2025年9月27日土曜日

英語必修の虚構とリテラシー不足の現実

 
東洋大学のホームページより(本文とは関係ありません)


英語という大きな問題

文部科学省はここ20年ほど、「グローバル人材の育成」を掲げて英語教育改革を繰り返してきました。小学校で英語を必修化し、大学入試に外部試験を導入しようとした試みもありました。4技能をバランスよく伸ばすという旗も掲げられましたが、現場の教師に十分な能力や指導法が伴わず、成果は限定的です。

それでも、改革のたびに「これで日本人も英語ができるようになる」と宣伝されます。背景には、国際競争力を高めたいという政府の焦り、グローバル化への漠然とした不安、そして英語教育産業の利害が見え隠れしています。つまり、英語教育は「誰のためにあるのか」を見失ったまま、制度改正ばかりが繰り返されてきたのです。

しかし現実には、日本人の英語力は国際的な調査で依然として低位にとどまり、「誰もが少しは学んだけれど、誰も実際には使えない」状態に陥っています。私は、英語は興味のある人、必要な人だけが真剣に学べばよいと考えています。義務教育で必須にした結果、中途半端な教育が広がったにすぎません。本当に必要ならば、人は社会に出てからでも必死に学びます。そのときこそ本気になれるのです。

ビジネス現場での実感

私は30年以上、英語や中国語を使ってビジネスをしてきました。英語で会議やプレゼンテーションを行い、採用面接や人事評価もこなしました。アメリカ人の上司に評価され、部下を評価し、ときには解雇も通告しました。オフィスに日本人が私一人、という時期も長くありました。

それでも正直に言えば、私の英語など「箸にも棒にもかからない」レベルです。例えば、朝出勤して秘書に気の利いた一言を英語で投げかけることはできなかった。私は日本文化を背負った日本人であり、アメリカ流の軽妙な日常会話は何とも照れくさく、身につかなかったのです。

それでもビジネスは回りました。なぜか。インド人や中国人が独特の発音で堂々と話すように、国際ビジネスの世界では「正しい発音」よりも「中身」が重視されるからです。中学生レベルの単語でも、相手に理解されるまで言い切れば交渉になる。逆に、いくら流暢でも主張が無茶苦茶なら意味がないのです。

本当に欠けているもの

むしろ日本のビジネスマンに決定的に不足しているのは、リテラシーです。概念を整理し、抽象度の高いレベルで物事を考える力が弱い。そのため会議では細部の言葉尻を突くばかりで、構造的な議論に進めません。これは語学以前の問題であり、母語である日本語教育を軽視してきた結果ではないでしょうか。

ここで言う「引き出し」という考え方が重要です。

会話や議論を成立させるには、相手の言っていることを理解するための教養や経験の引き出しが必要です。たとえば、歴史、文学、科学、日常生活などから少しずつ情報を引き出して、適切に組み合わせて考える力が求められます。若い時は引き出しの中は空っぽかガラクタばかりかもしれませんが、引き出しが豊かであればあるほど、複雑な問題でも理解し、自分の意見を構造的に組み立てることができます。もちろん、引き出しの中身は時には棚卸も必要です。  

母語の言語空間が育っていなければ、外国語も砂上の楼閣です。夏目漱石や三島由紀夫のように豊かな日本語を持っていれば、思考の幅は広がる。逆に、貧しい日本語で育てば、英語を学んでも浅い言葉しか出てきません。

学びの動機は情熱から

言語は結局、情熱によって支えられます。プロのギタリストが一日中楽器を手放さないように、好きで好きでたまらないものを24時間365日追いかける中で英語が必要になれば、人は自然に学びます。私自身、子どもの頃にアメリカのドラマやビートルズを通じて英語に興味を持ちました。それが仕事で英語を使う原点になったのです。

日本の英語教育改革が何度繰り返されても成果を上げないのは、日本語による思考力を育てる教育をおろそかにし、見栄えの良い「グローバル人材育成」のかけ声に振り回されてきたからです。英語必修の虚構が浮き彫りにしているのは、実は日本人のリテラシー不足という現実です。

ですので、英語の成績やTOEFL/TOEICの点数が良くても、引き出しの中身が空っぽだと、会議で「What do you think?」と聞かれるたびに自分の頭も一緒に固まってしまいます。

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