2025年9月27日土曜日

英語必修の虚構とリテラシー不足の現実

 
東洋大学のホームページより(本文とは関係ありません)


英語という大きな問題

文部科学省はここ20年ほど、「グローバル人材の育成」を掲げて英語教育改革を繰り返してきました。小学校で英語を必修化し、大学入試に外部試験を導入しようとした試みもありました。4技能をバランスよく伸ばすという旗も掲げられましたが、現場の教師に十分な能力や指導法が伴わず、成果は限定的です。

それでも、改革のたびに「これで日本人も英語ができるようになる」と宣伝されます。背景には、国際競争力を高めたいという政府の焦り、グローバル化への漠然とした不安、そして英語教育産業の利害が見え隠れしています。つまり、英語教育は「誰のためにあるのか」を見失ったまま、制度改正ばかりが繰り返されてきたのです。

しかし現実には、日本人の英語力は国際的な調査で依然として低位にとどまり、「誰もが少しは学んだけれど、誰も実際には使えない」状態に陥っています。私は、英語は興味のある人、必要な人だけが真剣に学べばよいと考えています。義務教育で必須にした結果、中途半端な教育が広がったにすぎません。本当に必要ならば、人は社会に出てからでも必死に学びます。そのときこそ本気になれるのです。

ビジネス現場での実感

私は30年以上、英語や中国語を使ってビジネスをしてきました。英語で会議やプレゼンテーションを行い、採用面接や人事評価もこなしました。アメリカ人の上司に評価され、部下を評価し、ときには解雇も通告しました。オフィスに日本人が私一人、という時期も長くありました。

それでも正直に言えば、私の英語など「箸にも棒にもかからない」レベルです。例えば、朝出勤して秘書に気の利いた一言を英語で投げかけることはできなかった。私は日本文化を背負った日本人であり、アメリカ流の軽妙な日常会話は何とも照れくさく、身につかなかったのです。

それでもビジネスは回りました。なぜか。インド人や中国人が独特の発音で堂々と話すように、国際ビジネスの世界では「正しい発音」よりも「中身」が重視されるからです。中学生レベルの単語でも、相手に理解されるまで言い切れば交渉になる。逆に、いくら流暢でも主張が無茶苦茶なら意味がないのです。

本当に欠けているもの

むしろ日本のビジネスマンに決定的に不足しているのは、リテラシーです。概念を整理し、抽象度の高いレベルで物事を考える力が弱い。そのため会議では細部の言葉尻を突くばかりで、構造的な議論に進めません。これは語学以前の問題であり、母語である日本語教育を軽視してきた結果ではないでしょうか。

ここで言う「引き出し」という考え方が重要です。

会話や議論を成立させるには、相手の言っていることを理解するための教養や経験の引き出しが必要です。たとえば、歴史、文学、科学、日常生活などから少しずつ情報を引き出して、適切に組み合わせて考える力が求められます。若い時は引き出しの中は空っぽかガラクタばかりかもしれませんが、引き出しが豊かであればあるほど、複雑な問題でも理解し、自分の意見を構造的に組み立てることができます。もちろん、引き出しの中身は時には棚卸も必要です。  

母語の言語空間が育っていなければ、外国語も砂上の楼閣です。夏目漱石や三島由紀夫のように豊かな日本語を持っていれば、思考の幅は広がる。逆に、貧しい日本語で育てば、英語を学んでも浅い言葉しか出てきません。

学びの動機は情熱から

言語は結局、情熱によって支えられます。プロのギタリストが一日中楽器を手放さないように、好きで好きでたまらないものを24時間365日追いかける中で英語が必要になれば、人は自然に学びます。私自身、子どもの頃にアメリカのドラマやビートルズを通じて英語に興味を持ちました。それが仕事で英語を使う原点になったのです。

日本の英語教育改革が何度繰り返されても成果を上げないのは、日本語による思考力を育てる教育をおろそかにし、見栄えの良い「グローバル人材育成」のかけ声に振り回されてきたからです。英語必修の虚構が浮き彫りにしているのは、実は日本人のリテラシー不足という現実です。

ですので、英語の成績やTOEFL/TOEICの点数が良くても、引き出しの中身が空っぽだと、会議で「What do you think?」と聞かれるたびに自分の頭も一緒に固まってしまいます。

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2025年9月26日金曜日

学歴社会の果てに ~ 思考できないエリートたち

 
読書の最初は漫画から?

私は自民党の総裁選にまったく興味がありません。メディアが連日大騒ぎして報道している姿には、むしろ狂気すら感じます。候補者が誰であるかも把握していませんでしたが、試しにYouTubeで各候補者の演説を短縮版・倍速で飛ばし飛ばし観てみました。

候補者の力量には大きな差がありましたが、全体として感じたのは「人間的魅力の乏しさ」と「政治家としてのリテラシーの不足」です。彼らは皆、立派な学歴を持っています。しかし、学歴の象徴である“有名大学卒”という経歴を見て、多くの親御さんはどう感じるのでしょうか。子どもを小学校低学年のうちから塾に通わせ、必死に受験勉強をさせてきた先に現れる姿が、この総裁候補たちの姿だとしたら。そこに教育の成功例を見出せるのでしょうか。

私は教育にこそ問題があると思っています。日本の今と未来を形作るためには、まず教育を考え直さなければならない。これは、学生時代に“落ちこぼれ”で、授業をサボって大阪ミナミの街を彷徨していた私が、長い海外生活を経て高齢者となった今だからこそ言えることです。

教育の根幹 ― 母国語と思考力

中国やアメリカで暮らした経験から痛感したのは、母国語で「読み・書き・思考」がしっかりできることの大切さです。それは単なる言語能力にとどまりません。情緒的な作文から始まり、概念を収集し、抽象度の高い議論を展開できるリテラシーが必要です。

そう考えると、日本の受験中心教育はこのリテラシー形成にほとんど寄与していないのではないでしょうか。総裁選候補者の演説を聞いても、概念理解の浅さや抽象的思考の不足を強く感じます。小学生の作文段階から、高校・大学に進むにつれてより抽象的・概念的な思考へと進化していくはずが、日本の教育は形式的な作文教育にとどまり、思考を深める訓練が欠けているのです。

国語教育とリテラシーの課題

日本の国語教育は「読み書き=リテラシー」と単純化しがちです。文学鑑賞に偏り、論理的文章や評論文を用いた訓練が不足してきたという指摘は以前からあります。結果として、文章はそれなりに書けても、抽象的な概念を扱うことや自分の頭で深く考えることが苦手な人材が育ってしまいます。

本来のリテラシーは、読み書きを超えて、文化的背景の理解、社会人としての価値観形成、さらには「日本人として生きる」ことを考える基盤であるべきです。しかし、今の教育はそこに至っていません。

AI導入が突きつける問い

さらにここへAIが導入されつつあります。生成AIは便利ですが、思考を外部化しすぎる危険を伴います。答えをAIに委ねることに慣れれば、批判的思考や問題解決能力は育ちません。つまり、国語教育が本来担うべき「論理的・概念的な思考力」の育成が、AIの影響でさらに後退する恐れがあるのです。

もちろん、AIの導入には可能性もあります。思考のルーチンを代替することで、創造的な活動に時間を割けるようになる。学習を個別化し、一人ひとりに応じた課題を提示できる。そのような利点を活かせる余地もあります。問題は、AIを道具として賢く使いながらも、生徒自身が思考し判断する力をいかに育てるかにかかっています。

教育を変えなければ未来は変わらない

自民党総裁選を眺めていて改めて痛感したのは、日本の政治家の質の問題というより、その背後にある教育の問題です。学歴や受験偏差値は揃っていても、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力が欠けている。

政治家に限った話ではありません。私たち一人ひとりが「日本人としてどう生きるか」を考えるには、教育のあり方を根本から問い直す必要があります。母国語で考える力を育て、抽象的な思考を鍛え、AI時代にあっても自らの頭で判断できる人を育てる。

総裁選よりも大事なことはそこにあります。教育を変えなければ、日本の未来は変わらないのです。

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2025年9月25日木曜日

迷い続ける人生と幸福の条件

 

主体性と教育の本質

東洋経済educationの記事「その主体性、非認知能力は誰のため? 道具として子どもが消費される未来にNO」では、教育トレンドとして語られる「主体性」や「非認知能力」に対して、警鐘を鳴らす視点が提示されています。

