AI時代に、あえて“読む”という行為を。
「ピエール・ブールの『猿の惑星』(1963年)を読んでみたらいいよ。AIの話に似ているから」。
先日、ナッシュビルに住む息子とAIに関してチャットをしていたときのことです。人間が考えなくなったらどうなるか、思考を自動化してしまったら何が起きるか、その寓話だというのです。
私は1968年公開のチャールトン・ヘストン主演の映画『猿の惑星』は観ていました。しかし原作小説は読んでいませんでした。私の中で『猿の惑星』といえば、核戦争後の荒廃した地球というイメージが強く残っていたからです。
ところが、小説版は映画とは決定的に異なる構図を持っています。
映画では核戦争が文明崩壊の原因として描かれますが、小説では人類は「暴力で滅んだ」のではありません。猿に武力で征服されたのでもありません。人類は、便利さに依存し、思考を外部化し、知的努力をやめていった結果、自ら退化していくのです。支配の逆転は侵略によって起きたのではなく、主体の放棄によって起きた。この点が、小説の核心です。
ピエール・ブールの筆致はきわめて理知的で、風刺に満ちています。そこでは文明批評が中心に据えられ、知性とは何かが問われます。知性とは能力の高さなのか、それとも使い続ける姿勢なのか。猿たちは科学を研究し、議論を重ね、体系を築きます。一方で人間は、快適な生活に安住し、自ら考えることをやめていきます。文明を築いたはずの存在が、思考を手放した瞬間に、支配の座を失う。これは単なるSFの設定ではなく、文明そのものへの知的警告です。
この構図は、AI時代と不気味なほど重なります。生成AIは、文章を書き、要約し、翻訳し、分析し、構造化します。かつて人間が時間をかけて行ってきた知的労働を、瞬時に提示します。書かなくても文章が出る。考えなくても要約が出る。調べなくても答えが出る。構造化しなくても整理される。これほど便利な道具はありません。
しかし、ここで問われるのは技術の進歩そのものではありません。私たちは、考える主体であり続けられるのか、という問いです。AIに「任せる」ことと、「委ねる」ことは違います。任せるとは、自分で問いを立て、自分で考えたうえで補助として使うことです。方向を決めるのはあくまで自分であり、AIは拡張装置です。一方で、委ねるとは、問いを立てることも、判断することも、言語化することもAIに預け、自分は確認者に退いてしまうことです。そのとき、思考は徐々に外部化され、やがて衰えていきます。
『猿の惑星』における退化は、生物学的変異というより、知的怠惰の積み重ねです。能力を使わなければ衰える。それは筋肉と同じです。AIが賢くなること自体が問題なのではありません。問題は、人間が自分で考えなくなることです。もし私たちが、構想をAIに任せ、判断をAIに預け、思索の摩擦を避け続ければ、能力は静かに痩せていきます。
ここで、教育の問題が浮かび上がります。
ここで、教育の問題が浮かび上がります。
AIを禁止するか、便利ツールとして消費するかという表層の議論ではなく、主体をどう育てるかという前提を共有できているのか。知性とはテストで測れる能力なのか、それとも問い続ける姿勢なのか。小説は、その根源的な問いを私たちに突きつけます。
AIは人類を猿にする存在ではありません。しかし、AIを使いながら思考を深める人間と、AIに思考を委ねる人間との差は、やがて文明の差になります。文明は爆発によって終わるのではありません。瓦礫の山の中で終焉を迎えるのではありません。思考をやめたときに、静かに終わるのです。
息子がナッシュビルから勧めてきた一冊は、単なるSFではなく、AI時代を生きる私たちへの警告でした。知性とは能力ではありません。それは、自分で考えることをやめないという態度です。その態度を手放したとき、文明は音もなく、その幕を下ろすのかもしれません。
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AIは人類を猿にする存在ではありません。しかし、AIを使いながら思考を深める人間と、AIに思考を委ねる人間との差は、やがて文明の差になります。文明は爆発によって終わるのではありません。瓦礫の山の中で終焉を迎えるのではありません。思考をやめたときに、静かに終わるのです。
息子がナッシュビルから勧めてきた一冊は、単なるSFではなく、AI時代を生きる私たちへの警告でした。知性とは能力ではありません。それは、自分で考えることをやめないという態度です。その態度を手放したとき、文明は音もなく、その幕を下ろすのかもしれません。
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