2026年2月11日水曜日

問いを失った政治、考えなくなった社会  ――衆議院選挙とAI時代の人間

 
今回の衆議院選挙を見ていて、私はある一枚のスライドを思い出していました。

それは、1990年代前半に私が初めて作成し、その後、数多くのプロジェクトのキックオフミーティングで使ってきた、コンフリクトマネジメントに関する図です。もともとは、ビジネススクールの教科書にあった考え方を拝借したものですが、私自身にとっては、組織や社会を考えるうえでの「基本中の基本」を示す一枚でした。

このスライドを、大手日本企業の部長クラスの方々に説明すると、しばしば鼻で笑われました。「そんな当たり前のことを、なぜ今さら説明するのか」「貴重な時間の無駄だ」という空気を、何度も感じたものです。実際に、そうした言葉を直接投げかけられたこともあります。しかし皮肉なことに、日本の組織は、まさにその「当たり前」ができていない。そのことを、私は現場で繰り返し目にしてきました。

今回の選挙戦も、同じ構図だったように思います。

国民が抱いている素朴な疑問――エネルギーや食糧問題をどうするのか、外交や国防と生活をどう両立させるのか、移民政策をどう設計し、社会としてどう統合するのか――本来なら、そうした問いこそが選挙の中心に据えられるべきでした。ところが実際には、具体的な統合設計を示さないまま、「やる気」や「強さ」を競い合う場になっていたように見えます。強さを演出することと、全体を設計することは、まったく別の能力です。

添付のスライドは、横軸に「対立のレベル(コンフリクトの強さ)」、縦軸に「成果(アウトプット)」を取っています。対立が低すぎれば、組織はぬるま湯になり、成果は上がりません。一方で、対立が過剰になれば、分断や疲弊を生み、やはり成果は落ちます。重要なのは、その中間にある「マネージすべき領域」であり、適度な緊張と対立を意図的につくり出し、議論を通じて全体最適を探ることです。

コンフリクトマネジメントとは、争いを避けることではありません。異なる意見を表に出し、感情と問題を切り離し、共通のゴールを確認しながら、建設的な議論へと導くことです。その過程で、創造性が生まれ、問題が早期に発見され、相互理解が深まります。コンフリクトは「悪」ではなく、「変化が必要だ」というサインなのです。

今回の選挙の圧勝は、リーダー個人の勝利というよりも、有権者と政治がともに「問いを放棄した」結果ではなかったでしょうか。野党も、国民も、十分な問いを投げかけられなかった。その代償は、時間差で必ず現れます。問題は、そのとき誰が責任を引き受けるのか、という点です。

そしておそらく、こうした選挙を重ねるたびに、日本政治から静かに距離を取る人は、これからも増えていくのでしょう。そのこと自体が、すでに社会に現れている、ひとつの「コンフリクトのサイン」なのだと思います(社会全体の虚無化)。

では、どうすればよいのか。答えは短期的な対症療法ではなく、中長期的な教育のグランドデザインを描くことしかありません。日本には、何もないわけではない。小中学校から高校、大学に至るまで、本来は思考力を育てるための素材も蓄積も、すでに存在しています。問題は、それらが「問い」を中心に再編されていないことです。

良い問いの立て方を学び、仮説を立て、検証するという方法論を、段階的に身につけていく。その過程でAIを取り入れるのであって、AIに考えさせたり、書かせたりするのではありません。人間が書いた文章をAIに評価させ、問い返させる。その補助線として使うことこそが、健全な関係でしょう。

まずは現行の国語教育が本来何を目指してきたのか、その本質を確認すること。その上で、思考力を少しずつ積み上げていくしかない。問いを立て、考え、引き受ける力を育てること。それができなければ、日本は政治においても、教育においても、静かに思考を手放していくことになるのだと思います。

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2026年2月10日火曜日

人はいつ成長するのか ――家を買い、部下を切った経験から

 
奈良西ノ京(正面は三笠山)

人は、いつ「教育された」と実感するのでしょうか。

教室で知識を得たときでしょうか。それとも試験に合格したときでしょうか。私自身の経験では、人はもっと現実的な場面で、一気に成長するように思います。利害打算ではなく、現実的であるということであり、自分の信条に忠実であるということだからです。

仕事経験は人をタフにする

「持ち家派か、賃貸派か」という議論は、時代を超えて繰り返されてきました。住居は単なる生活の器なのか、それとも人生観を左右する選択なのか。私はこの問いに対して、少し違った角度から考えています。なぜなら、私は日本とアメリカの両方で、マンションや一軒家を数回ずつ購入し、そして売却してきたからです。

不動産の売買は、想像以上に人を鍛えます。特に海外での不動産取引は、制度も文化も言語も異なる中で、すべてを自己責任で判断しなければなりません。大抵の場合、強引で癖のある不動産業者(トランプのような人物)や、理不尽とも思える主張を押し通そうとする売り手側の弁護士が前面に出てきます。価格交渉、契約条件、税務、為替――その一つ一つについて、自分で判断し、決断を下さなければなりません。住居を持つという行為は、安定というよりも、むしろ精神的な緊張と決断の連続でした。

もっとも、家を買うことは、部下を切ることとは決定的に違う側面も持っています。それは、そこに「楽しみ」があるという点です。自分が住みたい場所を考え、街の空気を感じ、間取りや日当たり、周囲の環境など、さまざまな要素を天秤にかけながら、自分たちの予算の中で最善の選択を探していく。その過程は決して苦しいだけのものではありません。しかも、その判断は自分一人で完結するものではなく、家族との共同作業になります。意見が食い違うこともありますが、それも含めて、家族として一つの人生を歩む。家探しは、人生の一部分として記憶に刻まれていきます

ここで、少しだけニューヨーク郊外で一軒家を購入したときの経験を振り返ってみたいと思います。

借家のアパート暮らしは安全で便利でしたが、一軒家がもたらした「空間」と「自由」の前では、その利点は色あせました。広い庭で子どもと遊び、記念樹を植え、季節の変化を生活の中で感じるようになったことで、私たちは「旅行者的な駐在員」から「生活者」へと変わりました。金銭的な損得は簡単に割り切れませんでしたが、損得だけで決断していたら、家は一生買えなかったでしょう。すべてを自分たちで決めるという重圧の中で、初めて覚悟を伴った選択をした、その経験自体が私を大きく鍛えたのだと思います。我が家の信条は、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いです

それでもなお、不動産購入が人をタフにする経験であることに変わりはありません。大きな金額を動かし、後戻りのできない決断を自分の名前で引き受ける。その経験は、後になって振り返ると、確実に判断力と精神的な耐性を鍛えていました。

この「仕事や人生の中で、人を一皮むけさせる経験」について、非常に体系的に整理しているのが、モーガン・マッコール『ハイ・フライヤー』(2002年)の第三章です。同章では、優秀なリーダーが成長過程で必ずと言っていいほど経験している「成長を促す仕事経験」が分類されています。そこには、初めての仕事、初めてのマネジメント、ゼロからの立ち上げ、事業の立て直し、視野の変化、そして修羅場とも言える失敗や喪失が含まれています。

私自身のキャリアで、最も精神的な負荷が大きかった経験の一つは、アメリカのコンサルティング会社でのマネジメントでした。そこでは「アップ・オア・アウト」と呼ばれる評価制度があり、一定期間ごとに成果を出し昇進できなければ、組織を去ることになります。3〜6か月に一度、部下の評価を行い、下位パフォーマーと判断された20〜25%は、問題行動を起こしていなくても「カウンセルアウト」されます。端的に言えば、クビを切らなければなりません。

部下を解雇するという行為は、何度経験しても慣れるものではありません。家を買うときのような前向きな高揚感は、そこには一切ありません。毎回悩み、考え込み、自分の判断が正しいのかを自問します。しかし、その苦しさから逃げずに向き合うことで、組織で働く者として、そしてマネジメントとして、一皮むけた段階に進むのも事実です。

組織の成果を守るために、個人の人生に影響を与える決断を下す。その責任の重さが、決断力と精神的な強さを鍛えていきます。『ハイ・フライヤー』で言う「修羅場」の経験とは、まさにこのような場面を指しているのでしょう。

翻って、日本企業の役員の多くはどうでしょうか。自らの判断で部下を解雇した経験を持たないまま、役員になるケースが少なくないのではないかと感じます。制度や慣行として「誰かが決めたこと」を追認することはあっても、個人として重い決断を引き受ける機会が極めて少ない。その結果、決断を避け、責任を曖昧にしたマネジメントが温存されているようにも見えます。

家を買うこと、部下を切ること。性質は異なりますが、どちらも「自分の名前で決断し、その結果を引き受ける」という点では共通しています。『ハイ・フライヤー』が示すように、人を本当に成長させるのは、こうした避けがたい決断の積み重ねです。

成長とは、知識を増やすことではなく、覚悟を引き受ける回数を重ねることなのかもしれません。その意味で、仕事経験とは、人の精神を鍛える最高の道場なのだと、私は実感しています。
  
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2026年2月9日月曜日

バラバラの知識を“使える力”に変える教育 ――30年前に描いた一枚のスライドから

 


30年前のスライドの話です。でも、いまの教育と社会を考えるヒントが、そこにあります。

第1章:概念提示(シンセサイジング機能とは何か)

シンセサイザーの比喩

「シンセサイザー」と聞くと、電子音楽やテクノポップを思い浮かべる方も多いかもしれません。私自身、黒人音楽のシンプルなブルースやソウルを好んできたアナログ人間ですから、正直に言えば電子音楽は今でもあまり得意ではありません。しかし、ここで言うシンセサイザーは音楽の話ではありません。「シンセサイジング機能」の話です。

音楽におけるシンセサイザーとは、音をデジタル化して要素を組み合わせ、調整し、一つの音楽として成立させる装置です。私は30年ほど前、この考え方こそが、ビジネスや組織、さらには社会や国家の運営において最も重要な能力だと考え、まとめたのが上のスライドです。

多領域のピース

スライドの左側には、政治、経済、法律、情報システム、心理学、哲学・思想、数学、文学、歴史、語学といった、バラバラのピースが描かれています。これらは、いずれも現代社会を理解するうえで欠かせない分野ですが、単独では不完全です。専門知識をいくら深めても、それだけで複雑な現実の問題に対処することはできません。

現実の課題は、必ず複数の領域が絡み合って現れます。経済問題は政治と切り離せませんし、技術の問題は法律や倫理と無縁ではありません。にもかかわらず、私たちはしばしば、部分だけを見て全体を見失います。

統合とコミュニケーション

そこで必要になるのが、中央に示した「シンセサイジング機能」です。異なる分野の知識や視点を統合し、首尾一貫した全体像として理解する力、そしてその統合結果を他者に伝え、共有する力です。単に「分かっている」だけでは不十分で、「伝わる」形にすることが求められます。

スライドの右側に描かれているのが「ビジネス」、すなわち現実の意思決定と行動です。知識の量や専門性の高さだけでは、この領域には到達できません。統合し、判断し、他者と合意を形成して初めて、現実は動きます。

リーダー不在・教育問題への接続

約10年前、私は「迷走する日本の原因は、広い視野と深い洞察力を備えたリーダーの欠如にある」と書きました。この認識は、残念ながら今も変わっていません。私がよく思い出す、ある時代劇の言葉があります。「大義名分の『名分』を手に入れた悪党ほど恐ろしいものはない」という水戸黄門の言葉です。シンセサイジング機能を欠いた権力の危うさを端的に表しています。

部分的な正論や制度の正当性だけを振りかざし、全体を見渡す力を持たない人間が権力を握ったとき、国民は容易に人質になってしまいます。日本にバランスの取れたリーダーが育ちにくい背景には、戦後の教育制度の影響もあるでしょう。専門を細かく分断し、正解を早く当てる能力を競わせる教育では、統合する力は育ちません。

第2章:具体例(コンサルティングという実装例)

仮説と検証

シンセサイジング機能が、現実の仕事でどのように使われているか。その分かりやすい例が、コンサルティングです。コンサルティングのビジネスは、「仮説を立て、その仮説を検証する」ことを骨子としています。闇雲に情報を集めたり、相手の話を漫然と聞いたりすることが仕事ではありません。

限られた時間の中で本質的な問題を見極めるためには、まず「問い」を立てる必要があります。その問いに基づいて論点を構造化し、仮説としてまとめていきます。
論点を売る

この役割を担うのが、コンサルタントの中でもパートナーと呼ばれるリーダーです。パートナーの頭の中には、常に「論点を売る」という意識があります。商品やサービスを売るのではありません。「この問題を考えるなら、何が本質的な論点なのか」という枠組みそのものを提示することです。

事前に、議論の目的を明確にし、考えられる論点を「漏れなく、ダブりなく」整理し、それぞれについて仮説を立てます。仮説は暫定的な答えにすぎず、正しいかどうかは検証して初めて分かります。

Sense & Respond


打ち合わせの場では、「何かお困りですか」と聞くだけの御用聞き営業にはなりません。また、「話したいことを話す」こともしません。相手が最も関心を持っている論点は何か、その論点について仮説は妥当かどうか。相手の反応を感じ取りながら、論点を絞り込み、仮説を検証していきます。これが「Sense & Respond」と呼ばれるプロセスです。

この意味で、コンサルタントの仕事は「答えを出すこと」ではなく、「正しい問いと論点を設計すること」にあると言えます。

落とし穴(思い込み/ローラー作戦)

ここで重要なのは、仮説は否定されることを前提としている点です。コンサルタントが陥りやすい落とし穴の一つが「思い込み」です。準備した仮説に固執し、「準備した通りに違いない」と信じ込んでしまうことです。

もう一つの落とし穴は、すべての論点、すべての仮説を検証しようとする「ローラー作戦」です。緻密さが求められる場面では有効ですが、意思決定の場では本質を見失います。必要なのは、統合と選択です。


第3章:起源(アメリカのエッセイ教育)