筆者は主体性を「内から湧き出る欲求にもとづく自己選択・自己決定を行い、他者・環境との関わりのなかで行為を表現し、その責任を引き受けること」と定義しています。しかし現場では、「大人がやらせたいことを自発的にやらせる」ような誤用が広がっており、本当の主体性を引き出すにはもっと自由度を高める必要があると指摘しています。通知表における評定反映の制限や、非認知能力の定量化への懸念も、同様の問題意識に基づいています。

私自身、この記事を読んでまず「何を当たり前のことを言うのだろう」と思いました。言葉そのものを軽視しているわけではありません。むしろ、安易な議論や政策が横行する現状は、教育の本質に踏み込めていないことの表れであり、問題の核心は制度設計や教育政策を担う人たちの判断にあると感じます。教育が社会を変えるのではない。世界や日本社会が変化しているのだから、それに対応して教育もダイナミックに対応すべきなのです。新しいリテラシー(いま必要とされる能力)とは何かが問われているのです。

私がこれまでブログや色んな場面で語ってきたことを整理すると、教育や受験の現場には根本的なベクトルの誤りがあります。「日本の受験システムは教育ではなく、目標が偏差値や点数に偏っている」という言葉は、教育制度の目的設定そのものを問い直す視点を示しています。知識偏重の教育では教養が育ちにくく、文化との断絶が続く限り、主体性も育まれません。また戦後教育は、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いたまま進められてきました。この流れのなかで、主体性を外部評価しようとする制度的傾向は、過去の欠落を再生産する危うさを孕んでいます。

主体性とは、迷いや不安を含めて自らの選択を引き受ける力です。「幸福の定義は人それぞれであり、政府が一律に決めるものではない」「幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくものだ」という立場は、制度化された教育観や外部評価に従うだけでは得られない主体性のあり方を示しています。制度や政策は、主体性を育むための条件を整えるものであって、主体性そのものを代替するものではありません。

東洋経済の記事が呼びかける「言説の前提を問え」という視点は重要です。しかしより根源的には、教育制度や国家・文化の力学、戦後改革の構造まで見据えて議論する必要があります。教育の管理・評価に偏る背景には、文化や思想の断絶、効率化や測定可能性を優先する価値観が存在します。主体性を制度や評価に従属させるのではなく、無駄や余白を残しながら、自らの選択を引き受ける自由を守ることこそ、教育の本質的課題ではないでしょうか。

私の考える主体性とは、「誰かのため」に測られるものではなく、自分自身の人生に責任を引き受け、不安や迷いを伴いながら生き抜く力です。教育政策や制度は、この力を支える自由と余白を保障する方向で設計されるべきであり、それこそが真の議論の出発点だと考えます。

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2025年9月24日水曜日

キャリアとは何か?

 

キャリアとは何か ― パンくずをたどるように

「ヘンゼルとグレーテルは、ある森のなかへ入りました。その道中迷わないように持ってたパンのクズを落としながら進んだ」。

みなさんご存知の童話です。英語でパンのクズ(breadcrumb)は、キャリアアップの道筋を示す比喩として使われます。

例えば今の仕事をあとどれくらい経験したら、次にどんなポストに就けるのか。上司や人事部の指示に従うのか、それとも自分の生涯キャリアを考えながら選び取るのか。どんな仕事をしてきたか、これからどんな仕事をしていくのかは、20代から30代前半に意識したほうがいい。他人任せにすれば、50代後半で後悔します。履歴書は一貫性があるほうがいい。なにより、自分の人生の運転席に座っているのは自分自身なのです。

キャリアとは人生そのもの

キャリアとは、自己発達(成長)の中で報酬を得る職業と、人生の他の出来事や役割をつなぐものです。報酬を得る職業が中心であっても、報酬を伴わない日々の生活や社会貢献もまたキャリアの一部。要するに、キャリアとはその人の人生そのものです。

学校と社会にはギャップがあります。入社した会社と世の中のギャップもあるでしょう。宗教が絶対的規範となる社会と違い、日本は別の枠組みで動いています。結局、キャリアに責任を負うのは、政府でも学校でもなく、自分自身です。

日本型キャリアの限界

日本の就職は「自分が何をしたいか」ではなく「会社の名前」で決まる。ブランド名で人生を決め、入社後は営業になるのか経理になるのかすら問われない。有名企業の一部になれたというプライドがドライバーとなる。

この構造は高度成長期には有効でした。しかし今の日本、世界の混迷を考えると通用しません。そう言われて久しい。大企業ですら先を読むのは難しい。新入社員の「安定志向」はあまりにナイーブに見えます。これからは「自分で考え、自分で行動し、自分で修正できる人材」が生き残るのです。

「自分で考える」とは何か

「自分で考える」という言葉は学校や企業研修でよく使われますが、私はこう思います。

それは「自分で情報を収集し、自分の意見を持っておくこと」。人から与えられた情報ではなく、自分で集め、取捨選択し、軽信しない。そのうえで意思決定と実行ができること。

大組織ではどうしても「上の指示を下に伝える」「下の報告を上に伝える」構造になります。役員ですらその繰り返しです。だからこそ、自分自身の物差しを持たなければなりません。

君子不器 ― スペシャリストからゼネラリストへ

私が好んで使う言葉に「君子不器」があります。君子は器(うつわ)にあらず。優れた人物は、一つの専門分野だけに閉じ込められず、幅広く対応できる。

キャリアはまずスペシャリストから始まります。若いうちは専門分野に専念しなければなりません。しかし、ある年齢になればゼネラリストへの転換が求められる。マネジメント、組織、人をまとめる力です。

日本ではゼネラリストが「何でも屋」と揶揄されますが、欧米では違います。マネジメントはスペシャリストを経たゼネラリスト。キャリアの一段階上の姿です。

選択にはトレードオフと機会費用がある

キャリアの選択は常に「トレード・オフ」と「機会費用」を伴います。ある選択をすれば、別の可能性を捨てることになる。MBAで習うことではなくて、アメリカの中高生が公立の学校で最初に習うことです。 トレード・オフとは、人は欲しいものすべてを手にすることはできないために、欲しい物、つまり、選択肢の中から一つを選び出すことです。 アメリカの中高生は、10代の早い時期から意思決定プロセスを学んでいくのです。  

機会費用とは「ある行動を選択したために、結果として諦めることになった別の行動から得られたはずの利益のうち最大のものをコストと見なすこと」です。 例えば、日本での就活を優先して海外での出会いや学びを失うとすれば、それが「機会費用」です。数値化は難しい。しかし、全く考えずに付和雷同で動くのは危険です。


迷い続ける人生と教養の価値

多くの人は孔子のように「三十にして立つ」ことは難しい。40歳は人生で一番迷う時期、だから mid-life crisis という言葉がある。50歳で天命を知る人もいれば、むしろ欲望が強くなる人もいる。60歳になっても人の話を聞かない人は多い。結局、人は年齢に応じて迷い続ける存在なのです。

最近「静かな退職(Quiet Quitting)」が注目されています。最低限の仕事だけをして会社に心を置かない働き方です。ワークライフバランスを重視するように見えても、老後はどうなるでしょうか?

教育は知識を与えますが、教養は文化の中でしか培われません。日本の戦後教育は文化を切り離し、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いてきました。人生100年時代、退職後に役立つのは教育よりも教養かもしれません。

幸福の定義は人それぞれです。政府が一律に決めるものではありません。幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくもの。だからこそ「No Pain, No Gain」。不安を恐れて自由を放棄すれば、長い人生は厳しいものになるでしょう。

終わりに

ニューハンプシャー州のモットーは「Live free or die」。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」も同じ精神です。世界は混迷の時代を迎えています。安定を求めても、もはや安定は存在しません。不安定な中で自由を求め、試行錯誤を繰り返すしかないのです。

キャリアは森の中のパンくずのように、過去の足跡をつなぎながら進むもの。ときに消え、ときに道を示す。その道筋を決めるのは誰でもない、自分自身です。

幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志のもとにあるということを忘れてはいけません。自由や挑戦には不安がつきまといますが、その不安と折り合いをつけながら進むことで、人生100年時代をより豊かに生きられるのだと思います。

高齢者の私自身も、いまだに自分とは何者かを模索中です。キャリアとは、結局のところ、一生『普請中』なのかもしれません。

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2025年9月23日火曜日

コロナ禍は何を問いかけたのか?

