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2026年2月1日日曜日

とり天の記憶

 
大分のトリ天のイメージ

わが家の鶏天弁当

子どもの頃、何度か大分の耶馬渓や日田を訪れました。そこで食べた「とり天」の記憶が、なぜか今もはっきり残っています。あっさりした鶏むね肉ではなく、もっと脂のある、もも肉だったような気がするのです。確信はありませんが、噛んだときのジューシーさと衣のサクサク感だけは覚えています。

一方で、私は1980年頃に三年ほど仕事の関係で、四国に住んでいました。当時、うどん屋には通いましたが、「とり天」や「かしわ天」が当たり前に並んでいた記憶はありません。天ぷらといえば、ちくわ天、かき揚げ、えび天でした。

この二つの記憶は、あとから調べてみると、実は食文化の歴史と驚くほど一致しています。大分のとり天は、もともと鶏文化が根付いた土地で育まれ、老舗では今でももも肉を使う店が少なくありません。耶馬渓や日田といった地域は、唐揚げを含め、鶏料理が生活に溶け込んでいた場所でした。うどんとは基本的に関係はありません。

一方、香川のうどん屋で「かしわ天」が全国的な定番になるのは、ずっと後の話です。1990年代以降の讃岐うどんブーム、そして丸亀製麺の全国展開によって、「うどんにはかしわ天」というイメージが広く共有されるようになりました。つまり、私が四国にいた頃に見なかったのは、単なる記憶違いではなく、まだ“定番になる前”だったということです。

面白いのは、丸亀製麺の「かしわ天」と大分の「とり天」が、似ているようで別物だという点です。前者は主に鶏むね肉を使い、讃岐うどんに合う軽さと下味を重視する。一方、後者はもも肉を使い、ポン酢やからしで食べる、立派な郷土料理です。名前も似ていれば見た目も似ている。でも、その背景にある土地の記憶と食べ方は、まったく違います。

食べ物の記憶というのは、不思議なものです。正確な年代や店名は忘れても、「あれは違った」「あれはうまかった」という感触だけは残る。その感触が、あとから歴史や文化とぴたりと重なる瞬間があると、自分の人生が、知らないうちに時代とつながっていたことに気づかされます。とり天一つで、そんなことを思い出しました。記憶は曖昧でも、舌は案外、正直なのかもしれません。

子どもの頃に出会った本物の味は、教えられなくても、ずっと体のどこかに残っている。

***

2026年1月28日水曜日

きんぴら


この年になりますとね、晩ごはんの献立いうもんが、
だんだん決まってきます。

わたしにとって、きんぴらごぼういうもんは、
「まあ、あったら箸のびるな」いう副菜やおまへん。
これはもう――思想ですわ。人生観ちゅうてもええ。
もっと言うたら、老後の指針みたいなもんです。

細う細う切ったごぼうに、牛肉の旨味がじわぁっと絡んで、醤油はちょっと濃いめ。
最後に、古式醤油なんかチョロっとたらすと、よろしおまんな。
鷹の爪が、これがまた赤うて勇ましい。
それをな、うっかり噛まんように避けながら、
口に運んだ瞬間ですわ。

……ああ。これや。完成してますなぁ。

きんぴらは、えらいもんです。最初から前に出てきよらん。
「わしを食え、食え」と主張せん。けど、後から効いてくる。
じわぁーっと、噛むほどに。食感がええですな。

これがまた、不思議なもんでしてな。
これがもう、人生の後半戦そっくりですわ。

若い頃はね、ステーキやの、鶏の唐揚げやの言うて、騒ぎます。
トロもそうやけど脂がのっているんがええ思うてた。
ところが、人生半ばも過ぎますと、
「今日のきんぴら、ええ出来やなぁ」
こんなこと言う自分がおる。

人はこうして、知らん間に成熟していくんですなぁ。

そもそも「きんぴら」いう名前からして、只者やおまへん。
坂田金平。金太郎はんの息子さんやそうで、怪力無双の豪傑です。
ごぼうの歯ごたえと、唐辛子の辛さを「強さ」に見立てた江戸の人の感覚、
これは大したもんです。

今は健康食品やらサプリやら、山ほどありますけど、
ごぼう一本で「強うなれ」言うてた昔のほうが、よっぽど核心突いてますわ。

戦争中の話になりますけどな、
自分らも食うもんあらへん時代に、
捕虜に木の根を食わせた言うて、虐待やと責められ、処刑された兵隊さんもいたと聞きます。木の根言うたら、今やったら健康食ですわなぁ。

木の根……つまり、ごぼうですわ。
なにをかいわんや、ですな。

さて、関西と関東の話もしておきまひょ。
関東のきんぴらは、ごぼうと人参だけ。
余計なもん入れへん。
武士みたいなもんですな。
潔い。

ところが関西は、牛肉入れよります。
これは文化です。
出汁と牛肉を愛してやまん土地柄ですさかい。
豊かで、現実的。

わたしはと言いますと、
濃いめの味付けに牛肉入り、しかもごぼうは極細。
関東の理屈と、関西の欲望を、ちゃっかり両取りしてます。
人生も料理も、ハイブリッドが一番ですわ


「最後の晩餐、何食べたい?」
こう聞かれたら、迷いません。
きんぴらごぼうでええ。
いや、「で」やない。
「が」です。

イエス・キリストはんの最後の晩餐は、えらい厳粛やったそうですが、
もしわたしの幕引きが許されるなら、

白いご飯に、
ちょい濃いめのきんぴら、
大粒の納豆、
きゅうりとなすの漬物。
味噌汁は、じゃがいも・玉ねぎ・わかめの三種入り。

これで十分。
静かに箸を伸ばして、
「ああ、いろいろあったなぁ」
そう振り返れたら、それでええ。

正岡子規はんも、病床で食べ物のことばっかり書いてはりました。
「糸瓜食いて痰のつまりし仏かな」
死ぬ間際まで、食うこと考えてた。
悲しいようで、どこか可笑しい。
生きるいうのは、食べたいと思うことやと、
子規はんは教えてくれてる気ぃしますな。