エッセイ=説得と検証

この思考様式のルーツは、アメリカの作文教育にあります。アメリカの入学のための統一試験には、必ずエッセイが組み込まれています。エッセイとは、自分の主張を明確にし、その根拠を示し、読み手を説得する文章です。単なる感想文ではありません。

目的と主張がなければ成立しない

エッセイは、他人を説得し、自分の目的を達成できるかどうかを問う訓練です。自分の考えと目的がなければ、そもそも成立しません。この訓練を通じて、問いを立て、論点を構造化し、仮説を検証する力が自然と身についていきます。

教育の差が思考様式の差になる

一方、日本の中学・高校の国語教育では、この視点が決定的に欠けているように感じます。多くの場合、求められるのは無難な感想や正解らしいまとめです。その結果、社会人になっても、自分の主張を持てず、小学生の作文の域を出ない文章を書き続けることになります。チャットや生成AIが中身の空洞化を指数関数的に加速します。

30年前に私が「シンセサイジング機能」を問題提起した背景には、この教育と社会の断絶があります。部分最適の知識は増えても、それを統合し、目的を持って使う力が育たない。その延長線上に、迷走する組織や国家の姿があるのではないでしょうか。文系だ理系だという単純な問題ではない。

シンセサイジング機能は、特別な才能ではありません。本来、社会を担う人間すべてに求められる、基礎的な力なのです。

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2026年2月8日日曜日

中庸とは何か――三つの国民性から見える「assertive」という技術

 

このスライドは、日本・アメリカ・中国を、自己主張のあり方という一つの軸で配置したものです。アメリカ社会は、中国と同様に強い自己主張のエネルギーを持つ社会です。

それでもなお、アメリカの教育現場では繰り返しこう言われます。

Be assertive!
  • Assertive ≠ Aggressive
  • 主張せよ。しかし、攻撃するな
  • 意見は言う。相手は尊重する
これは「もっと強く出ろ」「負けるな」という意味ではありません。本来は「主張はせよ。しかし、攻撃するな」この一線を理解し、守ることが前提になっています。アメリカ社会では、
  • assertive(自己主張)
  • aggressive(攻撃・威圧)
この二つは明確に区別されます。そしてその区別は、個人の性格に委ねられているのではなく、教育、ルール、契約、言語といった仕組みによって支えられています。だからこそ、「Be assertive」という言葉が成立するのです。

一方、日本はどうでしょうか。

日本人は人の話を聞き、相手を尊重し、場の空気を読む力に長けています。これは本来、assertive になるための極めて重要な土台です。しかしその一方で、「意見を言うこと」がいつの間にか対立や攻撃と同一視されてきました。

その結果、日本は中庸に近い位置にあるのではなく、中庸に届いていない状態にとどまっているように見えます。アリストテレス的に言えば、日本は徳の「過剰」ではなく、「欠如」の側に寄ってしまった社会です。

このスライドが伝えたい本質は、「中庸とは、静的な真ん中ではない」という点にあります。

人は時に強く主張し、時に引きます。行き過ぎたら戻れること、足りなければ踏み出せること。その振れ幅を自覚し、理性的に調整できる力こそが中庸です。

もし私の理解が正しいとするならば、日本人が assertive になるために必要なのは、性格を変えることでも、欧米化することでもありません。必要なのは、ただ一つです。

「意見を言うことは、対立でも攻撃でもない」

この認識を、社会全体で共有し直すこと。日本人はすでに、相手を尊重し、耳を傾ける力を十分に持っています。欠けているのは、その土台の上で、「私はこう考えます」と、言葉にする訓練です。

正解を当てる必要も、相手を説き伏せる必要もありません。先ずは、自分の立場を提示してみる。その小さな一歩を許容する文化と教育があって初めて、日本人は攻撃的になることなく、理性的に自己主張する――本当の意味での assertive に近づくことができるのではないでしょうか。
  
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2026年2月7日土曜日

「引き出し」は才能じゃない。習慣だ。 ――日々の概念の蓄積が、人生の即興力を決める

引き出しとは何か――知識ではなく「概念の総量」

引き出しとは、習慣的に蓄積された「概念の総量」です。

この図が伝えようとしているのは、日頃から概念を蓄積している人は、必要な場面で自然とネタを引き出し、臨機応変に使うことができるという、ごく本質的な事実です。ここで言う「引き出し」とは、整理整頓された知識の箱ではありません。知識、経験、違和感、失敗、読書、他者との会話──そうしたものが、長い時間をかけて自分の中に沈殿した思考の材料です。意識して集めたものもあれば、無意識のうちに刷り込まれたものもある。その総量こそが、その人の引き出しなのです。 

概念とは何か――具体から本質を抜き出す力

重要なのは、その場で集めた情報は、引き出しにはならないという点です。流行の言葉やハウツー、誰かの受け売りを覚えても、それは概念として自分の中に定着しません。概念とは、個別の出来事を一回きりの現象として消費するのではなく、そこに通底する共通項を抜き出し、文脈を超えて使える形にまで抽象化されたものです。因数分解で共通項をカッコの外に出すように、本質的な要素だけを取り出していく作業とも言えます。

概念を使って考えるとは、具体例を並べることではありません。多様に見える問題の共通点を見つけたり、逆に、同じように見える現象の本質的な違いを区別したりすることです。その結果として、問題をより大きな構図の中に位置づけることができ、目の前の事象に振り回されず、自分なりの判断軸を持つことが可能になります。コンサルタントに求められる抽象的思考力とは、まさにこの力です。

基礎体力としての抽象思考――教育・仕事・対話の空白

ただし、これはコンサルタントだけの話ではありません。むしろ、すべての人にとって必要な思考の基礎体力だと言えるでしょう。本来であれば、中学・高校の段階でこの訓練が行われるべきなのです。絵日記が作文になり、やがて小論文や論文へと移行していく。その過程で、具体から抽象へと視点を引き上げる訓練が必要なのですが、日本の現行の教育システムには、この回路がほとんど存在しません。その結果、社会人になっても小学生の作文の延長線上の議論が横行することになります。日本のコンサルティング会社ですら、大同小異です。

コミュニケーションがうまくいかない理由も、ここにあります。賛成できなくても相手を理解しようとするには、自分の引き出しが必要です。スマホでのチャットのように、反射的に反応するだけでは、考える「間」は生まれません。間がなければ、蓄積されたネタが立ち上がる余地もありません。対話とは、言葉の応酬ではなく、引き出しの中身が静かに動き出す時間を含んだ営みなのです。

日頃から概念を蓄積していなければ、考えるための材料がない。これは厳しい現実です。優れたギタリストが、演奏中に考え込まずとも自然にフレーズを引き出せるのは、日々の練習と長年の蓄積があるからです。

日本人ギタリストのCharさんも同様で、即興(Improvisation)とは才能ではなく、蓄積が反応として現れた結果にほかなりません。その背景には、幼少期のピアノ訓練で身につけた音楽理論という基礎があり、その上に「概念」が積み重なっています。基礎があるからこそ、自由に発想が膨らむ。この構造は、思考やビジネスの世界でもまったく同じです。

AI時代の引き出し――考える責任は誰のものか

右側に描かれた「頑固ジジイ」は、否定される存在ではありません。彼は、「MBAだとか、上滑りのハウツーを追いかける前に、もっと地道に概念を蓄積しろ」と言っているのです。
環境問題、教育、個と公共、文化と文明、異文化コミュニケーション、デジタル化といった言葉は、それ自体が完成された概念なのではありません。むしろ、それぞれが概念を収集し、蓄積するための“引き出し”のラベルだと考えるべきものです。各引き出しの中に、具体的な概念が十分に詰まっていなければ、将来世代への責任や国際的な合意といったテーマについても、表層的な賛否をなぞることしかできません。問題なのは意見の違いではなく、引き出しそのものが空っぽであることなのです。

考える力は、その場で身につくものではない。日々の習慣として概念を蓄積してきた人だけが、必要な場面で気の利いた意見を言える。引き出しとは、整理された棚ではなく、時間をかけて積み上がった思考の堆積層なのです。

そしてAI時代だからこそ、あえて強調しておきたい。考えることまでAIにアウトソースしてはいけません。AIは引き出しを代わりに作ってはくれませんし、概念を自分の血肉にしてくれるわけでもありません。考える責任だけは、人間が引き受け続けなければならないのだと思います。

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2026年2月6日金曜日

映画が単なる「娯楽」ではなく「人生」だった時代 ――アメリカ映画と昭和日本映画、その底流にある人間性

 

アメリカ映画と昭和日本映画、その底流にある人間性

私は、小学生から中学生にかけて、アメリカに強い影響を受けて育ちました。地方都市の公団住宅でテレビっ子だったのです。私が観ていた映画やテレビは、当然のことデジタル以前のアメリカです。1940年代から60年代にかけてのアメリカであり、その時代の映画でした。

『カサブランカ』『哀愁』『素晴らしき哉、人生!』『風と共に去りぬ』に胸を打たれ、『理由なき反抗』や『十二人の怒れる男』に、言葉にならない違和感と正義感を教えられました。

私は、ほぼそれらすべての映画を観て育ちました。それらは私に、成功や勝利よりも、むしろ人間の脆さを教えてくれた作品群でした。つまり、アメリカの占領政策にコロりと騙されたのかも知れません(私はもはや戦後ではないといわれた世代ですが)。

ただし、私が受け取っていたのは、理念や成功神話だけではありませんでした。そこに流れていたのは、むしろ人間の弱さでした。不条理、挫折、報われなさ。しかし同時に、愛と友情や正義が確かに存在していた。

そして、私にとってアメリカを「物語」ではなく「生活の匂い」として感じさせてくれたのが、1950〜60年代のテレビドラマでした。

『ハイウェイ・パトロール』『サンセット77』『ハワイアン・アイ』『ルート66』、『ビーバーにおまかせ』『奥様は魔女』『かわいい魔女ジニー』、そしてイーストウッドの『ローハイド』。

中でも決定的だったのは、何と言ってもリチャード・キンブル博士の『逃亡者』です。

そこに映っていたのは、英雄ではなく、市井の人々でした。広い道路、郊外の住宅、キッチンのある家庭、仕事帰りの父親、笑ったり口論したりする家族。私はそれらを通して、アメリカの街並みや一般家庭の空気を、知らず知らずのうちに刷り込まれていったのだと思います。そして、大いにアメリカに憧れ、英語という言葉にも自然と興味を持つようになりました。小学生の頃、最初に覚えた英語は「Gone with the Wind」でした。

フィルム・ノワールの陰影も、メロドラマの涙も、テレビドラマの日常性も、すべては「人間とは何か」を問い続ける営みだったように思います。

60年代に入り、『夜の大捜査線』や『卒業』を経て、『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『真夜中のカーボーイ』といった、アメリカン・ニューシネマが登場します。授業をサボって映画館に通った高校時代でした。

そこにはもはや、整った救済はありません。社会への反抗、不条理への怒り、虚無感。それでもなお、友情だけは捨てきれない男たちの姿がありました。愛があるからこそ、世界に絶望する。私は、その矛盾にこそリアリティを感じていたのだと思います。

当然のこと、学校や受験勉強からは疎遠になりますよね。

もう20年以上、私はハリウッド映画を積極的に観なくなりました。理由は単純で、どこかで「人間の匂い」が薄れていったからです。CGやシリーズ化が悪いわけではありません。ただ、私が影響を受けた映画は、すべてアナログの時代の産物でした。

近年、私が好んで観るのは、昭和の日本映画です。
敗戦後から1960年代前半までの作品。主に白黒映画です。

そこには、敗戦という決定的な喪失を背負った人間たちがいます。誇りを失い、しかし生きることをやめなかった人々。小津安二郎の静けさ、成瀬巳喜男の哀感、黒澤明の怒り。

彼らは間違いなく、ハリウッド黄金時代の映画文法を学びながら、それを日本的な人間観へと変換しました。そして興味深いことに、その日本映画が、再びハリウッドに影響を与えていく。黒澤の『七人の侍』が西部劇に姿を変え、『用心棒』がイーストウッドを生んだ。

文化は一方通行ではなかったのです。

そんな中で、唯一、私の感覚と同じ場所に立ち続けていると感じるのが、クリント・イーストウッドでした。『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』に描かれたのは、不条理な世界の中で、それでも人としてどう生き、どう終わるかという問いです。

突然断ち切られる人生。救いのない現実。それでも、最後に残るのは、他者への責任と愛でした。

アメリカ映画と昭和日本映画に共通して流れていたもの。それは、デジタルでは置き換えられない「人間性」だったのだと思います。不器用で、矛盾を抱え、完全には救われない存在としての人間。

私は、映画やテレビドラマからそれを学び、人生を考える材料を与えられてきました。今もなお、フィルムのざらつきの向こうに見える人間の姿に、私は静かな共感を覚え続けています。

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2026年2月5日木曜日

信頼関係の構築とは何か ――AI時代にこそ問われる、人と人との「空中ブランコ」

AI時代にこそ問われる、人と人との「空中ブランコ」


信頼関係の構築は、リーダーシップ、教育、組織運営、そして日常の人間関係に至るまで、あらゆる場面で根幹となるテーマです。私は16年前のブログで、日本のリーダーシップの欠陥として「信頼関係を構築できないこと」を指摘しました。当時、ワシントンポスト紙は、日本の首相が官僚機構と円滑な協力関係を築けず、危機に際して臨機応変な対応ができていない「loopyな総理」と批判していました。論調には少しだけ違和感を覚えつつも、「信頼関係の欠如」という指摘自体は的を射ていたと思います。

上のスライドは、さらに古いもので、30年近く前、チームビルディングを説明するために作成したものです。そこでは、信頼関係を「暗闇の中での空中ブランコ(Trapeze)」にたとえています。空中ブランコは、相手が確実に受け止めてくれると信じられなければ、決して手を離して飛ぶことはできません。

