2012年5月31日木曜日

修行はつづく



今週は上海の若い人たちといっぱい話をしました。 年代ギャップも再認識させられましたが、私自身大変勉強になりました。 毎回が新たな発見です。

大事做不来(大きな事はできない)
小事又不做(小さな事はやりたくない)

これは、毛沢東の言葉だそうです。 30年来の上海の友人Q君に教えてもらいました。 今の中国では毛沢東は否定されているようですが、 毛沢東のこの言葉は今の中国を実によく現していると思いました。 

「毛沢東は70%は正しかった」というのは鄧小平のコメントです。 Q君と食事をしながら中国の30年数年を振り返って、「毛沢東も偉かったし、鄧小平や朱鎔基の功績は偉大だ」という点で意見が一致しました。 

ibgも私も「照顧脚下」、修行が続きます。











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2012年5月30日水曜日

勇気と覚悟を試されている


創立記念パーティでマネジャーたちのダンス!

中国の若い人には2つの大きな課題があります。

ひとつは、計画と行動が非常に短期的であるということです。せいぜい5年先までしか考えない。 人生観、つまり、人生に対するビジョンが漠としたものだと思います。 もう一つは、私生活と仕事を完全に分離して考えることです。 獲得する知識や人間関係をキャピタライズ(資本化)しないで、ゼロリセットしながら生きている。 仕事はお金をもらうための行為であり、したがって、短期的に一番効率のよい労働に対する対価を求めてキョロキョロします。 だから、お金につながるようなスキルの獲得ばかり求めます。

こういったことは国を問わず、ある程度は若者共通の特徴であるかと思いますが、中国の場合、社会制度や慣習からくるプレッシャーが日本と比較にならないほど大きいのです。

ibgのような小さな外国企業でどこまで対応できるか、対応すべきかは非常に頭の痛いところです。 中国で会社を経営するということは、「中国そのもの」と闘うということなのです。 時間をかけて繰り返し繰り返し道理を伝えて行くしかないのでしょう。 こちらの「敢為堅忍の精神」を試されているようです。 経営側に勇気と覚悟がないと簡単に崩されてしまいます。

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2012年5月29日火曜日

今が旬の果実


今が旬の果実と言えば、楊貴妃がこよなく愛したと言われるレイシ(ライチ)です。 皮をむくと白色半透明の果肉が出てきます。 

この季節のオフィスは、レイシの甘い香りでいっぱいになります。「高血圧にいいから食べろ」と中国人の若い人に薦められるのですが、どうも私の食指は動きません。 インフレの上海でもレイシはまだまだ安いようです。

さてさて、5周年を迎えた ibg ですが、やっとオムツが取れた頃でしょうか? 

創立五周年の朝(オフィスのエントランス)

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2012年5月27日日曜日

上海のローストポーク


今日はロサンジェルスから ibg の仲間が上海にやって来たので少し豪勢な食事です。 明日は創立五周年のミーティングとパーティ。 オフィスに立ち寄ると、日曜なのに若い人たちが風船でオフィスを飾り付けていました。










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コーヒーの自販機 @上海浦東空港


コーヒーの自動販売機で共産党の宣伝動画を流していました。 私以外は誰も関心がない様子です。 大音量の音声解説付きです。

中国共産党は、「資源と労働力と市場の確保のため、植民地争奪戦争を必然化する」と資本主義を批判していますが、矛盾そのものですね。 最近では、就職試験に有利という理由で、有名大学の学生は一応共産党に入党するようです。

ちなみにコーヒー一杯が350円くらい。 紙コップの絵柄に共産党が登場するか確認したかったのですが、やめておきました。

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2012年5月26日土曜日

ビジョンにも絵心が必要

「データ」と「情報」の違いの話をしましたが、データに対する理解も人それぞれです

さて、政治のビジョンが見えないとか、会社にはビジョンが必要だとかいいます。 ビジョンというものは、目をつむったら頭に浮かぶイメージですから、これも絵が描けないと難しい。 ビジョンも絵が基本となっています。

絵を描くことって本質をとらえることです。 これは、文系理系なんて関係ないことなのです。

中国の教育システムは日本よりも極端で、受験に関係ない科目はほぼ無視されます。 学校の勉強ができればできるほど、絵は描けなくなるし自分で考える力はつかないようです。 日本も同じようなものですか?

