2025年9月25日木曜日

迷い続ける人生と幸福の条件

 

主体性と教育の本質

東洋経済educationの記事「その主体性、非認知能力は誰のため? 道具として子どもが消費される未来にNO」では、教育トレンドとして語られる「主体性」や「非認知能力」に対して、警鐘を鳴らす視点が提示されています。

筆者は主体性を「内から湧き出る欲求にもとづく自己選択・自己決定を行い、他者・環境との関わりのなかで行為を表現し、その責任を引き受けること」と定義しています。しかし現場では、「大人がやらせたいことを自発的にやらせる」ような誤用が広がっており、本当の主体性を引き出すにはもっと自由度を高める必要があると指摘しています。通知表における評定反映の制限や、非認知能力の定量化への懸念も、同様の問題意識に基づいています。

私自身、この記事を読んでまず「何を当たり前のことを言うのだろう」と思いました。言葉そのものを軽視しているわけではありません。むしろ、安易な議論や政策が横行する現状は、教育の本質に踏み込めていないことの表れであり、問題の核心は制度設計や教育政策を担う人たちの判断にあると感じます。教育が社会を変えるのではない。世界や日本社会が変化しているのだから、それに対応して教育もダイナミックに対応すべきなのです。新しいリテラシー(いま必要とされる能力)とは何かが問われているのです。

私がこれまでブログや色んな場面で語ってきたことを整理すると、教育や受験の現場には根本的なベクトルの誤りがあります。「日本の受験システムは教育ではなく、目標が偏差値や点数に偏っている」という言葉は、教育制度の目的設定そのものを問い直す視点を示しています。知識偏重の教育では教養が育ちにくく、文化との断絶が続く限り、主体性も育まれません。また戦後教育は、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いたまま進められてきました。この流れのなかで、主体性を外部評価しようとする制度的傾向は、過去の欠落を再生産する危うさを孕んでいます。

主体性とは、迷いや不安を含めて自らの選択を引き受ける力です。「幸福の定義は人それぞれであり、政府が一律に決めるものではない」「幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくものだ」という立場は、制度化された教育観や外部評価に従うだけでは得られない主体性のあり方を示しています。制度や政策は、主体性を育むための条件を整えるものであって、主体性そのものを代替するものではありません。

東洋経済の記事が呼びかける「言説の前提を問え」という視点は重要です。しかしより根源的には、教育制度や国家・文化の力学、戦後改革の構造まで見据えて議論する必要があります。教育の管理・評価に偏る背景には、文化や思想の断絶、効率化や測定可能性を優先する価値観が存在します。主体性を制度や評価に従属させるのではなく、無駄や余白を残しながら、自らの選択を引き受ける自由を守ることこそ、教育の本質的課題ではないでしょうか。

私の考える主体性とは、「誰かのため」に測られるものではなく、自分自身の人生に責任を引き受け、不安や迷いを伴いながら生き抜く力です。教育政策や制度は、この力を支える自由と余白を保障する方向で設計されるべきであり、それこそが真の議論の出発点だと考えます。

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