2013年5月31日金曜日

お天道様は見てないのか?


お天道様は見ていないのか?

今日は、朝からお天道様が顔を出して気持ちがいいので、チャーリーと散歩に行きました。 吉祥寺方面はダメですね。 早朝5時ですが、すでに犬を連れて散歩している人が多く、犬の落し物も多い。 もう少し自分を律してほしいですね。 犬だって飼い主の行動を見ていますよ(They will learn what we live)。  

せっかく空気も爽やかなのに、気分を害して帰ってきました。

教育といい、テレビ新聞を見ても、野坂昭如が言うように、「結局、何が豊かなのか判らぬまま、日本は滅びようとしている。 戦後、その都度決着をつけてこなかったこの国、当然の報い」なのか。

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2013年5月29日水曜日

ダルマさん

実家にあった達磨坐像

この置物は福岡にいたころのものですから、今から半世紀近く昔のものです。 福岡には「旦過(たんが)だるま堂」という達磨大師をまつっているお寺があります。

面壁九年(めんぺきくねん)

達磨大師は、禅宗の開祖とされている人物です。ダルマというのは、インドのサンスクリット語で「法」を表す言葉だそうです。 中国南北朝時代、達磨大師が少林寺に籠こもり、九年もの間、壁に向かって座禅を組み続け、ついに悟りを開いたという故事から「面壁九年」というそうです。

達磨大師は開祖ですから、ただの人ではないのでしょう。 そういった聖人が9年間考えて、やっと悟りを開いたそうです。 私のような老百姓は、一生かかっても悟りの境地に達しないから、死ぬまで悩むのでしょうね。

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2013年5月28日火曜日

東名のトイレから考察する日本人の民度

東名高速足柄SAのトイレ

日曜に東名を西から東へと走りました。 休日のサービスエリアは動物園のようです。 日本は朝の始動が遅いので、早朝だとサービスエリアはゴミの山です。 一方、トイレはまだあまり使われていないのでキレイです。

「民度」が高い低いってありますね。 「民度」って分かりにくい。 英語だと何といったらいいでしょうか? ズバリこれだという英単語はないように思います。 アリストテレスが言うところの、エトス、パトス、ロゴスのエトスの部分を「民度」と考えて説明すると、分かりやすいと思います。 エトスは、道徳的な特徴であり、個人の自立や生涯と結びついています。 まだ、他者は登場しない状態です。 相対主義的なものじゃない。

マックス・ウェーバー(以前ブログに登場しました。 下のリンクをクリックして下さい)は、社会のレベルを測る物差しとして、エトスを捉えました。 社会学者のウェーバーは、エトスには3つの要素があると言っています。 一つは、世間(社会)で共有される生活様式、2つ目は心的態度、つまり、個人が主体的に選択する意識、そして3つ目は個人の倫理観念です

さて、東名サービスエリアのトイレから考察する日本人の「民度」はどうでしょうか?  どこまで踏みとどまれるか?      


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2013年5月27日月曜日

全てはわからない

蜘蛛の糸
(芥川龍之介は日本人と宗教を考えたのだと思います)

和辻哲郎は「人間は個人としてだけではなく、人と人の間があるからこそ、そこに人間が存在するのだ」と考えました。 

和辻哲郎の、人と人の間(これは、福沢諭吉が言った「人間交際」だと思いますが)には、個人の自立が大前提になっているのでしょう。 アリストテレスが著書『弁論術』の中で、パトス(パッション)やロゴス(ロジック)の前に、エトス(エシック:倫理観)の確立が重要だと言ったことと同じことだろうと思います。

個人の自立には、自分を知ることが大事だと思うのですが、自分自身のことも100%分かるものではありません。 だから、人と交際したり、書物や自然など、あらゆる他者と接して自分を理解しようとしなければいけないのです。 

死後の世界は分からない。 分からないものに対しては、恐怖心が起こります。 だから、宗教が存在します。 宗教心が希薄な日本人(私を含む)は、分からないものに対する恐怖心を、考えないことで誤魔化しているのか、それとも、自分を含め、全てのものを理解していると考えているのか? もし、後者であれば、日本人って、かなり傲慢で尊大な民族ですね。 

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2013年5月26日日曜日

ハナショウブ


デジタル一眼レフによる撮影です。 絞り、シャッタースピード、ISOなど全く考えずに、オートでシャッターを押しただけです。 平凡ですね。 他力本願です。


西方寺 (奈良市)

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2013年5月25日土曜日

試行錯誤

ライカM3(1959年製)を試しているのですが、デジタル一眼レフに慣れた私は、なかなか上手に写真を撮ることができません。 近所のカメラ屋さんではISO400のフィルムしか手に入らないことも、今回初めて知りました。

私が使っているNIKONのデジタル一眼レフは、自動設定で撮ると、ISO(感度)と絞り値(F値)とシャッタースピードとピントを瞬時に自動計算してベストな状況で撮影させてくれます。 例え、シャッタースピードが遅い場合でも、105mmで撮ろうが、レンズにはVRという高性能な手振れ防止機構まで内臓しています。

要するに、自分では何もしていなかった。 カメラの機能に便乗していただけだ。 簡単に綺麗な写真(もちろん素人写真ですよ)が撮影できるから、何も問題ないのですが、試行錯誤して錯誤の幅を縮めていく楽しみを自ら放棄していることであります。

満足できる一枚が撮れるまで、これからどれだけのジャンクプリントが山積みになるのか、あ~、、、(楽しい)。

これは、新人コンサルタントの情報処理教育で使用したスライドです。


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2013年5月24日金曜日

チャーリーの人格形成 ~ 子は親の鏡

やんちゃなチャーリーは、飼い主の鏡?
Charlie learns what we live !!!

