2025年9月24日水曜日

キャリアとは何か?

 

キャリアとは何か ― パンくずをたどるように

「ヘンゼルとグレーテルは、ある森のなかへ入りました。その道中迷わないように持ってたパンのクズを落としながら進んだ」。

みなさんご存知の童話です。英語でパンのクズ(breadcrumb)は、キャリアアップの道筋を示す比喩として使われます。

例えば今の仕事をあとどれくらい経験したら、次にどんなポストに就けるのか。上司や人事部の指示に従うのか、それとも自分の生涯キャリアを考えながら選び取るのか。どんな仕事をしてきたか、これからどんな仕事をしていくのかは、20代から30代前半に意識したほうがいい。他人任せにすれば、50代後半で後悔します。履歴書は一貫性があるほうがいい。なにより、自分の人生の運転席に座っているのは自分自身なのです。

キャリアとは人生そのもの

キャリアとは、自己発達(成長)の中で報酬を得る職業と、人生の他の出来事や役割をつなぐものです。報酬を得る職業が中心であっても、報酬を伴わない日々の生活や社会貢献もまたキャリアの一部。要するに、キャリアとはその人の人生そのものです。

学校と社会にはギャップがあります。入社した会社と世の中のギャップもあるでしょう。宗教が絶対的規範となる社会と違い、日本は別の枠組みで動いています。結局、キャリアに責任を負うのは、政府でも学校でもなく、自分自身です。

日本型キャリアの限界

日本の就職は「自分が何をしたいか」ではなく「会社の名前」で決まる。ブランド名で人生を決め、入社後は営業になるのか経理になるのかすら問われない。有名企業の一部になれたというプライドがドライバーとなる。

この構造は高度成長期には有効でした。しかし今の日本、世界の混迷を考えると通用しません。そう言われて久しい。大企業ですら先を読むのは難しい。新入社員の「安定志向」はあまりにナイーブに見えます。これからは「自分で考え、自分で行動し、自分で修正できる人材」が生き残るのです。

「自分で考える」とは何か

「自分で考える」という言葉は学校や企業研修でよく使われますが、私はこう思います。

それは「自分で情報を収集し、自分の意見を持っておくこと」。人から与えられた情報ではなく、自分で集め、取捨選択し、軽信しない。そのうえで意思決定と実行ができること。

大組織ではどうしても「上の指示を下に伝える」「下の報告を上に伝える」構造になります。役員ですらその繰り返しです。だからこそ、自分自身の物差しを持たなければなりません。

君子不器 ― スペシャリストからゼネラリストへ

私が好んで使う言葉に「君子不器」があります。君子は器(うつわ)にあらず。優れた人物は、一つの専門分野だけに閉じ込められず、幅広く対応できる。

キャリアはまずスペシャリストから始まります。若いうちは専門分野に専念しなければなりません。しかし、ある年齢になればゼネラリストへの転換が求められる。マネジメント、組織、人をまとめる力です。

日本ではゼネラリストが「何でも屋」と揶揄されますが、欧米では違います。マネジメントはスペシャリストを経たゼネラリスト。キャリアの一段階上の姿です。

選択にはトレードオフと機会費用がある

キャリアの選択は常に「トレード・オフ」と「機会費用」を伴います。ある選択をすれば、別の可能性を捨てることになる。MBAで習うことではなくて、アメリカの中高生が公立の学校で最初に習うことです。 トレード・オフとは、人は欲しいものすべてを手にすることはできないために、欲しい物、つまり、選択肢の中から一つを選び出すことです。 アメリカの中高生は、10代の早い時期から意思決定プロセスを学んでいくのです。  

機会費用とは「ある行動を選択したために、結果として諦めることになった別の行動から得られたはずの利益のうち最大のものをコストと見なすこと」です。 例えば、日本での就活を優先して海外での出会いや学びを失うとすれば、それが「機会費用」です。数値化は難しい。しかし、全く考えずに付和雷同で動くのは危険です。


迷い続ける人生と教養の価値

多くの人は孔子のように「三十にして立つ」ことは難しい。40歳は人生で一番迷う時期、だから mid-life crisis という言葉がある。50歳で天命を知る人もいれば、むしろ欲望が強くなる人もいる。60歳になっても人の話を聞かない人は多い。結局、人は年齢に応じて迷い続ける存在なのです。

最近「静かな退職(Quiet Quitting)」が注目されています。最低限の仕事だけをして会社に心を置かない働き方です。ワークライフバランスを重視するように見えても、老後はどうなるでしょうか?

教育は知識を与えますが、教養は文化の中でしか培われません。日本の戦後教育は文化を切り離し、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いてきました。人生100年時代、退職後に役立つのは教育よりも教養かもしれません。

幸福の定義は人それぞれです。政府が一律に決めるものではありません。幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくもの。だからこそ「No Pain, No Gain」。不安を恐れて自由を放棄すれば、長い人生は厳しいものになるでしょう。

終わりに

ニューハンプシャー州のモットーは「Live free or die」。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」も同じ精神です。世界は混迷の時代を迎えています。安定を求めても、もはや安定は存在しません。不安定な中で自由を求め、試行錯誤を繰り返すしかないのです。

キャリアは森の中のパンくずのように、過去の足跡をつなぎながら進むもの。ときに消え、ときに道を示す。その道筋を決めるのは誰でもない、自分自身です。

幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志のもとにあるということを忘れてはいけません。自由や挑戦には不安がつきまといますが、その不安と折り合いをつけながら進むことで、人生100年時代をより豊かに生きられるのだと思います。

高齢者の私自身も、いまだに自分とは何者かを模索中です。キャリアとは、結局のところ、一生『普請中』なのかもしれません。

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