2010年10月30日土曜日

「足るを知る」って日本人だけのもの?

上海料理の青菜豆腐です)

昨日、台風14号の風雨と共に上海から帰国しました。 今日だと上海-成田は全てキャンセルでした。危ないところでした。

エリック・ホッファーは「情熱的な精神状態」の中で、以下のように言っています。

『「もっと!」は、不平不満の空想家によって作り出されたモノのように、非常に効果的な革命スローガンだ。足るを知らないアメリカ人は永遠に革命的だ。彼は変革を誇りとする。つまり、まだ所有していないものを信仰し、獲得のためには人生(命)をかけようとしている(“MORE!” is as effective a revolutionary slogan as was ever invented by doctrinaires of discontent. The American, who cannot learn to want what he has, is a permanent revolutionary. He glories in change, has faith in that which he has not yet, and is ready to give his life for it.)』 。

中国のウルトラ格差社会は日本でも報道されています。しかし、本当の問題は、お金持ちが正当にお金持ちになっていないことなのです。「官二代」や「富二代」は最近の中国メディアで耳にする言葉です。「官二代」は、ワイロやキックバックをもらって金持ちになった官僚や公務員の2代目のことで、「富二代」は、倫理的に正しくないことをしてでも金を稼いだ金持ちの二代目のことを指しているようです。

アメリカ人は、所有していないものを獲得するために人生をかけるかも知れません。ところが、中国の人の中には、獲得するために他人の人生(命)を軽視する人たちが多いことだけは確かです。

日本人だけが「足るを知る」を行動倫理とした場合(外交の力なく)、日本列島はあっという間に日本人のものではなくなるでしょうね。ストレスフルな上海から日本に帰ってくるとホッとします。胡錦濤・温家宝政権がスローガンと掲げる安定した「和諧社会」(協調社会)のロールモデル(お手本)は日本であることは間違いないのです。

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2010年10月29日金曜日

文明化にはデリカシーが必要だ





皮蛋(ピータン)は、食べ過ぎると鉛中毒になるんですよ。ご存じでした? 製造過程でタンパク質を固めるために一酸化鉛を使用するからです。右は焼き小籠包(生煎包)です。焼き小籠包なんて、10年前にはなかったですね。

上海万博の最後の週ということで、地方からのおのぼりさんで上海のホテルはいっぱいです。日本からの旅行客が少々減ろうが平気なのですね。殆どの中国人は尖閣列島の問題なんて知りませんが、、、。

ホテルの朝食はビュッフェスタイルになっています。おのぼりさん中国人宿泊客を見ていると、この国の文明化は何十年もかかるだろうと思いました。まだまだ動物の域から遠ざかっていないのです。人間も動物ですが、むき出しの姿を出してはいけません。行儀作法は国ごとに差異はあるのでしょうが、それ以前のデリカシーの問題ですね。


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2010年10月26日火曜日

中国って民主化すべきなの?

昨日は、ibg上海オフィスの若者10数名とお弁当を食べながら議論をしました。みんな上海の有名大学を卒業して1~3年です。中国の受験戦争を勝ち抜いてきた若者たちです。ただし、大手有名企業ではなく、我々の会社にいるということは、世渡りにおいて少々不器用な面があるのかも知れませんね。

彼らに、「『毛沢東選集』を読んだことある?」と聞いたところ、驚いたことに一人も読んでいなかったのです。そのかわり、彼らの中には、日本のアニメから「友情」とか「信義」といったことを肌で感じ取っている連中もいました。毛沢東の話では盛り上がりませんでしたが、日本の若者文化には興味津々のようです。

中国の若者全体を見れば、右翼もいれば左翼もいます。極端な愛国主義者もいます。ノンポリもいるし、日本のサブカルチャーにどっぷりと浸かっているオタクもいます。各種各様になってきています。これは中国の大きな変化です。そして、日本では想像できないようなウルトラ格差社会の中で生きている。更に、日本の10倍のインパクトで高齢化社会がやってくる。

欧米諸国や日本からは中国に対する民主化のプレッシャーが高まっていますが、中国共産党幹部は民主化の危険性をよく承知しているのだと思います。民主化して狂信的な愛国主義者が選挙でリーダーにでもなれば、日本列島なんて一日にして侵略されてしまいます。

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2010年10月23日土曜日

ちょっと虎穴に入ってきます。。。

しばらく上海に行ってきます。

「君子危うきに近寄らず」なのか、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」なのか?

