2016年8月10日水曜日

福沢諭吉 『学問のすすめ』 ~ まだ読んだことがない人のために

福沢諭吉の『学問のすすめ』を5~6年ぶりに読み返しました。


これまで10年に一回くらいのわりで読んでいます。福沢諭吉は今でも好感を持っていません。どちらかと言うと「嫌な奴だ」というイメージがあるのです。しかし、『学問のすすめ』ではいいことをいっぱい言っています。「さすが、お札になるだけの人だ!」。

『学問のすすめ』は17編より成っています。福沢諭吉は「小学の教授本」と言っているのですが、小学とは小学生のことです。ただし、四編と五編は学者向けに論じたようです(本文中に書いてある)。

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啓蒙思想家の福沢諭吉は大した人物です。今の日本の教育にも、コンサルタントの世界にも、学習する価値は十分にあります。真理をついているからでしょうね。

今の政治家先生たちは読んだかな?

10年以上前に『学問のすすめ』を読んだ時は特に何とも思いませんでした。ところが、今読んでみると全く違った印象を受けるのです。面白いものです。要するに、自分も右や左、上や下に変化しているということだろうと思います。

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初編 


「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という誰でも知っている部分です。しかし、本当の意味を知っている人は少ないのではないでしょうか?

福沢諭吉の問いかけは、「天は人の上に、、、と言われるが、世の中にはなぜ金持ちや貧乏人ができ、賢い人がいたり愚かな人がいるのでしょうか?」です。

「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と善人と悪人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という」。

「学ばないとちゃんとした大人にならないよ。しっかり学ぶのはあんたたち小学生の義務であり責任なのよ」と説明しています。この初編の冒頭の部分は全体の枕になる部分です。一般には「天は人の上に、、、」が一人歩きして平等について語っているような印象がありますが、そうではありません。「学問をしないとロクな大人にならないよ、日本はとんでもない国になるよ」という警告なのです。

初編ではもう一ついいことを言っています。「自由」と「我儘」の違いです。英語で言えば「FREEDOM」(自由)と「LICENSE」(勝手気ままな自由)の違いです。日本ではFREEDOMLICENSEの別が非常に曖昧で、日本の自由は英語で言うLICENSEのような感じがします。

(注)LICENSEという言葉は「学問のすすめ」には出てこない。

「ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我が儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘の界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」。


二編 


平等に関して書かれています。

「人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり」。

権理通義とは、権利、道理、世間一般に通じる意義のことであり、平等とは基本的人権の平等を言っています。決して結果に対する平等という意味ではありません。また、悪政・愚政は国民の無知によるところが大きいと言っています。今の日本には耳が痛い話です。

「人民もし暴政を避けんと欲せば、速やかに学問に志し自ら才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これ即ち余輩の勧むる学問の趣意なり」。

このあたりはギリシャの哲学者ソクラテス、プラトンにも通じるでしょう。恐らく、福沢諭吉のことだからギリシャ哲学は勉強したのでしょう、「民主主義の行きつくところは衆愚政治だ」と。今の日本に対する警告には聞こえませんか? 今のTVは衆愚を加速させる触媒(メディア)だと思いませんか?


三編


これは独立心について。つまり、「依存心ばかり強いと国は独立しません」と言っています。もっともな話です。今の日本は国家国民相互依存型だ。更に外国に依存する自己欺瞞国家です。

「外国に対して我国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、国中の人々貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、智者も愚者も目くらも目あきも、各々その国人たるの分を尽さざるべからず」。

「人民に独立の心なきより生ずる災害なり」と言って事例を3つ挙げ、次のセンテンスでまとめています。依存心という言葉のかわりに「独立の心」を使っています。

「今の世に生れ苟も愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立を謀り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与にするに若かざるなり」。

「与」というのは仲間という意味です。関与の与。与力の与でもあります。政府は国民を独立させて(国民の依存心を取り払い)国民と苦楽をともにしなさいと言っています。父兄や教師に対しては、「子弟や生徒の独立心を育みなさい」と強調しています。これはアメリカの公立学校の基本精神であります。親が独立していない場合、子供の独立を助け成すことはできるのでしょうか?