歳取ると、先のこと考える時間が増えますなぁ。
財産や墓の話も大事ですけど、
そこに「食」を入れてもええんと違いますか。

最後まで、何を「うまい」と思えるか。
それが、生きる意欲そのもんです


きんぴらのごぼうを噛みしめて、
牛肉の旨味を感じて、
「ああ、うまいなぁ」
そう思えてるうちは、人生、まだ終わってまへん。

きんぴらごぼういうもんは、
噛まんと、味がわかりません。

人生も、どうやら同じようでしてな。

おあとがよろしいようで。

***

2026年1月1日木曜日

人生最大のピンチは、だいたい夜明け前にやってくる

 

大晦日の早朝――正確には、12月31日の午前3時ごろのことでした。
世間では、大晦日ということで慌ただしい一日が待ち構えている。

私はすでに起きていました。
年寄りの朝は早い。というか、これが私の日常であり、ゴールデンタイムでもあります。

その時間、なぜか無性に中華粥が食べたくなりました。

炊飯器にはすでにセットしてあり、スイッチを入れるだけ。
あとは炊き上がりを待つだけです。

やがて炊きあがる音がして、いい匂いが立ちのぼってきました。
パクチー、ネギ、ドライオニオンを並べ、器はどれにするかなぁ、、、。
「さて、食べるか」と思った、その瞬間――
炊飯器の蓋が、開きません。

フックボタンを押しても、微動だにしません。
何度押しても、反応なしです。

中華粥の香りだけが、やけに元気に主張してきます。
いい匂いはする。
しかし、開かない。

これは焦ります。
大変です。
もしかしたら、人生最大のピンチかもしれません。

仕方なくネットで調べ、
パナソニックの「24時間チャット対応トラブル窓口」にアクセスしました。
深夜でも対応してくれるらしい。文明は進みました。

ところが、10回ほどやり取りして分かりました。
相手は、どう考えてもロボットです。

こちらが

「蓋が開かない」
「中華粥が食べられない」
と必死に訴えているのに、ロボットさんは冷静に、

「専門のテックにつなぎます。次の画面でお申し込みください」

と言います。

中華粥は好きか聞いても答えません。

しかも、

「通常500円のところを198円にディスカウント」
などと、いかにも親切そうな提案までしてきます。

もちろん、申し込みません。詐欺の可能性だってあります。
年寄りといっても、人生経験豊かな高齢者は簡単には騙されません。

そうこうしているうちに、50分ほど経ちました。
すると――

中が冷めたのか、再びフックボタンを押すと、あっさり開きました。

……あれほどの騒ぎは、何だったのでしょうか。

こうして私は、無事に中華粥にありつくことができました。
もう夜明けが迫っています。

パクチーも、ネギも、ドライオニオンも、すべてが報われました。

教訓はいくつかあります。

一つ、人生のピンチは、だいたい午前1時に起こります。
二つ、深夜のチャット窓口は、だいたいロボットです。
三つ、多くの問題は、少し時間が経てば勝手に解決します。

大晦日の夜明け頃、
私は湯気の立つ中華粥をすすりながら、
「まあ、今年もこんな感じか」
と、一人で納得しました。

新しい年も、きっと
大げさな騒ぎと、小さな結末の繰り返しなのでしょう。

***

2025年12月7日日曜日

食べることは、いちばん大切な教育

 

昨夜は今季いちばんの冷え込みでした。

こういう夜は、おでんと熱燗に限ります。きゅうりとカブの浅漬けがあれば、もうそれだけで完璧です。

二か月前にもおでんについて書きましたが、今回はその続編として、日本食と文化の話を少し続けたいと思います。

☆ ☆ ☆


子どもの頃の私は、おでんが大嫌いでした。

練り物を食べるとなぜか頭が痛くなるという、今思えば不思議な体質だったのです。ところが十代の終わり、“ナニワのブルースマン”時代になると、養老乃瀧でちくわを片手に「人生はペンタトニックやなあ」と語っていました。

黒人ブルース音楽と大阪ミナミの街、そしておでん。この組み合わせが妙にしっくりきたのです。

☆ ☆ ☆ 

大阪のおでんは「関東煮(かんとだき)」で、ちくわぶは存在しません。
昔はくじらや牛すじが普通に鍋の中に入っていて、いま思えばかなりワイルドでした。

日本のおでんは地域ごとにだしが違います。

九州は昆布+あごだし、関西は昆布だし、関東は鰹節。
四国では昆布をベースにした甘めの味噌だれが添えられる地域もあります。
だしひとつで味の世界ががらりと変わるのが、日本食の面白さです。

私はやっぱり、透明でやさしい昆布だしがいちばんしっくりきます。
練り物にも大根にも、そっと寄り添ってくれる旨味があります。

☆ ☆ ☆

日本の食文化には、狭い国土のなかに驚くほど「深い」地域性が宿っています。アメリカのように世界中の選択肢がそろう「広さ」も魅力ですが、土地の記憶と結びついた日本の「深さ」は、できるだけ失ってほしくありません。

だからこそ、日本の食文化にはあまりグローバル化してほしくないのです。

ハンバーガーが世界標準なのは構いません。けれど、おでんの味まで世界中どこでも同じになってしまったら、寂しい気がします。

寒い夜に熱燗を傾けながら「やっぱりこの地域の味やな」とつぶやく――
そのささやかな幸福は、どうか守られてほしいと思います。

☆ ☆ ☆

現実には、日本食のグローバル化は急速に進んでいます。“なんちゃって日本食”が増えるだけでなく、マグロやウニなどの寿司ネタをめぐる国際的な争奪戦まで起きています。

世界が日本食を求めるほど、肝心の日本の食卓がその恩恵を受けにくくなるという逆説まで生まれています。

これからは、現地の嗜好に合わせた柔軟さと、日本食が持つ本来の価値を丁寧に伝える姿勢の両方が必要でしょう。異文化理解を深めながら文化を共有していくことが求められているのです。

☆ ☆ ☆

そして何より大切なのは、家庭で子どもに本物の味を覚えさせてあげることだと思います。子どもの頃に本物に触れておくと、大人になって異文化コミュニケーションの場で「基準」ができます。