毛沢東は「矛盾論」(『毛沢東選集』 第一巻 1937年8月)のなかで次のように言っています。

「社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、諸階級のあいだの矛盾、新しいものとふるいものとのあいだの矛盾によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる」。

中国の矛盾はいっぱいありますが、政治(共産党独裁体制)と経済(資本主義市場経済)が矛盾の本質です。国内と国外の間の矛盾を拡大(発展?)させながら、政治と経済の矛盾をマネージしているのでしょう。一党独裁なので政権交代はない訳ですから、旧ソ連や東西ドイツのようになるか、北朝鮮の方向で行くかのどちらかですね(政権交代って後退する場合だってあるのですが、、、)。

毛沢東はヘーゲルの「矛盾」の論理をうまく利用したのですね。自由と民主主義の部分は強調しなかった訳ですから。

さて、上海の様子はどうなっているでしょうか、、、。

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2010年10月21日木曜日

葉隠 ~ 武士のコーチング

最近、コーチングとかカウンセリングとか流行っているのでしょうかね?よく耳にします。メンタリングも同様に、それぞれが意味するところは曖昧です。正確な定義などないのでしょう。他人に意見をするのは難しいことです。私なんか10年ほど前までは何の迷いもなく、「コーチングとはこうだ」、「カウンセリングとはああだ」と臆面もなく言っていましたね。今考えると赤面ものです(私の人生は赤面ものが多すぎる、、、、)。

人に意見するのは本当に難しいことです。他人の長所や短所を見付けるのは簡単です。普通、短所を見付けることは長所を見付けるよりも簡単です。何でも批判することは簡単ですが、相手に理解してもらい、改善してもらうことは難しい。以下は、重要なポイントです。

① 相手の性格を見きわめる
② 相手との距離を考える
③ 言い方やタイミングを選ぶ
④ 相手に気づかせるように話す

これは、アメリカのコーチングやカウンセリングのメソッドを拝借して言っているのではありません。「葉隠」の中にあるのです。

「人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切なる事にして、然(しか)も大慈悲にして、ご奉公の第一にして候。意見の仕様、大いに骨を折ることなり。およそ人の上の善悪を見出すことは易き事なり。それを意見するもまた易き事なり。大かたは、人の好かぬ云ひにくき事を云ふが親切のやうに思ひ、それを請けねば、力に及ばざる事と云ふなり。何の益(やく)にも立たず。ただ徒(いたずら)に、人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり」。(後略)

さて、三島由紀夫は「葉隠入門」でどう言っているのでしょう?

男の世界は思いやりの世界である。男の社会的な能力とは思いやりの能力である。武士道の世界は、一見荒々しい世界のように見えながら、現代よりももっと緻密な人間同士の思いやりのうえに、精密に運営されていた。常朝(「葉隠」の著者である山本常朝)は人に意見をするにも、次のような配慮と、次のようなデリカシーをつぶさに説いている.。(中略) 彼が人に忠告を与えることについての、この心こまかな配慮をよく見るがよい。そこには、人間心理についての辛辣なリアルな観察の裏づけがあるのであって、常朝はけっして楽天的な説教好き(人間的にもっとも無知な人びと)の一人ではなかった。

三島由紀夫は、「デリカシー」という言葉を使っています。このあたりが三島らしいところですね。私も楽天的な説教好きの一人にならないようにしなければ(遅きに失する?)。失礼しました。

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2010年10月20日水曜日

ローリング・ストーンズ


ローリング・ストーンズのDVD 『Ladies and Gentlemen(レディース&ジェントルメン)』 を手に入れました。1972年の 『メイン・ストリートのならず者』 リリース後の北米ツアーを収録した映像です。中学高校時代、私の頭の中では、いつもミック・ジャガーが歌っていましたね。当時、優等生はサイモンとガーファンクル、普通の子はビートルズ、そして、不良のガキはローリング・ストーンズと相場が決まっていたのです。2年前にNYで、「Shine A Light」というストーンズの映画を見たところ、ミック・ジャガーは歌が上手いということが分かりました。40年近く、ミックは歌がヘタだと信じてきたのですが、ミックには悪いことをしました、、。