ここで重要なのは、「信頼するとは、相手の能力(Capability)と意志・覚悟(Commitment)を確認すること」だという点です。どちらか一方が欠けていては、信頼関係は成立しません。高いスキルがあっても、受け取る覚悟がなければ飛べない。逆に、受け取る気持ちがあっても、技量が伴わなければ危険すぎて飛べない。信頼とは、感情ではなく、極めて現実的で、命がけの判断なのです。

一般に、信頼関係はテクニックで築けるものではありません。言行一致、一貫性、誠実な謝罪、相手への関心といった、地味で時間のかかる行動の積み重ねによってのみ育まれます。約束を守ること、曖昧にしないこと、相手がいない場所でも誠実であること。いわば「信頼残高」を日々少しずつ積み上げていく作業です。

この点で、私は江戸時代の寺子屋に大きな示唆を感じています。寺子屋は、教師と生徒という関係以上に、師匠と弟子の信頼関係で成り立っていました。知識の効率的な伝達よりも、人と人との関係性、徳育を重視していた。コンピュータが人格を形成しないのと同じで、信頼はデジタルでは代替できません。

ビジネスにおいても同様です。合理性だけで動く組織は、一見強そうに見えても、予測不能な危機には脆い。有機体(Organism)としての組織、つまり人と人との信頼関係があってこそ、危機を乗り越えられます。M&Aが難しいのも、ここに理由があります。Organic growth(自律的成長)とは、単なる規模の拡大ではなく、その組織が本来持つ「稼ぐ力」「結束力」が内側から育っているかどうか、という問いでもあります。

個人の信頼関係構築の基本は、驚くほど単純です。時間を守る、約束を守る、嘘をつかない。これを愚直に、長年続けること。若い頃の私はスキルも実績もありませんでしたが、「絶対に時間に遅れない」ことだけは自分に課していました。早く着くことで生まれる余裕や静けさが、結果として自分の誇りになっていったのです。それしか取り柄がなかった、と言ってもいいでしょう。

そして今、AIがAIを騙す「フェイク everywhere」の時代に入りました。情報は溢れ、もっともらしい言葉や画像はいくらでも生成されます。だからこそ最後に問われるのは、「この人は信用できるのか」という、極めてアナログな感覚です。画面の向こうではなく、現実の行動、積み重ね、履歴が試される時代なのです。

信頼とは、「橋をかけること」だとも言えます。その橋は一夜にして完成しません。時間をかけ、何度も補修しながら、少しずつ強くしていくものです。この比喩は、空中ブランコのイメージともどこかで重なっています。飛ぶ者と受け止める者。その間に架かる、目には見えない一本の橋です。

サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋(Bridge over Troubled Water)」は、単なる友情の歌を超えた、信頼関係の本質を描いた楽曲だと思います。歌の中で繰り返される “I will lay me down”(私は身を横たえる)という言葉は、信頼関係に不可欠な「脆弱性」を象徴しています。自分が先に橋となり、相手が渡れるように身を差し出す。その覚悟があって初めて、信頼は動き出します。

また、信頼が試されるのは平時ではなく、困難の只中においてです。

“When you're weary, feeling small / When tears are in your eyes”

相手が弱り切っているときに、なお変わらずそこに居続けられるか。その一貫性こそが、「何度も補修されながら強くなっていく橋」を支える土台になります。

AIやSNSが生み出すデジタルな繋がりは、一瞬で築けます。しかしそれは、橋というよりも、風が吹けば崩れる「ハリボテ」に近いのかもしれません。時間はコストではなく投資です。一夜にして完成しないからこそ、その橋には重みと価値が宿ります。

信頼とは、相手を信じることそのものではありません。相手が自分を信じられるように、自分がどう在るか。その姿勢を、時間をかけて示し続けることです。

空中ブランコも、橋も、そして信頼関係も、原理は同じです。飛ぶ前に、受け止める覚悟があるか。そして、明日もその場所に立ち続けているか。

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2026年2月4日水曜日

人生のグランドストラテジー ――なぜ日本人は「自分の物差し」を持てないのか

 

上の図は、私が今から20年ほど前に作成した「人生設計とキャリアプラン」を示すものです。

山登りに人生を喩え、社会人としての出発点から、50代以降に至るまでを、一続きの登攀として描いています。 足場は限られ、途中で引き返すことも容易ではありません。この図が示しているのは、成功モデルや理想像ではありません。むしろ、「人生にグランドストラテジーがないまま登ることの危うさ」を可視化したものです。

図の左下には「社会人登山口」があります。
  • 20代は「学に志す」。社会に出て、自分の専門性の軸を探し、学ぶことにエネルギーを注ぐ時期です。
  • 30代は「学を継続する」。資格取得や実務経験を通じて、学びを実装し、自分の足場を固めていく段階です。
  • 40代になると、「立つ&惑わず」。組織の中で一定の立場を得る一方で、自分は何者なのか、どこへ向かうのかという根源的な問いに直面します。
  • 50代、「人生を楽しめるか?」。ここで初めて、それまでの選択が静かに問い返されることになります。
この図の中央に置いた言葉が、「自分の物差し」です。

他人の評価や会社の肩書き、世間の常識ではなく、「自分は何を基準に、どの山を登っているのか」。これを持たないまま登り続けると、努力すればするほど、風の強い危険な稜線に立たされることになります。最悪の場合は、雪庇を踏み抜く。図の上部にある「無限風光在険峰」とは、雄大な景色は険しい峰の頂にこそある、という意味です。ただし、険しい峰である以上、足場は決して安定していません。自分の物差しを持たずに登れば、そこで立ちすくむことにもなります。

ここで多くの人が混乱するのが、「ビジョン」という言葉です。

ビジョンと聞くと、明確な理想像や、達成すべき成功イメージを思い浮かべがちです。しかし正直に言えば、理想の人生が何なのかなど、誰にも分かりません。若い頃にそれを描ける人は、ほとんどいないでしょう。 高齢になった今の私にも、正直なところ分かりません。

それでも、ビジョンを考えることには意味があります。それは、「人生の最後のフェーズを、おぼろげながら想像すること」です。私は、老人ホームでアルトサックスやハーモニカを吹いていたい!

自分は、どんな人間として人生を終えていたいのか。老いた自分は、どんな場所に立っていたいのか。そして、他者は最終的に、自分のことをどういう人間だったと思ってくれるのか。

ここで重要なのは、「自分がどう思うか」だけではありません。他者の記憶に、どのような存在として残るのか。言い換えれば、これはアイデンティティの問題です。

理想を完全に実現できる人は、ほとんどいません。しかし多くの人は、人生の終盤において、「この人には助けられた」「この人には感謝している」。そう言ってくれる人が何人かいることを、心のどこかで望んでいるのではないでしょうか。

恐らく、それで十分なのです。それこそが、「どんな人生を送りたいか」という問いへの、きわめて現実的な答えであり、ビジョンと呼んでよいものだと思います。ビジョンとは成功の設計図ではなく、自分はどんな存在として人生を終えたいのかという価値観の宣言なのです

ビジョンと戦略、戦術の違いを整理しておく必要があります。

ビジョンは「どんな山に、なぜ登るのか」。グランドストラテジーは、「限られた時間、能力、人間関係といった資源を、長期的にどう配分するか(resource allocation)」。戦術は、「今日、何をするか」です。

日本人は、この三つを混同しがちです。昭和の15年戦争を研究してみてください。日本社会は、目の前の課題を丁寧にこなす戦術能力においては、極めて優れています。しかし、「そもそもどの山に登っているのか」という問いを立てる訓練を、ほとんど受けてきませんでした。戦略性を学ばないまま大人になった人間が、次の世代を教えている。そう言ってしまえば、身も蓋もありませんが、現実はそこにあります。

その背景には、正解依存の教育、他者依存の社会構造、そして戦後日本が国家としてグランドストラテジーを自ら描かずに済んできたという歴史があります。企業が個人の人生設計を肩代わりしてくれた時代は終わりましたが、思考の習慣だけが、いまも残っています。AI時代に突入した現在、この思考習慣を変えられないままで、日本人はどこへ向かうのでしょうか。

だからこそ、これからの時代には、「自分の物差し」を意識的に持つことが必要になります。

完璧な答えを出す必要はありません。ただ、「自分はどんな存在として、誰に、どう記憶されたいのか」。その問いを言語化し、人生のどこかに据えておくこと。それこそが、人生のグランドストラテジーの出発点なのだと、私はこの図を見返しながら、あらためて感じています。

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2026年2月3日火曜日

子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらない

子育てを考えるとき、私はいつも「起業」との共通点を思い浮かべます。

どちらも、成果は枝葉や果実として目に見える形で現れますが、本当に重要なのは、目に見えない「土壌」と「根」です。どんな養分や水分を、どの程度与えるのか。そして、どこで手を止め、成長を待つのか。その判断ひとつで、木の育ち方は大きく変わります。


子育てと起業に共通するのは、「育てる」ことではなく「育つ環境を整える」ことです。過度な養分や水分は、かえって根を弱らせてしまいます。

私の愛犬チャーリーは、正直に言って躾に失敗しました。

かわいい、かわいいと可愛がりすぎ、必要な距離を取らなかった結果です。叱るべき場面でも感情を優先し、こちらの都合よりも「まあいいか」を選び続けた。そのツケは、すべて飼い主である私に返ってきています。

一方で、息子はまったく逆でした。

親としては自由に育てたつもりですが、結果としては少々自立しすぎたきらいがあります。頼られることも少なく、拍子抜けするほどです。犬と息子を並べて考えるのは妙な話ですが、関わり方ひとつで、ここまで結果が違うのかと考えさせられました。

子育ては、おそらく自分が死ぬまで続くのだと思います。ただしそれは、死ぬまで子どもに干渉し続けるという意味ではありません。むしろ逆で、親がどう生きるか、その姿そのものが、子どもにとって最大の教材になるのではないでしょうか。

人間も動物です。情愛そのものに大きな違いはありません。しかし福沢諭吉は、人間と動物の違いを「相手に対する敬意」だと言いました。情愛だけでなく、敬意をもって相手を見ること。そこに、人間の教育の本質があるのだと思います。

情愛や敬意を欠いた子育てが続けば、社会正義は機能しなくなり、卑怯者ばかりが量産されてしまいます。私は息子が納税者になったとき、「これで親の務めは終わった」と正直ほっとしました。しかし福沢は容赦なく言います。子を生み、養い、教え、一人前の人間として社会に送り出して初めて、親の名に恥じないのだと。

シリコンバレーのパロアルトの飲茶レストランで、さまざまな訛りの英語が飛び交う光景を目にしたことがあります。インド訛り、中国訛り、韓国訛り、あらゆる英語が飛び交っていました。そこに、日本語訛りの英語はほとんど見当たりませんでした。日本人がいないわけではない。しかし選手層が薄く、存在感が出ないのです。

日本という社会は、テーマパークのようです。サファリパークと言ってもいい。安全で、親切で、居心地はいい。しかし、その中で過保護に育った人間は、ジャングルのような現実世界では目立ちません。世界には多様な「優秀さ」があるという事実を、親自身がまず理解しておく必要があると思います。

論語にある「切磋琢磨」という言葉も、私は少し違った意味で受け取っています。学ぶ側の努力というより、教える側への戒めではないか。素材を見極め、無理に削らず、的確に磨く。料理で言えば、素材に合った調理法です。流行の教育論や、誰かの成功体験を、そのまま我が子に当てはめる危うさを、親はもっと自覚すべきでしょう。

日光東照宮の三猿の彫刻を思い出してください。
子育てとは人生全体を見通す営みなのだと教えています。子育て、成長、挫折、友情、旅立ち。人生は順番通りには進みませんし、挫折は何度も訪れます。親ができるのは、転ばせないことではなく、転んだときに立ち上がる力を信じることではないでしょうか。

子育てにおける最大の敵は、「知らないこと」ではありません。「知ろうとしないこと」です。事勿れ主義は、親にとっては楽ですが、子どもも同じように育ってしまいます。独立自尊の個人とは、不安定で壊れやすい存在です。だからこそ、自信と自尊心を日々更新し続ける必要があります。その覚悟を、親自身が生き方で示すしかありません。

福沢諭吉は、まず身体を鍛えよと言いました。

獣のような身体をつくり、後で人の心を養えと。健康を管理できない人間は、社会人としても自立できません。子育てとは、知識を詰め込むことではなく、生き抜くための土台を整えることなのだと思います。

子育ては、起業とよく似ています。

種を蒔き、土壌を整え、あとは自然の力に任せる。根を育て、枝葉や果実は、その子自身のものです。親ができるのは、環境を整え、過度に手を出さないことだけです。

チャーリーを見て苦笑し、息子の背中を見て少し寂しくなる。その両方を引き受けながら、私は自分に問いかけざるを得ない。

子どもに何をしたかではなく、自分はどう生きているのか。子育ては一生続く。でも、干渉は一生いらないのだと。
 
福沢諭吉の言葉

福沢諭吉は、130年以上前に、すでに子育ての本質を言い切っていました。

天下の橐駝(たくだ=植木屋)は能く樹木の根を養うてその生力を盛んにし、枝葉花実はその自然の発生に任して各その美を呈せしむるのみ。教育の橐駝、果たしてここに見る所あるや否や。

(福沢諭吉『教育の方向如何』明治十九年)

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2026年2月2日月曜日

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ ――契約と組織の違いから見える仕事の本質

 

コンサルティングはジャズのジャムセッションだ


契約と組織の違いから見える仕事の本質  

私はこれまで、日本の株式会社、米国のコーポレーション、シリコンバレーのスタートアップ(30年前)、そして米国型のパートナーシップによるコンサルティング会社と、いくつか異なる組織で働く機会を得てきました。その後、仲間に支えられて起業し、気がつけば二十年という時間が経っています。

