アメリカでの Charlie Kirk 暗殺事件のニュースに接して、私はどうしても安倍晋三元首相の暗殺事件を思い出しました。両者には「スナイパーによる高所からの狙撃」というイメージの共通点があるように思えます。そして同時に、百田尚樹の小説『カエルの楽園』の寓話性が頭をよぎりました。
安倍元首相暗殺の記憶
奈良・近鉄西大寺駅前での安倍元首相暗殺現場は、子供の頃から親しみのある私にとって非常に身近な場所でした。演説の位置関係は今も鮮明に記憶しています。安倍氏が立っていたのは駅前の北側の花壇付近。その正面には「SANWA CITY」というビルがあり、その裏には立体駐車場があります。屋上は安倍氏の立ち位置からおよそ100メートルの距離で、当時は自由に出入りできる構造でした。
事件直後、医師団は「弾は斜め上から心臓に達した」と発表しましたが、警察の説明はそれを打ち消すようなものでした。さらに、致命傷となった弾丸はいまだに発見されていません。この齟齬に私は強い違和感を覚え、「もしも屋上から狙撃があったとしたら」という思いが今も消えずに残っています。これは事実の断定ではなく、あくまで私自身の記憶と感覚に基づくものです。
暗殺に潜む寓話性
暗殺という行為は、個人の恨みや偏狭な動機にとどまらず、社会や国家が抱える不安定さを映し出します。だからこそ寓話のように響くのです。
安倍元首相を撃ったのは、プロの狙撃手ではなく、一見ひ弱そうな「隣人」でした。国家の指導者を凡庸な隣人が倒したという現実。それは戦後日本社会のもろさや空洞化を示す寓話のように見えます。しかし不可解な点が闇に葬られれば、その寓話性は社会の教訓へと昇華せず、ただ忘却の淵に沈んでしまいます。
一方、アメリカの Charlie Kirk 暗殺事件はどうでしょうか。これはアメリカ社会を覆う政治的暴力の象徴であり、国全体が「奈落の縁」にあることを改めて突きつけています。党派性の激化、信頼の崩壊、テロや経済危機、薬物禍やコロナ禍――その積み重ねの果てに、暗殺が起こったのです。アメリカはこの事件の背後を、何年かかっても徹底的に暴こうとするでしょう。それは彼らの民主主義の本能ともいえる態度です。否、リベンジの本能か?
そして私の脳裏に浮かぶのは、百田尚樹の小説『カエルの楽園』です。外敵の脅威に直面しながらも、都合よく「平和」を選び続けたカエルたちの姿。その末路は、現実を直視しない社会の行き着く先を示していました。10年前に発表され、日本社会に警鐘を鳴らしたにもかかわらず、寓話として十分に受け止められなかった――その事実が、私には重く響きます。
我々の責任
二つの暗殺から何を教訓とするか。どういった寓話が生まれるのか。アメリカと日本、それぞれ背景は異なります。ただ一つ言えるのは、暗殺が突きつける問いかけを、教訓として引き受けられるかどうかが国の姿勢を決めるということです。
アメリカは暴力の背後を暴き、寓話を社会の議論へと昇華させるでしょう。日本はどうでしょうか。臭い物に蓋をし、寓話を不発のまま忘却に沈めるのか。
暗殺は歴史に深く刻まれる出来事です。しかし、その寓話的な意味をどう読み取るかは、私たち一人ひとりの姿勢にかかっています。忘却に流されるのではなく、あの時の記憶と問いかけを留めておくこと――それが、今を生きる我々が果たすべき未来への責任だと思っています。
二つの暗殺から何を教訓とするか。どういった寓話が生まれるのか。アメリカと日本、それぞれ背景は異なります。ただ一つ言えるのは、暗殺が突きつける問いかけを、教訓として引き受けられるかどうかが国の姿勢を決めるということです。
アメリカは暴力の背後を暴き、寓話を社会の議論へと昇華させるでしょう。日本はどうでしょうか。臭い物に蓋をし、寓話を不発のまま忘却に沈めるのか。
暗殺は歴史に深く刻まれる出来事です。しかし、その寓話的な意味をどう読み取るかは、私たち一人ひとりの姿勢にかかっています。忘却に流されるのではなく、あの時の記憶と問いかけを留めておくこと――それが、今を生きる我々が果たすべき未来への責任だと思っています。
***
0 件のコメント:
コメントを投稿