本物を知っていれば、偽物に対して本能的な違和感を覚えるようになります。これは料理でも、仕事でも、人でも、言葉でも同じです。

私自身、子どもの頃に出会った味や風景、あの映画館の暗がり、あのレストランの衝撃の一皿――もう存在しないものたちが、いまも私の中に確かに生きています。

☆ ☆ ☆

ここで思い出すのが、「ツーン」の感覚です。

おでんのからしが鼻を刺すあの一瞬は、単なる痛みではなく、感覚の奥で「自分は生きている」と思い出させてくれる刺激です。

文化もまた、時に理解されず、伝わらず、孤独の中を生きます。それでも静かに根を張るものこそ、本物の文化なのだと思います。

AIの時代になっても、私たちがこの「ツーン」の瞬間を忘れないかぎり、文化はまだ生き続けます。

小林秀雄が「上手に思い出すことが大事だ」と言ったように、おでんを食べてツーンと感じるとき、人は自分の原点や、大切にしてきたものを自然と思い出すのだと思います。

☆ ☆ ☆

振り返れば、あの頃に触れた「本物」が、後の人生の方向をそっと定めていたのかもしれません。食とは、記憶であり文化であり、人生の基準そのものです。

だからこそ、日本の食文化が持つ「深さ」を、これからも大切に守っていきたいと思います。
***

2025年10月22日水曜日

肉吸いと大阪ミナミの記憶

肉吸い
本来はもっとシンプルですが、色んなものを入れてみました

昨日、「肉吸い」を作って食べました。

透明なだしに、甘辛い薄切り牛肉と刻みネギが浮かぶ。ひと口すすれば、関西の出汁特有の丸い味が舌の奥に広がり、ふっと大阪の記憶がよみがえります。あの街の雑踏、ストレートで猥雑な活気、派手なネオン、そして鉄板でソースが焦げたお好み焼きの匂い――私の青春のロクでもない思い出は、すべてあの大阪ミナミにありました。

福岡の十年の後、私は東大阪に移り住みました。中学三年の二学期からのことです。福岡から転校してきた私にとって、大阪の中学生たちはずいぶんと大人びて見えました。彼らの話す言葉、着こなし、そして何より「生き方」がどこか違う。街全体が、エネルギーというより、彼らの“生臭い現実”の匂いに満ちていました。

当時の大阪の公立高校は五つの学校区に分かれていました。私の通っていた小阪中学は第三学区。大阪ミナミの繁華街から生駒山のふもとまでをカバーする広い範囲でした。高校は上六と鶴橋の間、真田丸で知られる真田山の近くにありました。

学区がミナミを含むせいか、クラスメートの顔ぶれもさまざまでした。心斎橋の子ども服屋の息子、宗右衛門町のすし屋の娘、玉造の畳屋の息子――それぞれが小さなドラマを背負っていたように思います。授業をサボってブラブラするエリアは、言うまでもなくミナミの繁華街でした。今思えば、それが私の社会勉強の始まりだったのかもしれません。

「肉吸い」は、そんなミナミの記憶と切っても切れない味です。

発祥の店は、難波千日前の老舗うどん店「千とせ」。吉本新喜劇のスター・花紀京が、二日酔いの朝に「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが始まりだといいます。肉うどんのうどん抜き、それが「肉吸い」。あっさりした出汁に牛肉の旨味が染み出して、当時はうどんを食べなかった私の選択肢のひとつでした。

花紀京といえば、私にとってはビートルズやストーンズと並ぶヒーローでした。吉本は私たちの生活と地続きにあり、南街劇場の前を通るときの高揚感はいまも忘れられません。映画を観る前に「千とせ」で肉吸いを食べて腹ごしらえをするか、あるいは551蓬莱でシューマイをテイクアウトして映画を観ながら食べるか。そんな他愛もない選択に、青春のモラトリアムがありました。

当時は裏社会の抗争が続き、「大阪戦争」と呼ばれた時代でもありました。街の路上で白昼に射殺事件が起きることもあり、ミナミは常にどこか危険な香りをまとっていました。けれど、そこには確かに“生きている街”の鼓動があった。光も闇も引き受けながら、街全体がひとつの生命体のように脈打っていたのです。

そんなミナミが、いまや外国人であふれ返っています。道頓堀のグリコの看板の前では、朝から晩まで人が途切れません。心斎橋筋商店街も、難波の交差点も、聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語。まるで日本語のほうが少数派のようです。

もちろん、観光で賑わうのは悪いことではありません。大阪は昔から人情と商魂の街であり、異国の人を受け入れてきた土壌もある。けれど、最近のミナミを歩くと、あの頃の大阪の“一体感”が消えてしまったように感じるのです。コンビニの前に座り込む若者たち、悪質なキャッチ、夜の路上で酔った観光客が叫ぶ声。まるで1970年代から80年代前半のニューヨーク・タイムズスクエアのような光景です。「安全」と「活気」は両立しないのかもしれません。けれど、あの頃のミナミには、雑多で荒っぽくても、確かに“大阪ミナミの匂い”がありました。

福岡から東大阪へ、そしてアメリカへ――。

後に私はアメリカで暮らすようになり、会社のカフェテリアでBLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドをよく食べました。いつも「BLTマイナスL(レタス抜き)」と注文していました。そのとき大阪の「肉吸い」を思い出して、一人ニヤリとしました。

――うどんの入っていない肉うどん。

それが、大げさかもしれませんが、何だか自分の人生のようにも思えたのです。どこか“抜け落ちた”ものを抱えながら……やめておきましょう。

いま大阪に帰るたび、ミナミを歩くと、観光地化した街並みの裏に、あの頃の自分たちの足音がかすかに聞こえる気がします。千日前の喫茶店丸福の匂い、夜の心斎橋のざわめき、南街劇場のネオン。それらはもう二度と戻らないけれど、確かに私の中に息づいています。

「肉吸い」という名の、あの不思議な食べ物。

花紀京が二日酔いで頼んだ、何気ない注文から生まれた一杯。その味には、どこか「生き延びるための知恵」が溶け込んでいる気がします。派手でもなく、豪華でもなく、ただ“生きていくための味”。それこそ、大阪ミナミという街の精神そのものだったのではないでしょうか。