こうして並べて書くと、いかにも経験豊富であるかのように聞こえるかもしれませんが、決してそういう話ではありません。自分自身の能力については、今でもたいしたものではなかったと思っています。ただ一つ言えるのは、いろいろな場所に身を置き、それぞれの組織のエコノミーにもまれ、その場の「当たり前」に戸惑い、時に失敗しながら過ごしてきた、という事実だけです。

日本の会社には日本の理屈があり、アメリカにはアメリカの、そして中国には中国人の動き方があります。本や理論で知ることもできますが、実際にその中に放り込まれると、頭で理解していたはずのことが、まったく別のものとして立ち現れてきます。その違いは、説明できる以前に、まず身体で感じるものだというのが、正直な実感です。

ですから、これから述べることも、何かを上から教えようという意図はありません。ましてや、経験を振りかざして優劣を論じるつもりもありません。ただ、自分が通り過ぎてきた現場で感じた違和感や納得感を、そのまま言葉にしているだけです。知らないことについて断言するつもりはありませんが、少なくとも自分が体験した範囲のことについては、「そうだった」と言い切るくらいの図々しさは、年齢相応に許していただいてもよいのではないかと思っています。

上の図で述べているコンサルティングビジネスの話も、その延長線上にあります。理想論でも、教科書的な定義でもなく、ある時代、ある環境の中で、実際に苦労して試行錯誤したコンサルタントの姿を、できるだけ分かりやすくお伝えしたいと思います。

コンサルティングビジネスを理解するうえで、まず押さえておかなければならないのは、日本と欧米では、ビジネスの前提となる制度や発想が大きく異なるという点です。日本には日本なりの合理性があり、欧米には欧米の歴史と制度に根ざした合理性があります。両者が百パーセント同じである必要はありません。しかし、その違いを理解しないまま表面的に真似をすると、誤解や齟齬が生じます。コンサルティングビジネスは、その典型例の一つです。

第一の違いは、会社の形態です。欧米の大手コンサルティング会社の多くは、株式会社ではなく、法律事務所と同じようなパートナーシップ型の組織です( 2人以上の出資者であるパートナーが共同で出資・経営し、利益や損失を直接分配する組織形態です。法人格を持たず、事業の利益が直接メンバーの所得となります)。これは、日本的な企業組織の感覚からすると、やや異質に映ります。親分がいて、その下に子分がいるという、いわば「親分衆の集まり」のような構造です。パートナー一人ひとりが独立した強いテリトリー意識や専門性と責任を持ち、組織はそれらの集合体として成り立っています。一方、日本にはこの意味でのパートナーシップ企業は存在せず、欧米コンサル会社の日本法人も、日本の法制度のもとでパートナーシップを「シミュレーション」しているにすぎません。

第二の違いは、契約の考え方です。日本では「請負」という発想が強く、成果物の完成を目的として対価を得るという関係が一般的です。しかし、欧米のコンサルティングビジネスでは、原則として請負契約は結びません。クライアントとの間に相互の信頼関係を築いたうえで、委任契約、いわゆる Times and Materials (日本の法律では準委任契約)で仕事を進めます。これは弁護士との契約と同じ発想です。成果を「保証する」のではなく、専門性と誠実さをもって最善を尽くし業務の遂行が契約の本質になります。

こうした環境の中で働くコンサルタントとは、どのような存在なのか。

それを直感的に説明しているのが、上のスライドです。このスライドでは、コンサルティングビジネスを「一流のジャズミュージシャンによるジャムセッション」にたとえています。

ジャズのジャムセッションでは、まず前提として、全員が自分の楽器を高度に演奏できる熟練者です。同じように、コンサルタント一人ひとりも、それぞれの専門分野において高いスキルを持っています。誰かに細かく指示されなければ動けない存在ではありません

次に、演奏している姿だけを見ると、各プレイヤーは自由気ままに、自分勝手に演奏しているようにも見えます。しかし実際には、全員が音楽に対する高いレベルでの共通理解を持っています。だからこそ、即興でありながら、全体として調和が取れるのです。コンサルティングでも同様に、各人が独立して考え行動しながら、ビジネスの基本を理解し、問題意識や価値観を共有しています

さらに重要なのは、聴衆、つまりクライアントを楽しませたい、価値を提供したいという情熱です。コンサルティングは単なる分析作業ではなく、クライアントの前で知的なパフォーマンスを行う仕事でもあります。そして、音楽を演奏すること自体を楽しんでいる点も共通しています。楽しめない演奏が人の心を打たないのと同じで、仕事を楽しめないコンサルタントが良い仕事をすることはありません

最後に、ジャムセッションでは、曲の流れに応じて誰もがリーダーになり得ます。ソロを取る人が自然にバンドを引っ張る場面もあります。コンサルティングでも同様に、固定的な上下関係ではなく、状況に応じて誰もがリーダーシップを発揮します

以上、このスライドは、欧米型コンサルティングビジネスの本質を、制度や契約の話を超えて、人の在り方として分かりやすく伝えようとしたものです。

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2026年2月1日日曜日

とり天の記憶

 
大分のトリ天のイメージ

わが家の鶏天弁当

子どもの頃、何度か大分の耶馬渓や日田を訪れました。そこで食べた「とり天」の記憶が、なぜか今もはっきり残っています。あっさりした鶏むね肉ではなく、もっと脂のある、もも肉だったような気がするのです。確信はありませんが、噛んだときのジューシーさと衣のサクサク感だけは覚えています。

一方で、私は1980年頃に三年ほど仕事の関係で、四国に住んでいました。当時、うどん屋には通いましたが、「とり天」や「かしわ天」が当たり前に並んでいた記憶はありません。天ぷらといえば、ちくわ天、かき揚げ、えび天でした。

この二つの記憶は、あとから調べてみると、実は食文化の歴史と驚くほど一致しています。大分のとり天は、もともと鶏文化が根付いた土地で育まれ、老舗では今でももも肉を使う店が少なくありません。耶馬渓や日田といった地域は、唐揚げを含め、鶏料理が生活に溶け込んでいた場所でした。うどんとは基本的に関係はありません。

一方、香川のうどん屋で「かしわ天」が全国的な定番になるのは、ずっと後の話です。1990年代以降の讃岐うどんブーム、そして丸亀製麺の全国展開によって、「うどんにはかしわ天」というイメージが広く共有されるようになりました。つまり、私が四国にいた頃に見なかったのは、単なる記憶違いではなく、まだ“定番になる前”だったということです。

面白いのは、丸亀製麺の「かしわ天」と大分の「とり天」が、似ているようで別物だという点です。前者は主に鶏むね肉を使い、讃岐うどんに合う軽さと下味を重視する。一方、後者はもも肉を使い、ポン酢やからしで食べる、立派な郷土料理です。名前も似ていれば見た目も似ている。でも、その背景にある土地の記憶と食べ方は、まったく違います。

食べ物の記憶というのは、不思議なものです。正確な年代や店名は忘れても、「あれは違った」「あれはうまかった」という感触だけは残る。その感触が、あとから歴史や文化とぴたりと重なる瞬間があると、自分の人生が、知らないうちに時代とつながっていたことに気づかされます。とり天一つで、そんなことを思い出しました。記憶は曖昧でも、舌は案外、正直なのかもしれません。

子どもの頃に出会った本物の味は、教えられなくても、ずっと体のどこかに残っている。

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自信という土台 ―― 人はどうすれば自信を身につけられるのか

 
試練に向き合い、助けを得ながら行動し続けることで、
人は少しずつ自信という土台を築いていく。

最近、日本の自殺者数が再び増加傾向にあると聞きます。詳しい統計を確認したわけではありませんが、私の記憶では、日本の自殺は先進諸国のなかでも高い水準にありながら、十数年前からようやく減少傾向に転じていたはずです。にもかかわらず、ここにきて再び増えているとすれば、それは単なる景気や一時的な社会不安の問題ではなく、もっと深いところで「生きるための土台」が揺らいでいるのではないか、そんな気がしてなりません。

私はその土台の一つが「自信」だと思っています。

自信と言うと、実績や能力、資格や肩書きを思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、若い時に必要なのは、そんな立派な裏付けのある自信ではありません。「根拠なんて無くてもいい」自信です。むしろ、そうした小さな、危うい自信こそが、後に本物の自信へと育っていくのだと思うのです。

昭和50年に出版された新書『日本の自殺』(文春新書)は、当時すでに、日本社会の内部からの崩壊を鋭く指摘していました。スペインの哲学者オルテガの『大衆の反逆』を引きながら、著者たちは、日本人が「甘やかされた坊ちゃん」になりつつあることに警鐘を鳴らします。バブル崩壊後の長期低迷は、その警告が現実のものになった姿だったのでしょう。資産インフレであろうが、長期デフレであろうが、問題の本質は変わっていません。

『日本の自殺』は、マス・コミュニケーションによる間接経験の氾濫が、人間の思考力や判断力、情緒性を衰弱させ、社会の自壊作用を強めると述べています。「人間がだまされ、知力を低下させられ、真実の視界を妨げられる」という指摘は、SNSと情報過多の時代を生きる私たちに、そのまま当てはまるのではないでしょうか。

そして昨今、AI、なかでも生成AIの急速な普及によって、この傾向にはさらに加速度がかかると感じています。文章を書き、要約し、判断材料らしきものまで即座に提示してくれる技術は、便利である一方で、人間が自分の頭で考え、試行錯誤し、迷いながら結論に至るプロセスを省略してしまう危険性を孕んでいます。

間接経験が、もはやマス・メディアだけでなく「思考そのもの」にまで入り込んできたとも言えるでしょう。

自分の頭で考え、自分の足で立つ感覚を失ったとき、人は自信を失います。そして自信を失った人間は、生きる意味さえ見失いかねない。『日本の自殺』が半世紀近く前に鳴らした警鐘は、AI時代を迎えたいま、むしろいっそう切実な響きをもって私たちに迫っているように思われます。

私にとって、そのことを強く意識させてくれたのが、夏目漱石の「私の個人主義」でした。漱石は「自己本位」という四字を手にしたことで、「ここに立って、この道からこう行かなければならない」と初めて確かな足場を得たと言います。この自己本位とは、自分勝手になることではありません。自分の軸を持つこと、自分の見識と判断力を信じることです。

日本では「自己実現」という言葉がよく使われますが、私には、その意味がどうにも腑に落ちません。漱石の言う自己本位、すなわち自信を持つこと、自分の立脚点を自覚することの方が、はるかに実践的で、生きる力につながる概念だと思います。

自信は、与えられるものではありません。アメリカの市井の哲学者エリック・ホッファーは、「独立自尊の個人は慢性的に不安定な存在であり、自信と自尊心は日々新たに生成しなければならない」と述べています。今日の達成は、明日への挑戦にすぎない。立ち止まれば、どんな高みにいても不安に襲われる。これは、私自身の経験とも完全に一致します。

私は料理を作るのが好きです。下手の横好きの典型ですが、それでも台所に立つ時間は嫌いではありません。うまくいかないことの方が多く、失敗も少なくない。家人に罵倒されます。それでも、手を動かし、やり直し、次は少し良くなるかもしれないと考える。その積み重ねが、私にとっての小さな自信になっていきます(と信じています)。一回目はまあまあでしたが、二回目の蕎麦打ちで大失敗したとき、私は文字通り落ち込みました。しかし、三回目に挑戦し、成功したことで、自信は五割ほど回復しました。失った自信は、立ち止まっていては回復しない。成功するまでやり直すことでしか取り戻せないのです。これは蕎麦打ちに限らず、人生そのものにも言えることだと思います。

サルトルは「アンガジュマン(engagement)」を説きました。

人は世界から距離を取って眺めているだけではだめで、そこに関与し、引き受け、責任を持って行動しなければならない。自信とは、そのアンガジュマンの積み重ねの中でしか生まれません。実は、コンサル業界で、プロジェクトのことを engagement 、つまり、アンガジュマンと呼びます。

思想の世界で語られてきたアンガジュマンは、実務の現場でも、生き方としても、同じ重みを持っているのです。

教育も、子育ても、そして国家のあり方も同じです。過保護に守られ、試練を奪われた社会では、自信は育ちません。挑戦し、失敗し、それでも前に進む経験こそが、人を強くします。禅宗の大家である鈴木大拙が言うように、民主主義には「自主の精神、独創の思想、いかなる責任をも辞せぬという自信と覚悟」が不可欠なのです。

自信を持つとは、何かを信じることでもあります。

宗教でなくてもいい。伝統でも、文化でも、自分なりの価値でもいい。日本の祭祀や神道が示すように、外からの思想を受け入れつつ包み込み、新たに創造してきた柔軟さは、日本人が本来持っていた強さでした。

もっと信じていい。
もっと自信を持っていい。

若い時の小さな自信は、やがて本物になります。そして、その自信こそが、生きることを引き受ける力となり、絶望から人を遠ざける最後の砦になるのだと、私は思っています。

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2026年1月31日土曜日

プロフェッショナルとは何か

 


プロフェッショナルとは何か


― ゼネラリストとスペシャリストを混同し続ける日本社会へ


日本のビジネス界を見渡すと、長年変わらない「基本的な勘違い」があります。それは、プロフェッショナル、ゼネラリスト、スペシャリストという概念の区別が、極めて曖昧なまま使われていることです。言葉だけが一人歩きし、レベルセットが行われないまま議論が進む。その結果、抽象度の低い、噛み合わない会話が延々と続く。これは日本のビジネスシーンの慢性病と言っていいでしょう。

添付した1枚目のスライドでは、「プロフェッショナル」を中心に、ジェネラリスト、スペシャリスト、エキスパートという概念を整理しています。ここで最も重要なのは、プロフェッショナルとは職種や専門分野の名称ではなく、姿勢であるという点です。

プロフェッショナルの前提にあるのは、顧客第一主義、すなわち「真のニーズに応える」ことです。自己満足でも自己中心でもない。常に相手の価値を最大化するために、自分をどう使うかを考える存在です。

