2022年4月8日金曜日

民主制は常に正しいか?

 

民主制は結局自由と平等を過度に尊重するがゆえに、結果的に皆が自分勝手に振る舞い始め、収拾のつかない状況に陥る(プラトン『国家論』)。

人って何らかの文化や慣習の中で生まれ育ち生きているものです。過度の依存はいけませんが、自分の属する文化を100%無視して個人(individual)を社会(society)に先立つものと考えるのはいかがなものか?

もっとも、日本の場合は個人と社会が曖昧です(社会のかわりに「世間」がある)。コロナに続くウクライナ紛争、日本にとって覚醒する最後のチャンスかもしれません。

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2022年2月28日月曜日

おから



おからが食べたくなりネットやYouTubeで検索し作ってみました。

自分が子供の頃に食べていたおからには牛蒡は入ってなかったのですが、検索したレシピにはほとんど牛蒡が使われていたので入れました。味は美味しくできたのですが、どうも牛蒡はいけない。ささがきにして水に晒したのですが食感がよくない。やはり、子供の頃の味の記憶は高齢者になっても継続するのです。

本来の食材の呼び名ではなく別の名前で呼ぶケースがあります。「おから」もその一つです。おからの"から"が"からっぽ"に繋がるのを嫌い「卯の花」という別名が付けられたといわれています。「卯の花」という名前は白いウツギの花にたとえて付けられたようです」。

北京市の西郊に木犀地という地名のところがあります。中国の国家統計局のデータセンターはこの木犀地にあり、1980年代の前半は頻繁に足を運びました。ビルの横に小さな河が流れ金木犀が咲いていました。釣りをする人がいたり、橋のたもとには餃子の屋台が出て、統計局の王建明くんたちと一緒に餃子を買いに行ったものでした。2001年、15年ぶりに北京を訪れたときには、高層ビルが林立し高速道路も走り、舗装されていない金木犀の咲く川沿いの道は影も形もなくなっていました。

木犀肉の木犀(ムーシー)は金木犀の花。「卵の黄色が金木犀の花の黄色と同じことから、きくらげ・ほうれん草・豚肉・卵の炒め物を木犀肉というんだよ」と、統計局の小楊(シャオヤン)に教えてもらいました。









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2022年1月30日日曜日

日本は文化や思想を再評価できるか?

      

50数年ぶりに食べました。マルタイ棒ラーメンの再評価です。


「危機」とは人に根源的な思考を求める状況だと言われます。

そのような状況で読まれる本や議論されることは、価値観や文化などの根源的な思想です。日本の場合、そういったものが残っているのでしょうか?自ら放棄し続けて、今ではほとんど無くなりかけていないか?例えば盲目的な英語学習による国語の喪失などです。

近代科学が自明視してきた世界の成り立ちを根源に立ち返って、その在り方を考えようという動きが欧米の知識人の中で起こりました。そういった中でコロナ禍が出現しました。近代のように人間が技術を使って自然をコントロールするのではないという考えです。

明治の近代化で精神の近代化を棚に上げて技術だけを追い求めた日本は、ポストモダン(近代)を考えた上で「禍」の時代の次(ポストコロナ)を考えることができるのでしょうか?

繰り返し言っていますが、日本で近代科学が自明とする価値観の問い直しと、それらを再バランスさせるという考えがでてくるでしょうか? 政治家には価値観をベースにパラダイム(思想の立脚点)を明確にし、ポリシーやどう実行計画を立てて行くかを考えてもらいたい。コロナ禍を機会に日本や日本人の生きる道を考えてもらいたいと思います。

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2022年1月29日土曜日

ウィルスの目的は生存、日本人の生きる意味は?

WHO head says it is 'dangerous' to assume pandemic is nearing end, but says 'acute phase' could end this year

Posted Mon 24 Jan 2022 at 10:12pmMonday 24 Jan 2022 at 10:12pm

ウィルスも「生存」が最終目的だから、宿主を全滅させては意味がない。宿主側は、常に変化するウィルスに対応して免疫機能を発達させてゆくしかない。生物とウィルスの間にはこの鍔迫り合いの連続。

コロナパンデミックというのは数年たってどう振り返られるのでしょう? 日本は世界の議論について行けるのか? 数年後だと私はまだ生きているだろうから、幸い結末を知ることができます。

近代科学が自明とする価値観の問い直しと、それらを再バランスさせる現象であるという考えが日本で出て来るでしょうか?

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2022年1月27日木曜日

今の学校なら落ちこぼれた方がいい?

 

この子たちの将来は?