四編


この四編も重要です。なぜ独立心が重要かを説明しています。「日本は独立国か?」という問いかけから始まってどきっとするのです。「日本が独立するには政府だけでなくて国民一人一人にも責任はあるのですよ」と言っています。果たして、今の日本の政治家にこういった意識・感覚があるのでしょうか?

「政は一国の働きなり、この働きを調和して国の独立を保たんとするには、内に政府の力あり、外の人民の力あり、内外相応じてその力を平均せざるべからず。故に政府はなお生力の如く、人民はなお外物の刺衝の如し、今俄にこの刺衝を去り、ただ政府の働くところに任してこれを放頓することあれば、国の独立は一日も保つべからず。苟(いやしく)も人身窮理の義を明らかにし、その定則をもって一国経済の議論に施すことを知る者は、この理を疑うことなかるべし」

「国民は一人一人が独立し政府に対しての刺激とならんとアカンのよ」と言っています。人身窮理、、、難しい言葉ですね。これは江戸時代の生理学のことだそうです(辞書を引きました)。ここでは道理を追求するという意味で、理にかなった道を追求しなさいという意味です。窮理は易経の言葉でもあるので、福沢さんはさすがに学者ですね、片鱗をみせています。

「苟もこの国に生まれて日本人の名ある者は、これに寒心せざるを得んや。今我輩もこの国に生まれて日本人の名あり、既にその名あればまた各々その分を明らかにして尽くすところなかるべからず。固(もと)より政の字の義に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し。故に一国の全体を整理するには、人民と政府と両立して始めてその成功を得べきものなれば、我輩は国民たるの分限を尽くし、政府は政府たるの分限を尽くし、互いに相助けもって全国の独立を維持せざるべからず」。

この部分は全体の中でも気に入っているパラグラフです。私は国粋主義者でも何でもありませんが、たまたま日本という国に生まれて日本人として生きています。アメリカが引き留める力よりも、この日本人の部分の力のほうが大きかったから帰ってきたとも言えます(大袈裟ですね、、、)。諭吉つぁんは、「政府に関しては大久保さん伊藤さんに任せたよ、自分は人民の教育に頑張るから」と言っているのでしょう。

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伊藤博文は千円札で福沢諭吉が一万円札。大久保利通や勝海舟はお札にならない、、、、不思議ですね。


七編


七編は、国家と国民の関係を説明しています。国とか国民の役割を分かりやすく説明するのもいいかも知れません(いまどき日本では「国」とか言うと右翼だと言われるか?)。国会議員の先生方の中にも、国民と言わずに市民という先生方も多いのです。

凡そ国民たる者は一人の身にして2箇条の勤めあり。その一の勤めは政府の下に立つ一人の民たるところにてこれを論ず。即ち客の積りなり。その二の勤めは国中の人民申し合わせて一国と名づくる会社を結び社の法を立ててこれを施し行うことなり、即ち主人の積もりなり。
(中略)
第一 客の身分をもって論ずれば、一国の人民は国法を重んじ人間同等の趣意を忘るべからず。
第二 主人の身分をもって論ずれば、一国の人民は即ち政府なり。その故は一国中の人民悉皆(しっかい)政(まつりごと)をなすべきものに非ざれば、政府なるものを設けてこれに国政を任せ、人民の名代として事務を取扱わしむべしとの約束を定めたればなり。故に人民は家元なり、また主人なり、。政府は名代人なり、また支配人なり。

このあたりの説明は小学生には難しいかも知れません。要するに、政府の役人は公僕よ、主権は民にあるのよと説明しています。恐らく、今の日本人はこういった感覚が麻痺しているのではないかと思います。

次のパラグラフも基本的な国家と国民の関係に関してです。つまり、税金のことです。「国民の義務としてお金がかかるよ」と説明しています。国民の三大義務である納税の義務を忘れて、お金を貰うことだけに邁進する日本国民とは本当に国民なのかと思ってしまいます。

人民は既に一国の家元にて国を護るための入用を払うは固(もと)よりその職分なれば、この入用を出すにつき決して不平の顔色を見わすべからず。国を護るためには役人の給料なかるべからず、海陸の軍費なかるべからず、裁判所の入用もあり、地方官の入用もあり、その高を集めてこ