ところが日本では、専門知識や技能を持っている人、つまりスペシャリストを「プロ」と呼んでしまう傾向が強い。極端な話、「うちはスペシャリストしかいません」と胸を張る会社すらあります。しかし、専門性があることと、プロフェッショナルであることはイコールではありません。スペシャリストやエキスパートは「スキル中心」の世界にいます。一方でプロフェッショナルは、スキルを含みつつも、それをどう使い、どう統合し、誰のために価値を出すのかという「働き方・生き方」の問題なのです。

2枚目のスライドでは、プロフェッショナルを支える三つの柱として、People Management、専門性、自己管理能力を示しています。

ドラッカーが繰り返し述べているように、マネジメントとは他人を動かす技術ではありません。本質は「自らをマネジメントすること」にあります。これは新渡戸稲造が『武士道』で語った「克己(こっき)」と同義でしょう。自分をコントロールできない人間が、他者をマネージできるはずがないのです。

政治家は英語で “Law Maker” とも呼ばれます。法律を作り、私たちの税金を使うことを国民からアウトソースされている、れっきとしたプロフェッショナルのはずです。それにもかかわらず、今の政治にプロフェッショナルの姿が見えないのはなぜでしょうか。責任と権限の概念を理解せず、言葉だけで場を取り繕う。その姿は、ビジネスの世界とも不気味なほど重なります。

プロフェッショナルとは、決して「できる人」ではありません。自分に満足せず、常に次の壁に挑み続ける人です。一つ壁を越えれば、また次の壁が現れる。その過程を苦行ではなく、楽しみとして引き受ける。論語にある「知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばず」という言葉の通り、楽しみながらやっている人の中からしか、本物のプロフェッショナルは生まれません。

小林秀雄は「模倣は独創の母である」と言いました。完璧に模倣できた地点が、プロフェッショナルのスタートラインです。エリック・クラプトンも、ジミー・ペイジも、ジェフ・ベックも、最初は徹底したコピーから始めています。中途半端な理解のまま「オリジナリティ」を語るのは、単なる自己満足に過ぎません。

黒澤明監督の映画『七人の侍』は、実に見事なチームビルディングの教科書です。リーダーは同質な人材を集めるのではなく、技量も性格も異なるプロフェッショナルを集め、全体としてのバランスを取ります。ムードメーカー、無口な達人、参謀役、橋渡し役。それぞれが自分の役割を理解し、自律的に動く。これこそがプロフェッショナル集団です。

今の日本では、新卒一括採用やハウツー偏重の教育が、「自分を知る(know yourself)」機会を奪っています。流行のスキルを追いかけるだけでは、死ぬまで漂流者のままです。ブログや日記を書くことは、自分とのコミュニケーションを始めるための有効なツールでしょう。

結局のところ、プロフェッショナルとは肩書きではなく、覚悟です

自分を律し、学び続け、楽しみながら壁を越え続ける。その姿勢を持つ人が増えない限り、日本はこれからも「埋もれたまま」なのでしょう。

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2026年1月30日金曜日

タコツボ社会という病理

タコツボ社会という病理

日本社会から世界へ広がる「自閉的共同体」の弊害

この図は、もともと日本社会の構造的な問題、いわゆる「タコツボ社会」の弊害を表現するために描いたものです。

タコツボ社会とは、組織や集団がそれぞれ狭い内部論理に閉じこもり、全体最適や他者との連携を顧みなくなる状態を指します。

日本の大企業を思い浮かべると、その姿は分かりやすいでしょう。製造部門、販売部門、物流部門、財務管理部門が、それぞれ自分たちの論理と都合で動き、横の連携が極端に弱い。部分最適は追求されますが、全体として会社がどこへ向かっているのかを誰も把握していない。結果として、非効率や責任の所在不明が常態化します。

この構造は、日本の教育システムにも色濃く表れています。

学校教育では、国語、数学、理科、社会、英語といった教科ごとに、多くの「柱」を次々と立てていきます。それ自体は知識を身につけるという意味で必要な作業です。しかし問題は、その柱同士をつなぐ「梁(はり)」が、ほとんど意識されないまま教育が進む点にあります。

知識をどう統合し、現実の社会や人生にどう結びつけるのか。本来ならば最も重要な問いが置き去りにされたまま、教育は大学受験へと突き進みます。そして入試が終わった瞬間、それまで必死に立ててきた柱は役目を終えたかのように忘れ去られていきます。学んだ知識が社会生活や現実の問題とどう関係するのかを考える機会は、ほとんど与えられません。

これはまさに、知のタコツボ化です。教科という名の壺の中で知識を詰め込み、壺の外とのつながりを考えない。その延長線上に、社会に出てからも全体を見渡せず、自分の担当領域だけに閉じこもる人間が生まれていくのは、ある意味で必然なのかもしれません。

このタコツボ構造は、戦前・戦中の日本にも重なります。

昭和の戦争を振り返れば、日本帝国において陸軍と海軍が事実上バラバラに行動していたことはよく知られています。国家存亡をかけた局面でさえ、組織間の連携や相互理解が欠如していた。ここにも、巨大なタコツボが並列して存在していた姿を見ることができます。

この図の下半分に描かれているのは、そうした「内輪だけの狭いコミュニティ」です。

外部の声は遮断され、異なる価値観は拒絶される。内部では自己正当化が繰り返され、やがて他の共同体に対して敵意すら向けるようになります。閉じこもるだけでなく、他者に対して攻撃的になるのが、この構造の危険な特徴です。

最たる例として、この図では宗教を象徴的に描いています。

本来、宗教は人間の内面を支え、倫理や節度をもたらすものだったはずです。しかし、共同体が自閉化すると、宗教は排他的なアイデンティティ装置へと変質します。「自分たちだけが正しい」「外は敵だ」という思考が強化され、反目と対立が固定化されていきます。

そして、この構図は宗教に限りません。昨今の世界情勢を見渡すと、強大な軍事力や経済力を持つ国家や巨大組織が、外部からの監視やコントロールを受けないまま、自分たちの利益と面子のためだけに行動している姿が目に入ります。閉じこもるだけでなく、他の共同体に対して攻撃的になる。その姿は、巨大化した自閉的共同体そのものです。

一方で、この図の上半分は「本来あるべき姿」を示しています。

組織は別であっても、人間である以上、相互理解と相互扶助が可能なはずです。立場や役割が違っても、対話を通じて相手の状況を想像し、必要であれば手を差し伸べる。そこには壁はあっても、完全な断絶はありません。

この上半分を貫くキーワードが「寛容」です。

寛容とは、相手に迎合することでも、無条件に許すことでもありません。自分とは異なる価値観や立場が存在することを認め、その存在を前提に関係を築こうとする態度です。教育においても、組織においても、国家においても、この寛容がなければ統合の梁は架かりません。

タコツボ社会の怖さは、当事者自身がその閉塞に気づきにくい点にあります。壁の内側だけが世界になり、外が見えなくなる。その状態が長く続くと、疑問を持つこと自体が裏切りとみなされるようになります。そうして社会は静かに、しかし確実に硬直していきます。

30年前に描いたこの図の問題意識は、残念ながら色あせるどころか、いまや日本社会を超え、世界全体の課題として私たちの前にあります。だからこそ、この図は過去の回顧ではなく、現在への警鐘として、改めて読み直されるべきものだと傲慢なジジイは思うのです。

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2026年1月29日木曜日

人生を400メートル走として考える

 
人生を400メートル走にたとえて考えてみます。

一番重要なことは、人生は不可逆的だという点です。
つまり、二周目はありません。一周のみです。

そして人生は、「100メートル走」でもなければ、「フルマラソン」でもありません。

400メートル走は、短距離のようでいて、実は過酷な中距離走です。

最初から最後まで全力疾走はできない。
かといって、ペースを誤れば、最後に必ず失速する。
この感覚は、人生の実感に驚くほどよく似ています。
アスリートでもない私が言うのも少し滑稽ですが、それでもこの比喩は捨てがたい。

人生のスタート地点は直線ではなく、第一コーナー付近に置かれています。つまり私たちは、生まれ落ちた瞬間から、すでにカーブを走らされている存在だ、という前提です。

家庭環境、教育、社会制度、時代背景。

自分では選べない条件の中で、身体はすでに傾き、遠心力を受けながら走り始めている。

人生は「よーいドン」で公平に始まるわけではありません。
すべての人が「gifted」ではないのです。

第1コーナー(20代)──スタートダッシュの誘惑

20代は、第1コーナーです。

多くの人が、ここでスタートダッシュをかけたくなります。
努力、根性、勢い、成功体験。確かにスピードは出ます。
しかし、400メートル走で最初に飛ばしすぎると、後半に必ずツケが回る。
人生も同じです。

ここで重要なのは、自分の軸足を確認することです。
自尊心とは何か。自分は何を武器に走るのか。
それを見極めないまま飛ばすと、後半で必ずフォームが崩れます。
恋愛もする。結婚もする。親になるかもしれない。
人生が一気に複雑になり始める時期でもあります。

第2コーナー(30〜40代)──バックストレッチへの備え

30代から40代にかけては、第2コーナーからバックストレッチに入る局面です。
まだ走れる、という感覚がある一方で、40歳を超えたあたりから、勢いだけでは通用しなくなります。

前半でどれだけ無理をしたか。
どれだけ自分の体力・能力・環境を冷静に把握してきたか。
それが、このあたりで明確に表れ始めます。難しいですね。

この時期に必要なのは、ペース配分の再設計です。
惰性で走り続ける人と、一度フォームを整え直す人との差が、
静かに、しかし確実に開いていきます。

バックストレッチ(50代)──不可逆の変化を受け入れる

50代は、人生のバックストレッチです。
ここで初めて、多くの人が気づきます。
――人生は不可逆的だ、という事実に。

体力は落ちる。回復は遅くなる。
若い頃のように無理は効かない。
だからこそ重要になるのが、「状態測定」です。
他人と比べるのではなく、自分の現在地を正確に知ること。
それができなければ、最後までは持ちません。

第3コーナー(60代)──力を抜くという技術

60代は、第3コーナーです。
ここでは、あえて「頑張らない」ことが戦略になります。
肩の力を抜き、無駄な緊張を手放す。
人生後半では、「力を入れる技術」よりも、「力を抜く技術」のほうが重要になるのです。

若い頃に身につけた「頑張り方」が、
人生後半ではむしろ足かせになることもあります。 

第4コーナー──最後の直線に向けて

第4コーナーに入る前までに、

何度でも読み返せる本。
気の置けない友人。
いくつかの趣味。

こうした「支点」を持っているかどうかが、最後の走りを左右します。

400メートル走の最後は、気力だけではどうにもなりません。
最後のチャンスは確かに存在しますが、それは奇跡ではありません。
それまでの走りの結果なのです。

人生は、やがて「私」から「公」へと重心を移していきます。
自分のためだけに走る人生から、
自分の経験や失敗が、誰かの役に立つ走りへ。

それは、社会に尽くせ、という話ではありません。
自分の経験や失敗が、誰かの役に立つ局面が増えていく、という自然な変化です。

残りの時間をどう楽しむか。
  
考えるためのフレームワークとして、
人生を400メートル走として捉えることには、十分な意味があるように思います。

***

2026年1月28日水曜日

きんぴら


この年になりますとね、晩ごはんの献立いうもんが、
だんだん決まってきます。

わたしにとって、きんぴらごぼういうもんは、
「まあ、あったら箸のびるな」いう副菜やおまへん。
これはもう――思想ですわ。人生観ちゅうてもええ。
もっと言うたら、老後の指針みたいなもんです。

細う細う切ったごぼうに、牛肉の旨味がじわぁっと絡んで、醤油はちょっと濃いめ。
最後に、古式醤油なんかチョロっとたらすと、よろしおまんな。
鷹の爪が、これがまた赤うて勇ましい。
それをな、うっかり噛まんように避けながら、
口に運んだ瞬間ですわ。

……ああ。これや。完成してますなぁ。

きんぴらは、えらいもんです。最初から前に出てきよらん。
「わしを食え、食え」と主張せん。けど、後から効いてくる。
じわぁーっと、噛むほどに。食感がええですな。

これがまた、不思議なもんでしてな。
これがもう、人生の後半戦そっくりですわ。

若い頃はね、ステーキやの、鶏の唐揚げやの言うて、騒ぎます。
トロもそうやけど脂がのっているんがええ思うてた。
ところが、人生半ばも過ぎますと、
「今日のきんぴら、ええ出来やなぁ」
こんなこと言う自分がおる。

人はこうして、知らん間に成熟していくんですなぁ。

そもそも「きんぴら」いう名前からして、只者やおまへん。
坂田金平。金太郎はんの息子さんやそうで、怪力無双の豪傑です。
ごぼうの歯ごたえと、唐辛子の辛さを「強さ」に見立てた江戸の人の感覚、
これは大したもんです。

今は健康食品やらサプリやら、山ほどありますけど、
ごぼう一本で「強うなれ」言うてた昔のほうが、よっぽど核心突いてますわ。

戦争中の話になりますけどな、
自分らも食うもんあらへん時代に、
捕虜に木の根を食わせた言うて、虐待やと責められ、処刑された兵隊さんもいたと聞きます。木の根言うたら、今やったら健康食ですわなぁ。

木の根……つまり、ごぼうですわ。
なにをかいわんや、ですな。

さて、関西と関東の話もしておきまひょ。
関東のきんぴらは、ごぼうと人参だけ。
余計なもん入れへん。
武士みたいなもんですな。
潔い。

ところが関西は、牛肉入れよります。
これは文化です。
出汁と牛肉を愛してやまん土地柄ですさかい。
豊かで、現実的。

わたしはと言いますと、
濃いめの味付けに牛肉入り、しかもごぼうは極細。
関東の理屈と、関西の欲望を、ちゃっかり両取りしてます。
人生も料理も、ハイブリッドが一番ですわ