「では、果たしてキース・リチャードはギターが上手なのか?」、 仮説をたてて検証するとしましょう。コンサルタント的アプローチです。

仮説は、「キースはギターが下手なので、オープンGコードで誤魔化している」です(オープンGは左手で弦を押さえず右手で6弦全部を同時に鳴らすとGコードになるチューニングです)。

キースの演奏をYouTubeで100回近く見ました(暇ですねぇ、ちゃんと仕事しているのでしょうか?)。YouTubeは本当に便利です。たくさんの映像がUPされています。キースはチューニングをオープンGコードにして、6弦を弾かずに適当にフィーリングでやっているだけのように見えます。映像によっては6弦を張らないで、1弦から5弦だけの5本で弾いているところも確認されます。大御所は、弦が5本しかなくたって、エレキでカポを使ったって、誰にも文句をいわせないのです。ミストーンが何だ、もともと何が正しい音なのかわかりゃしない。とにかく若いキースはカッコいいのです。

ローリング・ストーンズの代表曲は、オープンGで弾いてみると結構簡単に弾けてしまうことが分かります。『Ladies and Gentlemen』でもオープンGが主体です。

、、、とすると、私の仮説は正しい?

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2010年10月19日火曜日

葉隠 ~ 生きる事と見付けたり

多くの人が「葉隠」を知らないのは残念だと思います。例え知らなくても、内容に関して大きな誤解があるのは甚だ遺憾ですね。遺憾だなんて政治家の言葉みたいで嫌ですが、、、。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と言えば、「知っている」、「聞いたことがある」と答えられるかも知れません。恐らく、この部分だけが強調されて、「葉隠」がファナティックな武士の指南書であると思われている証拠でしょう。

三島由紀夫は、「葉隠入門」(新潮文庫)のプロローグでズバリ核心を衝いています。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というその一句自体が、この本全体を象徴する『逆説』なのである。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。

逆説なんですね。「葉隠」は、死ねと言っているのではなく、一日一日を精一杯生きろと言っているのです。これまで何度もこのブログに出てきた「Seize The Day(今日を生きる)」と同じことなのです。三島由紀夫が「葉隠」の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」に共感して自決したという評論家も多いのですが、「葉隠」も三島由紀夫も、現代の評論家先生が考えるほど単純ではないと思います。(「葉隠入門」は三島由紀夫が自決した3年前の昭和42年に書かれました)。

三島由紀夫は、「毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを『葉隠』は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるを得ない。われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、『葉隠』は与えてくれるように思われるのである」と言っています。

人間が死ぬと言うことは、ソクラテスやプラトンの時代から今日に至るまで何も変わっていないのですね。どんどん意識しなくなっているだけです。死ぬことは自分でコントロールできません。いきなりやって来る。そのタイミングが最善か最悪かは運命です。だから、毎日を無駄にするなということなのです。つまり、「Seize The Day」なのです。

三島由紀夫が憂いた日本の太平はとっくの昔に終わり、とうとう沈みだしているように思います。 「葉隠」の主張は、「Seize The Day (今日を生きる)」といった点でも、アメリカの義務教育に通じるものがあると思います。

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2010年10月18日月曜日

葉隠のすすめ ~ 大高慢

アメリカの義務教育(K-12:日本でいう幼稚園年長組から高校3年生まで)が根幹にしているのは「自尊心(self-esteem)」の育成です。

武士の心得、つまり、武士道のマニュアルである「葉隠」の基本精神も、実はこの「自尊心」なのです。江戸時代の武家社会では、現代のアメリカと同じ概念を教育のバックボーンとしているのです。面白いと思いませんか?

