2014年3月28日金曜日

雨の吉祥寺 ~ 傘かしげ

吉祥寺なかみち商店街

「江戸しぐさ」は、江戸商人が習慣化した行動規範です。

堺商人の資本力が太閤秀吉を生んだといわれますが、江戸に入ると、更に商人を中心として世の中がまわりだしました。 「人はいかに生きるべきか」という道も、商人のリーダーたちが示したのです。 TVドラマ『水戸黄門』を見ていると、「オヌシもワルよの~」と、悪代官に小判を差し出す越後屋の姿が目に浮かびますが、大店の主人の多くは立派なリーダーだったのです。

「江戸しぐさ」というのは、江戸の安定社会の基盤をなすもので、その中でも「傘かしげ」は代表的なものです。 狭い道路ですれ違う時、ちょっと傘を倒して、お互いに軽く会釈を交わす。 粋ですねぇ。

今日は雨の中、吉祥寺に買い物に行ったのですが、「傘かしげ」どころか、片手に雨傘、片手にスマホを持って突進してきます。 人生に余裕がないのか、消費増税前の買い占めなのか、、、

平成26年の東京には「粋」がなくなった。 

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2014年3月26日水曜日

アメリカの幼稚園で重視すること ~ 親の責任

ダラスにいる子育て中の友人が送ってくれました(2009年)

アメリカの幼児教育から初等教育は読み書きが重視されます。 その後のアメリカの教育システムを考えた場合、このアプローチは納得できます。 アメリカの教科書は 分厚く、科目に関わらず、読む分量が多い。 小学校から、宿題は何十ページにも渡る資料を渡されます。 これは大学や大学院でも同じです。 読み書きができないと、アメリカの教育にはついて行けません。 

したがって、幼少時からその力を付けようとするのがアメリカの幼児教育です。 幼稚園とは、子供を集団行動に慣れさせる場所だと思っていましたか?

アメリカのキンダー(K)は日本の幼稚園年長組にあたり、アメリカの義務教育(K to 12)の初年度(通常は、公立小学校に併設します)。 また、親の判断でプリスクール(幼稚園)に行かせない親がいることも事実です。

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2014年3月21日金曜日

ひたし豆


山形の秘伝ひたし豆。 青大豆を水に浸してから鍋に入れ、そのままやわらかくなるまで煮た後、だし汁、塩、しょうゆで煮立てます。 大根おろしと食べてもいいし、梅干しとシラスと一緒に炊き込みご飯にしてもいい(写真)。 本当に使い勝手のいいレシピです。

豆好きの私にはたまらない一品!

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2014年3月17日月曜日

東京の「粋」は無形文化財として保存を


この人が亡くなって東京も「やせ我慢」が消滅したか?

東京がこれ以上コスモポリタンの大都会に変化すると、私の好きな部分の東京が完全に消え失せ、東京は完全に死滅するでしょう。 

私は大阪は南の生まれですが、東京の「やせ我慢文化」が好きです。 私の好きな東京は、
鬼平が闊歩する時代の本所深川とか、江戸落語の世界なのかも知れません。 

八っつあん熊さんたち江戸庶民に「やせ我慢」の話は事欠きません。 熱い風呂でも決して熱いと言わない。 沢庵を卵焼きと言い張り、水を酒という。 見栄でもあり江戸っ子の気位の高さです。これは、生きるための彼ら独自の物差しであり、美意識なのです。

江戸落語の登場人物は、貧乏でも毎日を楽しみました。 

もしかたら、欲しいものを手に入れると、手に入れた途端、それを守ることに汲々としてそれが足枷となることを知っていたのかも知れません。 だから、宵越しの金は持たない。 こういった東京の「粋」な部分は早急に日本の重要文化財に指定して保存してもらいたいですね。 世界遺産などと言ってグローバルで議論する必要はないのです。

東京は2020年のオリンピックで更なるコスモポリタンの都市化する恐れがあります。 かすかに残る江戸の美意識はもはや風前の灯火なのです。

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2014年3月14日金曜日

ぼちぼちいこか


今週は大手町や天王洲で若いビジネスパーソンをいっぱい見てきました。


みんな同じような格好をしています。 スーツの上着の丈が短いのと、腕が細い。 スラックスも細身で窮屈そうだが、足早に歩いていきます。 聞こえてくる会話も堅いですね。 それに、警戒心も一層強くなった。

電車の乗り方も以前とは少し変わってきているように思います。


電車の中で、隣の人がほんのちょっと おしりをずらしてくれると、お互い楽に座れるのに、テコでも動くものかと頑張っている人ばかりです。 若い人だけじゃなくて、オジサンやオバサンも皆が自分の位置を1ミリたりとも譲るものかと頑張る。 、、、頑張らなくてもいいのに。

私は子供のころから「頑張る」という言葉が大嫌いでした。頑張ってテコでも動かない、「我を張る」イメージがあるからです。 ぼちぼちいったらよろしい。

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2014年3月9日日曜日

汚名は晴らすほうがいい

ハル回顧録 (2001年 中公文庫)

近隣諸国の歴史教科書は、多くの嘘や偏向した知識とで書かれています。 アメリカの教科書だって、アメリカの都合のいいように書かれています。 それは仕方がないことです。 自分の国に誇りが持てないような教育を自国民にすることは、義務教育の目指すところではないからです。 