いまのミナミは、もうあの頃のミナミではありません。私の心の中だけで、あの雑多で熱い街の彷徨を思い出すのです。

あの街の中には、確かに“青春の匂い”がつまっている。

***

2025年10月19日日曜日

おでんを食べて ~ ツーンの文化と情報の未来



ようやくおでんの季節になりました。

夕べはおでんを食べながら、からしの「ツーン」とくるあの感覚と、日本文化の奥行き、そして情報化やAIによる時代の変化について、少し考えてみました。

「ツーン」は味覚ではない

おでんの大根にからしをつけて食べるときの、あの「ツーン」とくる刺激は、まさに日本ならではの味わいです。外国の人に理解されなくてもいい――私はそう思います。

けれども、あの「ツーン」は厳密には味覚ではありません。辛味を感じるのは、甘味・塩味・酸味・苦味・うま味といった舌の味覚ではなく、「三叉神経」と呼ばれる痛覚や温覚を司る神経です。大根のイソチオシアネートやからしの成分がその神経を刺激し、「ツーン」という一瞬の痛みに似た感覚を生み出します(検索して分かりました)。

温かいおでんの大根とからしの組み合わせは、熱さと辛さが重なり合い、単なる味覚を超えた複雑な感覚を作り出します。そこに、日本人特有の「間」や「変化」を味わう美意識が宿っているのかもしれません。

「味が染みた大根」をからしで食べる文化

よく「味が染みた大根」という言い方をします。長時間煮込まれ、だしが芯までしみ込んだ大根は、それだけで繊細なうま味と甘みをたたえています。そこにからしをつけると、だしの柔らかい風味のあとに、からしの鮮烈な刺激が訪れる。その瞬間、舌の上に「間」や「変化」が生まれます。この「だしのやさしさ」と「辛味のきっぱりとした刺激」の交錯こそ、和食がもつ感覚の妙。日本の食文化は、このような微細な味の移ろいを楽しむ中で磨かれてきたのでしょう。

「わからなくてもいい」という美意識

日本人が「外国の人に理解されなくてもいい」と感じるのは、排他的というよりも、むしろ自然な態度です。食文化は、その土地の風土、気候、生活のリズム、そして言葉とともに育まれてきたもの。だからこそ、「わかる人にだけわかればいい」という静かな誇りがあるのです。

その繊細な感覚は、説明ではなく共有によって伝わります。味覚の奥にある「文化的記憶」は、言葉にならない部分に宿る――日本文化の本質は、そこにあるのかもしれません。

情報化と文化の継承

しかし現代は、その「言葉にならない記憶」が失われつつあります。情報化、デジタル化、そしてAIの登場は、人々の思考のあり方を根本から変えつつあります。間違った使い方をすると、思考のアウトソースになってしまいます。

人は自分が理解する共同体の中で生きます。情報もまた、その共同体の文脈でしか理解されません。つまり、「普遍的な真理」というものが揺らいでいるのです。これは哲学者ニーチェが言った「神の死」にも通じる現象でしょう。かつて人々は、共通して信じる価値や物語の中で生きていました。けれども今は、情報の洪水の中で、それぞれが自分の信じたいものだけを信じている。真実よりも「信じやすい物語」が支配する時代です。

フェチと模倣の時代

私たちは何かを見るとき、対象そのものを見るのではなく、自分の思い込みや願望を通して見ています。これが「フェチ」の構造です。

写真は現実の風景を写し取るように見えても、実際は複製にすぎません。デジタル化が進むにつれて、その複製は限りなく本物に近づき、いまではAIが「本物と区別のつかない模倣」を作り出しています。

もはや「本物」と「偽物」の境界は溶け、私たちはそれぞれの信じたい世界の中で生きるしかない。AIが作り出す世界とは、そうした「共同幻想の自動生成」でもあります。それは、かつての宗教や共同体に代わり、情報の流通によって形成される「新しい信仰」とも言えるでしょう。

日本文化の危機と希望

日本文化は、日本語という独自の思考体系を通じて伝承されてきました。その蓄積は二千年以上に及びます。言葉によって培われた感覚、沈黙の中にある意味、曖昧さを許容する心――それらが「和」の文化を形づくってきました。

しかし、デジタル化とAIの普及によって、日本語そのものが思考の道具として弱まりつつあります。翻訳や要約、画像生成によって「感覚の細部」が削ぎ落とされ、文化が軽量化していく。もしこの流れが続けば、日本人が育んできた「ツーンとくるような感性」も、やがて消えてしまうかもしれません。

「ツーン」の哲学

おでんのからしが鼻を刺すあの一瞬。それは単なる痛みではなく、感覚の奥で「生きている」ことを思い出させてくれる刺激です。文化もまた、時に痛みを伴うものです。理解されない、伝わらない――そうした孤独の中でこそ、文化は静かに根を張るのかもしれません。

AIの時代になっても、人が「ツーン」と感じる瞬間を忘れないかぎり、日本の文化はまだ生き続ける。小林秀雄は「上手に思い出すことが大事だ」と言いました。秋が深まり、おでんを食べて「ツーン」と感じるとき、私たちは上手に思い出すことができるのです。

自分がどこから来たのか、何を大切にしてきたのかを。

***

2025年10月16日木曜日

納豆とわたし ― 福岡からニューヨーク、そして保谷納豆へ

 


















子どもの頃、私は福岡市内の公団住宅に住んでいました。
昭和30年代から40年代の初めの頃です。

朝になると、リヤカーを引いたおじさんが「豆腐」や「納豆」ではなく、「おきゅうと」を団地に売りに来ていました。

「おきゅうと」とは、海藻のエゴノリを煮溶かして小判型に固めた福岡名物で、農林水産省のホームページにもちゃんと紹介されています。戦前までは「おきゅうと売り」が朝の風物詩で、飢饉の時代には多くの人を飢えから救ったといわれ、「御救人(おきゅうと)」という字をあてる説もあるそうです。なるほど、名前からしてありがたい。いわば“食卓の救世主”です。

しかし、我が家の朝の食卓におきゅうとが並ぶことはありませんでした。そんな福岡で育った私ですから、納豆文化とは無縁のはずです。ところが、わが家では例外的に納豆を食べていました。両親も私も関西出身。関西では納豆は「くさい」と敬遠されがちですが、私は大好きでした。我が家では“卵を入れるか入れないか”で論争が起こるほどです。

ニューヨークに暮らしていた頃も、納豆だけは切らさないようにしていました。日本食料品店では冷凍の納豆が売られていて、我が家ではいつもストックしていました。海外生活では、味噌汁よりも納豆が恋しくなる――そんな日本人は案外多いものです。