「最後の晩餐、何食べたい?」
こう聞かれたら、迷いません。
きんぴらごぼうでええ。
いや、「で」やない。
「が」です。

イエス・キリストはんの最後の晩餐は、えらい厳粛やったそうですが、
もしわたしの幕引きが許されるなら、

白いご飯に、
ちょい濃いめのきんぴら、
大粒の納豆、
きゅうりとなすの漬物。
味噌汁は、じゃがいも・玉ねぎ・わかめの三種入り。

これで十分。
静かに箸を伸ばして、
「ああ、いろいろあったなぁ」
そう振り返れたら、それでええ。

正岡子規はんも、病床で食べ物のことばっかり書いてはりました。
「糸瓜食いて痰のつまりし仏かな」
死ぬ間際まで、食うこと考えてた。
悲しいようで、どこか可笑しい。
生きるいうのは、食べたいと思うことやと、
子規はんは教えてくれてる気ぃしますな。

歳取ると、先のこと考える時間が増えますなぁ。
財産や墓の話も大事ですけど、
そこに「食」を入れてもええんと違いますか。

最後まで、何を「うまい」と思えるか。
それが、生きる意欲そのもんです


きんぴらのごぼうを噛みしめて、
牛肉の旨味を感じて、
「ああ、うまいなぁ」
そう思えてるうちは、人生、まだ終わってまへん。

きんぴらごぼういうもんは、
噛まんと、味がわかりません。

人生も、どうやら同じようでしてな。

おあとがよろしいようで。

***

2026年1月27日火曜日

お金や契約を超えて、人が人を支えるとき ――質の高い人間関係が人生を豊かにする理由

 

人間交際の幅が広く、しかもその質が高ければ高いほど、人生は豊かになる

これは精神論でも理想論でもありません。現実に社会を生き抜いてきた人であれば、誰もが肌感覚として知っていることではないでしょうか。上の図は、そのことを非常に分かりやすく示しています。

左側に描かれているのは「公」の世界です。そこでは、お金や契約書がなければ他者は動きません。合理的で公平ではありますが、関係性は薄く、取引が終われば縁も切れます。現代社会の多くは、この「公」の論理で動いています。

一方、右側の図は「私」を中心とした人間関係の広がりを示しています。相互の「信頼と尊敬(trust & respect)」を土台に、知識や経験が共有され、時には契約書も報酬もなく、自然に手を貸してくれる人がいる。そうしたネットワークの層が厚いほど、人は孤立せず、困難にも耐えられるのです。

「甘え」が成立する場所は、どこへ行ったのか

私は以前、土居健郎の『甘えの構造』を引きながら、次のように書きました。

今の日本は「甘え」の解釈もアヤフヤだし、甘えや友情なんていうのもきわめて薄っぺらで、土居先生が『甘えの構造』で説明している「内」と「外」が曖昧になっていると思います。真の意味で甘える場所がなくなっているのではないでしょうか?

本来、人間関係のコアは家族にあり、その次に友人があり、さらに「楽屋」のような仲間と時間を共有する場があります。楽屋とは、緊張すべきステージとは異なり、失敗も弱さもさらけ出せる場所であり、同時に修練の場でもあります。

ところが今の日本では、ステージと楽屋の境界が曖昧になりました。緊張すべき場では緊張せず、緊張をほぐすための楽屋が存在しない。時間を共有し、成功も失敗も共に経験して友人をつくる手間を省き、SNSの「友達」が友達になったつもりになる――あまりにも安易です。

適度に甘えられる環境は、誰かが用意してくれるものではありません。自分で時間をかけて作るしかないのです。

信頼と尊敬がなければ、ネットワークは育たない

甘えの前提は「trust & respect(信頼と尊敬)」です。相手を尊敬するには、自分自身も尊敬されるよう努力しなければなりません。甘えの過剰は相互依存に堕しますが、健全な甘えは、人を自立へと導きます。親子関係、特に父と息子の関係は、一生をかけた trust & respect 構築のプロセスだと私は思っています。

この視点は、福沢諭吉の言う「人間交際」とも重なります。福沢は教育の要諦として、「智」「徳」そして「人間交際」を挙げました。知識やモラルだけでは不十分で、人と人との関係を築く力こそが文明の基礎だと見抜いていたのです。

映画『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)は、その逆説を鮮烈に描いています。世界最大のSNSを作った主人公が、実は最も人間交際が苦手だったという皮肉。承認を求めるあまり、唯一の親友を失っていく姿は、「成功の代償とは何か」「お金より大事な価値とは何か」を私たちに突きつけます。

人間関係は「訓練」であり、「時間」を要する

アメリカのサマーキャンプの話も、人間関係が「訓練」であり、「時間」を要するものだということを象徴的に示しています。

サマーキャンプでは、子どもたちは数週間から数か月、見知らぬ他人と寝食を共にします。異文化交流と自立心の修行の場です。最初は衝突も摩擦も起こります。価値観も習慣も違う。しかし、共同生活のなかで役割分担が生まれ、助け合いが必要になり、喧嘩をしながらも、信頼と尊敬が少しずつ積み重なっていく。友情は、イベントではなく「過程」なのです。

重要なのは、そこに近道がないという点です。人間関係は効率化できません。評価シートもKPIもありません。時間を共にし、失敗を見て、時には我慢し、それでも関係を続ける――その積み重ねの先にしか、質の高いネットワークは生まれないのです。

現代社会は、あらゆるものを「契約」と「成果」で測ろうとします。それ自体は悪いことではありません。しかし、その論理だけで人間関係まで処理しようとすると、社会は極端に脆くなります。少しの失敗、少しの対立で、関係は簡単に切れてしまうからです。

だからこそ、「お金や契約を超えた関係」が人生のセーフティネットになります。困ったときに「契約外だけど、ちょっと手伝うよ」と言ってくれる人がいるか。利害が一致しなくても、「あなたのことは信頼している」と言ってくれる人がいるか。それは、運ではありません。若い頃からの選択と、積み重ねの結果です。

最後に、あえて厳しいことを言えば(高齢者の特徴ですね、、、)、質の高い人間関係を持つには「覚悟」が要ります。時間を差し出す覚悟、面倒を引き受ける覚悟、そして自分自身も評価される覚悟です。楽な道ではありません。しかし、その覚悟を引き受けた人だけが、年を重ねるほどに人生が豊かになっていく。

お金は失えば取り戻せます。契約は更新できます。しかし、信頼と尊敬で結ばれた人間関係は、人生そのものを支える「資本」です。

それを持っているかどうか――
その差は、思っている以上に大きいのです。

***

2026年1月26日月曜日

政治が幼く見える理由――親として考えたい「言葉」と教養の話

 

AIが「答え」を出す時代に、
人間に残されるのは、水面下で育つ力だ。


日本の政治を見て、私が考えていること

母国語の語彙が豊かで、表現の幅が広いほど、思考の空間も広がるのではないか。頭の中に言葉が多く存在すれば、それだけ考えを行き来させる余地が生まれる。逆に、使える言葉が少なければ、思考そのものが平板になってしまう。これは理屈というより、長年生きてきての体感です。

久しぶりに日曜朝の政治討論番組をテレビで観ました。大概は車の中で断片的にラジオで聞くのですが、 テレビで見ると、その酷さがよりはっきりします。 議論以前に、言葉が荒く、感情が表情に表れ、小学校の学級会のような政治家が多い。話している内容以上に、「この人は、どれだけ自分の言葉で物事を考えてきたのだろうか」と、そこが気になってしまったのです。言語は、その人の教養や人格を隠さずに映し出します。

もっとも、私自身も偉そうなことは言えません。語彙や表現力の乏しさに愕然とすることは、今でもあります。ブログを書くという行為は、書き手の力量を容赦なくさらすものです。その覚悟がなければ続けられない。そう思いつつ、 もう若くはありませんから 、今さら取り繕っても仕方がないと開き直って40年以上ぐだぐだと日記を書いています(年寄りは傲慢ですからね、、、、)。

突然に衆議院選挙が始まりました。日本の政治を見ていると、「政治ごっこ」という言葉が浮かぶことがあります。海外で暮らした時間が長かったせいで、私の感覚がずれているのかもしれません。しかし、テレビカメラの前で感情を制御できず、理念よりもその場の受けを優先する姿を見ると、どうしても幼さを感じてしまいます。

その原因の一つは、教養の欠如ではないかと考えています。教養とは単に知識量のことではありません。世界の歴史の流れをどう理解しているか、自分の国が国際社会でどんな位置にあるのか、そして自分自身が国民から何を託されているのかを、どれだけ自覚しているか。それらを含めた「生き方」そのものだと思います。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「人望」について語りました。多くの人から「あの人に任せておけば大丈夫だ」と思われること。それが教養の一つの形ではないでしょうか。権威や肩書きではなく、その人の姿勢や言葉、振る舞いから自然と伝わるものです。

政治と教育は切り離せません。国のビジョンが曖昧なままでは、教育も根を失います。義務教育は、子どもたちに日本人としての自信と希望を持たせる場であるべきだと思います。良いところも、失敗した歴史も、感情論ではなく、きちんと教える。それができなければ、考える力は育ちません。

私は本を読むとき、著者と議論するように読んできました。ページの余白に反論を書き込み、納得できないところで立ち止まる。本と格闘する経験は、思考の基礎訓練になります。討論番組が討論にならないのは、こうした訓練が不足しているからかもしれません。

オルテガは『大衆の反逆』で、凡庸さが権力を握る危険を指摘しました。思想を持たないまま声だけが大きくなり、創造的な少数を敵視する。マス・メディアやSNSが発達した現代では、その傾向はより強まっています。自分で考える努力を放棄した社会は、外からいくらでも誘導されてしまうでしょう。

それでも、私は絶望だけを語りたいわけではありません。教育を通じて、母国語で考える力を取り戻すことは可能だと思っています。AIが普及する時代だからこそ、自分の頭で問いを立て、判断する力が一層重要になります。

日本の政治に違和感を覚えるのは、政治家だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもある。そう自戒しながら、これからも考え続けていきたいと思います。上手な答えは出なくても、考えることをやめない。それだけは手放したくありません。

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2026年1月25日日曜日

精神のリレーは、どこで途切れたのか ――本を読まなくなった日本と、子どもたちに何を手渡せるか

 
北斎の地方測量の図

江戸時代という「成熟した社会」


私は、江戸時代を高く評価しています。もしかすると、日本人が最も安定し、最も「幸せ」に近い時代だったのではないかとさえ思うのです。それは決して、貧しさや身分制度を美化したいという意味ではありません。むしろ、江戸社会が持っていた身の丈に合った統治、共同体のサイズ感、教育と道徳の在り方に、現代の日本が失ってしまった多くのヒントが隠されていると感じるからです。

明治政府は、幕藩体制を解体し、西欧型の近代国家を急いで作ろうとしました。しかし、その近代化はどこか「上滑り」でした。国家のために働くという意識を、制度としては導入できても、精神としては根付かせることができなかった。結果として、日本人にとっての統治の単位は、国家ではなく、最後まで「村」や「地域共同体」に留まったのではないでしょうか。

江戸時代の社会は、藩という分権的な構造のもと、村落共同体が生活と秩序を支えていました。人々は顔の見える関係の中で生き、過度な競争や中央集権的な管理とは無縁でした。コントロールスパンとしては、まさにそこが限界であり、同時に最適解だったのだと思います。

教育も同様です。全国に三万以上存在した寺子屋は、庶民のための実に優れた教育システムでした。教師と生徒という関係ではなく、師匠と弟子、人と人との信頼関係を軸に、「教える」よりも「学ぶ」ことが重視されました。年長者が年少者を教え、知識だけでなく、徳や振る舞いを自然に身につけていく。これは、現代のeラーニングや画一的な教育制度では決して代替できないものです。

また、江戸時代の日本人は、決して内向きではありませんでした。いわゆる「鎖国」とは、世界から目を閉ざした政策ではなく、宗教を侵略の道具としない国々と選別的に交流する、極めて現実的な外交戦略でした。ペリー来航以前に、欧米が日本を高度な教育水準と治安を誇る国として認識していた事実は、もっと知られてよいと思います。

明治以降、無理な近代化は多くの歪みを生みました。その矛盾の隙間に軍国主義が入り込み、昭和の十五年戦争へと突き進み、敗戦後はアメリカの庇護のもとで「思考停止の平和」と「自己欺瞞」が続いています。国家の独立とは何か、日本人の誇りとは何かを、正面から考える機会は、先送りされ続けてきました。

江戸時代の人々は、落語や時代小説に象徴されるように、ユーモアと余裕を持ち、葛藤や緊張と共に生きていました。多様性があり、均一ではなかったからこそ、個人と集団の間に健全な摩擦が存在していたのです。今の金太郎飴のような社会より、よほど成熟していたのではないでしょうか。

グローバル化とは、無国籍になることではありません。自分の立脚点を明確にし、他者と向き合うことです。江戸時代の日本人が自然に持っていた愛郷心や倫理観は、日本のアイデンティティの重要な欠片です。それらをゼロから作り直す必要はありません。忘れ去られたものを、一つひとつ拾い集め、つなぎ直せばいいのです。

江戸時代を見直すことは、過去に逃げることではありません。日本人がどこから来て、どこで道を誤ったのかを知るための、未来への作業なのだと思います。
  
では、精神のリレーは、いったいどこで間違ったのでしょうか。
  
本を読まなくなったこと、それ以上に、「物語を共有しなくなったこと」が決定的だったと思います。今の日本では、精神のリレーが完全に途絶える可能性すら出てきました。これは大げさではありません。由々しき事態です。しかも、生成AIの中途半端な理解は、その断絶にさらに加速度を与えています。

だからこそ、私は、江戸時代の小説や時代劇の価値を、あらためて見直すべきだと考えています。もし公共性という言葉に意味があるのなら、政府がファンドしてでも、時代劇を作り続ける意義は十分にあるはずです。

害を及ぼすことしかないテレビ番組、特に「報道番組」と称しながら思考を奪うだけの番組を無くし、日本の文化や精神を未来へリレーする物語に投資する。これは懐古ではなく、未来への戦略です。

江戸時代を学ぶとは、過去に戻ることではありません。日本人が何を大切にし、どこで受け渡しを誤ったのかを知ることです。精神のリレーを、もう一度つなぎ直す。その作業を放棄した社会に、未来はないのだと思います。

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2026年1月24日土曜日

なぜ日本は「狡猾(したたか)」になれなかったのか ――事実の隠ぺいと自己欺瞞、そして失われた政治感覚

 何を守り、何を子どもへ渡してきたのだろうか?

