2026年1月9日金曜日

新しいサキソフォン

 
右手の中指でF#キーを押しています


昨年のブログで、修理に出した古いサキソフォンをきっかけに、私のサックス生活が始まったことを書きました。その続きです。

一年ほど吹いてみて、さすがに楽器の世代差を感じるようになりました。思わぬ音が出るたびに自分の未熟さを棚に上げ、楽器のせいにしたくなる日々です。そこで、長い逡巡の末、新しいサキソフォンを購入する決断をしました。

選んだのはヤマハのアルトサックス。仕上げはアンラッカーです。
理由は単純で、「使い込むことで変わっていく楽器」を、人生の後半で持ってみたかったからです。

ただし、ここで一抹の不安が生じました。

アンラッカーの渋い経年変化が出るのが先か、それとも自分の健康寿命が先か。まさかサキソフォンの酸化と競争することになるとは思いませんでした。

機能的にはハイF♯キーも付いており、理屈の上では以前より吹きやすいはずです。ところが現実は甘くなく、期待するほど音は言うことを聞いてくれません。新しい楽器が来たからといって、腕前まで新品になるわけではないようです。

それでも不思議なもので、1ミリでも前に進んだ気がすると、それだけでうれしい。誰に評価されるわけでもない自己満足ですが、今の自分にはそれで十分だと感じています。私は元々承認欲求は強くはありません。

クリスマス前に届く予定の新しい相棒は、結局、年も押し迫った29日に手に入りました。

今日も相変わらずピーヒャラピーヒャラと音を外しています。
それでも吹き続けていれば、楽器も自分も、少しずつ変わっていくはずです。そう信じて、しばらくはこの根競べを楽しもうと思っています。


A New Saxophone

Not long ago, I wrote about how my life with the saxophone began—sparked by an old horn I sent out for repairs. This is the sequel.

After about a year of playing, I could no longer ignore the generation gap between the instruments. Every time an unexpected note jumped out, I conveniently blamed the sax, quietly shelving the fact that I’m still a beginner. Eventually, after a long stretch of hesitation, I made the decision: I’d buy a new saxophone.

I chose a Yamaha alto, finished in unlacquered brass. The reason was simple. In the later half of life, I wanted to own an instrument that changes as you use it—one that ages along with you.

That’s when a small anxiety crept in.

Which would come first: the deep, weathered patina of an unlacquered sax, or the end of my own healthy years? I never imagined I’d be racing a chemical process—oxidation—at this stage of life.

On paper, the horn should be easier to play. It even has a high F-sharp key. In theory, things should be smoother than before. Reality, of course, had other plans. The sound doesn’t always obey. A new instrument doesn’t magically upgrade the player.

Still, there’s something strangely satisfying about feeling even a millimeter of progress. No applause, no audience—just quiet self-approval. These days, that feels like enough.
The new partner I was expecting before Christmas finally arrived on the 29th, just as the year was closing in on itself.

Today, as always, I’m still missing notes, making that familiar squeal and squawk.

But if I keep playing, I believe both the instrument and I will change—slowly, unevenly, but surely. For now, I’m content to enjoy this small, stubborn race.

(Photo: pressing the high F-sharp key)

一把新的萨克斯

不久前,我写过一篇文章,讲述自己是如何与萨克斯结缘的——起因是一把送去维修的老乐器。这篇文章,可以算是那段故事的续篇。

大约吹了一年之后,我再也无法忽视乐器之间的“代沟”。每当有一个不该出现的音符突然蹦出来,我总会很顺手地把责任推给萨克斯,悄悄把“自己仍是初学者”这个事实搁置一旁。犹豫了很长一段时间后,我终于下定决心:买一把新的萨克斯。

