以前、「仕事が金銭を得るための手段と化したら人生はつまらなくなる」と言いましたが、教育でも同じような問題があると思います。 立派な先生もいらっしゃるでしょうが、今の学校を見ていると、あえて、子供たちを教育する前に自分を教育する必要があるといいたいですね。
新渡戸稲造さんが、『教育家の教育』(1907年)という講演で、以下のように言ってます。
「私の謂う教育家はさほど広い意味ではない。ズッと狭くして児童の精神あるいは知識あるいは身体を発育せしむる事に志し、かつ尽力する輩をいうのである。これはあるいは普通一般に用いらる解釈とは少し違うかも知れませぬ。世の教育家と称するのは志と尽力の有無は問わず、あるいは文部省あるいは地方庁なり何んなり相応の官憲等から免状を受けている者を教育家というので、免状あるいは辞令書が教育家と否との標準となる。
志の有無は別問題。もっとも、何れ誰でも教えて見よう位の志が有ればこそ免状を得ようが、しかし能く探ると実際真に必しもそういう志が有る訳ではなくして外に飯を食う道がないから教育を一の飯食う手段とするので、志は教育にあらずして飯に存する。故にかくの如き人は如何に免状を貰っても教育家の中には入れられない。これはいわゆる教育屋の側に属する。故に私の教育家と申しますのは飯を食うために教育を手段とするのでなくして児童の身体知識精神を発達せしめる志と力のある者をいうのである」。
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