ここ15年ほど、私は「保谷納豆」の〈つるの舞〉を食べ続けています。年を重ねるとステーキの焼き加減が変わるように、納豆の粒の大きさの好みも変わるものです。若いころは小粒一筋でしたが、今は断然、大粒派。大豆本来の香りと甘みがしっかりしていて、「ああ、豆を食べているなあ」と実感できます。

考えてみれば、「おきゅうと」と「納豆」は、どちらも日本の知恵の結晶です。海と畑――まるで性格の違う素材を、丁寧に発酵・加工して食文化にしてしまう。その工夫と根気こそ、まさに日本人らしさではないでしょうか。

納豆をかき混ぜながら、私はときどき思います。1990年代のマンハッタンでは、ヤッピーたちは枝豆なんて食べ方も知らなかったし、興味もありませんでした。ところが2000年代に入ると、バーのカウンターで若いビジネスマンが枝豆をつまみにビールを飲んでいる。寿司もラーメンも、今ではすっかり定着しています。

もちろん、日本の食文化が世界に広がるのはうれしいことです。でも、どこか複雑な気分にもなります。五感で楽しむ日本の食べ物の良さや情緒を世界の人が理解してくれるのはいいのですが、日本人だけの楽しみが少しずつ“外”に溶け出していくようで……。

和食の歴史や作法だって、日本の中でも忘れられつつあります。海外で広まるうちに、日本食もまるで別物になっていくのかもしれません。

外国の人は「いただきます」も「ごちそうさま」も言わないですからね、、、、。
    
***

2025年9月15日月曜日

プルドポークサンドイッチの思い出


昨日はプルドポークサンドイッチを作って食べました。家で作ると本当に美味しいですね。日本のパンが美味しいこともあって、空港で食べたあのサンドイッチとはまるで別物です。

今から25〜6年前、私は自宅のあるNYからナッシュビルに毎週仕事で通っていました。飛行機で2時間半ほど、時差は1時間。アメリカのコンサルティングビジネスはとにかく広大な国が舞台なので、自分の所属するオフィスや住んでいる地域に限らず、プロジェクトは全米に散らばっています。移動は基本的に飛行機。月曜に自宅を出て現地に飛び、月火水と三泊、木曜の仕事が終われば夜に帰宅。そして金曜は自分のオフィスに出社して勉強会や作業に参加する、という「3-4-5」のリズムで回っていました。

体調管理も大変で、知性と教養に加えて体力、そして何より「へこたれないユーモアの精神」が不可欠でした。今考えると、よくもあんな非人道的なブラック業界で働いていたものだと思います。でも結局のところ、私はコンサルのビジネスそのものが好きだったのでしょうね。

プロジェクト責任者ともなると、金曜はクライアントとのフォローアップでさらにタフ。夜にナッシュビル空港に向かい、最終便のNY行きに乗る前に夕食をとります。当時の空港にはレストランが一か所だけで、メニューはなんとプルドポークサンドイッチのみ。正直、あまり美味しいとは言えませんでしたが、ビール片手にかぶりつくのが週末の小さな儀式のようでした。フライトがディレイやキャンセルになると、がっかりしながらナッシュビルのホテルに泊まることもありました。

それが今では、家で作るプルドポークがちょっとした楽しみになっています。月に一度は食卓に並びますが、閑散としたナッシュビル空港で食べたあの味を思い出すと、やっぱり「家で食べるプルドポークが一番だな」と感じます。

***

2025年9月13日土曜日

ケチャップの記憶と昭和のナポリタン

 

子供の頃の福岡で出会ったケチャップの味は、ナポリタン以上に鮮烈でした。貧しかった昭和の食卓、デパートの食堂、そしてアメリカ暮らし――ケチャップはいつも私の食の記憶をつなぐ役割を果たしてきました。

2025年9月4日木曜日

香港の朝と中華粥

 

香港スタイルのコンジーです。かつて仕事で通った香港の朝がよみがえってきました。


私が香港をたびたび訪れたのは1980年代半ばから2000年代初頭までで、最後に行ったのは2004年か2005年だったと思います。香港が輝きを失っていく過程を目撃しました。たぶん、私の好きな香港は1990年頃で終わったと感じています。返還を前に、知り合いたちは次々とカナダやオーストラリア、アメリカに移住していきました。残されたのは、かつての自由の香りではなく、別の時代の気配でした。

香港の朝はニューヨークの朝と同じように早い。まだ夜も明けきらぬ4時、5時になると、外から身体をパンパン叩く音や、ジョギングする人々の声が聞こえてきます。プロムナードでは鳥かごを手に集まった老人たちが鳥の声を競い、シニアたちは海で泳ぎ始めます。レパルスベイ――映画『慕情』の舞台となったあの海岸――に立てば、まだ薄暗い波打ち際に老若男女が浮かんでいる姿が見えます。これが香港の朝の風景でした。九龍城の北に広がるニューテリトリーには、当時は田園が広がっていました。ビジネスはセントラル地区に集中していて、ニューテリトリーは都会の喧騒とはまるで別世界のように穏やかでした。

当時、若い私はいつも日本と比較して考えていました。日本は全体が夜型です。会社員は夜遅くまで「仕事」を続けています。朝の活力ではなく、夜の惰性に支配された社会。これでは効率も生まれないのではないだろうか、、、、と。 

かつての香港の朝には、中国的な混沌とイギリス的な秩序が奇妙に同居していました。しかし返還以降、その均衡は崩れ、自由の息吹は次第に失われていきました。今では、あの澄んだ朝の海風にも、どこか重たいものが感じられるようになったのではないだろうか。

夕べの中華粥はうまかった。けれども、思い出す香港の粥はもっと別の様々な感情が宿ります。お粥を食べながら、私はもう二度と訪れることはないだろう香港の朝を、そして失われたあの自由を、懐かしく思い出していました。