我选择了一把雅马哈的中音萨克斯,未经上漆的黄铜表面。理由很简单。人生的后半程里,我想拥有一件会随着使用而变化的乐器——一件能够与我一同老去的东西。

就在这时,一丝小小的不安浮现出来。

究竟哪一个会先到来:无漆萨克斯那种深沉、风化般的包浆,还是我自己健康岁月的终点?我从未想过,在这个人生阶段,竟然会和一种化学过程——氧化——展开赛跑。

从理论上说,这把乐器应该更容易吹奏。它甚至配备了高音F♯键。按理说,一切都该比以前顺畅。但现实当然另有安排。声音并不总是听话。一把新乐器,并不会自动升级演奏者。

即便如此,哪怕只是感觉到一毫米的进步,也会带来一种奇妙的满足感。没有掌声,没有观众,只有对自己的默默认可。如今,这样就已经足够了。

我原本期待在圣诞节前到来的这位新搭档,终于在12月29日抵达——正好赶在这一年即将收尾的时候。

今天也和往常一样,我依旧会吹错音,发出那种熟悉的尖叫和怪响。

但我相信,只要继续吹下去,乐器和我都会改变——缓慢、不均匀,却是确定无疑的。此刻,我很满足于享受这场小小而固执的赛跑。

(照片:按下高音F♯键的瞬间)


***

2026年1月8日木曜日

「病院はある」時代の終わり ――救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

 
「病院はある」時代の終わり

救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

「どんなに良心的に頑張っても、病院はつぶれる」

https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251224-GYTET00001/

下町の中小病院を率いてきた三代目院長の言葉が、胸に重くのしかかります。

読売新聞が報じたこの記事は、医療関係者にとっては「今さら」かもしれません。しかし、患者や家族の側にいる私たちにとっては、ようやく突きつけられた現実でもあります。

病院は、いつでもそこにあり、困ったときには受け入れてくれる。
そんな前提が、すでに崩れ始めているのです。

三次救急は「入り口」にすぎない

昨年11月、身内が自宅で倒れ、日赤病院に救急搬送されました。
日赤は三次救急医療機関です。命に関わる重篤な状態を、24時間365日で受け止める、日本の医療の最後の砦です。