子供をとりまく環境は教師や周りにいる大人たちの認識レベルに大きく左右されます。教師の仕事は、与えられた環境で、子供たちとできるだけ遊ぶことだと思います。子供=子供+環境(私=私+環境と言ったのはスペインの哲学者オルテガです)、つまり、子供は単に子供でなく環境と一緒になって子供であり、環境と融合しながら大人になって行くのです。

私はここ70数年の日本の教育はロクでもないものだと思っています。

教師(特に若い教師)は「日本の教育はロクでもない」という現実を回避してはいけない。学校教育の目標は変質してしまっているのです。

なぜ学校はあるのでしょうか? 「賢く育てる」の意味も間違っているし「丈夫に育てる」ということは軽視されているように思う。企業経営と教育の関係は、民主主義と資本主義のように相容れない。それをどうバランスするかが重要なのです(特に私立)。テストをして点数によって子供たちの優劣(順番)をつけて、その順番を社会(日本では世間だが、、、)の序列として社会に送り出しているだけじゃないですか。

今の学校で「落ちこぼれ」と決めつけるのはオカシイ。学校の存在意義や教育の目標がロクでもないのだから、そのなかで落ちこぼれても何の問題もない。むしろ落ちこぼれないほうが世界で通用しない大人になる可能性が高い。

- 試験の範囲は決まっている。
- 答案を書く時間は決まっている。
- 満点が100点と決まっている。

狭い枠のなかで、はやく間違いのない答えを出すという人間の育成です。霞が関の官僚がいつまでたっても考えられない幼稚な不祥事を起こし、大企業のリーダーたちがいつまでも優秀な係長の域を出ないのは、日本の学校教育がロクでもないからでしょう。大病院の医者と患者の心が通いあえないのは日本の学校教育がロクでもないからだと言わざるを得ない。

もし日本から創造的なカッコいい大人が出てくるとしたら、そういった大人は恐らくどんなに学校で落ちこぼれても、へこたれないで「世間」に反抗を続ける強い精神の持ち主だと思います。

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2021年12月17日金曜日

心の幸せ

今年もあと2週間となりました。来年の ibg カレンダーです。

アメリカの現実

アメリカは自由主義が行き過ぎて民主主義との折り合いがつかなくなっています。自由主義のほうが資本主義との相性がいいからです。これまでアメリカが辛うじてバランスしてきたのは貧富の差が今ほどではなく、中間層が豊かに生活できていたからです。自由と民主のバランスは、みんなが豊かさを感じることや国の社会保障でなんとか保ってきた。
ところが、アメリカの絶対優位は崩れ、格差が超ウルトラ格差になり99%の国民が苦痛を感じるようになりました。医療保険も日本と違って自己責任だから、多くの没落中間層が医者にも行けなくなった。自由と民主のバランスが完全に崩壊したのです。

日本はどうか?

先日、年金受給の手続きに行ってきました。今になって改めて分かったことは、日本の年金には個人または個人主義という概念がないということでした。自分の人生のラップアップまで他者頼みで、人生の着陸点を自分で考えなくてもいいことを前提に日本の年金の仕組みはできています。自分の掛け金に見合った受給金額から、現在の年収にあわせて受給額が減額されるのです。アメリカの年金である Social Security のような金融商品ではないということです。これでは高齢者(=年金受給者)が働いて稼ごうというモチベーションは下がります。

ワクチン接種に関しても日本人は強制されても文句を言わない、、、というか、どちらかと言うと強制されたい。アメリカの接種率が伸びないのは、政府に強制されたくない。ワクチン接種を決めるのは自分(個人)だという強い意思がある。自己決定権という自由を無くすくらいならコロナで死ぬわ!と思っている人が国民の40%くらいはいる。もしかしたら、そのうちの20%はコロナなんてフェイクだ!と本当に信じている人もいるかも知れませんが、、、。

日本の年金は、セルフモチベートできている高齢者のやる気を完全にくじく仕組みです。国会で延々とやる10万円の議論もバカバカしい。本当にくだらんと思う。日本はもっと若い時から社会人(大人)になることを教育した方がいいと思います。以上のような発言は「世間」から嫌われる、、、でも大丈夫。もう人生の着陸点が見え始めているし、「心の幸せ」は維持できていますから。

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2021年12月6日月曜日

目的は幸福を求めること

wondering what's on the table....

「万人共通の目的は幸福である」といったのはプラトンです。今の時代でも同じだと思います。

遺伝子の影響もあるでしょうが、日本人の問題は幸せになるための意思決定を自分で行わないことにあります。

仏教の言葉でいう「因縁果(いんねんか)」、原因があって結果があるのですが、どうも縁(環境や他者)に依存しすぎる。自分で決定しないから結果に対しての責任感が希薄です。さらに諦めがいいのか、結果に対する振り返り(reflection)がない。

「どう生きるか?」も大事ですが、そろそろ「なぜ生きるか?」を考える時です。

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