 

コロナ禍を忘却してよいのか ― 日本と世界をめぐるポストモダン的考察

新型コロナウイルス感染症が世界を襲ったのは2019年12月。WHOが「終息」を発表したのは2023年春でした。3年3か月という、短いとは言えない時間でした。終息から2年あまりが経った今、コロナ禍が示唆することを私たちはどう受け止めるべきでしょうか

欧米では社会や思想のあり方に深刻な揺らぎを残し、中国はむしろ統制を強化し、そして日本は「なかったこと」にしつつある。各国の反応を振り返ると、近代やポスト近代の議論にまで広がる大きな問題が浮かび上がります。

欧米:ポストモダニズムの加速

コロナ禍は欧米社会において「モダニズムの限界」をあらわにしました。

  • 絶対的真理の揺らぎ ― 科学的知見の不確かさや専門家の意見対立が露呈し、「科学が唯一の真理」という信仰が揺らぎました。その隙間に陰謀論や多様な解釈が拡散しました。
  • 中心の喪失と分断 ― 政府や国際機関の対応の不手際、ワクチンやマスクをめぐる対立は国民を分断し、とくにアメリカでは党派対立をさらに激化させました。
  • 「大きな物語」の終焉 ― 経済成長やグローバル化といった従来の物語が停滞し、未来への不安が社会全体に広がりました。

こうした現象は、モダニズム的な一元的世界観への懐疑を加速させ、まさにポストモダンの加速として現れたのです。

日本:「忘却」と「同調」の社会

日本では欧米のような激しい分断や論争は起こりませんでした。その代わり、社会全体が「きれいさっぱり忘れた」かのように、日常へと戻っています。

  • 無意識のポストモダン的受容 ― 日本文化はもともと絶対的な真理を求めず、「空気を読む」ことで調和を保ちます。感染対策も、強制ではなく同調によって徹底されました。
  • 「無かったこと」にする力学 ― 政府の不手際や医療体制の限界について深い議論をするよりも、安定を優先し日常に戻ることを選んだのです。
  • 内面化された変化 ― 表面上は忘却が進んでいるように見えても、マスクや衛生観念の定着など、人々の生活習慣には確かに変化が残っています。

つまり、日本は「忘却」と「同調」によってポストモダンを吸収し、表面には出さないという独自の姿を見せていると言えるでしょう。

中国:国家主導の「超モダニズム」

一方の中国は、ポストモダン的な価値観とは真逆に進みました。

  • 国家による真実の一元化 ― ゼロコロナ政策は、国家が唯一の正解を示し、徹底的に人々を従わせるモダニズムの極端な例でした。
  • 利己主義のモダニズム ― 自国中心主義を強め、国際社会への情報開示を制限し、統制を外交にも持ち込みました。
  • 監視社会の強化 ― パンデミックを口実に監視技術を社会に浸透させ、個人の自由を犠牲にしました。

中国は、ポストモダンを拒絶し、むしろ最強のモダニズムへと突き進んだと言えます。

一元化と二元化 ― 哲学的な補足

私は「一元化」という言葉を、自然と人間の一体化と捉えています。これに対して「二元化」は、人間が自然を支配する、主体と客体を分ける考え方です。

哲学では、一元論(世界は一つの原理で説明できる)と二元論(精神と物質の二原理で説明する)があり、近代西洋は二元論を前提として自然支配の思想を築きました。ポストモダンは、その近代的な一元論と二元論の両方を批判し、「絶対的な正解はない」という多元性を提示しました。

この点で、日本の「一体化」の感覚は、ポストモダンに批判された近代的二元論とは別系統の思想であり、独自の位置を占めていると言えるでしょう。

忘却ではなく教訓へ

コロナ禍から2年、日本ではその記憶が急速に風化しています。しかし、この「忘却」は本当に望ましいのでしょうか。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災といった過去30年の出来事も、時間とともに忘却されがちです。

私たちは、歴史の痛みや経験を「なかったこと」にするのではなく、未来への教訓として活かすべきではないでしょうか。コロナ禍の3年3か月は、単なる「災厄」ではなく、社会の在り方を根底から問う鏡でもあったのです。

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こうしてみると、コロナ禍はそれぞれの国の文化や思想の土壌を照らし出すものでした。欧米は分断と懐疑によってポストモダンを加速させ、日本は同調と忘却によって経験を沈め、中国は逆に超モダニズムへ突き進んだ。世界が暗中模索を続ける今こそ、私たちは「忘れ去る」のではなく「振り返り、教訓とする」姿勢が求められているのではないでしょうか。

隠居からの提案

教育が社会を変えるのではありません。むしろ教育は、現実社会から最も遠い場所にあり、会社で言えばバックオフィスのような存在です。社会が変化すれば、それに対応して教育も変えていかなければなりません。もちろん、変えるべき部分と、決して変えてはいけない根幹の部分があります。不易流行(松尾芭蕉『奥の細道』)です。

教育の変遷は社会の変化の結果である――ある社会学者もそう述べています(名前は失念しましたが)。教育は社会を説明するものにほかならないのです。

では日本の教育はどうでしょうか。受験システムに偏った教育をこれからも続けますか? 政治家や教育者は、もっと真剣に考えなければなりません。


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2025年9月22日月曜日

走れメロスを再考する

 

太宰治の故郷、青森県五所川原市金木町産の玉鹿石。このあたりの玉川上水で、太宰は入水しました(この入水も謎ですね、、、)。  

ある大手新聞社のベテラン記者が、アメリカ社会の分断を「走れメロス」と対比して論じていました。小学校時代に劇で演じた「走れメロス」を思い出しつつ、友情や人を信じる大切さを説く内容です。王はメロスとセリヌンティウスの姿に打たれて改心する――そんな一般的で道徳教材的な解釈です。

しかし私は、どうにも違和感を覚えます。記事の書きぶりは耳触りよく整えられているのですが、「人を信じる努力を忘れてはいけない」と言っておけば自分の責任は回避できる、そんな「無責任の勧め」のようにも感じられるのです。私のうがった見方かもしれませんが、どうしても安易に聞こえてしまいます。

この大手新聞社の力はかつてほどないようですが、いまでも一定の影響力を及ぼしています。しかし、この大手新聞社は、国民に自分に対して嘘をつかせる自己欺瞞の精神を根付かせた大罪を犯していると思います。そして、この新聞社と戦後の日本の教育のベクトルは一致しています。非常に偽善的です。それでも、140年以上の歴史をもち、毎朝約334万部を発行しているそうです。国民のリテラシーが問われているのです。国民の主体性や想像力の芽をつみ続けている。

以上の私の感想は正しいのでしょうか、間違っているのでしょうか?しかし少なくとも、この国の戦後80年をふり返ると、そうした構造が確かに存在してきたのだと思わざるを得ません。

私が思うに、メロスの行動の本質は「信義」と「覚悟」にあります。彼は王や友を感動させるために走ったのではなく、自分が約束したことに対して、逃げずに応じるために走った。そこには、他者に向けた「優しい心」以上に、自分自身への「コミットメント」がある。信義とは、自分の心に対しても嘘をつかないことです。

太宰の時代背景を思えばなおさらです。1940年、日中戦争の泥沼化と軍部の台頭。社会全体が「信義」を失い、強者の論理に押し流されていた時代に、太宰はあえて「私は正直な男として死にたい」とメロスに言わせました。これは単なる友情物語ではなく、むしろ「信義を貫け」という太宰の切実な叫びであり、時代への反骨精神だったのではないでしょうか。

いまの世の中を見ると、ますます「信義」が軽んじられています。国際政治も、ビジネスも、人間関係すらも、表向きの約束や契約はあっても、本気でコミットしない人が増えている。米国の政治リーダーが「王のように信じて改心することができない」のは、決して遠い国の出来事ではなく、世界に広がる病理です。

だからこそ、私は「走れメロス」を再び考えたい。友情や信じる心の美談に留めるのではなく、「人が自分の信義にどこまで覚悟を持てるか」という問いかけとして。メロスが走ったのは、ただ友を救うためではない。彼は「恐ろしく大きいもの」のために走った。――その大きいものとは、人が人であるための最後の拠りどころ、信義そのものだったのではないでしょうか。

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2025年9月21日日曜日

GOATが日本語になる時代

 
ドジャース スタジアム(LA)

1976年、初めてUSに行った時にドジャーススタジアムを訪れました。

試合を観に行ったのではなく、昼間に誰もいないスタジアムに行って、日本から観光に来たから「中を見学させてくれ」と警備員に言ったのですが、もちろん断られました。それでも「Just One Look !」と言って粘ったのですが、ダメでした。