<正論>日本の国際政治上の威信維持へ「狡猾の感性」を復権させるとき
東洋学園大学教授・櫻田淳  2026/1/22 08:00

https://www.sankei.com/article/20260122-NK6UUOGF7JKRFBIHT3ZRPSC6WI/


永井陽之助の名前を目にして、久しぶりにその議論を思い出しました。それは、日本が国際政治の現実をどう見誤ってきたか、という問題です。 永井氏といえば、エリック・ホッファーの翻訳で知られていますが、同時に、日本の国際政治論に「現実を見る目」を持ち込んだ人物でもありました。

事実の隠ぺいや自己欺瞞の歴史は、どの国にもあります。アメリカにも、イギリスにも、フランスにもあります。問題は、それが存在するかどうかではなく、それを「自覚している人がどれだけいるか」ではないでしょうか。私には、日本はこの点で、他国よりも厳しい状況にあるように思えます。

中国共産党は、その典型でしょう。彼らは自らの正統性が脆弱であることを、少なくとも内心では理解しています。だからこそ、狡猾であり、計算高く、国際社会に対して仮面を使い分ける感性を持っている。これは道徳的に評価すべきことではありませんが、政治的現実としては否定しがたい事実です。

アメリカも同じです。トランプ氏の振る舞いは、しばしば中国の習近平と比較されますが、私には両者は本質的に似た存在に見えます。共産党という組織ではなく、「トランプ帝国」という個人に権力が集中しているだけの違いです。そこに理念があるかどうかより、力をどう使うかが優先されている点では、大差はありません。

では、日本はどうでしょうか。日本はしばしば「威信」を語りますが、そもそもアメリカの強い影響下にあるこの国に、失われるほどの威信が本当に残っているのか、私は疑問に思います。道徳を語る一方で、現実政治における計算や狡猾さを軽視し、結果として誰にも本気で相手にされない――そんな立場に陥ってはいないでしょうか。

和魂洋才や面従腹背といった言葉が示していた明治の気骨は、もはや一ミリも残っていない。そもそも明治の近代化そのものが、精神の近代化を本気で引き受けたものだったのかと問えば、答えは心もとない。制度や技術は西洋から急ごしらえで移植したが、内面の自立や批判精神までは育たず、近代化は結局、表層的な西洋化にとどまりました。

昭和の敗戦後、日本はその反省すら十分に行わないまま、今度はひたすらアメリカ化へと突き進んだ。とはいえ、昭和の時代には、ほんの数ミリではあれ、反骨精神を保ち続けた知識人が存在していたようにも思います。ところが現在はどうでしょうか。「敵」と「味方」を峻別する本質的な政治感覚や、立場や価値観の「濃淡」や「差異」を読み取る感受性は、どれほど雑巾をしぼっても、水一滴すら出てこないほど枯れ果ててしまった。

櫻田淳氏が述べる「狡猾の感性」とは、道徳を捨てることではありません。むしろ、道徳や倫理の価値をよく理解したうえで、それをいつ、誰に対して、どのように使うのかを判断する能力のことです。「国際政治では力こそがすべてだ」という単純な現実主義に流されることも、逆に、きれいごとだけで世界が動くと信じることも、どちらも危うい。

日本に必要なのは、純粋さでも、潔癖さでもなく、自分たちが置かれている現実を直視する冷静さではないでしょうか。自己欺瞞に気づかないまま道徳を語ることほど、国際政治の場で危険なことはありません。永井陽之助が語った「狡猾の感性」は、いまこそ、日本が取り戻すべき感覚なのだと思います。

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2026年1月23日金曜日

この国で、子どもに“考える力”は育つのか――選挙前に、親が立ち止まって考えたいこと

 
井の頭通りに日が昇る
この道を、誰が、どんな言葉で照らすのか


この国で、子どもに“考える力”は育つのか

選挙が近づくたびに、私はどうしても同じ違和感を覚えます。

それは特定の政党や政治家への好き嫌いというより、「この国の政治や言葉のレベルは、子どもたちに胸を張れるものなのだろうか」という、もっと根の深い不安です。

母国語である日本語は、本来とても豊かな言葉を持っています。語彙が豊かであればあるほど、頭の中で考えられる空間は広がります。考える力とは、知識の量ではなく、言葉の奥行きなのだと思います。ところが、日本の政治家の発言を聞いていると、言葉が軽く、感情的で、どこか子どもっぽく感じられることが少なくありません。言葉が浅ければ、思考も浅くなる。そのことが、そのまま政治の質に表れているように見えるのです。もちろん、私は政治家ではないので、自分の事は棚に上げています。

政治がしっかりしなければ、教育は成り立ちません。

外交、国防、経済、そして教育は本来、一本の線でつながっているものです。ところが日本では、教育だけが切り離され、「いい学校に入る」「テストで点を取る」ことが目的になってしまいました。その結果、子どもたちは忙しくなりすぎ、自分で考えるための“余白の時間”を失っています。

私は、子どもにとって本当に必要なのは「閑暇(かんか)」だと思っています。何も予定のない時間、ぼんやりする時間、考え込む時間です。塾や習い事が悪いわけではありませんが、大人が良かれと思って与えすぎると、子どもは自分で判断する力を育てる機会を失ってしまいます。自分で選び、自分で決める経験こそが、将来の自立につながります。

教育の根っこにあるのは、家庭です。どんな生き方が大切なのか、何を恥だと思い、何を誇りに思うのか。そうした価値観は、教科書よりも、家庭の会話や大人の背中から伝わります。だからこそ、政治が無責任で、言葉が軽く、誰も責任を取らない社会は、子どもにとって決して良い環境とは言えません。

選挙になると、耳ざわりのいい言葉があふれます。「平等」「優しさ」「支援」「みんなのため」。どれも大切な言葉です。しかし、言葉だけで現実は変わりません。努力や責任、そして「自分は何を引き受けるのか」という覚悟がなければ、社会は成り立たないのです。

アメリカのケネディ大統領(JFK)はかつて、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」と語りました。もし同じ言葉を日本の政治家が口にしたら、戸惑う人も多いかもしれません。それほどまでに、私たちは「与えられる側」でいることに慣れてしまったのです。

でも、子どもたちにそれを引き継がせていいのでしょうか。流れに身を任せるのではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の人生を選び取る力。その力を育てることこそ、親世代である私たちの責任ではないでしょうか。

選挙は、未来への問いかけです。

誰に投票するか以上に、「どんな社会を子どもに手渡したいのか」を考える機会だと思います。政治を他人事にせず、言葉の軽さに慣れてしまわず、家庭からもう一度、考える力を取り戻す。その小さな積み重ねが、この国を少しずつ変えていくのだと、私は信じたいと思っています。

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2026年1月22日木曜日

私たちの住む街は、どこから来たのか ――『警視庁物語』と『鉄人28号』が教えてくれる戦後のリアル


本題に入る前に、まず二つの作品について簡単に触れておきたいと思います。どちらも、いまの子育て世代の親御さんにとっては、名前すら聞いたことがないかもしれません。

『警視庁物語』は、1950年代後半に制作された映画シリーズで、戦後まもない東京を舞台に、警視庁の刑事たちが集団で事件を捜査する姿を描いた作品です。派手なアクションやヒーロー的活躍はなく、実際の街並みの中で、聞き込みや地道な捜査を重ねる様子が淡々と描かれています。当時の東京の空気を、ほとんど記録映像のように残している点が特徴です。

一方の『鉄人28号』は、同じ時代に連載が始まった漫画で、巨大ロボットを操る少年が活躍する物語です。一見すると子ども向けの空想作品ですが、物語には警察組織が深く関わり、戦後の社会不安や復興期の日本が背景として描かれています。ロボットという非現実的な存在を通して、当時の現実が映し出されている作品です。

私が『警視庁物語』と『鉄人28号』を特別に好んでいる理由は、この二つの作品に共通して「戦後の地続きにあるリアリティ」が色濃く描かれているからです。物語としてのジャンルは、刑事映画と少年向け漫画・空想科学作品と大きく異なりますが、その根底に流れている時代の空気には、驚くほどの共通性があります。

私は、戦争を直接体験した世代でもなく、終戦直後の混乱を生きた世代でもありません。しかし、自分自身が形作られていったのは、まさに「戦後」という時間が連続した延長線上にある社会でした。焼け跡は姿を消しつつも、価値観や人々の記憶、社会の歪みは、まだあちこちに残っていた時代です。その感覚と、『警視庁物語』や『鉄人28号』の世界観が、私の中で自然につながっているのだと思います。

とりわけ『警視庁物語』が描いている昭和30年代の東京には、戦後日本の生々しい現実がそのまま刻み込まれています。上野や浅草、新宿といった街並みは、いまの整然とした都市の姿とはまったく異なり、舗装されていない道や、仮設のような建物が残る混沌とした風景が広がっています。一方で、建設中のビルや新しい鉄道が映り込み、高度経済成長の入口に立った社会の熱気と不安が同時に感じられます。これは単なる舞台装置ではなく、復興途上の日本そのものを記録した「生きた映像」だと感じます。

事件の背景に描かれる人々の姿もまた、戦後の傷跡と直結しています。混乱期に身分を偽って生き延びた人間の不安、地方から都会に出てきたものの、居場所を見つけられずに困窮する人々、戦災孤児が成長した先に待っていた厳しい現実。こうした要素は、犯罪を単なる悪としてではなく、時代が生み出した歪みとして浮かび上がらせます。そこに、戦後社会のリアリティがあります。

一方で、『鉄人28号』もまた、空想科学という形をとりながら、戦後の現実をしっかりと内包しています。巨大ロボットが登場しても、物語の中心にあるのは、警察組織や大塚署長の存在であり、社会秩序を守ろうとする大人たちの姿です。超人的なヒーローがすべてを解決するのではなく、「組織の一員」としての警察が描かれる点は、『警視庁物語』と通底しています。

刑事たちは泥臭く聞き込みを重ね、夜を徹して議論をしながら、一つひとつ事件を解決していきます。その姿には、戦後の不安定な社会の中で、法と秩序を積み上げようとした時代の意志が感じられます。私にとって、それは単なるノスタルジーではなく、自分自身が育ってきた社会の「原風景」を見つめ直す行為でもあります。

『鉄人28号』が空想というフィルターを通して描いた戦後、『警視庁物語』が現実の街角から切り取った戦後。その両方が示している「地続きのリアリティ」こそが、私がこの二つの作品に今なお強く惹かれる最大の理由なのです。

***

2026年1月21日水曜日

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

 

正解を探すのではなく、関係を読み直す。
AI時代に、国語が本来育ててきたはずの力。

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

~ 共通テスト現代国語と、ある事件をきっかけに)

「性的ディープフェイク」で女性芸能人に似せたわいせつ画像を作成し、会員制サイトに掲載した疑いで、警視庁が31歳の男を逮捕した――そんなニュースを目にしました(2026年1月20日、読売新聞)。

AIを使って実在人物の性的画像を生成し、販売していたという内容です。いわゆる「性的ディープフェイク」と呼ばれる、新しい形の性暴力犯罪だとされています。映像や画像そのものはAIが作り出した虚構ですが、被害を受けるのは現実の人間です。技術の進歩が、人の尊厳を踏みにじる形で使われてしまったという事実に、私は強い違和感と不安を覚えました。

このニュースをきっかけに、今年の大学入学共通テストの現代国語の問題を読み返しました。

出題文は、桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」です。そこでは、美術とは作者が意味を一方的に伝えるものではなく、鑑賞者や社会との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張が語られていました。私はこの考え方に深く共感しました。意味は作品の内部に閉じているのではなく、人と人、人とモノとの関係性の中で立ち上がるものだ、という視点です。

この「関係性の中で意味が生まれる」という考え方は、美術鑑賞に限らず、情報を受け取る態度そのものにも通じるのではないでしょうか。フェイク情報の多くは、単独で提示され、文脈や他の視点から切り離された形で流通します。一枚の刺激的な画像、一つの断定的な言葉だけが孤立して提示される。だからこそ、それが事実であるかのように見えてしまうのです。

逆に言えば、複数の情報源、異なる立場、反証の有無などを照合し、情報を関係性の中に配置し直すことで――いわばコンステレーションを描き直すことで――初めて見えてくるものがあります。これは、桜井氏の言う「贈与としての美術」と同じ構造ではないかと感じます。つまり、フェイクを見破るには、個々の情報の真偽だけでなく、その背後にある関係性まで含めて考える必要がある、ということだと思います。

コンステレーション

「コンステレーション(constellation)」は主に「星座」という意味ですが、転じて「多数の人工衛星群」や「一群の要素が構成する配置・まとまり」などを指し、ユング心理学やデジタル通信分野でも使われる言葉です。

ただし、この話を国語教育、とりわけ大学入試の現場に当てはめてみると、話は少しややこしくなります。

高校の現代国語は、本来、価値観の多様性に触れ、思考の幅を広げるための教科だったはずです(これは私の独自解釈かもしれません)。ところが、受験の現場では、思考をできるだけ限定し、設問の意図に最短距離でたどり着くスキルが求められます。予備校の現代国語講座を見ても、効率よく点数を取るための「型」が前面に出ています。自由に考える力は、むしろ邪魔者扱いされているようにも見えます。