しかし、そこに長くはいられません。
状態が安定すれば、必ず転院になります。

一か月後に転院し、そして昨日、ようやく退院しました。
治療の流れとしては、今の日本ではごく当たり前のことです。

三次救急は「治す場所」ではなく、命をつなぐ場所
その後の時間は、地域の中小病院や療養型施設、あるいは在宅医療に委ねられます。

20年で、病院は確実に変わった

振り返れば、この20年、私は否応なく病院に通い続けてきました。
母、父、叔母、義父、義母――入退院と介護を繰り返す中で、多くの病院を見てきました。

進化した部分も確かにあります。

  • 検査や画像診断の精度

  • 医療機器の高度化

  • 電子カルテやオンライン連携

一方で、テクノロジーの進化が、人の余裕を奪った側面もはっきりと見えます。医師は忙しく、看護師は疲弊し、病院全体が常にギリギリで回っている。

効率化の名のもとに余白が削られ、現場の「人間力」に過度な負担がかかっています。

病院は「経営体」でもあるという現実

読売新聞の記事が突きつけているのは、医療の中身以前に、病院経営の破綻です。診療報酬は抑えられ、物価と人件費は上がり続ける。

職員を多く抱える病院ほど苦しく、診療所のほうが儲かるという歪んだ構造。

「老人が増えるのに、なぜ病院がつぶれるのか」

それは、医療が市場経済ではないからです。
患者が増えても、収入は増えない。
むしろ、重度化・長期化するほど、病院は赤字になる。

この現実を、私たちはあまりにも知らなさすぎました。

「地域包括ケア」という美しい言葉の裏側

2026年現在、日本の医療は「病院完結型」から「地域完結型」へ移行しています。地域包括ケアシステム――聞こえは良い言葉です。

しかし、現場を歩くと、こうも感じます。

それを支える人も、金も、もう足りない。

病院、介護施設、在宅医療、行政。
連携すべき主体は増えましたが、誰かの負担が減ったわけではありません。

さらに外国人労働の問題も絡み、現場は複雑化する一方です。

見舞う側から、入院する側へ

私自身も年を重ねました。
最近は、病院を「見舞う場所」ではなく、「自分が入るかもしれない場所」として見るようになりました。

すると、見える景色が変わります。

  • 個室か、多床室か

  • 面会制限の現実

  • 退院後の生活設計

病院は、万能の避難所ではありません。
そこに「居続けられる」という前提そのものが、すでに幻想なのです。

日本の医療は、かなり危うい

はっきり言えば、日本の医療はかなりヤバい状況にあります。
制度の限界は、もう見えています。

だからこそ、50代・60代の「高齢者予備軍」が考えるべきことは明確です。

  • どの病院が、どんな役割を担っているのかを知る

  • 介護や療養の現実を、元気なうちに学ぶ

  • 健康管理を「自己責任」で引き受ける覚悟を持つ

基本は、自助努力です。

医療は「魔法」ではありません。
社会全体が痩せ細る中で、支え合いにも限界があります。

それでもなお、現実を直視し、備える人間から、次の時代を生き延びていく。今回の経験を通じて、私はそう強く感じました。

何だか、日本という国の現状とも重なります。
アメリカ依存を続けるのか、それとも真の独立の道を歩むのか――。

***

2026年1月7日水曜日

そのニュース、子どもに説明できますか? ――親世代が直面する「思考停止メディア」の正体

 

社会の木鐸とは何か?


――沈黙する日本のジャーナリズムと、饒舌なコメンテーターたち――

「社会の木鐸」という言葉があります。本来は、権力や時代の空気に警鐘を鳴らし、社会に時間的・思想的な奥行きを与える存在を指す言葉です。木鐸は叩かれて音を出すものではなく、自ら響くから意味がある。しかし、近年の日本のジャーナリズムを見ていると、どうも拡声器と化してしまったように見えます。しかも音量だけはやたらと大きい。

今回のアメリカによるベネズエラ攻撃をめぐる日本の報道を見て、その思いは一層強くなりました。事実関係は断片的、背景説明は乏しく、国際政治の文脈はほぼ消失しています。代わりに並ぶのは、スタジオで頷き合うコメンテーターの「お気持ち」と、司会者の「分かりやすいまとめ」です。分かりやすいのは結構ですが、浅いものを分かりやすくしたところで、浅さが際立つだけではないでしょうか。

欧米のメディアも、もちろん完全に清廉潔白ではありません。スポンサーの影響も受けますし、政治的バイアスもあります。しかし、少なくとも「何が争点で、どこが分かっておらず、誰の利害が衝突しているのか」を整理しようとする最低限の知的誠実さは保たれています。ところが日本では、その手前で話が終わってしまう。原因は明白です。日本のメディア自身が、日本という国を相対化して理解しようとしていないからです。

政治の話になると、日本の報道は急に情緒過多になります。怒り、悲しみ、正義感――いずれも大切な感情ですが、それらが事実や構造分析を押し流してしまっては本末転倒です。マックス・ウェーバーが語った「レジティマシー(正統性)」の議論など、ほとんど耳にすることがありません。誰が、なぜ、どのような正統性をもって権力を行使しているのか。国家も都市も、そこを問わずに語れるほど単純ではないはずです。

にもかかわらず、テレビに登場する「知識人」や「有識者」たちは、疑念を投げかけるよりも、場の空気を整えることに熱心です。異論は「炎上リスク」、沈黙は「大人の対応」。こうして議論は痩せ細り、思考の筋肉は衰えていきます。本来、信念と疑念がぶつかり合うことで思想は鍛えられるはずですが、今や疑念そのものがマナー違反のように扱われているのです。

日本のジャーナリズムが劣化した理由は、一つではありません。記者クラブ制度、視聴率至上主義、広告依存、そして教育の問題。特に教育の影響は深刻です。受験を目的化した教育は、問いを立てる力ではなく、正解を当てる技術だけを磨いてきました。その結果、「分からないことを分からないと言う」「仮説を立てて検証する」といった思考の基本動作が社会全体で弱体化しています。

面白いのは、中国の若者の方がこの点ではよほど健全だという事実です。彼らは人民日報や国営テレビを鵜呑みにしません。「報道の逆を考える」というリテラシーが、皮肉にも全体主義体制の中で育っている。一方、日本では「自由な報道」があるはずなのに、それを無批判に消費するだけの大衆が量産されています。トーマス・ジェファーソンの言葉を借りるなら、「新聞ばかり読む人は、何も読まない人より教養がない」という状況が、テレビを含めて拡張されているように見えます。

かつて小林秀雄は、敗戦直後の講演で「人生観」という言葉の軽さを指摘しました。今の日本は、その軽さを思想だけでなく、報道にも持ち込んでしまったようです。重たい問題を、軽やかなトークで処理する。その場では分かった気になりますが、何も残らない。まるで栄養バランスを考えないファストフードのような報道が、毎日大量に消費されています。

