2025年9月23日火曜日

コロナ禍は何を問いかけたのか?

 

コロナ禍を忘却してよいのか ― 日本と世界をめぐるポストモダン的考察

新型コロナウイルス感染症が世界を襲ったのは2019年12月。WHOが「終息」を発表したのは2023年春でした。3年3か月という、短いとは言えない時間でした。終息から2年あまりが経った今、コロナ禍が示唆することを私たちはどう受け止めるべきでしょうか

欧米では社会や思想のあり方に深刻な揺らぎを残し、中国はむしろ統制を強化し、そして日本は「なかったこと」にしつつある。各国の反応を振り返ると、近代やポスト近代の議論にまで広がる大きな問題が浮かび上がります。

欧米:ポストモダニズムの加速

コロナ禍は欧米社会において「モダニズムの限界」をあらわにしました。

  • 絶対的真理の揺らぎ ― 科学的知見の不確かさや専門家の意見対立が露呈し、「科学が唯一の真理」という信仰が揺らぎました。その隙間に陰謀論や多様な解釈が拡散しました。
  • 中心の喪失と分断 ― 政府や国際機関の対応の不手際、ワクチンやマスクをめぐる対立は国民を分断し、とくにアメリカでは党派対立をさらに激化させました。
  • 「大きな物語」の終焉 ― 経済成長やグローバル化といった従来の物語が停滞し、未来への不安が社会全体に広がりました。

こうした現象は、モダニズム的な一元的世界観への懐疑を加速させ、まさにポストモダンの加速として現れたのです。

日本:「忘却」と「同調」の社会

日本では欧米のような激しい分断や論争は起こりませんでした。その代わり、社会全体が「きれいさっぱり忘れた」かのように、日常へと戻っています。

  • 無意識のポストモダン的受容 ― 日本文化はもともと絶対的な真理を求めず、「空気を読む」ことで調和を保ちます。感染対策も、強制ではなく同調によって徹底されました。
  • 「無かったこと」にする力学 ― 政府の不手際や医療体制の限界について深い議論をするよりも、安定を優先し日常に戻ることを選んだのです。
  • 内面化された変化 ― 表面上は忘却が進んでいるように見えても、マスクや衛生観念の定着など、人々の生活習慣には確かに変化が残っています。

つまり、日本は「忘却」と「同調」によってポストモダンを吸収し、表面には出さないという独自の姿を見せていると言えるでしょう。

中国:国家主導の「超モダニズム」

一方の中国は、ポストモダン的な価値観とは真逆に進みました。

  • 国家による真実の一元化 ― ゼロコロナ政策は、国家が唯一の正解を示し、徹底的に人々を従わせるモダニズムの極端な例でした。
  • 利己主義のモダニズム ― 自国中心主義を強め、国際社会への情報開示を制限し、統制を外交にも持ち込みました。
  • 監視社会の強化 ― パンデミックを口実に監視技術を社会に浸透させ、個人の自由を犠牲にしました。

中国は、ポストモダンを拒絶し、むしろ最強のモダニズムへと突き進んだと言えます。

一元化と二元化 ― 哲学的な補足

私は「一元化」という言葉を、自然と人間の一体化と捉えています。これに対して「二元化」は、人間が自然を支配する、主体と客体を分ける考え方です。

哲学では、一元論(世界は一つの原理で説明できる)と二元論(精神と物質の二原理で説明する)があり、近代西洋は二元論を前提として自然支配の思想を築きました。ポストモダンは、その近代的な一元論と二元論の両方を批判し、「絶対的な正解はない」という多元性を提示しました。

この点で、日本の「一体化」の感覚は、ポストモダンに批判された近代的二元論とは別系統の思想であり、独自の位置を占めていると言えるでしょう。

忘却ではなく教訓へ

コロナ禍から2年、日本ではその記憶が急速に風化しています。しかし、この「忘却」は本当に望ましいのでしょうか。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災といった過去30年の出来事も、時間とともに忘却されがちです。

私たちは、歴史の痛みや経験を「なかったこと」にするのではなく、未来への教訓として活かすべきではないでしょうか。コロナ禍の3年3か月は、単なる「災厄」ではなく、社会の在り方を根底から問う鏡でもあったのです。

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こうしてみると、コロナ禍はそれぞれの国の文化や思想の土壌を照らし出すものでした。欧米は分断と懐疑によってポストモダンを加速させ、日本は同調と忘却によって経験を沈め、中国は逆に超モダニズムへ突き進んだ。世界が暗中模索を続ける今こそ、私たちは「忘れ去る」のではなく「振り返り、教訓とする」姿勢が求められているのではないでしょうか。

隠居からの提案

教育が社会を変えるのではありません。むしろ教育は、現実社会から最も遠い場所にあり、会社で言えばバックオフィスのような存在です。社会が変化すれば、それに対応して教育も変えていかなければなりません。もちろん、変えるべき部分と、決して変えてはいけない根幹の部分があります。不易流行(松尾芭蕉『奥の細道』)です。

教育の変遷は社会の変化の結果である――ある社会学者もそう述べています(名前は失念しましたが)。教育は社会を説明するものにほかならないのです。

では日本の教育はどうでしょうか。受験システムに偏った教育をこれからも続けますか? 政治家や教育者は、もっと真剣に考えなければなりません。


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