それでも、改革のたびに「これで日本人も英語ができるようになる」と宣伝されます。背景には、国際競争力を高めたいという政府の焦り、グローバル化への漠然とした不安、そして英語教育産業の利害が見え隠れしています。つまり、英語教育は「誰のためにあるのか」を見失ったまま、制度改正ばかりが繰り返されてきたのです。
しかし現実には、日本人の英語力は国際的な調査で依然として低位にとどまり、「誰もが少しは学んだけれど、誰も実際には使えない」状態に陥っています。私は、英語は興味のある人、必要な人だけが真剣に学べばよいと考えています。義務教育で必須にした結果、中途半端な教育が広がったにすぎません。本当に必要ならば、人は社会に出てからでも必死に学びます。そのときこそ本気になれるのです。
私は30年以上、英語や中国語を使ってビジネスをしてきました。英語で会議やプレゼンテーションを行い、採用面接や人事評価もこなしました。アメリカ人の上司に評価され、部下を評価し、ときには解雇も通告しました。オフィスに日本人が私一人、という時期も長くありました。
それでも正直に言えば、私の英語など「箸にも棒にもかからない」レベルです。例えば、朝出勤して秘書に気の利いた一言を英語で投げかけることはできなかった。私は日本文化を背負った日本人であり、アメリカ流の軽妙な日常会話は何とも照れくさく、身につかなかったのです。
それでもビジネスは回りました。なぜか。インド人や中国人が独特の発音で堂々と話すように、国際ビジネスの世界では「正しい発音」よりも「中身」が重視されるからです。中学生レベルの単語でも、相手に理解されるまで言い切れば交渉になる。逆に、いくら流暢でも主張が無茶苦茶なら意味がないのです。
むしろ日本のビジネスマンに決定的に不足しているのは、リテラシーです。概念を整理し、抽象度の高いレベルで物事を考える力が弱い。そのため会議では細部の言葉尻を突くばかりで、構造的な議論に進めません。これは語学以前の問題であり、母語である日本語教育を軽視してきた結果ではないでしょうか。
学びの動機は情熱から
言語は結局、情熱によって支えられます。プロのギタリストが一日中楽器を手放さないように、好きで好きでたまらないものを24時間365日追いかける中で英語が必要になれば、人は自然に学びます。私自身、子どもの頃にアメリカのドラマやビートルズを通じて英語に興味を持ちました。それが仕事で英語を使う原点になったのです。
日本の英語教育改革が何度繰り返されても成果を上げないのは、日本語による思考力を育てる教育をおろそかにし、見栄えの良い「グローバル人材育成」のかけ声に振り回されてきたからです。英語必修の虚構が浮き彫りにしているのは、実は日本人のリテラシー不足という現実です。