社会の木鐸とは、本来、不人気で、面倒で、時に嫌われる存在です。叩かれても黙らず、空気を読まず、問い続ける。ユーモアとは、その厳しさを和らげるための知性であり、決して思考停止の潤滑油ではありません。しかし今の日本のメディアは、ユーモアを「笑い」に矮小化し、皮肉を「悪意」と誤解しているように見えます。

坂口安吾は「もっと堕落しろ」と言いました。堕ちきることで、初めて目が覚めるかもしれない、と。日本のジャーナリズムも、もしかすると今はその段階にあるのかもしれません。どこまで堕ちるのか、いつ目覚めるのか、それは分かりません。ただ一つ言えるのは、社会の木鐸が沈黙したままでは、国家の未来図は決して描けないということです。

木鐸は、誰かが叩いてくれるのを待つものではありません。自らの内部に空洞を持ち、響く準備ができているかどうか。その問いは、メディアだけでなく、私たち一人一人にも向けられているのだと思います。

***

2026年1月6日火曜日

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実 ――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

 
群れを離れたとき、はじめて思考が始まる

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実


――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

年明け早々、米国はベネズエラを急襲し、マドゥロ大統領を拘束・米国に移送しました。この行動をめぐり、日本でも評価は大きく二分しています。

一つは、国際法違反としてトランプ氏を厳しく非難する「国際法支持」の立場。もう一つは、中国の世界的な拡張行動を牽制・抑止するための現実的な一手として、トランプ氏の判断を評価する立場です。

意見が真っ二つに割れる――この光景自体が、敗戦後80年にわたって続いてきた日本の特徴を象徴しているように思えます。

私はアメリカに長年住み、中国についても1970年代、文化大革命後期からウォッチしてきました。学者ではありませんので、細部の分析には限界がありますが、日本人として、どうしても考えざるを得ないことがあります。

それは、私はこの二つの立場のどちらにも与しない、ということです。

現実を見て、現実に生きるという視点

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、国際法の観点から見れば問題がある行動です。一方で、現代の国際社会が、「国際法だけで動いている世界」ではないことも、否定しようのない現実でしょう。

注)私は国際連合や国際法を全く信じていません。現職の政治家が、国連や国際法を金科玉条のごとく信奉する姿勢は、国民に対して無責任だと考えています。

BBCなど欧米メディアも、この行動を単なる「暴挙」と断じる一方で、その背後にある地政学的意図――とりわけ中国への牽制――を冷静に分析しています。

問題は、トランプ氏が正しいか、間違っているかではありません。
問題は、日本がどの立場で、この現実を見ているのか、です。

従属国として生きるなら、その覚悟が要る

もし日本が、これからもアメリカの従属国として生きるのであれば、それならそれで、その立場にふさわしい発言や行動を選ぶべきです。従属国である以上、外交姿勢も、世界へのメッセージも、当然変わってきます。

しかし日本は、現実を直視せず、「対等な同盟国である」という幻想で自らを覆い隠してきました。その姿は、外から見れば、敗戦国としての屈辱的な立場を誤魔化しているように映っている可能性があります。

そして最近、私はこう思うようになりました。

日本は自己欺瞞をしているのではなく、自分が屈辱的な立場にいるという現実そのものを、理解していないのではないか、と。
 
ヤクザ社会に学ぶ「立場を知る」ということ

少し極端な例えかもしれませんが、ヤクザ社会には子分の仁義や掟があります。一人前になるには、その立場をわきまえ、掟の中で耐え、学び、力を蓄えるしかありません。立場を誤認した子分は、組織の中でも外でも生き残れません。

日本も同じではないでしょうか。

まずは、自分たちが従属的な立場にあるという現実を認めること。そこからしか、成長も、交渉も始まりません。

独立という選択肢と、その重さ

日本が真の独立を目指すという道もあります。しかしそれは、イバラの道です。安全保障、経済、外交、すべてにおいて、あらゆる困難を引き受ける覚悟が求められます。長期的な低迷を経験する可能性もあるでしょう。

それでも私は、日本はいつか、真の独立を目指すべきだと思っています。そしてそのときこそ、アメリカと「対等なパートナー」になれる。

皮肉なことに、トランプ氏のような現実主義者は、その話にこそ乗ってくる可能性があるのではないでしょうか。日本にとってのチャンスです。

交渉の余地は、現実の中にある

例えば、自衛隊の訓練を有料で米軍に委ねる(実際、すでに一部では行われています)。あるいは、日本の刑務所運営の一部をアメリカにアウトソースする。突飛に聞こえるかもしれませんが、こうした具体的な取引こそ、トランプ流の交渉の俎上に載り得る現実的な材料です。