* * *

昨日はロサンゼルス・ドジャースのクレイトン・カーショー投手の現役最後の登板でした。試合は大谷翔平の逆転3ランで劇的に盛り上がり、名投手の花道を飾るにふさわしい舞台となりました。実況アナウンサーは大谷とベッツの連続ホームランを「back to back!」と叫び、試合後には往年の名選手アレックス・ロドリゲス(Aロッド)がインタビューで大谷を再び「GOAT」と呼びました。

「back to back」とは「連続して」という意味の英語で、アメリカではよく耳にする野球用語です。私自身、大人になって初めて知った表現でしたが、いまでは日本の中継でも自然に使われています。そしてそれ以上に驚いたのが「GOAT」です。

「GOAT」は “Greatest Of All Time(史上最高)” の略。ヤギの絵文字とセットでSNSを中心に広まったスラングで、単なる「legend」や「master」では足りない、圧倒的な存在を称える言葉です。アメリカ発のネットスラングが、こうして日本語実況の中に溶け込んでいるのを見ると、時代は変わったなあと感じます。

もっとも、言葉の流行という点では日本語も負けていません。私はテレビ・新聞や雑誌も見ないので、日本語の流行語に置いて行かれることが多く、家人から「また知らないの?」と笑われます。「あたおか」とか「メンブレ」とか、最初に聞いたときは呪文のようにしか聞こえませんでした。さらに最近では「推し活」です。好きな芸能人やキャラクターを応援する活動を指すそうですが、私は全くついていけません。スラングは「時代の空気」を映す言葉です。ネットスラングは単なる流行語ではなく、“文化の鏡”でもあり、知っていればSNSや趣味活動でも話題に入りやすいのだそうです。しかし、私はジジイなので、そこまで頑張って若者言葉を覚えるつもりはありません。世代間交流を図ろうとも思いません。年寄りとは、いつの時代もそういったものなのです。

「GOAT」と呼ばれることは、単なる「上手い」や「スター」という評価を超えて、その人が時代を代表し、永遠に語り継がれる存在であるという意味を持ちます。大谷翔平が「GOAT」と呼ばれるようになったことは、彼の記録や数字を超えて、文化的な象徴になったことを示しているのかもしれません。アメリカの伝統・文化であるベースボールを変えつつあるのかもしれません。

言葉の広がりと時代の変化。「GOAT」という言葉が、今は大谷翔平とともに世界中を駆け巡っています。

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2025年9月20日土曜日

トランプ スタイル

 

トランプタワーと 590 Madison ビルの間の Public Space
(写真はネットから無断借用です)


トランプ訪英と不法移民問題――日本が学ぶべき現実

私はアメリカで仕事をしていた頃、初期の1989年から1993年の間、マンハッタンの 590 Madison Avenue にオフィスがありました。このビルはトランプタワーと隣接し、バンブーガーデンという「Public Space」を共有していました。特別にトランプ氏に関心を持っていたわけではありませんが、彼の噂は常に耳に入ってきました。ですから今回、トランプ大統領の訪英に関するBBCの記事を読んだとき、自然と彼のスタイルを自分なりに再考することになったのです。

BBCによれば、イギリスでは近年、小型船による不法入国が記録的に増加しています。スターマー首相はフランスとの返還協定など穏健な対策を模索しましたが、トランプ大統領は「軍を投入してでも止めるべきだ」と強硬策を主張しました。「不法移民は国を内側から破壊する」とまで述べ、アメリカでの経験を根拠に強い姿勢を示したのです。

数十年前、イギリスはアメリカをどこか冷ややかに見下していた印象がありました。しかし今回の国賓訪問では、トランプ氏への対応に礼節が目立ち、その提案に一定の配慮さえ感じられました。英国社会にとって、不法移民問題がそれほど切迫した現実になっている証拠だと思います。そして、この礼節の背景には、イギリスがロイヤルファミリーを擁する伝統とブランド価値を誇りにし、その強みをもってトランプに対抗しようとした意図があったのではないでしょうか。

一方、日本はどうでしょうか。人口減少と労働力不足を理由に外国人労働者の受け入れを拡大していますが、制度設計も運用も極めて緩いのが実情です。私は20年間アメリカに住み、愛犬を3度日米間で移動させました。日本はイギリス同様、狂犬病ゼロの国として動物検疫は非常に厳格で(アメリカは犬の持ち込みはいたって簡単です)、老犬を3か月も成田空港に係留させた経験もあります。しかし、人に対する入国管理やビザ、永住権、不動産取得の規制は驚くほど緩い。この落差は理解に苦しみます。

さらに、日本の主要メディアはロンドンで起きた大規模な反移民デモを報じません。自民党総裁選においても、不法移民の問題は争点にすらなっていません。欧米が直面している混乱を見れば、今のうちに厳格化しなければ手遅れになるのは明らかです。

ここで改めて、トランプ氏の交渉スタイルについて考えたいと思います。

心理学的に「アンカリング」といった戦術で説明されることもありますが(最初に受けた情報や数値、つまりアンカーが、その後の判断や意思決定に大きな影響を与える心理的な現象)、実際にはもっと土着的です。子供の頃の不良仲間との人間関係、不動産業を営んだ父の手法、ウォールストリートの強者たちとの交渉の積み重ね。そうした経験を基盤に、相手を値踏みし、価値があると見ればディールをクローズする方向で突進する。その強引さこそが彼の特徴です。

彼にとっての「Make America Great Again(MAGA)」は単なるスローガンではありません。アメリカのブランド価値が下がれば、交渉で不利となり、ひいてはアメリカの資産価値も損なわれる。だからこそ国家の威信を取り戻そうとするのです。

イギリスにはロイヤルファミリーがあります。そして日本には、皇室を中心とした伝統と文化が2000年以上も続いているという、世界で唯一の歴史があります。これこそが日本の最大のブランド価値であり、イギリスは当然それを知っています。トランプ氏でさえ、皇室の存在には敬意を払うでしょう。アメリカには中世すらないわけですから。

問題は、それを交渉の場でどう活かすかです。もし日本の交渉人とされた赤沢さんが実務レベルで担当するのであれば、本来は首相が前面に出て、抽象度を高めた「日本のブランド価値」という視点からトランプとレベルセッティングを試み、共同主観を醸成すべきでした。不法移民や違法ドラッグといった共通の脅威に対し、伝統とブランドを守る立場から意識を共有すること――それこそが日本の取るべき戦略だったのです。  

残念ながら、すでに手遅れかもしれません。しかし、イギリスがかつての冷笑から現実的な礼節へと転じたように、日本もまた理想論や経済的便宜に逃げるのではなく、現実の課題に正面から向き合う必要があります。国境管理と社会秩序のバランスを真剣に考える時期は、すでに到来しているのです。
  
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2025年9月19日金曜日

祖父が歩いた森から考えたこと

















京都大学デジタルアーカイブより(昭和初期の泊居)


私の亡き父(1930-2013)は、かつて日本領だった南樺太の北端・泊居(トマリオル)で生まれました。祖父が奈良の営林署(現在は林野庁森林管理署)から樺太に転勤したのが理由です。なぜ奈良出身の祖父が奈良から樺太への異動なのかは分かりません。1920年代のことでした。父が泊居尋常小学校の高学年の時に一家は樺太庁の置かれた豊原(樺太最大の都市)で暮らしており、昭和16年には祖父が奈良の営林署へ戻る形で内地へ復帰しました。迫って来る戦禍を考えると、このタイミングの帰還はまさに絶妙だったと思います。

祖父は明治33年生まれで、戦前から戦後にかけて日本の森林事業に生涯を捧げました。若い頃には後備役将校として編入された記録が残っており、当時の知識人に求められた軍歴をきちんと持っていた人でした。極寒の山野を駆け、山林を歩き、営林署員(技手)として職務に励んでいました。戦後は林野庁の前身である営林局を経て、森林開発公団に籍を置きました(現在の森林整備センター)。公団は高度経済成長期の林業インフラ整備を担い、林道建設や造林事業を推進していました。祖父はそこで記事を執筆したり、後進の指導にあたったりもしていたようです。国会図書館デジタルコレクションで、当時の政府職員録を閲覧することができます。立法、行政、司法の各機関や、地方公共団体などの公務員の人事情報が掲載されています。更に、森林開発公団時代の祖父の名前を冠した論文がいくつか残っています(1950年代)。

