2025年9月26日金曜日

学歴社会の果てに ~ 思考できないエリートたち

 
読書の最初は漫画から?

私は自民党の総裁選にまったく興味がありません。メディアが連日大騒ぎして報道している姿には、むしろ狂気すら感じます。候補者が誰であるかも把握していませんでしたが、試しにYouTubeで各候補者の演説を短縮版・倍速で飛ばし飛ばし観てみました。

候補者の力量には大きな差がありましたが、全体として感じたのは「人間的魅力の乏しさ」と「政治家としてのリテラシーの不足」です。彼らは皆、立派な学歴を持っています。しかし、学歴の象徴である“有名大学卒”という経歴を見て、多くの親御さんはどう感じるのでしょうか。子どもを小学校低学年のうちから塾に通わせ、必死に受験勉強をさせてきた先に現れる姿が、この総裁候補たちの姿だとしたら。そこに教育の成功例を見出せるのでしょうか。

私は教育にこそ問題があると思っています。日本の今と未来を形作るためには、まず教育を考え直さなければならない。これは、学生時代に“落ちこぼれ”で、授業をサボって大阪ミナミの街を彷徨していた私が、長い海外生活を経て高齢者となった今だからこそ言えることです。

教育の根幹 ― 母国語と思考力

中国やアメリカで暮らした経験から痛感したのは、母国語で「読み・書き・思考」がしっかりできることの大切さです。それは単なる言語能力にとどまりません。情緒的な作文から始まり、概念を収集し、抽象度の高い議論を展開できるリテラシーが必要です。

そう考えると、日本の受験中心教育はこのリテラシー形成にほとんど寄与していないのではないでしょうか。総裁選候補者の演説を聞いても、概念理解の浅さや抽象的思考の不足を強く感じます。小学生の作文段階から、高校・大学に進むにつれてより抽象的・概念的な思考へと進化していくはずが、日本の教育は形式的な作文教育にとどまり、思考を深める訓練が欠けているのです。

国語教育とリテラシーの課題

日本の国語教育は「読み書き=リテラシー」と単純化しがちです。文学鑑賞に偏り、論理的文章や評論文を用いた訓練が不足してきたという指摘は以前からあります。結果として、文章はそれなりに書けても、抽象的な概念を扱うことや自分の頭で深く考えることが苦手な人材が育ってしまいます。

本来のリテラシーは、読み書きを超えて、文化的背景の理解、社会人としての価値観形成、さらには「日本人として生きる」ことを考える基盤であるべきです。しかし、今の教育はそこに至っていません。

AI導入が突きつける問い

さらにここへAIが導入されつつあります。生成AIは便利ですが、思考を外部化しすぎる危険を伴います。答えをAIに委ねることに慣れれば、批判的思考や問題解決能力は育ちません。つまり、国語教育が本来担うべき「論理的・概念的な思考力」の育成が、AIの影響でさらに後退する恐れがあるのです。

もちろん、AIの導入には可能性もあります。思考のルーチンを代替することで、創造的な活動に時間を割けるようになる。学習を個別化し、一人ひとりに応じた課題を提示できる。そのような利点を活かせる余地もあります。問題は、AIを道具として賢く使いながらも、生徒自身が思考し判断する力をいかに育てるかにかかっています。

教育を変えなければ未来は変わらない

自民党総裁選を眺めていて改めて痛感したのは、日本の政治家の質の問題というより、その背後にある教育の問題です。学歴や受験偏差値は揃っていても、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力が欠けている。

政治家に限った話ではありません。私たち一人ひとりが「日本人としてどう生きるか」を考えるには、教育のあり方を根本から問い直す必要があります。母国語で考える力を育て、抽象的な思考を鍛え、AI時代にあっても自らの頭で判断できる人を育てる。

総裁選よりも大事なことはそこにあります。教育を変えなければ、日本の未来は変わらないのです。

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