Hong Kong Mornings and Congee

It was Hong Kong–style congee. As I ate, the mornings of Hong Kong I once knew came back to life.
I visited Hong Kong frequently from the mid-1980s to the early 2000s, and I believe the last time was around 2004 or 2005. I witnessed the city gradually losing its brilliance. For me, that brilliance had ended around 1990. On the eve of the handover, many of my acquaintances left for Canada, Australia, or the United States. What remained was not the fragrance of freedom, but the air of another era.
Hong Kong mornings start early, much like those in New York. At four or five in the morning, before dawn has fully broken, you can already hear the sounds of people slapping their bodies for health, or the voices of joggers greeting each other. On the promenades, elderly men gather with birdcages, comparing the songs of their birds, while seniors wade into the sea for a swim. Stand on Repulse Bay—the beach made famous by the film Love Is a Many-Splendored Thing—and even in the dim half-light, you will see men and women of all ages floating in the surf. This was the landscape of Hong Kong mornings.
North of Kowloon Walled City stretched the New Territories, which at that time were largely rural. Business was concentrated in Central, leaving the New Territories calm and pastoral, a world apart from the city’s bustle. As a young man then, I could not help but compare this with Japan. Japan, I felt, was entirely a night society. Salarymen stayed endlessly at their offices, pretending to work late into the night. Not energized by mornings, but trapped in the inertia of nights. Could any efficiency truly be born from such a system?
The Hong Kong mornings of the past carried a strange coexistence of Chinese chaos and British order. Yet after the handover, that balance collapsed, and the breath of freedom gradually faded away. Now, even in the once-clear morning sea breeze, something heavy seems to linger.
The congee I had last night was delicious. Yet the congee I remember from Hong Kong carries another weight of feeling. With each spoonful, I recalled the mornings I will likely never see again—and the freedom that has since been lost.
  
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2025年8月14日木曜日

お好み焼きと思考の高め方、ほんまに奥深いで

 


お好み焼きって、作り方がめっちゃ奥深いねん。関西人やさかい、ちょっと口出したくなるんやけど、ほんま奥が深いんよ。大きく分けたら関西風、関東風、広島風の三種類や。関西風と関東風は、具と生地を混ぜる「混ぜ焼き」が特徴や。キャベツはみじん切りにして、生地と具がよう混ざるようにするんやけど、関西風は生地少なめ、関東風は多めって違いもある。広島風は生地を薄うのばして、その上に具材をのせる「重ね焼き」。ひっくり返すときに散らばらんよう、キャベツは長めの千切りがええんや。


昨日、気合い入れて作ったんやけど、、、大失敗や。キャベツを粗みじん切りにしたつもりが、2~3センチ角になってもうてな。鉄板の上でキャベツが飛び散りまくって、えらいことになってもうたわ、「さっぱりワヤヤ」や。豚バラも、いつもは最初に焦げるまで焼いてから生地のっけるんやけど、今回は生地の上に豚バラのせて、かつお節もパラパラ。味はまぁまぁやったけど、細かい違いで全然変わるんやから、料理ってほんま面白いわ。

オイラが料理好きなんは、料理作りたいときだけ作るからやと思うワ。気が向いたときだけ手を動かす、そんなんがええんや。実は、手軽に達成感を味わえる単純作業の皿洗いも好きやで。これもまた、ちょっとした「作業の楽しみ」やねんな。

このお好み焼きの話、実は思考の進め方に似とるねん。料理も思考も、試行錯誤を重ねて「失敗の幅を狭める」作業や。キャベツの切り方や長芋の量ひとつで完成が変わるように、頭の中で言葉や考え方を整理して試すことで、思考の精度が上がるんや。読書も同じで、文章を読むことで知識や語彙を頭に蓄え、整理する。そうすると、自分の考えを組み立てやすくなるんよ。

書くことは、その読解力をさらに深める最良の手段や。ただ、ハウツー本ばっか読んで、チャットで短文のやり取りだけして満足してると、老後も内容のない生活になってまう。文章の要約や作成を生成AIに任せきりにすると、料理で例えたら「材料を放り込むだけで味見もせえへん」状態や。自分で試行錯誤せんまま完成品を食べるだけやから、思考力も深まらんわ。

だから、料理も思考も一緒や。手を動かして、材料を考えて、試行錯誤して、自分で組み立てる。その過程を楽しむんがほんまに面白いんや。お好み焼きも、文章も、人生も、奥深さを味わうことが大事やねんな。わかってくれはりますか?

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2025年7月30日水曜日

ブルスケッタとの邂逅

    
ブルスケッタという料理の名を、初めて聞いたのは1990年ごろのニュージャージーでした。

「ブルスケッタ」とはイタリア語で、表面をあぶって焼いたパンにオリーブオイルやニンニクを塗り、トマトなどの具材をのせた前菜です。見た目はカナッペに似ていますが、パンを焼いて少し焦げた香ばしさを加えるところが特徴的です。

当時私は、マンハッタンの営業所の一員として、トライステート(ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット)のクライアントを車で訪問して回っていました。ニュージャージーでは製造業のクライアントが多く、その日も日系企業をいくつか訪ね、昼食時にはイタリア系アメリカ人の同僚と小さなレストランに入りました。

カウンター席に座ると、彼は迷うことなくワインと前菜を注文しました。「ブルスケッタ」と聞こえた気がしたのですが、「プルスケッタ」なのか「ブルスケッタ」なのか、当時の私には正確に聞き取れませんでした。

田舎育ちでハイカラな食べ物に疎い私にとって、それは見るのも初めての料理でした。焼き目のついたバゲットの上に鮮やかなトマトがのり、香ばしいオリーブオイルの香りが漂っています。ひと口食べて、すっかり気に入ってしまいました。以後、我が家の食卓にもときどき登場するようになりました。

些細な出会いかもしれません。大人になってからの出会いでしたが、この小さな前菜は、確かに私の味覚と記憶に刻まれ続けています。

思えば、人生とはこうした「邂逅」の積み重ねなのかもしれません。食べ物にせよ、人にせよ、風景にせよ、自分の外に一歩踏み出したときにだけ訪れる、偶然のような、必然のような出会い。それを逃さず受け止めるには、多少迷子になる勇気も必要なのだと、若いころの私はどこかで独善的に思っていました。

あの焦げたパンの香ばしさは、いまでもふと記憶の中によみがえります。ブルスケッタとの邂逅は、私にそんな人生の断片を思い出させてくれるのです。

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2025年7月23日水曜日

焦げた醤油の記憶

 

私が焼きトウモロコシに初めて出会ったのは、小学校の低学年の頃、家族で阿蘇へドライブに出かけたときのことでした(昭和30年代)。草千里でたまたま観光用の馬がいて、ついでに乗ってみるか、ということになったように思います。馬の記憶は正直あまり残っていないのですが、そのとき風に乗ってふわりと漂ってきた、ある香りのインパクトだけは今でも鮮明です。