「葉隠」の序文「夜陰の閑談」に次のような記述があります。

同じ人間なのだから、誰に劣るというのだ。だいたい修行と言うものは、大高慢でなければものにならない」(同じ人間が誰に劣り申すべきや。惣じて修行は、大高慢にてなけば役に立たず候。How can one human being be inferior to another? In all matters of discipline, one will be useless unless he has self-esteem)。

「葉隠」の中に出てくる「大高慢」というのが「自尊心」で、英語で言うところの「self-esteem」です。「高慢ちき」などと、高慢というのは、思いあがっている人のことで、あまり良い意味ではありませんね。しかし、「葉隠」の至る所に出てくる「大高慢」はそうではありません。武士たるもの、強い気概と自負心をもつことが大事であり、「大高慢」がなければ、武士としての修行でさえものにならないと言っています。実は、コンサルタントの世界も同じで、「大高慢」を内に秘めていないと、コンサルタントとしては成功しません。

三島由紀夫は著書「葉隠入門」で、以下のように言っています。

「葉隠」ほど、道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当たらぬ。「武勇は、我は日本一と大高慢にてなければならず」。「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり」と、「葉隠」の精髄として引用しています。

「自尊心」に関するブログ。
http://ibg-kodomo.blogspot.com/2010/01/blog-post_03.html

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2010年10月17日日曜日

読書のすすめ

「葉隠」がアメリカの義務教育の基本理念と似ているということを書こうと思って、三島由紀夫の「葉隠入門」(新潮文庫)を読み返していました。すると、私の考えそのままのことが「葉隠入門」のプロローグに書かれていました。「私の考えそのまま」なんてオコガマシイですね。私が単に三島由紀夫の影響を受けているだけです、失礼しました。

「少年期の一時期に強烈な印象を受け、影響を受けた本も、何年かあとに読んでみると、感興は色あせ、あたかも死骸のように見える場合もないではない。しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃(ほこり)だらけになって、がんこに守っている。われわれはそれに近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである」。

凄いですね。こんなことなかなか言えません。「読書のすすめ」は、まさに三島由紀夫が言っている通りだと思います。

葉隠(ウィキより)

「葉隠」(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。

「葉隠」とアメリカの義務教育の類似点は近々紹介させていただきます。

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2010年10月14日木曜日

(続)落語のすすめ

臨時国会が始まりました。最近は政治家の声を聞くだけで鬱陶しく不機嫌になってしまいます。水戸のご老公に喝(カツ)を入れて欲しいくらいです。

ですので、落語の話をします。

桂米朝さんという上方落語界の重鎮がいらっしゃいます。人間国宝に認定されている方です。1925年生まれなので85歳です。米朝さんの凄さは、江戸落語と上方落語の「境界」をうまくマネージした点だと思います。米朝さんは、落語だけでなく、異文化・異芸能コミュニケーションを長年に渡って研究されてきました。米朝さんは、中国東北部大連で生まれ、兵庫県で育ち、東京の大学に行きました。若い時に関西とは違った文化圏とのつながりも出来ているのですね。東京根岸生まれの小沢昭一さんとの俳句を通じた交流も長年に渡っているそうです。

米朝さんの弟子に桂枝雀さんがいます。枝雀さんが亡くなってから(自殺)11年になります。枝雀さんは、米朝落語を踏襲しながらも独自の分野を築きました。米朝さんというスーパースターを完全に理解することを起点として自分の世界を創造していった人です。枝雀さんは落語に出てくる登場人物に標準語を喋らせます。関西人である枝雀さんが、標準語を無理矢理しゃやべる可笑しさを意識しているのです。また、英語落語にも挑戦していました。恐らく、枝雀さんの英語力はかなりの水準だと思います。東西融合や日米(日本語と英語)の「境界」を意識しながら自分の世界を構築したのですね。

枝雀さんの凄いところは、これだけでなく落語にフレームワーク(枠組み)をセットしたことです。枝雀さんの言う「緊張の緩和理論」です。これは、私の理解によると、緊張と緩和の「境界」をマネージすることです。枝雀さんは、「適度の緊張が続き、それがある時点で緩和されるところに笑いが起る」と定義しています。緊張が過度、又は、長時間すぎると笑えません。「人はなぜ笑うのか?」を分析し、緊張と緩和をパターンに分けて落語の噺にフレームワークを与えたのが枝雀さんです。コンサルタントみたいですね。自分自身が創作する新作落語は、フレームワークを意識して新しい噺をデザインしました。枝雀さんの新作落語では更に枝雀さん独特のシュールな魅力にあふれています。