28日は ibg 創立五周年の社内ミーティングです。 中国と日本の若者で構成される ibg のビジョンは、5年間でどこまで浸透したのでしょうか? みんな絵が描けないからなぁ~、、、。

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2012年5月23日水曜日

絵を描くことは全ての基本


IT教育のことを考え出してから、頭の中が鉄人28号モードになっています。 多くの人は鉄人28号と言われてもピンと来ないのでしょうね。

鉄人28号は、月刊誌『少年』(昭和43年廃刊)に連載されていました。 鉄腕アトムも同じく『少年』に連載されていたのですが、私は「鉄人28号」の熱烈ファンでした。 ひねくれていますか? 私は鉄人28号のほうが機械に近いところがアトムより好きなのです。 男っぽいということです。 ビートルズ以上にローリングストーンズが好きだと言うことと似ています。 ストーンズはビートルズみたいに洗練されていない荒削りなところがよかった(もちろん、鉄腕アトムもビートルズも好きですよ)。

小学校低学年の頃、私は鉄人28号の絵ばかり描いていました。 それが「エイトマン」になり、望月三起也の「秘密探偵JA」になったころ、興味の対象は音楽に移っていったのです。 子供のころから飽きっぽい性格ですからね、、、。

文系理系なんて関係なく絵を描くことは全ての基本だと思います。 絵が描けて、常識で考えていれば人生はかなり順調に進むのでしょう。 なるほど、小学校の夏休みの宿題に絵日記が出てくるわけだ。 まさか夏休みの絵日記まで廃止したことはないでしょうね? 

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2012年5月22日火曜日

仕事の種類


世の中には多くの種類の仕事があるでしょうが、私は二つに大別されると思います。 
  • 枠に正しく数字を入れる仕事
  • 曖昧模糊としたところに枠を作る仕事
どちらが上だとか下だとかではありません。 自分がどちらに向いているかが重要です。 就職活動って、自分の向き不向きを考える、つまり、自分と対話をして自己を知る判断期間であってもいいのだと思います。

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2012年5月20日日曜日

有形の数理学と無形の独立心

日蝕月蝕の事(『訓蒙 窮理図解』 福沢諭吉 )

月は世界を廻りて盈虚(みちかけ)の変を生じ(月は地球をまわりながら満ち欠けし)
三体上下に重なりて日月の蝕を成す(三つが重なり日蝕や月蝕になる)

「軌道がうまく合い、太陽と月と地球が、団子の串刺しのように重なり合うときにだけに、日蝕や月蝕が起こる」と、福沢諭吉は『窮理図解』の中で説明しています。

地球の自転から昼夜の別や、地球の公転から四季の変化を説明することって、今でも小学生には必要なことではないですか? 福沢さんは、そういったことが小学生にとって重要なことだと言っています。 金環日蝕だからといって観察用のメガネに話題が集中するって、、、ちょっと違うような気がします。

福沢諭吉は、『福翁自伝』の中で、「東洋になきものは、有形においては数理学と、無形においては独立心と、この二点である」と断言しています。

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「金環日蝕」と「だんご」

日と月と世界(地球)と、団子を串にさしたる如く ~ 日蝕月蝕のこと  福沢諭吉

今日は、福沢諭吉は今の日本と違って、教育の本質を見失ってはいなかったというお話です。

福沢諭吉に、『訓蒙 窮理図解』(きんもう きゅうりずかい)という著書があります。 明治元年(1868年)に出版されました。 窮理とは物理(今の物理よりも広範囲でNatural Scienceに近い)のことで、日本で最初の科学入門書と言われています。 身近な自然現象を図とともに平易に解説したもので、明治5年から小学校の教科書として使われていました。

この本を現代の小学校の教科書にするといいですね。

福沢さんは、この本の中で、現実の生活と科学という学問の世界を橋渡ししてくれます。 iPadのアプリにして、情報工学の基礎も一緒に教えるのもいいですね。 現代では身の回りに電気製品は溢れているし、ゲームに慣れ親しんでいる小学生だと全く問題なく理解できるでしょう。 「物の理(ことわり)」に興味をもった子供が将来大発明家になるかもしれませんよ。

訓蒙  窮理図解 序

「苟(かりそめ)にも人としてこの世に生まれなば、よく心を用ひて、何事にも大小軽重に拘(かか)はらず、先ず其物を知り其理(ことわり)を窮め、一事一物も捨置くべからず。 物の理に暗ければ、身の養生も出来ず、親の病気に介抱の道も分らず、子を育るに教の方便もなし。 人の多きも、之に交る道を知らざれば、我一人の外、人なきが如く、世界の広きも、其人情風俗に通ぜざれば、我一人の外、世界なきが如し」。

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2012年5月18日金曜日

アナログ人生、それともデジタル?