私にとっての祖父は、もっと日常的で、少し不思議な存在でした。明治の男でありながら、自らラーメンやポテトサラダを挟んだサンドイッチを作り、片付けまできっちりやる几帳面さを持っていました。決して声を荒げることなく、淡々とした生活を送りながらも、山と森への情熱を静かに燃やし続けた人だったのでしょう。昭和44年、69歳で亡くなりましたが、私は祖父が台所に立つ姿を今でもはっきりと覚えています。

そんな祖父の姿を思い出すたびに、最近話題の「木育」が気になります。2004年に北海道で発祥した木育は、子どもたちが木製遊具や木のおもちゃを通じて木や森に親しむことを目的とする教育運動です。今では全国各地に木育広場やおもちゃ美術館が広がり、子どもが実際に木に触れること、森の存在を感じること、その情操的な側面が強調されています。

もっとも、木育指導者の中には実際に現場の森を歩いたことがない人もいます。木のおもちゃだけで祖国の森や林業に誇りを持たせられるのかどうか、そこには疑問が残ります。祖父が自ら極寒の樺太の森を歩き、林道を拓き、木を見て手を動かしてきたことを考えると、「現物体験」の重要性は揺るぎないものだと思います。

皮肉なことに、その木育発祥の地である北海道では「再生可能エネルギー」の名のもとに自然破壊が進んでいます。例えば、北海道内の風力発電導入量は、福島第一原発事故以降の大型プロジェクトが進んだ結果、直近3年で2.3倍に拡大し、2024年度末時点で累積出力は136万キロワットに達しています。

また、釧路湿原の近くではメガソーラー施設が計画されており、開発面積は約27ヘクタール、出力は21メガワット規模。国立公園やラムサール条約湿地の隣接地で森林伐採・造成工事が進められています。計画されているパネル枚数は約36,579枚。環境保全の観点から希少生物の営巣問題などとも衝突しています。

このような再エネの拡大は、脱炭素や持続可能性という大義名分がありますが、それが必ずしも「森を守る」という祖父の仕事と整合しているとは言えません。森を切り開いてパネルを敷設することは、森林の生態系や生物多様性を損なう可能性があり、景観や地元の自然との共生という視点が軽視されがちです。

時代は違えど、人と森をつなぐ営みの重要性は変わりません。祖父が山を駆け、林道を造り、木を育ててきた体験は、私にとって「現場の教育」の原点かもしれません(「邂逅」と言ってもいい)。木育がその原点を忘れず、子どもたちに森の匂い、木の肌触り、木陰の風を伝えるきっかけとなってほしいと思います。そして、再生可能エネルギー事業もまた、自然を消費するのではなく、次世代へ自然を引き継ぐ形で行われるべきだと強く感じます。

自然を征服するのではなく、人間と自然とが一体となること。それこそが、祖父が生涯を通じて示してくれた姿勢であり、私たちが未来へ受け継ぐべき基本だと思います。

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2025年9月18日木曜日

NHKの討論番組から考えたこと

 
NHK放送センター(東京・渋谷)

公共放送とは何かを問い直させる象徴的な風景


先日、NHKの日曜討論を観て(実際は、車の中で音声だけを聞いて)、いくつかの点を強く感じました。


第一に、そもそも「討論」になっていないということです。各出演者が持論を述べるだけで、相互に問い質し、論点を深めていく場にはなっていませんでした。第二に、ファシリテーターの問題です。議論を整理し、論点を掘り下げていく役割が十分に果たされていないと感じました。第三に、現実と経済指標分析とのギャップです。専門家がデータを提示しても、それが市民の日常感覚とあまりに乖離しており、議論はかみ合いません。

このように考えていくと、最終的に行きつくのは「公共放送とは何か」という問いです。公共放送は政府広報や娯楽の提供ではなく、民主主義社会における「公共」を維持するための機関であるはずです。ところが現実には、NHKは「公共」の理念を十分に体現できていないのではないでしょうか。

そして、この「公共放送とは何か」という問いは、やがて「個と公共」の関係の問題へと広がります。日本社会では、個人が自立した市民として公共の問題に主体的に関わる意識が弱いと指摘されてきました。戦後の高度経済成長を経て、家族や地域共同体が相対化し、個の自立が進む一方で、国家や社会とどう関わるかという意識は希薄化しました。結果として、「国家は政府が管理するもの」「公共は官の領域」という思考が根強く残ってしまったのです。

今の政治ごっこの象徴のような内閣のおかげで、国民はかなり底辺を知ったのではないでしょうか? それとも、まだまだ堕落する必要があるのでしょうか? 電車ごっこの乗客のまま堕落し続けるのでしょうか?

このことは、NHKのあり方にも影を落としています。公共放送を国民が主体的に支えるのではなく、「政府が与えるもの」と捉える意識が強いために、NHKが公共性を十分に果たさなくても大きな問題提起が生まれにくいのです。娯楽と公共放送の分離を求める声が広がらないのも、その一例でしょう。

結局のところ、NHKを考えることは、国家とは何かを考えることに直結します。個と公共の関係が希薄であることは、日本社会の「国家意識の欠落」と表裏一体です。そしてこの欠落は、政治への無関心や公共制度への不信感、さらには将来への悲観と結びついて、今後の社会の持続可能性に深刻な影響を及ぼしかねません。

経済成長一辺倒の時代が終わり、社会が成熟段階に入った今、私たちは日本という「国家」をどう定義し、一人ひとりがどのように関わっていくのかを再定義する必要に迫られています。NHK討論は、そのことを逆説的に突きつけているのだと思います。
  
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2025年9月17日水曜日

ロバート・レッドフォードの死とアメリカの本質


The Entertainer - 今年正月の録音です


コンマンの国から日本への警鐘

ロバート・レッドフォードが亡くなりました。

アメリカン・ニューシネマの代表作『明日に向かって撃て!』(1969年)や『スティング』(1973年)は、私が14歳前後の人格形成期に大きな影響を与えた作品です。少し後年になりますが、『大統領の陰謀』(1976年)も何度も観て、レッドフォードが電話で話す英語を必死にコピーしたことを思い出します。

ここでレッドフォードの映画史的な功績については評論家に任せたいと思います。私が触れたいのは『スティング』という映画と、そこに描かれた「アメリカの本質」です。

コンゲームはアメリカ社会の鏡

『スティング』が大ヒットした理由は、アメリカ人が心の底で「自分たちの社会はコンゲームの上に成り立っている」と理解しているからだと思います。

コンゲーム(confidence game)の“con”は「信頼」を意味します。コンマンとは、一瞬で信頼を勝ち取り、偽物を売りつける詐欺師のことです。アメリカ社会は、こうしたコンマンの物語を痛快に楽しみます。詐欺師が詐欺師を出し抜く、そのカタルシスがたまらないのです。
 
日本で言えば石川五右衛門に近いでしょうか。権力者をやっつける義賊だからこそ、人々は喝采します。アメリカの場合、それは「反知性主義」と呼ばれます。知性や権威そのものを否定するのではなく、知性と権力が癒着し、代々大金持ちが世襲していく構造に対する反感なのです。

だからこそ、トランプのような人物が現れても、アメリカ社会では「成り上がりもの」として否定されません。むしろ「一発逆転」の物語に拍手を送ります。ユーモアと話術さえあれば、どんな悪党でもヒーローになれるのがアメリカの伝統なのです。

自己啓発と「ポジティブ産業」

アメリカ人にとって宗教すら自己啓発の道具になっています。テレビ伝道も、多くの宗教家も、神学というよりは「ライフコーチ」であり、「ポジティブ産業」に近いのです。自己啓発本がアメリカで売れ続けるのは、社会そのものが「成功への道具」として宗教や思想を利用する土壌を持っているからだと思います。

出版不況の日本でも、自己啓発本が売れています。日本の読書嗜好も次第にアメリカ的になりつつあるのかもしれません。しかし、それは「con manを速成する手段」でもあることを忘れてはならないと思います。振り込め詐欺だけが詐欺ではありません。ポジティブ産業に酔ってしまえば、頭を冷やすことは難しいのです。

ニーチェは「一人ぼっちになって迷路を進むこと、新しい音楽を聞き分ける耳を持つこと」が意志の力であり、人間にとって大切だと説きました。福沢諭吉も、小林秀雄も、坂口安吾も、同じことを別の言葉で語っています。要は、自立して考える力なのです。