さて、本日のウダウダです。

最近、「Diversity(多様性)」という言葉をあちらこちらで見ます。多様性は大事な事で、日本の社会、特にビジネス界が必要とするものだと思います。Diversityと言うのは、様々な物事の境界をうまくマネージしてダイナミズムを生むということです。ただ単に異なる性質のものを一緒くたにすると言うことではありません。一緒くたにすることによって矛盾がうまれ、それを解決することによって進歩が見られるということです。毛沢東も同じようなことを言っていますね(「矛盾論」1937年)。でも今の中国の矛盾(政治体制と市場経済の矛盾)は解決できないと思いますよ。

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2010年10月10日日曜日

たこ焼きを作ってノーベル化学賞を祝う!


夕べ、たこ焼きを作りました。上手にできました。私は大阪は上本町六丁目の生まれですから生粋の関西人です。大阪を離れて30年が経ちますが、たこ焼きやお好み焼きには一言も二言もあるのです(白状しませんが、、、)。

ノーベル化学賞を受賞した米パデュー大特別教授の根岸英一さんが、「日本はすごく居心地がいい社会なんでしょうけれど、若者よ海外に出よ、と言いたい。たとえ海外で成功しなくとも、一定期間、日本を外側からみるという体験は、何にもまして重要なはず」とコメントされました。

根岸さんという方は特別優秀な方ですが、老百姓(ラオパイシン)の私でも「その通り!」と言いたい。海外に身を置くことで、自己防衛意識に目覚め、自然と日本のことも考えるようになるからです。私が根岸さんのコメントで重要だと思うことは、「成功しなくとも」の部分だと思います。ほとんどの人は成功しないのですよ。成功しなくても、例え失敗しても、何とか乗り越えて「教訓」とします。こういったことが大切です。失敗しても、「失敗した経験」を積んだのですから、それを「自信」とすればいいのです。

私は関西文化圏を出てからずーっと旅を続けています。「成功しなくとも」の範ちゅうかな? でも、そこそこ楽しめる人生だと思っています。「かわいい子には旅をさせよ(Spare the rod and spoil the child)」とはよく言ったものです。ん? 自分に言ってどうするんだ!?

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2010年10月6日水曜日

世の中は不平等、でも平気の平左衛門


久しぶりにボブ・ディランを聞きました。実際は、YouTubeでここ数年の映像をまとめて見ました。最後に聞いたのは「Time Out Of Mind」でグラミー賞を受賞した時ですから1990年代後半です。息子のジェイコブとのダブル受賞だったのですが、親子でステージに立つ姿を見て「ボブ・ディランも子育てやってたんだ、、、」と驚いた記憶があります。

ボブ・ディランを聞くたびに、自分でも歌えるんじゃないかと錯覚します。ボブ・ディランの歌は、音程があっているのかいないのか、リズムにのっているのかいないのか摩訶不思議、よく分かりません。でも、だからボブ・ディラン、それが魅力なのでしょうね。浅はかなる私はボブ・ディランを聞くたびに自分でも歌えるのではないかと勘違いし、今回もギターを手に「時代は変わる」にチャレンジしました。

やはりダメでした、、、、、。私の音痴は生まれ変わらないと治りません。

ダメなものはダメなのです。出来ないものは出来ない。私はギターもへたくそです。最初にギターを手にとってビートルズの真似をしようと思ってから40年たちますが、未だに上達しません(エクスキューズは常に「必死になっていないから」です)。そもそも歌がダメならギターでカバーしようなんて考えが甘い。それよりも、現実を直視することが重要です。家人に罵倒されようが嘲けり笑われようが、やり続けるという、へこたれないタフな精神力と自尊心が大事です

私の録音・録画をたまに聞かされる気の毒な友人たちがいます。友人たちは家人よりも寛大ですから、大概は優しい言葉をかけてくれます。自分の実力を熟知しているリアリストの私は、彼らの優しい褒め言葉に期待し満足するのではありません。無理矢理にでも音楽を聴かせる友人、つまり彼らが存在するということを重視しているのです(彼らには気の毒ですが、、、)。