重要なのは、「対等であるふり」をやめることです。「ごっこ」の世界からの脱却です。まずは従属国であるという現実を認め、その立場から交渉を開始する。そこにしか、次の段階はありません。

坂口安吾が突きつけた地点

ここで、私の頭の片隅には、どうしても坂口安吾の『堕落論』(1946年)が引っかかります。敗戦直後の日本で安吾は、「堕落しろ。まだ堕落が足りない」と言いました。それは投げやりな破壊ではなく、幻想や建前をすべて失い、人間が本来の姿に立ち返るための過程でした。

堕落の本質は孤独にある、と安吾は言います。集団の幻想に安住せず、一人荒野に立ち、そこから這い上がれ、と。今の日本に必要なのも、まさにその地点まで降りていく覚悟ではないでしょうか。

トランプの行動が、日本に突きつけたもの

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、是非以前に、日本に問いを突きつけています。あなたは、現実をどう見るのか。そして、その現実の中で、どの立場で生きるのか。

分断された意見のどちらに与するかではなく、現実を見据え、そこから日本の進む道を考える。今、日本に最も欠けているのは、その覚悟ではないでしょうか。

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2026年1月5日月曜日

袋詰めカウンターは戦場だった ――スーパーで見た「老い」とプライドの正体――

 
袋詰めカウンターは静かな戦場になる

2026年、令和8年の幕開け

お正月、いかがお過ごしでしたか。

私はといえば、我が家の愛犬・チャーリーのドッグフードを買いに、1月4日の初売りで賑わう近所のスーパーへ繰り出してまいりました。わりと規模の大きなスーパーです。

そこで目撃した光景が、あまりに「現代日本」を凝縮した地獄絵図、もとい、シュールなコントのようでしたので、少しばかり書いておこうと思います。

聖地「袋詰めカウンター」の決闘

昨日のスーパーは、昼前だというのに凄まじい混雑でした。
店内を見渡せば、右も左も、前も後ろも高齢者。

正月早々、ここが老人ホームか、はたまたパラレルワールドの永田町かと思うほど、見渡す限りのシルバー、シルバー、シルバー。もちろん、そのシルバーの一人は私自身なのですが。

私は今では一般的な「セルフレジ」が嫌いです。
レジ係とのほんの短い会話を大事にしているからです。

ですから、あえて「人のいるレジ」に並び、会計を済ませ、戦利品を袋に詰めるべくパッキングのカウンターへと向かいました。

やっとの思いで見つけたわずかなスペース。
そこでチャーリーのドッグフードをカゴから出そうとした、その時です。

突如として、隣でいさかいの火蓋が切られました。

出演者は、70代後半とおぼしきお二人。
スペックはほぼ同等。お二人ともカッコいい防寒ジャンパーを羽織り、人生の荒波を乗り越えてきた自負が、その鋭い眼光から滲み出ています。

いさかいの発端?
正直、わかりません。

カゴの角が少し触れたのか、レジ袋の広げ方が気に食わなかったのか、あるいは「お前の顔がそもそも新年にふさわしくない」といったレベルの言いがかりかもしれません。

武器を持たない、世界一激しい「口撃」。

喧嘩の内容は実に些細なものでしょう。しかし、その熱量は凄まじい。

「お前、さっきからマナーがなってないんだよ!」
「マナーだと? どの口が言っとるんだ!」

スーパーの若い店員さんは、遠巻きに「またか……」というような、死んだ魚の目で見守っています。仲裁に入る気配など微塵もありません。おそらく彼らにとって、これは日常茶飯事、あるいは「野生の動物番組」を見ているような感覚なのでしょう。

「かつての自分」を捨てられない悲哀

一般的に、高齢者のトラブルは、「認知機能の低下」だの「身体的ストレス」だのと説明されます。医学的・行政的な解説によれば、「易怒性(いどせい)」がどうとか、「前頭葉の萎縮」がどうとか。しかし、私の目の前で展開されているこの決闘を見て、私は確信しました。

