まず最初に、共和国とは何かを一言で説明しておきたいと思います。
共和国とは、国家が特定の支配者のものではなく、市民全体の公共のものとして運営される政治体制のことです。この考え方はラテン語の Res publica ──「公共のもの」という言葉に由来します。
国家は王のものでも、支配者のものでもなく、市民全体のものだという思想です。
最近のアメリカ政治を見ていると、少し奇妙な感覚を覚えます。
かつてのドナルド・トランプは、ニューヨークの不動産業者の延長のような政治家に見えました。粗野で、衝動的で、既存の政治秩序を壊す人物です(反抗側の人)。
ところが最近の彼を見ていると、むしろ「普通のアメリカ大統領」に近づいているように見えるのです(権力側の代表)。
軍事行動。
同盟関係。
国家としてのメッセージ発信。
そこには個人の気まぐれというより、国家という巨大な装置が動いている気配があります。トランプという異端の政治家ですら、その構造の中で動いているように見えるのです。
アメリカは共和国なのか、帝国なのか
アメリカは自らを共和国と呼びます。
しかし冷戦以降の現実を見ると、世界秩序を管理する巨大な国家でもあります。
軍事。
通貨。
技術。
情報。
これらを通じて世界に影響力を持つ姿は、古典的な帝国とは違いますが、確かに帝国的な構造を帯びています。
私は最近のアメリカを見ながら、どうしても別の国を思い出します。
日本です。
日本の安全保障は- 米軍
- 米外交
- 米軍産複合体
- 金融
だから
アメリカの権力構造が変わると、日本の安全保障も変わります。
日本は共和国になったのでしょうか
1945年の敗戦のあと、日本はアメリカの占領のもとで新しい国家体制を作りました。
民主主義。
憲法。
議会制度。
しかし、制度が整うことと、国家としての主体が確立することは同じではありません。
安全保障の根幹はアメリカに依存しています。
外交もまた、その影響から自由ではありません。
経済大国と呼ばれた時代でさえ、日本の国家としての独立はどこか曖昧なままだったように思います。
私は若いころから疑問でした
私は10代のころから、ずっと考えてきたことがあります。なぜ日本は昭和の15年戦争を早々に終わらせることができなかったのか。
広島と長崎に原爆が投下され、日本は降伏を受け入れました。
その結果として生まれた戦後体制は、単なる敗戦処理ではありませんでした。
それは、日本を新しい世界秩序の中に組み込む仕組みでもありました。
その秩序の中で、日本は平和と繁栄を手に入れました。
しかし同時に、国家としての主体性をどこかに置き忘れてしまったのではないでしょうか。
魯迅が描いた阿Q
中国の作家魯迅は『阿Q正伝』の中で、敗北しても心の中で勝ったと思い込む「精神的勝利法」を描きました。いわゆる「阿Q精神」です。現実の問題に向き合わず、内面の納得で済ませてしまう心理です。
戦後の日本にも、どこかそれに似た空気があるように感じることがあります。
安全保障。
歴史。
国家の責任。
深く議論することを避けたまま、私たちは経済成長の成功物語の中で暮らしてきたのかもしれません。
国家を支えるもの
国家は制度だけで成り立つものではありません。
ローマ史の研究者たちは、国家が衰えるとき、まず失われるのは制度ではなく市民の精神だと言います。
つまり、
自分たちの社会を
自分たちの責任で支えるという覚悟です。
戦後80年の問い
戦後80年を迎えたいま、日本は改めて問われているのではないでしょうか。
私たちは本当に共和国になったのでしょうか。それとも、豊かな保護国として生きてきただけなのでしょうか。
トランプのアメリカがどこへ向かうのかはまだ分かりません。
しかし一つだけ確かなことがあります。
世界秩序が揺らぐとき、他国に依存してきた国ほど、自分自身の姿を問い直さなければならなくなるということです。
その問いから、日本もまた逃れることはできないのだと思います。
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