私が一番の問題と思うのは、日本人はもっと自国の歴史を史実に基づいて直視する眼を持つ必要があることです。 正しい歴史認識は日本人に一番必要なのです。 晴らせる汚名は晴らしておいたほうがいいのです。

ニューヨークに住んでいると、12月になると必ず話題になるのが真珠湾奇襲攻撃です。 そう、「Remember Pearl Harbor」です。 日本人は騙し討ちをする(Sneak Attack)卑怯者だと思われているのです。

「真珠湾が奇襲だったのか?」、「日本は宣戦布告なしで真珠湾を攻撃する計画をもっていたのか?」。 アメリカ人との酒席で話題になった場合、ユーモアを交えてさらりとかわせないといけません。でないと、アメリカ人組織で本当のマネジメントチームの一員になれないからです。

相手を説得する必要はありません。ロジカルに自分の意見を主張できればいいのです。 そのためには、自国の歴史を出来る限り客観的に知っておく必要があります。 様々な意見があるのは当然で、「色んな立場の見方はある」でいいのです。「It is controversial、、、」(どちらとも言えない、議論の余地があるという意味です)と話を切り出せばいい。 この「controversial」はマジックワードです。

真珠湾奇襲攻撃に関しては、必ず読んでおいたほうがいい書物があります。 ルーズベルト大統領の国務長官であったコーデル・ハルの回顧録です。

アメリカの日本に対する最後通牒だと言われているハル・ノートを知っている人は多くても、ハル長官が当時を振り返って何を言っているか理解している日本人はほとんどいないと思います。 しかし、これは日本人全員が理解しておくべきことです。 なぜならば、「日本人は奇襲を計画した卑怯な民族だ」という汚名を着せられているかも知れないからです。 着せられた汚名は晴らして、名誉は挽回しておかなければいけません。

ハル長官は自伝の中で、「ワシントンの日本大使館よりも先に日本からの野村駐米大使宛の長文の暗号電文を解読して内容を理解していた」と書いています。 日本大使館でのタイプが間に合わなかったら、日本政府が野村大使に指示した時間に自分会見し、電文の内容を口頭でもいいから伝えるべきだったと述懐しています。 当事者であるハル長官の言によると、日本は宣戦布告なしに奇襲を計画していたのではないことが分かります。

これだけで十分なのです。知っているのと知らないのでは大きな差を生むのです。

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2014年3月8日土曜日

プロパガンダ


昨今の日本のマスメディアの酷さには目を覆いたくなります。

「テロ」と「嘘」で恐怖支配する独裁専制国家か、「金」と「情報」で支配する民主主義国家なのか。 いつでも欧米、とくにアメリカが正しいとは限らないのです。 オレンジ革命後の経緯を精査し、様々な立場から報道して欲しいと思います。 


「世の中の一般大衆が、どのような習慣を持ち、どのような意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識されずに知性的にコントロールすることは、民主主義を前提とする社会において非常に重要であるこの仕組みを大衆の目に見えない形でコントロールすることができる人々こそが、現在のアメリカで「目に見えない統治機構」を構成し、アメリカの真の支配者として君臨している」。

エドワード・バーネイズ 『プロパガンダ』

日本のマスメディアの報道は、無条件に欧米のメディアに従っているだけで、アメリカも何らかの勢力に支配されているかも知れません。

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2014年3月4日火曜日

先生の教育


以前、「仕事が金銭を得るための手段と化したら人生はつまらなくなる」と言いましたが、教育でも同じような問題があると思います。 立派な先生もいらっしゃるでしょうが、今の学校を見ていると、あえて、子供たちを教育する前に自分を教育する必要があるといいたいですね。

新渡戸稲造さんが、『教育家の教育』(1907年)という講演で、以下のように言ってます。

「私の謂う教育家はさほど広い意味ではない。ズッと狭くして児童の精神あるいは知識あるいは身体を発育せしむる事に志し、かつ尽力する輩をいうのである。これはあるいは普通一般に用いらる解釈とは少し違うかも知れませぬ。世の教育家と称するのは志と尽力の有無は問わず、あるいは文部省あるいは地方庁なり何んなり相応の官憲等から免状を受けている者を教育家というので、免状あるいは辞令書が教育家と否との標準となる

志の有無は別問題。もっとも、何れ誰でも教えて見よう位の志が有ればこそ免状を得ようが、しかし能く探ると実際真に必しもそういう志が有る訳ではなくして外に飯を食う道がないから教育を一の飯食う手段とするので、志は教育にあらずして飯に存する。故にかくの如き人は如何に免状を貰っても教育家の中には入れられない。これはいわゆる教育屋の側に属する。故に私の教育家と申しますのは飯を食うために教育を手段とするのでなくして児童の身体知識精神を発達せしめる志と力のある者をいうのである」

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2014年3月1日土曜日

久しぶりの新宿


歩きながらスマホを使う必然性って何なんでしょうね? 交差点を渡るときにスマホを見ながら歩かなければならないって、彼らはスマホから得られる情報に何を求めているのでしょう?

古寺巡礼から新宿の雑踏に帰ってきた私は頭を掻き毟ってしまいます。 

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