焦げた醤油の匂いです。

しかも、それがトウモロコシに染み込んでいるというのですから、子どもながらに「これはただ事ではない」と思ったわけです。

一本買ってもらい、高原の風に吹かれながらかぶりついた焼きトウモロコシ。あれは私の味覚の原風景となりました。脳のどこかに「本物」としてしっかり保存されたのでしょう。

その後、中国でもアメリカでも、トウモロコシは何度も食べました。けれど、あのときのような衝撃には、二度と出会っていません。焼いたものというより、茹でたものか、粒をスープに浮かべたものばかり。あの香ばしく焦げた醤油の香りは、日本人の食に対する異常なまでのこだわりの結晶だったのだと、あとになって気づきました。

人は、子どもの頃に出会った「本物」を無意識のうちに基準にして生きていくのだと思います。味覚もそうですし、読書や人間関係も同じです。脳のデータベースには、最初に登録されたものが「標準設定」として残る。もし最初にストアされたものがニセモノだったら、その後の判断も少しずつズレていくかもしれません。

だから、若いうちにどれだけ「本物」と邂逅できるかが大事です。 

本で言えば、手当たり次第に自己啓発書を読むよりも、まずは古典を一冊読んでみる。明治や昭和初期の文豪たちの作品に触れることで、現代の情報過多のなかで忘れがちな「重み」や「間」を感じることができます。そして何より、そうした古典は、読み手の年齢や経験に応じて違った顔を見せてくれる。十五歳のときに読んだ『吾輩は猫である』と、四十歳になって読み返すそれとでは、まるで別の小説のように響いてくるのです。

人との出会いも同じです。若い頃に「生きた教材」としての人物と邂逅できたかどうか。単なる有名人や高スペックの人ではなく、強烈な個性や矛盾を抱えながら、それでも一本筋の通ったような人。そうした出会いは、その後の人生の糧になります。

AIは便利です。世界中の情報を集めてくれる。でも、それは誰かが経験した知識の寄せ集めであって、自分の身体や感情を通したものではありません。焦げた醤油の香りを知らないAIに、あの焼きトウモロコシの味は語れないのです。

タコツボの中に閉じこもっていたら、「本物」との邂逅にも限りがあります。だからこそ、「迷子になること」を恐れないでほしいのです。それは、一歩踏み出す勇気であり、自分の世界を広げるための旅の始まりでもあるのです。

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2025年6月17日火曜日

冷奴が主役だった日

 豆腐丼

冷奴が主役だった日

~ 冷奴と自衛隊と、私の豆腐史

小学生の頃、私は福岡の公団住宅に住んでいました。当時の団地には子どもがたくさんいて、放課後になると団地の広場に集まり、三角ベースの野球をする日々でした。日本全体がまだそれほど豊かではなく、今のように目に見える経済格差を意識することもありませんでした。団地には、板付の米軍基地で働くお父さんを持つ家庭もありました。医者の子どもは、団地のすぐ外にある一軒家の立派な家に住んでいましたが、子どもたちの間に上下の意識はほとんどなかったように思います。家の広さや肩書きなんて関係なく、皆が一緒に遊び、笑い、同じ空の下で時間を過ごしていたのです。

そんな暮らしのなかで、子供会はちょっとした“社会”でもありました。夏のラジオ体操に始まり、団地の野球チーム、そしてその中には「自衛隊一日体験入隊」という、少し風変わりな行事もありました。

行き先は福岡県の築城基地でした。当時、今の福岡空港は「板付空港」と呼ばれ、まだ米軍の管理下にありましたが、築城基地はすでに日本に返還され(1957年返還)、航空自衛隊のジェットパイロットの訓練基地となっていました。とはいえ、「入隊」といっても子ども向けの社会見学のようなもので、特別な訓練があるわけでも、迷彩服を着るわけでもありません。それでも、自衛隊基地に足を踏み入れるという非日常の体験に、子どもながらに高揚した気持ちを覚えました。

その日のハイライトは、昼食でした。無機質なアルマイトの食器に、ご飯と沢庵、そして冷奴が配られました。ふりかけはあったかもしれません。「おかずはまだかな」とわくわくしながら待っていたのですが、それ以上何も出てきません。やがて、冷奴こそが“メインディッシュ”だったのだと悟ります。

小学生にとって、冷奴は決してうれしい食べ物ではありませんでした。特に嫌いというわけではありませんが、カレーやハンバーグのような、わかりやすいごちそう感はなく、淡白で地味な存在です。楽しみにしていた昼食が冷奴だったという事実に、なんともいえない肩透かしを食らったような思いをしたのを覚えています。

ですから、あの冷奴が私を豆腐好きにしたわけではありません。冷奴が好きになったのは、大人になってからでした。ビールの美味しさがわかるようになって、夏の夕方、風呂上がりに冷たいビールとともに冷奴を口にするようになってから、その良さに気づきました。冷奴が、日本人としての身体になじんできたのです。

最初は絹ごし豆腐のなめらかさが好きでしたが、年齢を重ねるにつれて、しっかりとした食感の木綿豆腐を好むようになりました。そして最近では、大豆の味が濃くて崩れにくい沖縄の島豆腐を選ぶことが増えています。豆腐という食べ物の奥深さを、いまさらながら感じています。

築城基地の昼食がきっかけで冷奴が好きになったわけではありません。でも、あの日の記憶がどこかに残っていたからこそ、冷奴にまつわる風景や気持ちを、今の自分なりに味わえるようになったのかもしれません。

人の好みは、時間とともに静かに変わっていきます。たとえそれが一丁の豆腐であっても——おそらく、思想も。

築城基地
F-86セイバー(第一世代のジェット戦闘機)と小学生の私(昭和30年代)

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2025年4月18日金曜日

煩悩だらけの前期高齢者


久しぶりの焼肉。

高齢者でも常に焼肉やステーキを必要とする人がいます。そういった人はエネルギーがみなぎって元気なのかも知れません。さて、私にとってそれらは本当に必要か?たま~~に食べたくなるので、食べられた時は幸せを感じます。

自分にとって必要なものは何か?これからは時間がなくなっていくので、本当に大切なものに労力を費やしたいと思います。出来る限りシンプルにして。

遊行期(ゆぎょうき)とは、古代インドの四住期における最後の段階であり、75歳から死ぬまでの時期を指すそうです。遊行期は人生の終わりに向かう時期であり、死を意識しながら静かに人生を終えること、そしてこれまで培ってきたものを世に還元し、新しい出発を準備する時期だそうです。

私のような煩悩だらけの前期高齢者は遊行期に突入するための準備期間なのかも知れません。

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2025年3月21日金曜日

Freedom and Responsibility (自由と責任)

Cooking is like experimenting. You try anyway. I fail, but I wouldn't stop. It is just like everyone's life. You don't give up even if you don't get recognition. It's true for my "Niku-jyaga"(Japanese beef and potatoes). Even if you fail, you keep on making it. Failure is a part of my life. It's food for thought. This time, Niku-jyaga was well done.