これ、単なる「プライドの衝突」です。

彼らは決してボケているわけではありません。むしろ、頭の回転は驚くほど速い。

相手を罵倒するためのボキャブラリーの豊富さといったら、最近のSNSの誹謗中傷など足元にも及ばないほどのキレがあります。

問題は、彼らが「かつての自分」を背負ったまま、スーパーの袋詰め台という、極めてパーソナルな空間に降り立ってしまっていることです。

現役時代、部下を従え、大きなプロジェクトを回し、「俺の指示が絶対だ」と信じて疑わなかった時代。

その栄光という名の透明な鎧を脱げないまま、令和8年のスーパーで、「レジ袋がうまく開かない」という現実の無力さに直面している。そのギャップから生じるイライラが、隣の「同じような鎧を脱げない爺さん」にぶつかるのです。

まさに、鏡合わせの自分を殴っているようなものです。

私という名の「鏡」

喧嘩を見ながら、私はふと、ビニール袋を広げようとして、指先がカサカサで滑りまくる自分の手を見つめました。

「年寄りって、いやだな……」

私も今、同じ舞台に立っている。私もまた、セルフレジを嫌い、自分のやり方に固執し、混雑に思いっきりイラついている。

20代、30代の皆さんは思うでしょう。「自分はあんな風にはならない」と。

しかし、前頭葉は裏切ります。
自然の摂理には抗えません。

あんなに優しかったお父さんが、あんなにスマートだった上司が、ある日突然、スーパーの袋詰め台で「場所を譲れ!」と叫ぶ戦士に変貌する。

それは、老化という名のマイクロソフトの強制アップデートなのです。
しかも、元に戻す方法はありません。

2026年、新年の誓い

50代、60代の「予備軍」の皆様。
君たちは今、トレーニング期間にいます。

「自分が正しい」と思った瞬間に、心の中で「他人も正しい」と自分に言い聞かせる練習をしておかなければなりません。さもないと、近い将来、あなたは私の隣で叫んでいるかもしれません。

結局、お二人の決闘は、一方が現場を立ち去ることで幕を閉じました。
勝者は不在です。

残されたのは、気まずい沈黙と、散らばったレジ袋の残骸だけ。

私はチャーリーのドッグフードを抱えて帰路につきました。家に戻り、チャーリーの無垢な目を見て、少しだけ救われた気持ちになりました。

彼には「プライド」も「スペック」も「かつての肩書き」もありません。ただ、「今、ここにあるおやつ」に全力で感謝するだけです。彼はひたすら今を生きているのです。

「歳はとりたくないものだ」

これは真理かもしれません。
しかし、歳をとることは止められません。

ならばせめて、私は「袋詰め台で譲れる老人」になりたい。もし私がスーパーで誰かと怒鳴り合いをしていたら、どうぞ優しく諭してください。

令和8年。鏡の中の自分と喧嘩をしないために。

令和8年、本年も「謙虚な前頭葉」を大切に過ごしてまいりましょう。

***

2026年1月4日日曜日

森林が語る文明の寿命 ――アメリカのベネズエラ攻撃と、子どもたちに残す未来

 
多くの日本人は森林にもベネズエラにも関心がない


森とともに生きるという選択

人類の文明は、森とともに始まりました。

木は燃やせば大きな熱を生み、加工しやすく、身近にあります。調理、暖房、住居、道具――文明の基礎の多くは森林に支えられてきました。人類が世界各地へ広がることができたのも、森という存在があったからです。一方で、文明の発展は常に森林の伐採と背中合わせでした。

国連食糧農業機関(FAO)によれば、過去35年で世界の森林は日本の国土の5倍以上失われています。特に南米、アフリカ、東南アジアの熱帯雨林の減少は深刻です。1万年前と比べれば、世界の森林はすでに3分の2にまで減ったという推計もあります。これは「最近の環境問題」ではありません。

人類は古代から、合理的な判断として木を切ってきました。燃料効率が良く、石より軽く、生活に不可欠な資源だったからです。文明の繁栄と森林破壊は、最初から表裏一体だったのです。