最後に、改めて考えたいと思います。AI時代に本当に必要なのは、あらかじめ用意された正解を素早く当てる力ではなく、断片的な情報を文脈の中に置き直し、関係性を組み替えて意味を立ち上げる力ではないでしょうか。そして、それこそが本来、国語教育が担ってきた、あるいは担うべき役割だったのではないか――教育の素人の私はそう感じています。

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2026年1月20日火曜日

国語教育、本当に“考える力”を育てていますか? ――共通テスト現代国語から考える

点数にならない思考の痕跡

今年の大学共通テストの現代国語を見て、正直なところ、複雑な気持ちになりました。

出題された桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」は、限られた抜粋からでも、きわめて示唆的な文章だと感じました。美術とは、意味を一方的に伝達するものではなく、他者との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張には、私は全面的に同意します。これは美術論にとどまらず、深層心理学で言うコンステレーション、すなわち関係性の中で意味が立ち上がるという考え方にも通じるものだと思います。

ところが、その文章を素材として作られた設問を見たとき、私は強い違和感を覚えました。文章の思想の深さと、設問の性質との間に、あまりにも大きなギャップがあるのです。もちろん、全国一斉試験である以上、採点の公平性や効率性が最優先されるのは理解できます。しかし、その結果として、著者が本当に語ろうとしている核心部分――関係性の中で意味が生成されるという動的な思考――は、ほとんど切り落とされてしまっているように見えました。

私は共通一次試験以前の世代で、センター試験も共通テストも経験していません。したがって、これはあくまで外野からの、しかも無責任な高齢者の感想にすぎません。それでも、昨日あらためてYouTubeで予備校の現代国語講座をいくつか見て、違和感は確信に近いものになりました。そこでは、文章をどう読むかよりも、どう「処理」すれば7〜8割の点数を短期間で取れるか、というテクニックが前面に出ていました。効率的ではありますが、高校の国語教育や、出題者が掲げているはずの理念とは、どうも別の方向を向いているように感じました。

整理すると、高校の授業、受験準備(塾・予備校)、試験問題、大学での4年間、そして社会人生活の間には、いくつもの断絶があります。高校で学んだ内容は、受験の段階で「点数」に変換され、管理しやすい形に加工されます。そして入試が終わった瞬間、その多くは泡沫のように消えていく。これは、ある意味で日本文化らしいとも言えますが、あまりに惜しい話です。さらに言えば、授業設計と現場の教師の間にもギャップがあり、現代国語と歴史など他教科との統合、いわば「梁」が存在しないため、知は柱のまま、やがて一本一本倒れていきます。

高校の現代国語の教科書と、予備校の国語講座を比べてみて、決定的な違いにも気づきました。高校国語は、本来、視野を広げ、価値観の多様性を学ぶためのものだったはずです。一方、入試問題で求められるのは、思考の幅を狭め、型にはめ、正解を一つに収束させるスキルです。自由な思考は、序列化しにくく、管理しにくいからです。

こう考えると、現行の受験制度は、高校国語教育の目的を事実上否定しているようにも見えます。皮肉なことに、いまのAI時代に本当に必要とされている「考える力」や「統合的な知」は、高校国語が本来目指していた方向にこそあります。それを受験が真逆の方向に引っ張っている。この矛盾を、学校も塾も、ある程度わかっていながら、システムを変えない。どこか、見て見ぬふりをしているようにも感じます。無責任だとは思いませんか?

拙宅の近くには、教育評論家の有名人が住んでいます。つかまえて聞いてみたい気もしますが、たぶん武蔵野警察に通報されるでしょう。冗談はさておき、日本の教育問題は、それほど根が深いのだと思います。そしてAIの時代だからこそ、点数化できない思考や、人と人、人とモノとの関わりの中で、少しずつ育っていく理解や気づきを、もう一度大切にする必要があるのではないでしょうか。
 
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2026年1月19日月曜日

なぜ教育は、劣等感を手放せない人を育ててしまうのか ――「理想との距離」では測れないもの

最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。

ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。


比較しない人生と、「自分の軸」

私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。

その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。

中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。

この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。

劣等感と優越感は、同じ根から生える

劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。

そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。

政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。

これは決して珍しい話ではありません。

国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」

日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。

国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。

教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。

これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。


同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している


「未熟さ」を生きるという態度

私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。

未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。

劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。

劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。

少し、大げさですかね?

AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか

ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。

この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。

しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。

人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。

むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。

他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。

劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。

AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。

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2026年1月18日日曜日

子どもに“自由”を教えられていますか? ――人生の自由度ランキングを読んで、親として考えたこと

人生の自由度ランキングと、日本人の「自由」

先日、あるビジネス誌に「人生の自由度ランキング」という記事が掲載されていました。世界価値観調査をもとに、「自分の人生をどの程度自由に動かせると思っているか」という問いへの回答を国別に比較したものです。結果は、日本が世界で下から3番目。レバノン、ギリシャに次ぐ低さだそうです。

https://diamond.jp/articles/-/380018

この数字を見て、「やはり日本は不自由な国なのだ」と絶望する人もいるかもしれません。一方で、記事の筆者は慎重です。この調査は社会制度としての自由度を測っているのではなく、日本人の人生態度、つまり慎重さや期待値の低さを反映しているにすぎない、と説明しています。人生が自由だと感じていなくても、日本人は比較的幸福であり、「不自由でもあまり嘆かない国民性」があるのだ、というわけです。

なるほど、統計の読み方としては誠実だと思います。ただ、私はこの記事を読みながら、どうしても引っかかるものが残りました。

私は、アメリカ企業で働き、アメリカで20年ほど家族とともに暮らしました。子どももアメリカで育てています。また、中国で働いた経験もあります。ですから、ここで述べることは、全くの想像や伝聞ではありません。もちろん、私の見解が正しいと主張するつもりもありませんが、少なくとも実体験に裏打ちされた感覚ではあります。

高校一年のとき、夏目漱石の『私の個人主義』を読みました。それが直接のきっかけだったかどうかは分かりませんが、私はその頃から「自由と責任」という言葉について、妙に考えるようになりました。もっとも、学校の勉強とは一線を画し、正直に言えば、授業をサボって喫茶店に行くための言い訳に使っていた面もあったと思います。学校をサボって大阪ミナミの喫茶店にいると、不安になる。その不安を打ち消すために、哲学的なことを考えている「つもり」になっていた、というのが実態でしょう。

それでも、漱石の言葉はいまも頭のどこかに残っています。漱石は講演の中で、次のように述べています。

「自己本位といふ事は、利己主義といふ意味ではない。
他人の自由を認めた上で、はじめて成立つものである。」


この一文は、私にとって長いあいだ、自由を考える際の基準のようなものになっています。

ビジネス誌の記事が扱っている「自由」は、「人生を自由に動かせると感じているか」という主観的な感覚です。しかし、私がアメリカで感じた自由は、それとは少し異なるものでした。自由とは、選択肢が多いこと以上に、「選んだ結果について自分で引き受けること」を求められるものだったからです。転職も、異動も、教育も、失敗も、基本的には自己責任です。自由である分、常に緊張があり、安心はありません。

一方、日本では、人生を「自由に動かせるとは思っていない」人が多いにもかかわらず、幸福度はそれなりに高い。これは美徳とも言えますが、別の見方をすれば、「自由を行使しなくても回ってしまう社会」にうまく適応してきた結果とも言えるのではないでしょうか。

自由を感じないことと、自由がないことは、本来は別の問題です。

健全な迷子と、不健全な迷子
――自由とは、正解を与えられない状態に耐え、考え続ける力でもある

しかし、自由を使わずに済む状態が長く続けば、やがて自由そのものを求めなくなります。漱石が警告したのは、自由を奪われることよりも、「自由を扱えなくなること」だったのではないか、私はそう思います。

人生の自由度ランキングは、日本社会を断罪するためのものではありません。ただ、「自由をどう感じるか」ではなく、「自由をどう使い、どこまで責任を引き受けてきたか」を、私たち一人ひとりが考え直すきっかけにはなるはずです。数字そのものよりも、その数字を前にして何を考えるのかが、いま問われているのだと思います。

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2026年1月17日土曜日

AI時代に露呈する日本教育の構造的欠陥

 
AIに何を教えるかではなく、AIの答えをどう疑い、どう判断するか。
その力を、日本の教育は育ててきただろうか。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40097

フェイクニュース時代に必要な“科学リテラシー”とは?AI、SNS全盛で混沌とする社会を生き抜く術
横上菜月( Wedge編集部)


日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか

生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。

しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?

日本の教育は考える訓練になっているか?

日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。

欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。

この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。

受験システムが破壊する思考の連続性


さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。

直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。

つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?

ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。

これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。

国語教育と受験の致命的な乖離

問題は、
  • 現代国語の内容を設計した人々
  • 受験テクニックを教える塾・予備校
  • 現場の教師
この三者の間に、埋めがたい断絶があることです。
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
  • 思考のフレームワーク
  • 抽象化する力
  • 異なる価値観を往復する知性
を育てたかったはずです。

しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。

結果として、
  • 学校で習う国語:視野を広げ、多様な考え方を学ぶ
  • 受験で求められる国語:思考を限定し、迷わず切り捨てる
という正反対のベクトルが同時に存在することになる。

善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。

AI時代に露呈する日本教育の弱点

生成AIは、この問題をさらに露わにします。

AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。

コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。

教育を変えなければ、未来は変わらない

日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。

フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
  • 母国語で深く考える力
  • 科学的根拠を確率として評価する態度
  • 思考の幅を広げたうえで判断する知性
です。

教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。

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2026年1月16日金曜日

AIハルシネーション政治 ――考えている「ふり」の世界

 

考えているように見える。
だが、何も考えていない。

イアン・ブレマーの2026年の世界10大リスク

イアン・ブレマーは、アメリカを代表する国際政治学者であり、世界の政治・経済リスクを分析するコンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創設者です。国家間の軍事衝突や金融危機だけでなく、テクノロジーや社会変化が民主主義に与える影響を読み解くことで知られ、各国政府やグローバル企業の意思決定に大きな影響を与えてきました。

毎年発表される「世界10大リスク」は、未来予測というより、世界が見落としがちな「構造的な危うさ」を可視化する警告として注目されています。

イアン・ブレマーは、2026年の世界的リスクの一つとして「ユーザーを食い尽くすAI」を挙げました。

彼が最も警戒しているのは、AIが人間を超えることではありません。人間が考えなくなることです。おこがましいですが、これは私がコロナ禍のころから言い続けてきたことでもあります。

ここで重要なキーワードがあります。
「AIハルシネーション」です。

ハルシネーションとは、AIが「それらしく聞こえるが、事実でも理念でもない答えを、もっともらしく作り出してしまう現象」を指します。一見、筋が通っているように見える。言葉も整っている。ところが、よく見ると根拠も責任も現実認識も欠けている――それがAIハルシネーションです。特に現実認識、いわゆる as-is に弱い。原因と結果の間に立ち、同じ目線で丁寧に考えるようなことは、基本的にしません。

考えている「ふり」をする新党結成の正体

昨日発表された、野党同士による新党結成のニュースを聞いた瞬間、この言葉が頭をよぎりました。

立憲民主党の野田佳彦代表は、「200人近く擁立しなければ比例票が出てこない」と語ったそうです。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、「選挙目当てではない」と述べるにとどまり、目標数すら示しませんでした。
  • 理念は語られない。
  • 国家像も語られない。
  • 政策の一致点も検証されない。
あるのは、「それっぽい言葉」と「選挙にかかわる数字」だけです。

これは熟議の結果なのでしょうか。それとも、「野党が勝つための最適解を出せ」と入力し、AIが吐き出したハルシネーション的アウトプットなのでしょうか。私のこの疑問、なかなか面白いと思いませんか?

ブレマーが警告するAIの最大の危険性は、エンゲージメント――つまり人を動かす効率――を最大化するために、意味や真理を切り捨ててしまう点にあります。そこでは、「正しいかどうか」ではなく、「反応を得られるかどうか」だけが価値基準になります。少し立ち止まって、よく考えてみてください。

今回の新党構想は、まさにそれと同じ構造を持っています。
  • 勝てそうかどうか
  • 数が取れるかどうか
  • 動員できるかどうか
これらはすべて「出力」であり、「目的」ではありません。にもかかわらず、政治の中枢がそこだけを語っているように見えます。

AIハルシネーションの怖さは、「間違い」よりも「空虚」にあります。完全な虚構ではない。しかし、そこに責任を引き受ける主体がいない。――日本の政治に、実によく似ていませんか?

今回の新党結成も、同じ匂いがします。失敗したとき、誰が何を誤ったのかを説明できない。なぜなら、最初から「なぜそれをやるのか」が存在していないからです。日本の大規模な業務改革プロジェクトを思い出す方も多いでしょう。

ブレマーはこう言います。

熟議民主主義には、独立して考え、情報を持ち、積極的に関与する市民が必要だと。しかし今、日本の政治が示しているのは、その正反対です。考えず、感じず、ただ「それらしい回答」を並べる。これはAIに支配される未来ではありません。AIの振る舞いを真似てしまった人間の劣化です。

AIには理念もビジョンもありません。しかし、人間までそれを放棄したとき、民主主義は単なるアルゴリズムになります。理念もビジョンもない日本の政治とは、残念ながら相性がいい。

今回の新党結成は、政治的決断とは言いにくいでしょう。政治を装ったAIハルシネーションなのです。

ブレマーの警鐘は、シリコンバレーだけに向けられたものではありません。すでに、日本の政治状況そのものに、はっきりと響いています。

――人間は、まだ自分で考えているのでしょうか。

この問いに答えられない政治に、未来を語る資格はありません。

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