れを見れば大金のように思わるれども、一人前の頭に割付けて何程なるや。日本にて歳入の高を集めてこれを見れば大金のように思わるれども、一人前に一円か二円なるべし。一年の間に僅か一、二円の金を払うて政府の保護を被り、夜盗押込の患(わざわい)もなく、独旅行(ひとりたび)に山賊の恐れもなくして、安穏にこの世を渡るは大なる便利ならずや。凡そ世の中に割合よき商売ありと雖(いえ)ども、運上を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。

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福沢さんは10歳を「人心の出来し時」と言っています。人生の計画表(ROAD MAP)を作成するような話を子供にしても面白いかもしれません。

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八編


人間の権利と義務についてです。この編は福沢諭吉が読んだ本の受け売りですね。

アメリカのウェイランドとなる人の著したる「モラルサイヤンス」という書に、人の心身の自由を論じたること在り。

第一、    人には各々身体あり。
第二、    人には各々智恵あり。
第三、    人には各々情欲あり。
第四、    人には各々至誠の本心あり。
第五、    人には各々意思あり。

以上五つの者は人に欠くべからざる性質にして、この性質の力を自由自在に取扱い、もって一身の独立をなすものなり。
(中略)
ただこの五つの力を用いるに当たり、天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎められることもなく、天に罰せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。

人間には、①身体(ハードウェアとしての)、②知恵(ソフトウェアとしての)、③欲望(人間の様々な欲)、④誠実さ(誠の心)、⑤意志の力、これら5つの性質がある。これらは人間が誰でも持っているものであり、各人はこれらのバランスをとらなくてはいけない。欲望がなくては目的を達することができないし、欲望は誠の心でコントロールされる。

また、意志がないと目的は成就されない。意志は「志」で企業で言えばビジョンや理念のようなものでしょう。他人も5つの性質を持っているのであり、各人は自分の5つの性質をうまくコントロールすること(分限を越えざる事)が、人間の権利と義務(権義)なのであると解説しています。


九編と十編


九編と十編は二つで一つです。

九編のまとめは十編の冒頭に書かれています。衣食が足りただけで満足しちゃアカンよ。人のネットワークの中に飛び込んで(人は一人では生きられない)、ネットワークの一員として世のために尽くさないと愚かものか虫けらのようなものだと解いています。

これは、人的ネットワークを大事にしなさい。その中で自分の役割を果たしなさい。将来的に必ず見返りがありますよ、質の高い人的ネットワークに自分の身をおけば(投資)、必ず成長しますよ(投資に対するリターン)と言うことでもあるかなと、私なりに拡大解釈しました。

人たるものはただ一身一家の衣食を給しもって自ら満足すべからず、人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉むるところなかるべからず。

これは十編の冒頭にある九編のまとめです。

私が「福沢の諭吉さん、あんさんキツイねぇ~」と思うのは以下の部分。

我輩の職務は、今日この世に居り我輩の生々したる痕跡を遺して、遠くこれを後世子孫に伝うるの一事に在り。その任また重しと言うべし。豈(あに)ただ数巻の学校本を読み、商となり工となり、小吏となり、年に数百の金を得て僅かに際しを養いもって自ら満足すべけんや。こはただ他人を害せざるのみ、他人を益する者に非ず。

単に本を読んで何らかの仕事をして妻子を養って他人に迷惑をかけないだけの人生ではだめだ。それでは意味のある人生とは言えないと言っています。

これは私のようにアラ還の身にはキツイ一言だ。今更言われてももう手遅れです。だから、小学生に対して思いっきり高い人生のレベルセットをするのは意味があるのでしょう。明治の小学生は今よりもずっとレベルが高かったのか?今の小学生は20~30年前より精神的なレベルが低いと聞きますが、このまま時の流れに身を委ねていくと日本人のレベルは100年後にはどうなるのか?