日本への警鐘

アメリカは中世を経ずに誕生した国であり、建国以来わずか250年の歴史しか持ちません。その成り立ちは「コンマンの国」だと言えるでしょう。自己啓発本、テレビ伝道、トランプ現象――すべては「信頼を売る詐欺」の延長線上にあります。

一方、日本には2600年の歴史があります。中世も近世も経験し、正統性を積み重ねてきた社会です。にもかかわらず、戦後80年でアメリカに隷従し、その文化を無批判に取り入れてきました。

今の日本が生き残るためには、アメリカの模倣ではなく、アメリカに負けない知性を持つことだと思います。歴史の厚みからくる正統性の強さを自覚しなければならないのです。

ロバート・レッドフォードの死は、一時代の終焉を告げるニュースであると同時に、日本にとって「次の時代をどう生き抜くか」を考える契機でもあるのです。

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2025年9月16日火曜日

日本への警鐘 ― アメリカの生活格差と移民問題から学ぶこと

 
ロサンゼルス中心部の路上に置かれたホームレスのテントや所有物
CNN/FREDERIC J. BROWN/AFP/Getty Images
  
最近のニュースで、ニューヨークやロサンゼルスなどの都市部で、食品や生活必需品の価格が急騰していることが報じられました。卵12個が10ドルを超えるスーパーもあり、米国の一般家庭の生活コストは想像以上に高くなっています。給料が高いとはいえ、インフレや医療費、住宅費の高騰を考えると、生活の余裕は限られています。多くの人がローンや家賃、保険料に追われ、ギリギリの生活を強いられています。

私自身、50歳を少し過ぎた頃、ニューヨークの暮らしを引き払って帰国しました。会社組織を離れ、起業して数年経ってからです。帰国を決めた最大の理由は、アメリカの生活費や医療費、社会保障の状況、そして自分の年齢を考えた場合、資金が潤沢でなければ長期的にやっていけないと判断したからです。決断が早すぎたとは思っていません。

アメリカは広大な国であり、貧富の差は非常に大きい。富める者はさらに裕福になり、貧困層は増え続けています。不法移民の増加や犯罪率の上昇、路上生活者の増加も深刻です。麻薬の問題もあります。近年では合成オピオイドの一種であるフェンタニルの過剰摂取による死亡者が急増しており、深刻な社会問題となっています。本来は医療用の強力な鎮痛剤ですが、違法に海外から流入するフェンタニルが危機を引き起こしています。
   
アメリカというのは、もともとは移民の国であり、努力して合法的に来た人々が国を発展させてきましたが、近年は不法移民が増え、コミュニティを閉じたまま自国の文化圏を維持する例も少なくありません。その結果、かつての「United States」とは異なる、格差と分断が深まった社会が形成されています。

日本も例外ではありません。物価は上昇し、貧困率もゆるやかに上昇しています。移民(不法・合法)も急激に増加しています。日本は自己主張が苦手で、異文化とのコミュニケーションも不得手です。社会全体を統合するリーダーシップも弱く、もし移民がこのまま増え続ければ、アメリカとは違った意味で収拾のつかない社会に変貌する可能性があります。今のうちから制度や社会の仕組みを見直し、異文化を統合する力を育てることが必要です。

アメリカの現状から学ぶべきことは多くあります。生活の厳しさ、格差の拡大、社会の分断、そして移民政策の影響。私自身の体験も含め、警鐘は鳴らし続けなければならない。未来を少しでも健全に保つためには、現状を正確に見据え、早めに対策を講じることが欠かせません。政治家先生は全くあてにはなりませんから。 
  
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2025年9月15日月曜日

プルドポークサンドイッチの思い出


昨日はプルドポークサンドイッチを作って食べました。家で作ると本当に美味しいですね。日本のパンが美味しいこともあって、空港で食べたあのサンドイッチとはまるで別物です。

今から25〜6年前、私は自宅のあるNYからナッシュビルに毎週仕事で通っていました。飛行機で2時間半ほど、時差は1時間。アメリカのコンサルティングビジネスはとにかく広大な国が舞台なので、自分の所属するオフィスや住んでいる地域に限らず、プロジェクトは全米に散らばっています。移動は基本的に飛行機。月曜に自宅を出て現地に飛び、月火水と三泊、木曜の仕事が終われば夜に帰宅。そして金曜は自分のオフィスに出社して勉強会や作業に参加する、という「3-4-5」のリズムで回っていました。

体調管理も大変で、知性と教養に加えて体力、そして何より「へこたれないユーモアの精神」が不可欠でした。今考えると、よくもあんな非人道的なブラック業界で働いていたものだと思います。でも結局のところ、私はコンサルのビジネスそのものが好きだったのでしょうね。

プロジェクト責任者ともなると、金曜はクライアントとのフォローアップでさらにタフ。夜にナッシュビル空港に向かい、最終便のNY行きに乗る前に夕食をとります。当時の空港にはレストランが一か所だけで、メニューはなんとプルドポークサンドイッチのみ。正直、あまり美味しいとは言えませんでしたが、ビール片手にかぶりつくのが週末の小さな儀式のようでした。フライトがディレイやキャンセルになると、がっかりしながらナッシュビルのホテルに泊まることもありました。

それが今では、家で作るプルドポークがちょっとした楽しみになっています。月に一度は食卓に並びますが、閑散としたナッシュビル空港で食べたあの味を思い出すと、やっぱり「家で食べるプルドポークが一番だな」と感じます。

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2025年9月14日日曜日

暗殺という「寓話」


安倍元首相が立っていた場所からSANWA CITYの駐車場を望む


アメリカでの Charlie Kirk 暗殺事件のニュースに接して、私はどうしても安倍晋三元首相の暗殺事件を思い出しました。両者には「スナイパーによる高所からの狙撃」というイメージの共通点があるように思えます。そして同時に、百田尚樹の小説『カエルの楽園』の寓話性が頭をよぎりました。

安倍元首相暗殺の記憶

奈良・近鉄西大寺駅前での安倍元首相暗殺現場は、子供の頃から親しみのある私にとって非常に身近な場所でした。演説の位置関係は今も鮮明に記憶しています。安倍氏が立っていたのは駅前の北側の花壇付近。その正面には「SANWA CITY」というビルがあり、その裏には立体駐車場があります。屋上は安倍氏の立ち位置からおよそ100メートルの距離で、当時は自由に出入りできる構造でした。

事件直後、医師団は「弾は斜め上から心臓に達した」と発表しましたが、警察の説明はそれを打ち消すようなものでした。さらに、致命傷となった弾丸はいまだに発見されていません。この齟齬に私は強い違和感を覚え、「もしも屋上から狙撃があったとしたら」という思いが今も消えずに残っています。これは事実の断定ではなく、あくまで私自身の記憶と感覚に基づくものです。

暗殺に潜む寓話性

暗殺という行為は、個人の恨みや偏狭な動機にとどまらず、社会や国家が抱える不安定さを映し出します。だからこそ寓話のように響くのです。

安倍元首相を撃ったのは、プロの狙撃手ではなく、一見ひ弱そうな「隣人」でした。国家の指導者を凡庸な隣人が倒したという現実。それは戦後日本社会のもろさや空洞化を示す寓話のように見えます。しかし不可解な点が闇に葬られれば、その寓話性は社会の教訓へと昇華せず、ただ忘却の淵に沈んでしまいます。

一方、アメリカの Charlie Kirk 暗殺事件はどうでしょうか。これはアメリカ社会を覆う政治的暴力の象徴であり、国全体が「奈落の縁」にあることを改めて突きつけています。党派性の激化、信頼の崩壊、テロや経済危機、薬物禍やコロナ禍――その積み重ねの果てに、暗殺が起こったのです。アメリカはこの事件の背後を、何年かかっても徹底的に暴こうとするでしょう。それは彼らの民主主義の本能ともいえる態度です。否、リベンジの本能か?