世の中は不平等です。今の日本は、優しい言葉をかけてもらいたい、褒めてもらいたい、同情してもらいたい、、、こういった非現実主義の人たちが多すぎます。政治の世界では「自分達がこう思っているのだから、相手国もそれに見合った対応をしてくれるだろう」と言う感覚になるのでしょう。平等な人生や責任のない自由なんて有り得ないのです。しかし、そういった中でも楽しく毎日を生きていくことが肝要だと思うのですが、学校の先生方や子育て中の親御さんたちはどうお考えでしょうか?

隣国の首相が立ち話に付き合ってくれたと相好を崩すようでは日本列島もいつまで浮かんでいられるか心配ですね。

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2010年10月5日火曜日

学問のすすめ

幕末から明治維新を生きた福沢諭吉は、日本人に欠如しているものとして「人間交際(じんかんこうさい)」を訴えました。

これは「社交のすすめ」のことです。幕末から明治にかけてアメリカとヨーロッパ諸国を見た福沢諭吉は、「列島の中で日本人に限定される交際でなく世界と交際をしなさい」と訴えました。江戸時代にはすでに日本文化をベースとする日本人の人間交際はできていたのでしょう。落語が描く世界が証明しています。落語というのは誇張された創作話ですが、江戸時代の庶民の生活を表現しています。

今の日本はどうでしょうか?

日本国内、日本人だけでも人間交際ができているとは言えません。とても世界と人間交際するレベルに達していないのです。これは、やはり今の教育の理念や戦略が間違っていると言わざるを得ません。アメリカの義務教育が日本より優れていると主張するつもりはありませんが、少なくとも、「教育とは?」「教養とは?」と言うことを理解していると思います。そして、厳しいアメリカ社会の現状を理解しているから、子どもたちに社交(ソーシャル・スキル)、つまり、人間交際を理解させ、自尊心を育むことに主眼を置くわけです。以前、サマーキャンプのことを書きましたが、サマーキャンプは人間交際の第一歩です(http://ibg-kodomo.blogspot.com/2009/12/blog-post_11.html )。

「学問のすゝめ」は十七編から成り立っています。

九編十編は手厳しい福沢諭吉の(明治初期の)現状認識です。目指す姿に到達するには現状認識が重要で、現状が認識できないのであれば、目指す姿とのギャップはわかりません。ギャップがわからないと言うことは目指す姿に近づく作戦、つまり、戦略が立案できないということです。今の日本は、何を目指しているのか曖昧ですし、自分の立ち位置や周りの国との距離がどうなっているのか分かっているとは思えません。だから、戦略の立案なんて無理だと思います。まさか、福沢諭吉は130年後の日本がこうなっているとは想像だにしなかったでしょうね。

人たるものはただ一身一家の衣食を給しもって自ら満足すべからず、人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分をもって世のために勉(つと)むるところなかるべからず。

九編と十編は二つで一つです。九編のまとめが十編の冒頭に上のように書かれています。「衣食が足りただけで満足しちゃアカンよ。世界の一員として全世界のために尽くさないと、愚かものか虫けらのようなものなのよ」と解いています。どこかの隣国に言ってやりたいようなことですね。

今の日本人に対しては、「社交を大事にしなさい。社交ネットワーク(人間交際)の中で自分の役割を果たしなさい。将来的に必ず見返りがあります。質の高い社交の輪に自分の身をおけば自分も必ず成長します。そうやって教養を高めて魅力的な人になりなさい」と聞こえます(大胆な拡大解釈ですが、、、、)。

自由独立と言うときには、その字義の中に自ずからまた義務の考えなかるべからず。独立とは一軒の家に居住して他人へ衣食を仰がずとの義のみに非ず。こはただ内の義務なり。なお一歩進めて外の義務を論ずれば、日本国に居て日本人たるの名を恥しめず、国中の人と共に力を尽くし、この日本国をして自由独立の地位を得せしめ、始めて内外の義務を終えたりと言うべし。

上の部分は現代の政治家先生によく考えて頂きたいことですね。「日本人として国際的に立派な人になりなさい、そして日本を自由独立の一流の国にしなさい、日本人の名を辱めるのはアカンよ」と言っているように聞こえます。今の日本は、どこの国のために奉仕しているのか、何に命をかけているのか分からない人まで大臣をやっていますからね。

子どものころから「教育」だけでなく「人間交際」を通じて「教養」を高めないと、立派な責任ある政治家先生は生まれないですね。早くてあと30年?