アナログとデジタルの変換、ここでも「境」を理解することが大事ですね。 江戸と明治、理系と文系、西欧と東洋をインターブリッジした福沢諭吉が今の時代に生きていたら、デフレを解消するようなハイブリッドな、とんでもない発明をしていたかも知れません。 

私は無駄と余裕を信条としているので、連続的でフラフラユラユラしたアナログが好きだな、、、。

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2012年5月17日木曜日

勉強も、仕事も、私生活も、全部まとめて楽しもう



小中学校では文系と理系の学科をバランスよく学習できるといいですね。

高校でちょっとだけ進化して、大学に入った頃に情報工学を学ぶことによって文系と理系がつながるのが理想ではないでしょうか? (もちろん、私の子供時代は勉強なんかしてませんよ)。 情報工学といっても難しいことはやらずに、コンピュータの構造やプログラミングのロジックを少々分かる程度でいいと思います。 論理的な思考や文章の作成に役立ちます。

社会人になれば、文系と理系を行ったり来たりするだけでなく、学問とビジネスと私生活を完全に分離することなく循環させるのが人生を楽しくするコツかも知れません。 孔子さんが言っている「楽しんで学ぶ姿勢」って、具体的にはこういったことでしょう。

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2012年5月16日水曜日

ゲームの基礎は数学と物理


ここ30年、情報技術(IT)は急速に進歩しました。 コンピュータも、ちょっとだけ鉄人28号や鉄腕アトムに近づいてきたのです。

電車の中では多くの人が携帯でゲームをしています。 読書をしている人より圧倒的に多いのには驚きです。 ゲームの中のキャラクターの動作は、中学で習う数学のグラフや高校の物理をベースにしています。 数学や物理を学習する前に、小学校の高学年で簡単なCG(コンピュータグラフィックス)の授業をやったら面白いのではないかと思いました。

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2012年5月15日火曜日

忘れてなかった。。。


息子から母の日のプレゼントが届きました。

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2012年5月12日土曜日

創立五周年

ibgは5月28日で創立5周年を迎えます。「文化」の創造には50年が必要か?

最近のブログは、「情報処理」や「コンピュータ」のあたりをさ迷っていました。 ibg社内のIT教育のことを考えていたからです。 失礼しました。

IT教育にしても、義務教育にしても、数学教育にしても、時間軸を「人生(誕生→死亡)」で考えないと無意味だと痛感します。 子供の頃から見たり聞いたり学習したりしたことが、一生をかけてつながったり離れたりするからです。 人との関係だけじゃなく、知識ってそういうものだと思います。 私がそう感じるのは若い頃に勉強しなかったからでしょうか?

日本の現行システム(産官学のシステム)だと、「うたかた」のような人生を送らざるを得ないのではないですか? そうじゃない人もいるでしょうが、多くは「不易流行」の「流行」だけを追うことになります(氷山の海面上)。 つまり、キャッシュフロー型人生。 「日本がダメだから海外に出て行こう、だからグローバル人材の育成だ」というのは如何なものでしょうか?

基礎的なことをやっていたら、それだけで終わってスピードについて行けないだろうという意見があると思います。 でも、スピードについて行って、「うたかた」のようにどっかに流されて、最後はポッとはじけて消えたらどうするのでしょう。 「しかたがない」って諦めますか?

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2012年5月10日木曜日

クラプトンのギターは高度なアナログ

  
アナログはデータを連続した値として扱い、デジタルはとびとびの数値として扱います。

久しぶりにエリック・クラプトンの生ギター バージョンの「レイラ」を弾いています。  クラプトンは、ギターの弦を強くはじいたり弱くはじいたり、フレットの上のほうで弾いたり下のほうで弾いたり、そして、弦をひっぱりあげるチョーキングというテクニックを駆使して、マーチン(アコースティックギター)の良さを十二分に引き出します。
  
チョーキングは、フレットの同じ位置で弦を指で押上げ無段階に音の高さを変えることです。 クラプトンは、半音、一音、一音半と正確に高さを変えるだけでなく、微妙な感覚でチョーキングし半音と一音の間の音を出したり、さらにビブラートをかけます。 とびとびの数値でなく連続した非常に複雑な波形を生み出しています。 だから味があっていいのですね。

視覚と同様に聴覚もアナログです。 人は鼓膜で音を感じます。音楽がCDやインターネット配信のデジタルになっても、クラプトンが発する音は非常に高度なアナログなのです。 CDはアナログデータをサンプリングして0と1のデジタル・データに変換して記録しています。 CDを聞く時、空気振動による鼓膜の振動が脳に伝わって音楽として聞こえます。

私の場合、鼓膜の振動から脳の間、または、脳での音を解析する能力に少々問題があるようで、だから、音痴だし、いつまでたってもギターが上手くなりません。 トホホ、、、。