環境考古学という学問

気候や地理条件などの環境が、人間の文明にどのような影響を与えてきたかを探る分野です。ある教授は「森を切り開くと文明は衰退する」と語っていました。ローマ帝国は森林を失い、土地が荒廃し、多神教的な世界観から一神教へと移行する中で、多様性を失い、やがて衰亡したという指摘です。私はこの見方を、かなり信じています。この視点は、森林が単なる資源ではなく、文明の思想や世界観そのものを支えていることを示しています。

私自身、宗教というよりも、「森や木や石や水に命が宿る」と感じる日本的な感覚に惹かれてきました。自然の循環や繰り返しを尊ぶ心は、経済効率だけでは測れない価値を持っていると思います。こうした思いの背景には、森を生涯の仕事とした祖父の存在があります。

祖父は明治33年生まれで、奈良の営林署から南樺太へ赴任し、1920年代から戦前・戦後を通じて日本の森林事業に人生を捧げました。極寒の山野を歩き、林道を拓き、木を育て、森と共存する知恵を現場で体現した人でした。国立国会図書館のデジタルアーカイブには、祖父の名前が林野庁の職員記録として残っています。

もっとも、私にとっての祖父は、学歴や業績よりも、日常の姿が強く印象に残っています。声を荒げることなく、淡々と暮らしながら、山と森への情熱を静かに燃やし続けていたのだと想像します。祖父は、私が中学生の頃に亡くなりました。

「木育」という言葉

子どもたちが木製玩具などを通じて木や森に親しむ教育です。意義は大きいと思いますが、祖父のように実際に森を歩き、木と格闘しながら学んだ経験と比べると、どこか物足りなさも感じます。森の匂い、木肌の感触、木陰を抜ける風――現場に立って初めて育まれる畏敬の念があるのではないでしょうか。

皮肉なことに、その木育発祥の地である北海道では、再生可能エネルギーの名の下に森林伐採が進んでいます。風力発電やメガソーラーは脱炭素という大義を掲げていますが、森を切り開いて設置される事例も少なくありません。釧路湿原周辺で進む開発計画は、生態系や景観との衝突を引き起こしています。森を犠牲にして未来を守れるのか。その問いは重くのしかかります。

アメリカのベネズエラ攻撃との共通性

この構図は、ここ数日メディアが報道するベネズエラ情勢とも共通しています。

「麻薬対策」「移民問題」という説明が前面に出されながら、実際の統計や専門家の分析はそれと噛み合っていません。アメリカの主張を「主張」として距離を取り、構造や根拠を検証しようとするのか。それとも、その主張を前提として報道するのか。日本の報道は、もっともらしい理由が単語として羅列されるだけで、そこにジャーナリズム精神は感じられません。

森林問題も同じです。

環境保護や持続可能性という言葉はあふれていますが、私たちの文明が「成長し続けること」を前提としている限り、森は切られ続けます。文明は資源を使うことで発展しますが、資源を使い尽くす文明は長く続きません。これは思想ではなく、歴史が繰り返し示してきた事実です。

自然を征服するのではなく、人と自然が一体となること。それは環境考古学が示唆する文明の条件であり、祖父が生涯を通じて体現していた姿勢でもあります。森は文明の礎であり、私たちが未来へ引き継ぐべき原点です。

森が語っているのは、環境問題ではなく、文明の寿命そのものなのかもしれません。その声に耳を傾けるかどうかが、私たちの選択なのだと思います。

***

2026年1月3日土曜日

「義」は生きているか――令和に問う『武士道』の現在地

 

静と動――武士道が伝えてきた『義』の二つの表情
  

2026年年初に「義」を考える

――新保祐司・新渡戸稲造・アメリカ人の視点から――

私は新聞を読まなくなって何十年も経ちますが、元旦の新聞だけは別です。各紙の論調を一望すると、その年の日本がどこに立っているのかが、うっすらと見えてくるからです。

2026年元旦、産経新聞の「正論」で、文芸評論家・新保祐司氏が「義」を正面から論じていました。年末からたまたま武士道やヤクザ、さらにはアメリカ人の言う「義務」や「責任」について考えていた私にとって、この論考は不思議な符合を感じさせるものでした。

新保祐司氏のいう「義の国」

新保氏は、日本が内憂外患の危機に直面するいま、必要なのは制度改革や対症療法ではなく、「義」を時代思潮の基調に据えることだと述べています。そして令和を「第2の明治」と捉え、明治の精神の核心こそが「義」であったと指摘します。