今日はボブ・ディランの誕生日です。
15年前、ボブ・ディランが親子でグラミー・アワードに出ていました。

「ちゃんとお父さん業もやってたんだ、、、」。

グラミー直前に、ディランが心臓発作で倒れたことが話題になっていました。

「麻薬で心臓発作を起こしたんだろうなぁ、、、」。

尊敬するボブ・ディランも、その他大勢のミュージシャンと一緒にしてしまい、大変失礼なことをしました。

『時代は変わる(The Times They Are A-Changin’)』というボブ・ディランの曲があります。 たとえ、ボブ・ディランがこの一曲だけで終わっていたとしても、尊敬に値する名曲です。 

ビリー・ジョエルがモスクワで始めてコンサートを開いた時(1987年)、アンコールでアコースティック・ギター一本でこの曲を演奏しました。 ソ連邦崩壊前、モスクワの若者に対するビリー・ジョエルのメッセージがこの一曲の歌詞に集約されていたからでしょう。

ボブ・ディランは息子と一緒にグラミー・アワードのステージに立っていました。 音程があってるんだか外れているんだか何だか分からないボブ・ディラン節は、いまでも変わりません。 ボブ・ディランの親子関係やプライベートがどうなってるか全く知る由もありませんが、反体制の旗印のような彼の別の一面を見たようで、嬉しくなったことを思い出しました。

子どもの人格形成に、一番大きな影響力を持っているのは、やはり親だと思います。

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2013年5月23日木曜日

絶対にグローバル化されない日本の文化

高齢化地域の公園 ~ 正午過ぎなのに人っ子一人いません

生まれた時は初宮詣(お宮詣)で神社に参拝、結婚式は教会でキリスト教の形式だけを真似る(中味がキリスト教の人もいるでしょうが)。 死んだら八割以上がお寺で仏式葬儀。日本というフレキシブルな国柄をよく表しています。

火葬というのも世界では少数派です。 その中でも火葬の後、お箸で骨を骨壺に入れるのは稀でしょう。 私は、この風習が嫌いだったのですが、祖先から子孫へのバトンタッチという意味では分かり易く、意外と良いことではないか思うようになりました。 また、人間死んだら灰になって土に帰るのだと思うと、私みたいな老百姓でも毎日を大事に生きようなんて思ったりします。 

ちなみに、火葬率は日本では99%、アメリカでは20~30%です。 アメリカの火葬は、灰になるまで火葬にします。つまり、骨を拾う習慣なんてないのです。 アメリカ的ですね。刹那的ですね(こう考える私は日本的ですねぇ、、、)。

埋葬法に関する違いを知っておくことは、実は、グローバルに活躍しようとする日本人にとって大事なこと、まさに第一歩かも知れません。 テクノロジーが進化して、国境のない世界が多くの難題をグローバルに解決するには、まだまだ時間がかかるということです。 永遠に不可能かも知れません。 だから、それまでうまくバランスをとる智慧や能力が国として必要なのでしょう。

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2013年5月22日水曜日

国の柄

33年前に読んだ本を読み返していました
33年前の私が理解していたとは到底思えませんが、、、、

私の尊敬する先輩のIさんが「今の日本の相対主義を謳歌する風潮」に怒っていました。まさに、その通りですね。 

今は亡き高田渡というフォークシンガーが「生活の柄」という歌をうたっていましたが、日本も「国の柄」を考えたほうがいいと思います。絶対的な国の柄を再認識し、国としての知恵をつけないと、あっという間に覇権国家に飲み込まれちゃいます。 


もちろん、日本人の気高いモラルを更に高めながらですよ。教育の基礎ってそういうものじゃないでしょうか?

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2013年5月17日金曜日

東名を西に走りました

今朝の富士山 @ 東名 富士川サービスエリア(デジカメ一眼での撮影)

デジカメって、カメラの機能に任せているだけで、私はデジカメの機能に便乗しているだけなのです。 だから、私の写真には魂が入っていない、、、、。

日本は、幕末の不平等条約をリセットするために、日清、日露の二つの戦争を必要としました。 でも、本当に問題なのは、日比谷焼打ち事件(1905年)が象徴している日本人大衆の性質であり、日本ジャーナリズムのレベルの低さでしょう。 下は、夏目漱石の『三四郎』からの抜粋です。 数年前にもブログにUPしました。 夏目さんは凄い。

髭の男は、「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが」、「あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。

三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。


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2013年5月16日木曜日

マリリン・モンロー ノーリターン


「生物として子孫繁栄の役割も済み、といって、後の世代に伝えるべき知恵を持たない。ならば出来ることは、早く消えて、自分たちの居場所を渡すことだ」 なんて、なかなか言えたもんじゃない。
「この世はもうすぐお終いだ。マリリン・モンロー ノーリターン、ノーリターン、、、」と、野坂昭如が歌ったのは1970年代です。 当時、初めて手にしたフォークギターで歌っていましたが、私は歌詞の意味は全く分かっていなかったですね。 
私も早く消えねば、、、、、。
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2013年5月14日火曜日

自分の頭で考えること

ジャンクプリントの山を築きましたが、やっとピントが合ってきました!

