知的怠惰の積み重ねです。能力を使わなければ衰える。それは筋肉と同じです。AIが賢くなること自体が問題なのではありません。問題は、人間が自分で考えなくなることです。もし私たちが、構想をAIに任せ、判断をAIに預け、思索の摩擦を避け続ければ、能力は静かに痩せていきます。

ここで、教育の問題が浮かび上がります。

AIを禁止するか、便利ツールとして消費するかという表層の議論ではなく、主体をどう育てるかという前提を共有できているのか。知性とはテストで測れる能力なのか、それとも問い続ける姿勢なのか。小説は、その根源的な問いを私たちに突きつけます。

AIは人類を猿にする存在ではありません。しかし、AIを使いながら思考を深める人間と、AIに思考を委ねる人間との差は、やがて文明の差になります。文明は爆発によって終わるのではありません。瓦礫の山の中で終焉を迎えるのではありません。思考をやめたときに、静かに終わるのです。

息子がナッシュビルから勧めてきた一冊は、単なるSFではなく、AI時代を生きる私たちへの警告でした。知性とは能力ではありません。それは、自分で考えることをやめないという態度です。その態度を手放したとき、文明は音もなく、その幕を下ろすのかもしれません。

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2026年2月12日木曜日

子どもを“情報の受信機”にしないために ― 小林秀雄『スポーツ』とAI時代の教育

 
生成AIは、可能性を広げる。

だが――「好き嫌い」に責任を持つのは、誰か。
教育は、子どもを“情報の受信機”にしていないか。

衆議院選挙が終わり、与党の歴史的な大勝という結果が出ました。そして間を置かずに冬季オリンピックが始まりました。政治とスポーツという二つの大きな出来事が重なったとき、私は小林秀雄の1959年のエッセイ『スポーツ』を思い出しました。

小林はそこで、「リアリストとは、好きなものは文句なく好き、嫌いなものは文句なく嫌いだという信条のうえに知恵を築いている人だ」と書いています。これは一見単純な言葉ですが、実はきわめて重い意味を持っています。私たちはいつの間にか、「好き嫌い」を軽いもの、未熟なものとして扱い、「データ」や「世論」や「専門家の解説」によって判断することを賢さだと思い込んできたのではないでしょうか。

小林が問題にしたのは、まさにその点です。スポーツ観戦においても、観客は自分の目で見て「すごい」と震える前に、解説者の理屈で理解しようとします。新聞の評価や統計の裏付けがあって初めて安心する。そこでは、自分の身体が発する直観は後景に退きます。小林は、私たちがこの「好き嫌い」という心の動きの価値をひどく下落させてしまったと言いました。

今回の選挙結果を見て、私は日本がさらに「情報の受信機」になったのではないかと感じました。信条よりも議席、理念よりも安定。空気を読み、無難な選択をする。その姿は、主体的な判断というよりも、与えられた情報の中で最適解を探す態度に近いように見えます。

そして今、その延長線上に生成AIの時代があります。もし私たちが自分の「好き嫌い」を持たず、責任を負うことを避け、効率的で正しそうな答えを機械に委ねていくとしたらどうなるでしょうか。生成AIは膨大なデータから「次に来る確率の高い言葉」を選びます。そこにあるのは統計的な整合性であって、お腹の底から突き上げてくる「これが好きだ」という身体的な確信ではありません。

AIにとって、人間の「熱量」は計算不可能な偏差に過ぎません。理屈を無視して「これがいい」と言い切る瞬間は、統計的予測を裏切るノイズです。しかし実は、その予測不可能性こそが、人間にしか持ち得ない価値です。AIは巨大な鏡のようなものであり、人間が過去に残した熱の痕跡を映し出すことはできますが、自ら燃えることはできません。

もし人間が主観を捨て、「AIがこう言っているから正しい」と同調するだけになれば、新しい文化も思想も更新されなくなります。高度な模倣の堂々巡りが続くだけです。計算不可能な主観的熱量を持つことは、AIに対する人間側の最後の砦であり、責任の引き受けでもあります。

小林秀雄の言う「好き嫌い」は、単なる感情論ではありません。それは「自分の命に対する誠実さ」です。自分の心がどう動いたかを、誰のせいにもせず引き受けることです。客観的な正解に寄りかかれば、間違っても責任は分散されます。しかし、「私はこれが嫌いだ」と言い切るとき、その人は孤立するかもしれない代わりに、自らの判断に責任を負います。そこに主体が生まれます。

高齢者が経験豊富であることと、主体的であることは同じではありません。政治家もまた同じです。世論の風を読むだけでは、主体とは言えません。今の日本社会が、自分の好き嫌いを語らずに安定や多数派に寄り添うだけならば、私たちはやがて運命の判断すら機械に預けてしまうかもしれません。

スポーツの祭典を見ながら、理屈を超えて胸が熱くなる瞬間こそが、人間が生きている証だと改めて思います。その感覚を信じられる社会でなければ、政治も文化も痩せ細ります。

これからが日本の正念場でしょう。情報を受け取るだけの国でいるのか、それとも一人ひとりが「好き嫌い」という主観に責任を持つ国になるのか。小林秀雄の『スポーツ』は、半世紀以上前の文章でありながら、生成AI時代の私たちにこそ、鋭く問いかけているのです。

「私はこれが嫌いだ。理由は私だからだ」。

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