Education before the 15-year war of the Showa period placed more importance on the “ears” and the “mouth. However, in the 80 years after the defeat of the war, education was focused on “eyes” with an emphasis on entrance examinations.

Cooking and music are not interesting unless there is someone to eat and listen to them. Studying for exams alone is boring. Knowledge that you think with your eyes is in the past tense. It is like accounting versus finance. It doesn't produce originality.

The “ears” and “mouth” are more important than the “eyes. When the intellectual activity performed by the mouth stops, the elderly become blurred. A guitarist should sing even if he is tone deaf. It is always better to think with the eyes, ears, and mouth in a balanced manner. And when multiple eyes, ears, and mouths come together, new things are created. 

It is freedom and creation. The base of freedom is responsibility. Japanese education has taken away freedom and deprived children of their ears and mouths. Because there is no freedom (Japanese equality), people do not think about responsibility. It has been 100 years since the Showa era. We still don't realize it.

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2025年2月11日火曜日

ハンバーガーの思い出

近所のハンバーガーチェーン店(フレッシュネスバーガー)です。驚きの値段ですね。いつもお客さんでいっぱいです。私はまだここのハンバーガーは食べたことがありません。

小学生低学年の頃は鉄人28号やちばてつやの漫画に熱中していました。アメリカ製の漫画『ポパイ』もテレビでやっていました(1959年~1965年)。ポパイの中でウィンピーというキャラクターが登場し、口癖が「ハンバーガーをおごってくれよ(I'll gladly pay you Tuesday for a hamburger today)」でした。当時はハンバーガーなんて日本にないし、どんな食べ物なのか? ポパイの漫画の内容よりハンバーガーって何だと画面に食い入って観ていました。

https://youtu.be/68eue5cpbsE?si=wUEfYZ9_1eyXBi3f

1964年アメリカの原子力潜水艦シードラゴンが佐世保に入港し大騒ぎになりました。父親に連れられて福岡からシードラゴンを観に行きました。ランチにハンバーガーを人生で初めて食べました。そこはレストランではなく米兵相手のバーで、昼間は軽食としてハンバーガーを出していたようです。バーのカウンターで食べたハンバーガーは生の玉ねぎのスライスが入っただけのシンプルなものでしたが、今でも鮮明に記憶に残っています。

その後大阪で高校生になった私は近鉄布施の商店街でマクドナルドに遭遇(邂逅)することになりました(1972年)。一号店はアベノ近鉄のようですが、布施のマクドナルドもほぼ同時期でした。ビッグマックとフレンチフライには驚きましたね。ハンバーガーが80円、ビッグマックは確か200円だったと思います。当時放映されていたアメリカのTVドラマやアメリカンニューシネマの影響もあり、私のアメリカ熱は最高潮に達しました。もうアメリカに行くしかないと!












マクドナルド HP より(当時の布施店の写真があります!)


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2024年11月24日日曜日

フェイク、フェイク、フェイク!

フェイクのマクドナルドのダブルチーズバーガー

 


レコーディングの技術で 24トラックが 48トラックになる頃から音楽は急速に面白くなくなりました。ビートルズの初期のレコードはモノでした。それが 2トラックになり『リボルバー』で画期的な4トラックになりました(1966年)。ビートルズがライブ演奏をしなくなった頃です。


今やデジタル化が進みすぎて、音程が半音ずれようが修正してしまう。リズムだってクリック(メトロノーム)を外して狂おうが修正できてしまう。AIボーカリストが歌うようになって、人間が歌っているのかAIが歌っているのか訳の分からん世界になっています。音楽はますます面白くなくなるのです。音程がずれてリズムを外すからアジが出るのです。

音楽だけではありませんよ。我々はフェイク!フェイク!フェイク!の世界に生きているのです。

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2024年10月20日日曜日

アジの開き

 アジの開き


塩焼きにするとアジよりも新鮮なサバのほうが脂がのっていて絶対に旨いけど、良質のアジの干物は懐かしい香ばしさがある。

岸壁から釣るとサバは小さいのしか釣れない(15~20センチ)。これは食べても旨くない。本当に美味しいサバは30センチ級で船で沖にでないと釣れない。岸壁から釣る豆アジは丸ごとから揚げにするので5センチくらいが旨い。イワシは大きさにかかわらず新鮮であればおいしい。  

鳴門の友人の話を聞いていると、私が徳島にいた40数年前と違って昔のように岸壁から釣れなくなったらしい。当時は夜釣りでアナゴも釣れました。

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2024年10月17日木曜日

うぬぼれと不安の交錯   















山かけ蕎麦

外で食べると1000~1400円(吉祥寺神田まつや は1320円)。私は自分で作ります。作る楽しみもあるから。


1980年代の初め、六本木のランチは1000~1200円でした。自分も若いし給料も少ない。四国徳島から六本木に異動してきた私は別世界である東京の物価はすごく高いと思いました。でも当時のサラリーマン同様に私は1200円のランチを食べていた。夜は同僚と飲みに行ってから帰宅した。社会保障にしても税金にしても特に気にすることはなかった。


あれから40年、情報システム(デジタル化)は急速に進歩し生活環境は随分と便利に変化しました。しかし、若い人たちには酷な社会になったと思います。

1980年代後半、長男が生まれ住宅ローンが始まると生活は苦しくなり、買ったばかりのマンションを放り出してニューヨークに逃亡したのでした。「うぬぼれ」と「不安」をごちゃ混ぜにしながら。
   
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