そして私の脳裏に浮かぶのは、百田尚樹の小説『カエルの楽園』です。外敵の脅威に直面しながらも、都合よく「平和」を選び続けたカエルたちの姿。その末路は、現実を直視しない社会の行き着く先を示していました。10年前に発表され、日本社会に警鐘を鳴らしたにもかかわらず、寓話として十分に受け止められなかった――その事実が、私には重く響きます。

我々の責任

二つの暗殺から何を教訓とするか。どういった寓話が生まれるのか。アメリカと日本、それぞれ背景は異なります。ただ一つ言えるのは、暗殺が突きつける問いかけを、教訓として引き受けられるかどうかが国の姿勢を決めるということです。

アメリカは暴力の背後を暴き、寓話を社会の議論へと昇華させるでしょう。日本はどうでしょうか。臭い物に蓋をし、寓話を不発のまま忘却に沈めるのか。

暗殺は歴史に深く刻まれる出来事です。しかし、その寓話的な意味をどう読み取るかは、私たち一人ひとりの姿勢にかかっています。忘却に流されるのではなく、あの時の記憶と問いかけを留めておくこと――それが、今を生きる我々が果たすべき未来への責任だと思っています。

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2025年9月13日土曜日

ケチャップの記憶と昭和のナポリタン

 

子供の頃の福岡で出会ったケチャップの味は、ナポリタン以上に鮮烈でした。貧しかった昭和の食卓、デパートの食堂、そしてアメリカ暮らし――ケチャップはいつも私の食の記憶をつなぐ役割を果たしてきました。

2025年9月12日金曜日

日本的価値観の復活 ~ 個人のバランス感覚と社会の成熟

 

緊張の中でバランスをとる ― 日本社会の現状

日本人は個人としてのバランス感覚を磨かない限り、多様性の中で社会を成熟させることはできない。

海外での長年の生活やアメリカ人組織での仕事経験、そして中国ビジネスの経験から感じることがあります。生活していると毎日さまざまなニュースが耳に入りますが、かつては取るに足らないと思っていたことが、今では社会を大きく揺るがす問題として取り上げられる。経験上、その多くは現代社会のあり方や人々の価値観の違いに起因しているように思います。

時間に流され、対岸の火事としてやり過ごすこともできます。しかし、問題を先送りせず、時には誠実に向き合うことが大切であり、そのためには一人ひとりの意識や価値判断の基準の見直しが不可欠です。

最近の教育現場や社会に目を向けると、この傾向は顕著です。帰国子女や外国人と接する場面では、日本人の善悪の感覚や価値観と異なる行動や主張に直面することがあります。こうした場面に対して「When in Rome, do as the Romans do」と適応するのが基本なのですが、なかなか解決には至りません。それは、今の日本では、日本独自の価値判断の基準自体が揺らいでおり、「日本のやり方はこうです」と自信をもって示すことが難しくなっているからです。

本来ならば、まずは「日本人の価値判断の基準とは何か」「日本人の人生観、死生観、規範とは何か」を押さえることが不可欠です。その理解なしに、多文化共生や外国人への対応を語るのは順序が逆です。

このことは、個人の成長や組織の成熟とも深く関わっています。例えば、新入社員の「五月病」も端的な例かもしれません。西部邁氏は『知性の構造』(1996年)で、日本は個人主義と集団主義の間の葛藤が少なく、平衡感覚が未熟であるため、突発的な危機の中で右往左往すると指摘しています。五月病は新入生や新入社員だけの問題ではなく、大人になる過程で緊張や葛藤に身を置く経験が不足していることが背景にあると強く感じます。

そもそも日本は単一民族の島国であり、国全体が「ウルトラ過保護」になっているため、葛藤を経験する機会が乏しい。組織の中でも、葛藤を避けて効率性を優先するか、逆にコンフリクトが多すぎて互いに避け合うかの両極端になりがちです。こうした環境では、個人も組織も強くなれません。いざ国外との対立や予期せぬ緊張に直面すると、パニックを起こすのです。要するに、対応のためのバランス感覚が足りないのです。

「葛藤」は学校や会社の中に日常的に存在しています。だからこそ、それを避けるのではなく、意識的に認識し、上手に活用することがバランス感覚を鍛える鍵になると思います。

日本人は穏やかで温厚な民族である一方で、極端から極端に走りやすい傾向がある。軽信しやすく、軽佻浮薄なテレビや新聞の一見もっともらしい言葉にコロッと騙される。つまり、多様性の中でバランスをとることが苦手なのです。本来、個人としての多様性が集団としての多様性を生み、ひいては国家としてのダイナミズムにつながるはずです。外国人をこの狭い日本列島に招き入れて「多様化だ」と言う前に、日本人自身が個人としての多様性――すなわち「私」と「公」のバランス感覚を身につけることが先決でしょう。

全世界で起こっている大きな価値観のうねりは、我々が生きるうえでの価値判断の大前提の変化であり、人類が歴史の中で積み上げてきた「知の構造」をも揺るがしています。机上の理論ではなく、臨床的で総合的に考える必要がある。自らの判断と行動を見つめ直し、一人ひとりが意識を変えることによってのみ、日本という社会全体が変わり得るのだと、私は考えています。
   
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2025年9月11日木曜日

若手をどう育成するか?

 

中小企業の経営者の約8割が、若手社員の育成に課題を感じているという調査があります。育成手法としては1on1ミーティング、OJT、オンライン研修が中心ですが、経営者の3割弱が「効果があまりない」と感じており、現場では指示待ちの若手や主体性の欠如に悩む声が少なくありません。主体性やコミュニケーション能力を育むには、座学だけでなく実践を通じた体験型の研修が重要だと考える経営者も多いようです。

しかし、このような調査結果は「どう育てるか」という手法の話に偏りすぎています。つまり、what(生き方や在り方)よりもhow(方法論)が前面に出てしまう。これまで機会あるごとに何度も言及しましたが、日本社会は「無駄と余裕がなさすぎる」ため、時間をかけて内面から育つプロセスに余白がありません。   
 
ロールモデルは持つだけでは十分ではないと思います。それを自分なりに咀嚼し、少しずつ超えていくことこそが本当の成長です。私はこれを「ロールモデルの継承と超克」と呼んでいます。何事も簡単には変わらず、すぐに超越できるわけではありません。経験上、徐々に時間をかけて変わるもので、いくら努力してもすぐには結果が出ないことも多いのです。でもあきらめてはいけません。何十年もたって、気が付いたら自分が若手のロールモデルになっていた──そんな感覚で日々を過ごすことが大切だと思います。

この考え方は、私が音楽や芸能の体験からも実感しています。例えば、エリック・クラプトンの演奏は、初期のブルースの影響を受けつつも、長年の試行錯誤の末に自分の音楽性として消化されています。単に模倣するだけでは、あの独自の表現は生まれません。同様に、桂枝雀さんの落語も、師匠の型を受け継ぎながら、自らの経験や観察を加えて独自の笑いを作り上げました。いずれもロールモデルの「超克」があって初めて、その個性や魅力が花開いたのだと感じます。

若手社員育成においても同じことが言えます。教えたり指示したりするだけでは限界があります。経営者や先輩の背中を見せつつ、本人が失敗や試行錯誤を通じて学び、自分なりのやり方を見つける余白が必要です。そのプロセスを丁寧に支えることで、主体性や課題解決能力といったスキルは自然に身についていきます。座学だけではなく、実践を通じた学びが重要であると多くの経営者が感じているのは、まさにこの「時間をかけて自己形成を促すプロセス」が必要だからだと思います。

私自身も、若手に対して「こうしなさい」と教えるだけではなく、自分の経験や考え方を共有する中で、彼らが少しずつ自分の軸を見つける手助けを意識してきました。そして、彼らが成長し、自分のやり方を確立したとき、いつの間にか自分が若手のロールモデルになっていたことに気づくのです。

結局、若手育成とは「結果を急がず、プロセスに寄り添うこと」だと、私は経験上そう思います。短期的な成果や即効性だけを求めるのではなく、時間をかけたロールモデルの継承と超克を支援することが、組織全体の持続的成長につながるのではないでしょうか。

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2025年9月10日水曜日

責任の再定義 ― 日本政治と公共性のゆくえ



ゴシップレベルの主要メディア

首相続投の根拠として持ち出された世論調査はまったく当てにならないものです。マスメディアは自らの報道に反省の弁はないのでしょうか?世論調査を「民意」とすること自体、あまりにリテラシーが低く、真剣に議論する価値がないと考えます。したがって、「石破おろし」そのものを批判する必要はありません。

問題なのは、石破政権の功罪や政界再編の議論において、評論家やメディアの見方が浅く、抽象度が低いという点です。そこにこそ、現代ニッポンの本質的な問題があります。

責任の喪失と国民の変化

現代日本では、社会全体に規範意識が薄れ、個人も確固たる信念やアイデンティティを失いつつあります。戦後の集団主義に依存したシステムはもはや機能せず、組織は個人を守らず、政治も国民を護らない状況です。国民自身も国家や政府との距離を置き始めています。