自由独立と言うときには、その字義の中に自ずからまた義務の考えなかるべからず。独立とは一軒の家に居住して他人へ衣食を仰がずとの義のみに非ず。こはただ内の義務なり。なお一歩進めて外の義務を論ずれば、日本国に居て日本人たるの名を恥しめず、国中の人と共に力を尽くし、この日本国をして自由独立の地位を得せしめ、始めて内外の義務を終えたりと言うべし。

上の部分はリーダーシップ教育のフレーズでもあると思います。「日本人としてグローバルで立派な人になりなさい、そして日本を自由独立の一流の国にしなさい」と言っているように聞こえるのです。

方今天下の形勢、文明はその名あれども未だその実を見ず、外の形は備われども内の精神は耗し。今の我海陸軍をもって西洋諸国の兵と戦うべきや、決して戦うべからず。今の我学術をもって西洋人に教ゆべきや、決して教ゆべきものなし。却ってこれを彼に学んで、なおその及ばざるを恐るるのみ。

これは、「自分を客観的に冷静に眺めるとまだまだダメだよね。外見だけはなんとなく体裁がついているようだけど、中身は全くないではないか」と、中身の無さに警鐘を鳴らしています。

九,十編はかなり手厳しい福沢諭吉の(明治初期の)現状認識です。まさか、福沢諭吉は130年後の日本人の精神レベルはもっと下がっているとは思ってもみなかったでしょう。


第十二編


演説とは英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。
(中略)
学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り。この働きを活用して実施に施すには様々の工夫なかるべからず。「オブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推求して自分の説を付(つく)ることなり。この二箇条にては固より未だ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。なおこの外に書を読まざるべからず、書を著さざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くして初めて学問を勉強する人と言うべし。即ち、視察、推求、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書演説はもって、智見を散ずるの術なり。
(後略)

「本を読んで、文章を書いて、人と議論して、人にプレゼンしなさい。これらをやってはじめて勉強する人だといえるのです」。「観察、推察、研究をして知識を蓄積し、議論して意見交換し、文章を書いてプレゼンして知識をひろめなさい」。

これは、アメリカのK-12(義務教育)からMBAに至るまで首尾一貫した考えに近いと思います。福沢諭吉さんは『学問のすすめ』のなかで非常にいいことをいっぱい言ってくれています。


十三編


ここでは「怨望(えんぼう)」について説明しています。人を怨む心が諸悪の根源だと言っています。ワーキングプアの議論かと思ったのですが、読み返すとそうでもありませんでした。最初にそう思ったのは、自分の貧困を人のせいにするようなことが福沢諭吉の言っている「怨望」だと思ったからでした。

私は弱者を救済するなと言っている訳ではなく、貧困にも色々と理由があって本人に原因がある場合もあるだろうから全部をひとまとめにして救済キャンペーンはオカシイだろうと思うのです。

この編で一番共感したところは、「人を受け入れることができなければ、他人もアンタのこと受け入れてくれないよ」と言うくだりです。これはコンサルタントの資質としても重要であり、リーダーの資質でも重要なことです。自分のことを全く語らず他人の共感を得ることは難しいのです。「リーダーは孤独であるべきだ」と多くを語らないリーダーは多いのですが、どうでしょう? 私はやはりユーモアがあって魅力的な人がトップにいる方が好ましいと思います。

心志怯弱(きょうじゃく)にして物に接するの勇なく、その度量狭小にして人を容ること能わず、人を容るること能わざれば人もまたこれを容れず、彼も一歩を退け我もまた一歩を退け、歩々相遠ざかりて遂に異類の者の如くなり、後には讐敵の如くなりて、互いに怨望するに至ることあり。世の中に大なる禍と言うべし。また人間の交際において、相手の人を見ずしてそのなしたる事を見るか、もしくはその人の言を遠方より伝え聞きて、少しく我意に叶わざるものあれば、必ず同情相憐れむの心をば生ぜずして、却ってこれを忌み嫌うの念を起こし、これを悪んでその実に過ぐること多し。これまた人の天性と習慣とに由って然るものなり。物事の相談に伝言文通にて整わざるものも、直談にて円く収まることあり。

フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションは大事ですよと言っています。その通りです。


十四編


十四編はなかなか含蓄があります。特に下の部分は私には耳が痛い、、。

生涯の内または十年の内にこれを成すと言う者は最も多く、三年の内にと言う者はやや少なく、一月の内或いは今日この事を企てて今正にこれを行うと言う者は殆ど稀にして、十年前に企てたる事を今既に成したりというがごときは余輩未だその人を見ず。

かくの如く期限の長き未来を言うときには大造なる事を企つるようなれども、その期限漸く近くして今月今日と迫るに従って、明らかにその企ての次第を述ぶること能わざるは、必竟事を企つるに当たって時日の長短を勘定に入れざるより生ずる不都合なり。

アメリカでよく90 DAYS  ACTION PLANは?と聞かれるのはこう言ったことかも知れない。

長期のビジョンだけを語って近々の具体的なアクションプランがなければ、それは意味がない。 「長期ビジョンと言って大袈裟なこと言ってもそれは単なる大法螺吹きじゃないか!」と言われているようで耳が痛いのです。

次に、「人生の棚卸し」をしなさいと言っています。「スキルだけでなく精神の棚卸しもしなさい」と言っているところが福沢さんらしいところです。
福沢諭吉は「人心の出来し時」を10歳くらいと明記しています。アメリカ人が、「9歳頃で人の人格はほぼ決まる」と言っているのを聞いたことがあります。人生の棚卸しは10歳くらいから始めないといけないと福沢諭吉は諭しています(そうか、諭吉の諭は諭すだ!)。この頃に一度人生のロードマップを作るのがいいのかも知れません。

人間生々の商売は、十歳前後人心の出来し時より始めたるものなれば、平生智徳事業の帳合を精密にして、勉めて損亡を引請けざるように心掛けざるべからず。

商売の勘定は定期的な棚卸しをやって損益を確認するように、人の勘定も十歳くらいから、、、と言っています。

世話」の字の意味するところは大事です。

世話には保護の意味と命令(指示)の意味がある。二つが揃わないと世話の意味がない。世話だけしていたのでは過保護であり、命令(指示)がないと正しくガイドできないと言っているのです。日本は社会全体が過保護すぎて、過保護が何なのか分かり難くなっています。だから、日本を出ると忽ち困ってしまいます。命令(指示)はDOsとDON’Tsを明確に命令することです。

世話の字に二つの意味あり、一は保護の義なり、一は命令の義なり。保護とは人の事につき傍らより番をして防ぎ護り、或いはこれに財物を与え或いはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを差図し、不便利ならんと思うことには異見を加え、心の丈けを尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。


十五編


十五編は取捨選択の話。「事物を疑って取捨を断ずる事」。

情報氾濫のインターネット時代には一層この取捨選択の能力が必要になると思います。何を信じて何を疑うのか。「確固たる信念を持て」と。日本の子供たちにはTVを見せないことが先ずは第一歩かもしれません。

福沢諭吉は言及していませんが、取捨選択する以前に自分自身のVISIONを持たないと取捨選択する情報は集まって来ないと言うのが私の考えです(明治の日本人にとっては当たり前なので特にこういったことは言わないのかも知れません)。

例えば「子供の教育に関心があって何とかしたい」と常日頃から思っていたら、「子供の教育」に関する情報が自然と集まってくる。これは問題意識のなせるワザかも知れない。何の問題意識もなければ氾濫する情報の中に身を任せるのみです。

事物の軽々信ずべからざること果たして是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋(けだ)し学問の要は、この明智を明らかにするに在るものならん。

このセンテンスだけでも日本の現行教育ってこれでいいのかと思ってしまいます。親がいつも子供に「自分が納得するまで質問しなさいよ」と言っていたらどういった子供に育つでしょうか?自分が納得するまで質問したら受験戦争に勝てない?