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2010年10月4日月曜日

社交のすすめ


ここ数週間、「教育」「教養」「文化」といった言葉が頭の中でぐるぐる回り、それらが桂枝雀の落語とクリームのクロスロードと絡み合い、訳が分からなくなっていました。論理的に説明する文章力なんてありませんから、それぞれがどう関連するのか説明なんて出来ません(クリームは、40年ほど昔にエリック・クラプトンが在籍したロックバンドで、クロスロードは当時の代表曲)。

以下の文章から行間を読んで、私の言いたいことを想像してください。

日本人の生き方が日本の「文化」であり、それは今の日本の「教育」では培われないと私は思っています。知識を詰め込む「教育」を一生懸命やっても「教養」豊かにはならないということです。勿論、知識が多いと教養に幅と深みが出てくることは否定しません。落語にでてくる江戸時代のキャラクターは、日々の生活の中で「教養」を培っていったのではないでしょうか? 毎日の生活は日本人の生き方そのものであり、今日という一日は、長く継続してきた日本固有のものの最新バージョンで、したがって、今日を生きる(「Seize The Day」)ことが重要であるのです。毎日を一生懸命に生きることで「教養」が身につく、つまり、魅力的な人柄が形成されていくのだと思います。

現代の日本のように大人も子どもも時間がなく、例え時間があったとしても、そのわずかな時間をマスメディアに占領されているとどうでしょう? 「教養」が身につくスペースがなく、「教育」によって間違った知識がどんどん蓄積されて大人になっていくのだろうと思います。

福沢諭吉、夏目漱石、三島由紀夫、三人とも違った時代を生きた日本人ですが、今の日本を見ずに死んだのは幸せだったかも知れませんね。ただ、彼らの文章力をもってすれば、今の日本をどう表現したのか見てみたいものです。

そう言えば、今年の2月に「教養」について書いていました。

2010年10月3日日曜日

落語のすすめ

子どもの頃から落語に親しむのはお薦めです。

落語を聞くと(見ると)、江戸時代の長屋の様子が生き生きと出てきます。八っぁん、熊さん、与太郎、おかみさん、若旦那、ご隠居さん、、、お馴染みの登場人物です。落語は演芸ですが、レベルの高い噺家であれば、我々を江戸時代にタイムスリップさせてくれます。

江戸時代というのは「Seize The Day」の世界だと思いますね。落語に出てくるキャラクターは、毎日毎日を精一杯生きている人たちだからです。彼らは、人生に必要なことは、日々の生活で培った。そして、その積み重ねが教養になり文化となっていったのです( 「Seize The Day」に関するブログ:http://ibg-kodomo.blogspot.com/2010/01/blog-post_14.html )。

三島由紀夫が以下のように言っています。

「未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思う」(「文化防衛論」 昭和44年)。

革命なんてものは、理想の未来のために現在をおろそかにする(犠牲にする)ということで、三島由紀夫が当時の日本人(与野党の政治家や学生運動家)に訴えていたのは、「革命(改革)と叫んでも、君たちは今日を命を賭けて生きているのか?」と言うことだろうと思います。三島由紀夫の言う“文化”とは、長年にわたり積み重ねてきた精神的なものの今日までの集合体ということです。それが日本文化であり、守るべきものではないのかということなのです。

落語は、本当に様々なことを教えてくれます。三島由紀夫が言及する“文化”もいっぱい詰まっています。子どもと一緒に落語に親しんで人生を豊かにして下さい。

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2010年10月1日金曜日

ジャイアントコーンの新製品


グリコのジャイアントコーンにチョコクランチが入った『クッキー&チョコクランチ』が新登場です。『クッキー&チョコ』、『クッキー&チョコクランチ』、『チョコナッツ』の3つのラインナップになりました。

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