その中で、石破政権が国民に投げかけた唯一の貢献は、「責任」という概念を再考させたことだと思います。つまり、個人が自己決定権を持ち、自らの生き方を自立的に選択せざるを得ない社会に移行しつつあるという事実です。

民主主義と自由主義のねじれ

民主主義は全員一致と均質性を理想とし、自由主義は多様性と自己責任を前提とします。日本はこの二つの思想をどのように宥和させるかという難題に直面しています。

日本的リベラリズムは「平等」に過剰に傾き、「責任を伴う自由」を後景に追いやってきました。その結果、自己中心的な高齢社会と、公共性の急速な喪失を招いています。

プラトンは『国家』において、民主主義の致命的な欠陥は「個人が独立してバラバラに考えだすこと」にあると述べました。いまのアメリカ社会はまさにその姿を映し出しています。日本も同じ危機に直面しているのではないでしょうか。

日本的公共性の復権へ

現代社会において問われているのは、自己統治の道徳と共同主観の構築です。つまり、
  • 個人が自分を律する道徳性(個)、
  • 共同体の一員としての公共意識(公共)、
そのバランスが「自己責任」の本質だと考えます。

日本のリーダーは、西欧思想をそのまま輸入するだけでは不十分です。日本の歴史や精神に根ざし、ときにはプラトンまで立ち戻って、責任・公共・自由の新たな均衡を構想することが求められています。

責任の再定義

石破政権をめぐる政界再編は確かに注目されますが、真に重要なのはその政局運びではありません。日本社会全体が「責任」をどう再定義し、個と公共のバランスをどう築いていくのか、ここにこそ論点があります。

パターナリズムに安住していた時代は終わりました。これからは国民一人ひとりが、自己統治と公共意識を備えた主体となれるかどうか。それこそが、日本の政治と社会を再生させる最大の課題なのです。

日本の政治家は責任を知らず、国民は自由を誤解している。その結果、自由と責任の均衡が崩れ、公共性が失われつつあります。石破政権が提示したものは、まさにその再定義の必要性だったのではないでしょうか。

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2025年9月9日火曜日

リトマス試験紙としての政治

 

井の頭通りのアジサイ(撮影:三鷹の隠居)


リトマス試験紙と紫陽花は、どちらもpH(酸性・アルカリ性)によって色が変わるという共通点があります。その色の変化はリトマス試験紙と紫陽花では逆です。リトマス試験紙が酸性で赤、アルカリ性で青に変わるのに対し、紫陽花は土壌が酸性だと青く、アルカリ性だとピンクや赤色に変化します。

☆ ☆ ☆ ☆

リトマス試験紙としての政治日本政治の混乱は、一見ただの派閥争いに見えます。しかし、私はこれを“リトマス試験紙”と考えています。国民も政治家も、自らの思想を持っているかどうかが試されているのです

昭和の15年戦争に至った原因を振り返ると、その大きな責任は政党政治家にありました。党内や党派間の泥仕合が続き、その延長線上で国家そのものが誤った方向へと進んでしまったのです。この本質は今もなお変わっていないように見えます。国民もまた、その構図に無自覚でいる人が多いのではないでしょうか。

石破茂という総理大臣の出現や、繰り返される政治の混乱、そして自民党総裁選の行方は、その点を改めて突きつけています。これらは単なる政局や権力闘争ではなく、右側の人にとっても左側の人にとっても、自らの思想や信念があるのかどうかを映し出す「リトマス試験紙」のような役割を果たしているのです。

自民党はこれまで「戦後レジームの守り番(護衛)」としての役割を担ってきました。しかし、本当に戦後レジームからの脱却を目指すなら、自民党自身がその問いにどう答えるのかこそが試されるべきでしょう。思想なき政治は、数字や派閥力学に翻弄される似非民主主義に堕してしまいます。

日本にも賢人は必ず存在すると信じたい。ただし、今の政治構造の中ではそのような人物は表に出にくく、隠れたままです。思想のない政治家が目立てば目立つほど、賢人はますます埋もれてしまいます。

石破茂の登場や総裁選の混乱は、政治家や国民に「思想があるのかないのか」を突きつけるリトマス試験紙です。その答え次第で、日本の民主主義が形骸化の道をたどるのか、それとも次の段階へ進むのかが決まるのではないでしょうか。

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2025年9月8日月曜日

埋もれた日本と「政党政治」という病

 
甲陽軍鑑(ネットで見つけた画像)

甲斐の戦国大名である武田氏の軍学書です


昭和の15年戦争に至った原因の一つは、政党政治家の責任だったと言われます。そして残念ながら、その本質は今もあまり変わっていないようです。政党間や政党内で繰り広げられるのは、国の未来を賭けた真剣勝負というより、どろどろとした泥仕合。政党だけが滅びるならまだしも、政党の崩壊はそのまま国の凋落につながります。だからこそ、マスメディアも政治評論家も、そして私たち国民自身も、もう少し真剣に「自分たちの未来」を考えたほうがいいのではないでしょうか。

そんな中で石破総理が昨夜、ついに辞意を表明しました。とはいえ、次の総理が誰になろうと、日本の政治が劇的に変わるとは思えません。なぜなら、責任と権限の「概念」を理解しないまま、言葉だけで場を取り繕うという芸風が、この国の政治家のDNAに刻まれているからです。

ここで私が言う「埋もれた日本」とは、和辻哲郎が『埋もれた日本』(1951年)で論じた世界観・日本観から来ています。和辻は、応仁の乱から江戸初期にかけての多様な思想が、徳川の長い鎖国体制の中で摘み取られ、日本の思想的可能性が「埋もれてしまった」と指摘しました。民衆の一揆や下克上に象徴されるエネルギーが、本来は社会を変える多様性の芽であったのに、それを抑え込んだ結果が「埋もれた日本」なのです。

和辻はまた、『甲陽軍鑑』に触れています。そこでは、国を滅ぼす大将のタイプとして、(1)うぬぼれの強い「バカなる大将」、(2)見栄っぱりな「利根すぎる大将」、(3)道義心の弱い「臆病なる大将」、(4)他人の意見を聞かない「強すぎる大将」を挙げています。理想の大将は、仁慈に富み、人を見る明(あきらかさ)を備えた人物だと。うぬぼれや虚栄を去って得られる「明」を持つリーダーが現れて初めて、組織は強く揺るぎないものになるのだと説いています。さて、今の日本にそんな「明」を持つリーダーはいるのでしょうか。

私は15年ほど前の日記に、こう書いたことがあります。――ブログや日記は「自分が何を考えているかを知るためのツール」だ、と。私自身、自分がこの世で一番信用ならない人物だと思っていますからね。そんな私から見ても、今の日本社会は相当に“自分を知らない”。流行のスキルをハウツー本や就活セミナーで身につけることが、プロフェッショナルやグローバル化への近道だと信じてしまう。けれど本当は、知らない人と交わり、自分を試し、自分が何者であるかを理解するところから始めなければ、一生「漂流者」のままです。

小林秀雄は『私の人生観』でこう語りました。

「知性の奴隷となった頭脳の最大の特権は、何にでも便乗出来るという事ではありませんか」。

なるほど。便乗の知性だけなら、この国は世界屈指の資源大国でしょう。ですが、反骨精神やロック魂はどこへ行ったのか。江戸後期の武士の気概が、いつのまにか蒸発してしまったのかもしれません。信義や名誉を重んじ、自らの命をかけて責任を果たす姿勢。敵に対しても「敵ながらあっぱれ」と認める潔さ。そうした武士の強い精神の代わりに、詰め腹を切らされる総理大臣が量産されているのが現状です。

政治家たちは「誠実」を声高に語りますが、誠実とは本来「自分のやっていることに一生懸命である」ことです。嘘つきや詐欺師と不誠実を同じ袋に入れてしまうような言葉遊びで誠実を語られても、国民はますます白けてしまうでしょう。

結局のところ、日本の課題は「自分を知ることなく世間(空気)に身を任せる」姿勢にあります。その延長線上に「埋もれた日本」がある。そして、その象徴が「課題がある限りやめられない」と言い放ち、結局は詰め腹を切らされた総理大臣の姿だったのかもしれません。
    
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