十五編の最後に「我々がしっかりせねばならん」と訴えかけていますが、「我党の学者あるのみ」が具体的に誰を指しているのかはよくわからない(たぶん、慶応の研究者や先生に対してだろう)。このあたりは、巷の解説書で確認して下さい。

されば今の日本に行わるるところの事物は、果して今の如くにしてその当を得たるものか、商売会社の法令の如くにして可ならんか、政府の体裁今の如くにして可ならんか、教育の制令の如くにして可ならんか、著書の風今の如くにして可ならんか、加之現に余輩学問の法も今日の路に従って可ならんか、これを思えば百疑並び生じて殆ど暗中に物を探るが如し。この雑沓混乱の最中に居て、よく東西の事物を比較し、信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨その宜しきを得んとするはまた難きに非ずや。然りしこうして今この責に任ずる者は、他なし、ただ一種我党の学者あるのみ。

もし、これが慶応の先生を指しているのであれば、教師の役目は重要だと言うことです。死ぬまで両親が尊敬できて、自分が教わった先生を尊敬できることが理想だと思います。勿論、先輩や友人も尊敬できればいい。

私の場合はアウトローだったので、小学生の頃から学校とは「先生との闘争の場」でした。全てにおいて反体制をきどっていた「かわいくないガキ」だったのです。


十六編


十六編は最後の部分がいいと思います。「人を批判する前に相手の立場にたってみろ」ということです。「独立の意味には2つある。それは有形(物)と無形(精神)である」から始まります。

独立に二種の別あり、一は有形なり、一は無形なり。なお手近く言えば品物につきての独立と、精神につきての独立と、二様に区別あるなり。

議論と実業に展開している。議論は学問の世界だと思う。実業は現実の世界。うがった見方をすると、このあたりは学者である福沢諭吉のコンプレックスなのかなと。自分は学者で議論はやってきたが実業は経験していない。これではダメじゃないかと英米のビジネス書を読んで考え込んだのかも知れません(そんなヤワじゃないか、、、)。

議論と実業と両(ふたつ)ながらその宜しきを得ざるべからずとのことは普(あまね)く人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行う者甚だ少なし。そもそも議論とは心に思うところを言に発し書に記すものなり。或いは未だ言と書に発せざれば、これをその人の心事といいまたはその人の志という。故に議論は外物に縁なきものと言うも可なり。必竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕わし、外物に接して処置を施すことなり。故に実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり。古人がこの両様を区別するには、或いは言と行といい、或いは志しと功といえり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも即ちこれなり。

Criticizing is something different from doing something」。これはビル・クリントンが大統領在任中に発した唯一の私が好きな言葉です。

人の仕事を見て心に不満足なりと思わば、自らその事を執ってこれを試むべし、人の商売を見て拙なりと思わば、自らその商売に当たってこれを試むべし。隣家の世帯を見て不取締と思わば、自らこれを自家に試むべし。人の著書を評せんと欲せば、自ら筆を執って書を著わすべし。学者を評せんと欲せば学者たるべし。医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働きに嘴を入れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置きて身自から顧みざるべからず。或いは職業の全く相異なるものあれば、よくその働きの難易軽重を計り、異類の仕事にてもただ働きと働きとをもって自他の比較をなさば大なる謬(あやまり)なかるべし。


十七編


最後は人望論。

福沢諭吉は「学問のすすめ」を書いていくうちで、自分に人望がないことに気づき、自分に友達が少ないことに気づいた。だから、最後に人望論を書いてここで「学問のすすめ」を書くのを止めたのでしょうか?

とにかく、これが最終回、そして人望について、友達をいっぱいつくることが肝要であると言っています。

私の福沢諭吉に対する感想はきわめて主観的、先入観の強いものであり、福沢諭吉の伝記のようなものさえ多くは読んだことがありません。だから、すごく失礼なことを言っているかも知れません。

十人の見るところ、百人の指すところにて、何某は慥(たし)かなる人なり、頼母しき人物なり、この始末を託しても必ず間違いなからん、この仕事を任しても必ず成就することならんと、預めその人柄を当てにして世上一般より望みを掛けらるる人を称して、人望を得る人物と言う。凡そ人間世界に人望の大小軽重はあれども、苟(かりそめ)にも人に当てにせらるる人に非ざれば何の用にも立たぬものなり。

自分の意見を提示し説明し質疑応答し相手に納得してもらって共感してもらう。そうして周りの人から支持されるような人でないとダメだと言っています。これもコンサルタント会社のプロモーション(人事考課)に似ています。いくら優秀で数字があがっても周りに支持されないとパートナー(執行役員)にはなれない(なってしまう人がいるところが問題だが、、、)。