新保氏が引くのは、札幌農学校に学んだ内村鑑三と新渡戸稲造です。内村の『後世への最大遺物』が説く「勇ましい高尚なる生涯」、新渡戸の『武士道』が最初に掲げる徳目「義」。それらはいずれも、損得や空気ではなく、正しいと信じる道を実践する生き方を意味しています。

新保氏の文章で印象的なのは、「昨年は『勇ましい高尚なる生涯』とは対極的な出処進退を随分見せられた。もうたくさんである」という一節です。これは、近年の日本の政治や組織に蔓延する、責任回避や保身、責任転嫁への強い違和感を代弁しているように感じました。

新渡戸稲造『武士道』とは何か

新渡戸稲造の『武士道』は、明治33年に英文で出版されました。序文には有名なエピソードがあります。

ベルギーの法学者から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育をするのか」と問われ、新渡戸は自分に善悪の観念を植え付けたのが「武士道」だったことに気づいた、と述べています。

アメリカやヨーロッパでは、宗教が道徳の基盤です。ニューヨークでは、ユダヤ教の祝祭日を考慮したスクールカレンダーが組まれ、子どもは宗教や民族意識の中で育ちます。一方、日本人の日常生活では宗教心はほとんど表に出てきません。新渡戸はそこを否定するのではなく、「宗教に代替する精神的基盤としての武士道」を提示しました。それが「The Soul of Japan」「The Yamato Spirit」です。

『武士道』は全17章からなり、3章から11章で徳目が体系的に論じられます。最初に置かれているのが「義(Rectitude or Justice)」です。義とは、単なる正しさではなく、「敢為堅忍」、すなわち実行力と忍耐力を伴った決断の力だと説明されます。義のない勇気は無謀であり、義のない礼は猿芝居であり、義を欠けば名誉も忠義も成り立たない。これらの徳目は相互に結合した一つの体系なのです。

私自身、この本は夏目漱石の『私の個人主義』と並ぶ座右の銘です。英語は難しいですが、三年間の中学英語は『武士道』一冊で十分だと本気で思っています。「The feeling of distress(惻隠の情)」などの表現を、外国人との会話でさらっと使えたら、それだけで日本人としての背骨が伝わるはずです。余談ですが、私は『武士道』は、新渡戸がクエーカー教徒であるアメリカ人の奥様に書いたラブレターのように感じます。

アメリカ人の考える「義」

興味深いのは、「義」は決して日本人だけの専売特許ではないことです。アメリカで仕事をしていた頃、私の周囲には海軍や海兵隊の将校出身者が何人もいました。彼らに共通していたのは、強い「sense of obligation」、つまり義務感でした。

日系人初の米太平洋艦隊司令官、ハリー・ハリス提督は、日本人の母から「義理(duty)」を叩き込まれたと語っています。「国民は国家が必要とするときに奉仕する」という感覚は、アメリカではごく自然なものです。義務と責任が対になっている社会だからです。

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で「義理は日本人特有の範疇だ」と述べましたが、私は必ずしもそうは思いません。中国人にも、アメリカ人にも義を重んじる人はいます。問題は、現代社会において、正義の道理を勇気をもって実行する人が極端に少なくなったことです。

スペインの哲学者オルテガが「我は我と我が状況である」と言い、エリック・ホッファーが群衆心理の中で描いたように、人は環境と人間関係によって形づくられます。義を欠いたネットワークに身を置けば、義は育たないのです。 

「武士道」は生きているか

新渡戸稲造は『武士道』の終盤で問いかけます。
Is Bushido Still Alive?

吉田松陰の

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」を英語で紹介しながら、武士道とは状況に流されず、覚悟をもって行動する精神だと示しました。

いまの日本で、「やむにやまれぬ」という言葉が、どれほどの重みをもって使われているでしょうか。権力を守るために仲間を裏切り、責任を国民に転嫁する姿は、「The Soul of Japan」とは正反対です。

新保祐司氏が期待するように、厳しい国際環境が日本人の皮膚に「搔痕」を与え、その下から「一人の武士」が現れるのかどうか。その答えは、私たち一人ひとりが「義」を自分の問題として引き受けるかどうかにかかっています。

もし『武士道』を読んだことがなければ、ぜひ一度手に取ってみてください。そこには、今の日本に最も欠けている背骨が、静かに、しかし揺るぎなく書かれています。

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