ライカのうん蓄ではなく、「自分の頭で考えること」について書きます。

ライカで写真を撮ること、特にライカでなくてもいいのですが、、、つまり、デジタルカメラでない従来からある写真機で写真を撮ることは、自分の頭で考えるということです。 

カメラの存在を意識して、シャッタースピードや絞りに確信をもってシャッターをきる。 根拠もなく自動的に正しいと信じちゃダメなのです。 撮り終わって、フィルムを巻き戻し、吉祥寺まで行かないと現像に出せない。 ちゃんと写っているのか認するまで時間がかかります。 カメラ屋さんの店員さんだって、自分が苛立たないで、相手の笑顔を引き出すまでに、無駄な会話もしなくてはいけません。考えなくちゃいけないから 面倒なのです。 

自分や自分が確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。 今まで自動的に正しいと信じてきたことは、果たして正しかったでしょうか?

謙虚になること、自分で考えること、、、私はもう手遅れですね。 でも、学生さんや若い社会人はこれからです!

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2013年5月12日日曜日

目の前にあるだけでいいもの

いつまでも変わらない価値。 

ライカ本体は1959年製、二つのレンズはそれよりも古いものであることが判明しました。 

カメラは撮影するためのものですが、ライカは眺めているだけで幸せになります。 それが価値なのでしょう。 でも、いつの日か、ちゃんとした写真が撮れるようになりたい。 デジタルじゃないのでジャンクプリントの山を築きながら。

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2013年5月9日木曜日

アンビバレントな国


チャーリーは、そろそろ生後五か月になります。 相変わらず禽獣の域を出ないですね。 ご主人様である私を、どう見ているのでしょうか? ご飯をくれたり、一緒に遊んでくれたりする友だちだと思っているのでしょうか? それとも、噛むと怒鳴られ、噛み返される(!)恐ろしい巨人だと思っているのでしょうか? 私に対して相反する二つのイメージで、頭の中が混乱をきたしているのでしょうか?

通常、人はアンビバレントな2つの感情をうまくバランスさせて、総合的な人格を形成して行くものです。 それが成長というものです。 日本にはアンビバレントな大人や組織が多すぎるように感じます。 教育の目的は、アンビバレントな幼児性からの脱却にフォーカスすることから始めるべきではないでしょうか?

私のチャーリーに対する態度は、私がアンビバレントなのではなくて、チャーリーの態度によるリアクションなのです。 チャーリーには、早く分かってもらいたい。









アンビバレントな日本の政党

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2013年5月4日土曜日

内村鑑三 『代表的日本人』 ~ 愛の律法


朝から内村鑑三『代表的日本人』(1895年)を読み返していました。
朝といっても、私のゴールデンタイムの午前3時頃ですが、、、。

その中に、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」に通じる記述があったので紹介しておきます。 これは、経営におけるビジョン/ミッションと人事制度などの各種制度との関係、及び、組織でのリーダーシップの根幹でもあります。

日本や中国の若いビジネスパーソンは、上司や組織への報告が義務である(fiduciary duty:受託者義務)ということに抵抗があるようです。 恐らく「義務」という言葉に違和感を感じるのでしょう。 しかし、欧米、特に白人社会では常識的なことです。特に、パートナーシップ方式で成り立つ会社(firm:ファーム)では、当然のことなのです。 明治初期までは存在した「心の通う制度」がなくなったのも、内村鑑三が指摘した以下のこと(「愛の律法」の欠落)と無関係ではないと思います。

「心の通う制度」ができあがれば、リーダー(上司)の役割も指示・命令をする役割から、部下の実力を引き出し部下を支援する役割に変化していきます。 それが、日本では少々誤解(誤訳?)されている empowerment:エンパワーメントということです。

 内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫 (P53) 

封建制にも欠陥はありました。 その欠陥のために立憲制に代わりました。 しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではかと心配しています。

封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。 ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。 その間に「制度」を入れたとしましょう。 君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。 もはや忠義はありません。

憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。 昔のように心に頼ろうとしません。 献身とそれのもつ長所は、つかえるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣があるところに生じるのです。

封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。 したがって、いかなる法律や制度も「愛の律法」にはおよばないように、もし封建制が完璧なかたちで現れるなら、理想的な政治形態といえます。

以前のブログ「ホウレンソウとC3」
http://ibg-kodomo.blogspot.jp/2012/03/blog-post_21.html

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