世のため人のために働くには以下のことに気をつけなさいと説明しています。

1.  言語をまなばざるべからず。日本人なんだから日本語をしっかり勉強しなさい。
2.  顔色容姿を快くして、一見、直ちに人に厭わるること無きを要す。いつも明るく前向きに、服装は身綺麗にして人に嫌われることのないように。外見は大事ですよ、と。
3.  道同じからざれば相与(とも)に謀らずと。これは「論語」からの引用。福沢諭吉は孔子に批判的ですね。恐らく虚学(議論)として忌み嫌う代名詞として使っているのかも知れない(要確認)。

この3つめはどう解釈するのでしょう?

すぐ後のパラグラフから最後まで「専門分野に拘わらず友達をいっぱい作りなさい」と説明しています。だから、3つめは道が違っても仲間(与)をいっぱい作りなさいと言っているのだろうと思います。

試みに思え、世間の士君子、一旦の偶然に人に遭うて生涯の親友たる者あるに非ずや。十人に遭うて一人のぐうぜんに当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り人に知らるるの始源は多くこの辺に在りて存するものなり。人望栄名なぞの話は姑(しばら)く擱(お)き、今日世間に知己朋友の多きは差向きの便利に非ずや。

この「差向きの便利に非ずや」の部分が福沢諭吉らしいと感じるのは私だけでしょうか? 私のうがった先入観かもしれません。「差向き」を辞書で調べると、「さしあたり、とりあえず」と出て来ます。「友達がいっぱいいると、さしあたり、とりあえず便利だ」、なんとなく薄っぺらい朋友です。明治維新の志士たちは朋友のためには命を賭けたと思うのですが、、、。

さて、結びの一番。

「人にして人を毛嫌いするなかれ」、これは海外を見てきた福沢諭吉が当時の日本人に言いたいことの全てなのかも知れません。「井の中の蛙(ここでは鮒ですが)大海を知らずじゃだめなんだ」と。島の外に目を向けると色んな人がいっぱいいるし、島の外から日本という島国を見ると国の様相は呈していないし、国民のレベルは低い。

交わりを広くするの要はこの心事を成る丈け沢山にして、多芸多能一色に偏せず、様々の方向に由って人に接するに在り。腕押しと学問とは道同じからずして相与に謀るべからざるようなれども、世界の土地は広く人間の交際は繁多にして、三、五尾の鮒が井中に日月を消するとは少しく趣きを異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。

「もう何でもいいから色んな人と交流しろ!」と哀願しています。

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五編が抜けていました

順不同にやっているから訳が分からなくなります(六編は国の法律の話なので省略です、十一編も省略)。


今年の初めに映画「七人の侍」をDVDで観る機会があり、これは企業研修に使えると思っていたら、すでに同じ事を考えてコースに開発して実施している会社がありました。「学問のすすめ」も何らかの研修で既に使われているかも知れないですね(慶応義塾では活用しているでしょうが、、、、)。

政治家の新人議員研修に使ってもいいかもしれません。


第五編


五編は独立の精神に関して。これは極めて重要だと思います。「独立の精神がないと文明なんて意味がないのよ」が主旨です。依存の精神で成り立っている今の日本としては耳が痛い話の筈です。

明治6年、政府首脳からなる岩倉具視使節団が2年近く欧米諸国を歴訪して帰国しました。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、金子健太郎、牧野伸顕、中江兆民等がメンバーでした。学校で教えているかどうか怪しいですが、世界各国に日本は「国家」であると宣言しに行ったのですね。

明治維新という革命を乗り越えた日本の政府首脳陣には日本という「国家」が常に頭の中にあったのでしょう。「国家って一体なんなんだろう?」と考えた。日本という島には多くの「藩という国」が存在していたのですが、いきなり、世界の中の「日本」という「国」になってしまったのですからね。

咸臨丸で幕末期にサンフランシスコに行った勝海舟はサンフランシスコのホテルの赤い絨毯とエレベータとレディ・ファーストに驚いたそうですが、この総勢107名の岩倉具視大使節団は欧米諸国の実情を見てもっともっと沢山のことに驚愕したのに違いありません。福沢諭吉は勝海舟艦長の咸臨丸でサンフランシスコに同行していますが、岩倉具視の使節団には加わっていません。福沢諭吉は咸臨丸による訪米の後、単独でのヨーロッパ訪問と、ちょうど明治維新の時に再度のアメリカ訪問を行っています。