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2012年5月7日月曜日

デジタルカメラでコンピュータを学ぼう

虹の色を全部混ぜると白になります

私はカメラの腕もヘッポコです。 あまり考えずにバチバチとシャッターを押しています。 大きな声では言えませんが、シャッタースピードも絞りもカメラまかせです。

デジタルカメラって、内蔵のコンピュータで光と色のアナログデータを一瞬のうちにデジタル変換して撮像してメモリーに記憶しているのです。 すごいですね。 同時にオートフォーカスや手振れ防止までコントロールしています。

銀塩のフィルムと異なりデジタルカメラは、光と色の撮像と記録を別々に行い、全体としてコンピュータのオペレーティングシステムのようなシステム制御が行われています。 コンピュータを学習するにはiPadのようなタブレット型のものよりも、デジタルカメラのほうが理解しやすいかもしれません。

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2012年5月5日土曜日

(続)コンピュータ教育はどうあるべきか?

高度なアナログ人間になろう

アナログは古くて性能が悪いなんて間違った認識です。 私はヘッポコギタリストですが、ギターの不安定な音程が好きなのです。 不安定というよりも、ブルージーなペンタトニック・サウンド、、、と表現しておきましょう。

人間の生活はここ20~30年の間にどんどんデジタル化しました。 コンピュータそのものの発達、レコードからCDへ、カメラもデジタル一眼レフ、車だってコンピュータが走っているようなものです。 ところが、人間は極めてアナログなのです。 人間はデジタル化したロボットにはなりません(鉄人28号や鉄腕アトムはアナログ的なところがあるから魅力的なのです)。 私はiPadの成功はアナログ的なフィーリングをもっているからだと思います。 つまり、高度なマン・マシーン インターフェースを備えているのです。

精度が高いしコピー時に劣化もないというデジタルの良さはいっぱいあります。 しかし、重要なのは発信したり受信したりする人間や人間が生活する自然界はアナログだということです。 アナログの時間の流れの中で歴史は積み上げられていくのです。 だから、自分の五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)や自分の思考といったアナログ感覚は劣化させてはいけないものなのです。 小さい時から美味しいものを食べて、美味しいものと不味いものを区別できることが重要でしょう。

人間は人間である以上、常にアナログ・デジタル変換が存在します。 アナログは精度が低いのではなく、デジタルよりも高度な感覚がないと理解できません。 アナログ人間なんていうと、デジタル機器を使えない人をバカにすることだと思われているかもしれませんが、冗談言ってはいけません。 0と1の間、無数の中間値を読み取る力のある高度なコミュニケーション能力や感性をもった人であるという褒め言葉なのです。

コンピュータ教育は、アナログ・デジタル変換の話から入るのがいいかも知れません。 だったら高等教育じゃないほうがいいかもしれない。

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2012年5月2日水曜日

コンピュータ教育はどうあるべきか?

吉祥寺駅の切符売り場

マン・マシーン インターフェースがどんどん進歩して、それらが製品化され標準化されて行くと、これまで苦労して勉強していたエリアはいっきに新しいテクノロジの中に吸収されます。 つまり、ブラックボックス化してしまうのです。  便利になる訳ですが、ますます表面上の変化だけを追いかけるようになり、本質を理解する人がどんどん減少するということになりませんか?

これは、技術進歩のおかげでデジタル一眼レフ カメラをブラックボックス化し、ユーザーからカメラの本質を遠ざけてしまったのと似ています。  カメラの中で何がどうなっているのか全く分からない。 誰も気にしない。 車も同じです。 私が若い頃に乗っていた車はツイン・キャブレター仕様でした。 週末には分解して掃除しないと次の週にちゃんと走らない。 今頃の車はコンピュータ制御による燃料噴射装置になりました。 レクサスのような高級車はECUというコンピュータのかたまりで、町の修理工場でエンジンの調整をしてもらうなんてことは不可能です

人間はいつまでも人間ですから、テクノロジーがどんなに進歩しても、マン・マシーン インターフェースは存在し続けます。 キーボードやマウスを操作しなくても、口頭で携帯に話かけると携帯電話の中にあるコンピュータが反応してアクションを起こすようになっています。 これもマン・マシーン インターフェースの進化です。 ギャップを埋めるために新しい技術が開発されているのです。 コンピュータの歴史はマン・マシーン インターフェースの歴史ですから永遠に続きます。

これからの情報処理の教育は、どうすればいいのでしょう? これだけ世の中コンピュータがあちこちに隠れていて、コンピュータなくしては生活ができなくなっています。 同時に、ブラックボックス化はどんどん進行しているということです。 教育システムのどの段階で、どういった人たちを対象に「カラクリ」となる基礎的な部分を教えるべきなのでしょうか? 高校の必須科目なのか、それとも大学の一般教養課程で必修にするのか? 基礎的な部分も、どこまでを基礎的な部分とするのかスコープの定義も難しいですね。

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