福沢さんは、岩倉使節団の頃は方針が決まり塾経営(慶応)に忙しかったのでしょう。欧米諸国を自分の目で見てきて、「日本国民のレベルの底上げをしないと国の独立なんて有り得ない」と彼なりのプレッシャーを感じていたのだと想像します。

『学問のすすめ』は、明治5年が初編で明治9年に十七編を書いて終了しています。
岩倉具視使節団は明治4年から6年。

「学問のすすめ」の第五編。

今日に至るまで国の独立を失わざりし由縁は、国民鎖国の風習に安んじ、治乱興廃外国に関することなかりしをもってなり。外国に関係あらざれば、治も一国内の治なり。乱も一国内の乱なり、またこの治乱を経て失わざりし独立もただ一国内の独立にて、未だ他に対して鉾を争いしものに非ず。これを譬(たと)えば、小児の家内に育せられて未だ外人(よそびと)に接せざる者の如し。その薄弱なること固(もと)より知るべきなり。

福沢先生は「日本は東洋のガラパゴスだ」とは言っていませんが、「家の中だけで育てられ未だに他人と接触がない幼児のようだ」と言っているのです。マッカーサーが日本人は12歳と発言した昭和の戦争後のずーっと前です。

国の文明は形をもって評すべからず。学校といい、工業といい、陸軍といい、海軍というも、皆これ文明の形のみ。この形を作るは難きに非ず。ただ銭をもって買うべしと雖(いえど)も、ここはまた無形の一物あり、この物たるや、目見るべからず、耳聞くべからず、売買すべからず、貸借すべからず、普(あまね)く国人の間に位してその作用甚だ強く、この物あらざればかの学校以下の諸件も実の用をなさず、真にこれを文明の精神と言うべき至大至重(しだいしちょう)のものなり。蓋(けだ)しその物とは何ぞや、云く、人民独立の気力、即ちこれなり。

このあたりが福沢諭吉の一万円札になった由縁かも知れません。「上っ面だけじゃだめよ、中身が大切よ」と言っています。大切な無形の一物は「独立の気力だ」と。

人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、却って民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
(中略)
故に文明の事を行う者は私立の人民にしてその文明を護する者は政府なり。これをもって一国の人民あたかもその文明を私有し、これを競いこれを争い、これを羨みこれを誇り、
国に一の美事あれば全国の人民手を拍って快と称し、ただ他国に先鞭を着けられんことを恐るるのみ。

上の部分も極めて重要です。国家と国民のことを述べています。「文明の事を行う者は国民で、それを保護するのが政府である」と。「国に何か素晴らしいことがあれば(美事)国民はみんなで賞賛し、外国に負けないようにしましょう」。

国家と国民の両方にこういった自覚がないと困ったものです。福沢諭吉は当時の明治政府のことをチクリチクリと批判している訳ですが、日本の情況は今でも大差ないように感じてしまうのです。主義主張の枠を越えて一丸となっていないぶん、現代のほうが劣るか?

国民の先をなして政府と相助け、官の力と私の力と互いに平均して一国全体の力を増し、かの薄弱なる独立を移して動かすべからざるの基礎を置き、外国と鉾を争って豪も譲ることなく、今より数十の新年を経て顧みて今月今日の有様を回想し、今日の独立を悦ばずして却ってこれを憫笑するの勢いに至るは、豈(あに)一大快事ならずや。学者宜しくその方向を定めて期するところあるべきなり。

主義主張や方法論は違うけど(明治政府のやっていることは好かんが)、政府とは別に自分らは自分らの信じるやり方で政府をサポートして日本を立派な独立国にして行こうと言っているのだと思います。

独立心をベースにして外国に一歩も譲ることなく努力し、数十年たった将来、今日を振り返って笑い話とできればいいだろう。学者たるものはそういった気構えで取り組んでもらう必要がある。

2009年 秋

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