2015年7月25日土曜日

今だから夏目漱石 ~ 語学養成法


明治44年、夏目漱石が英語教育に関する提案を行ったのをご存知でしょうか? 漱石の提案は、イギリスでノイローゼや胃潰瘍になるまで苦しんだ経験の賜物ですから非常に重みがあります。経験の積み重ねから何かが生まれる「眼高手低」というです。

漱石は、「有機的統一のある言語を、会話とか、文法とか、読解とかいうふうに、細かな科目に分けて教えるのはよくない。学生各自が互いに連絡のつくように教え込んでいかなければならぬ」と言っています。漱石は文学者だからなのか、語学だけでなく、職業や日々の生活まで有機的な統一のある人間を中心に考えていたようです。英語を細かな科目別に指導するという方法は、100年経った今でも同じです。要するに、大学受験がゴールである限り、教える側、採点する側の都合が優先されているのです。 

何も英語教育だけでなく、医学や全ての教育に云えることですね。 今の日本の基礎になってしまっている、、、、、。

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『語学養成法』(明治44年)

目次

1.      語学の力の有った原因
2.      語学の力の衰えた原因
3.      改良の効果如何
4.      改良の三要点
5.      教師の養成
6.      教師の試験
7.      教科書の問題
8.      時間の利用

漱石が7章で提案している教科書の問題は、学校や受験とは関係なく子供たちが自分で対応できることなので、学校の英語の点数がどうあろうと是非とも実践して欲しいと思います。

7.教科書の問題

教科書は大いに考ふべき問題である。

今の中学生はいろいろな書物を読んで、知らないでもいいような字を覚えるかわり、必要な字を覚えていない。まことにばかぱかしい話である。普通イギリス人はどれほどの単語を知っているかというに、きわめて僅少のものである。日本の中学生は、かれらの知らぬ字をかえって知っている。ひっきょう教科書がよく整理されていないからである。

そこで、文部省では中学の英語教科書を作る必要がある。

その教科書は一年から五年に通じて、普通の英国人がわかる文字と事項とを、まんべんなく割り振って排列するようにする。すなわち、かれらの一般に知っている文字と事がらには、五年中どこかで出会うが、そのかわりむずかしいジョンソンの『ラセラス』に出てくるような字はまったく省いて、生徒に無用な能力を費やさせないようにしてやる。そういう教科書を作るには、どうしたらよいかというに、わたしは外国の新聞を基礎にするのがいちばんよいように思う。

『ロンドン・タイムス』でも『デイリー・メール』でも、一月一日から一二月三十一日まで通読すれば、いかなる文字といかなる事がらがいかに多く繰り返されて社会に起こるかがよくわかる。それでだいたいの統計を取れば、どの字と、どの事がらと、どの句が比較的いちばん必要であるかがわかる。わかったところを組織だてて教科書に編入する。中には三百六十五日のうち、何百ぺんとなく繰り返されるもの名あるに相違ないから、そんなものには重きをおいて、教科書中にも幾度も繰り返しておくと同時に、年にいっぺんとか、半年に一度ぐらいしか見あたらないものは、まったく省くことにする。そうすると、二三年たつうちに、かなり経済的に英語を短い時間内で教えるできる教科書が、科学的な、秩序立った系統の下に編成される訳である。

こうしてこしらえた教科書をそのままに放り出しておかずに、外国新聞を基礎として、時勢の変化に伴って起こる言語文字の推移に注意して、十年に一度くらい宛改訂するつもりで永久事業としたら、生徒は大変な利益を得ることであろう。無論この事業は前に云った試験管の平生の仕事の一とするのである。顧問として適当な西洋人を雇うのも一法である。

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2015年7月20日月曜日

英語化は愚民化


人間、型にはまると魅力がなくなります。 特徴がなくなるからです

私は東京に住んでいますが、もしウチに成長期の子供がいたならば、東京のような大都市では暮らさないかも知れません。 大都会の澱みの中につかってしまうと、標準化され協調性だけが取り柄の大人になりそうだからです。

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この週末は政治学者 施光恒(せ てるひさ)さんの『英語化は愚民化』(集英社新書)という本を読みました。 英語教育やグローバル人材育成について日頃考えていることが上手に新書にまとめられていました。

本の中にもありますが、ヨーロッパの近代化は普遍語であるラテン語を各国語(フランス語やドイツ語など)に翻訳することから始まりました。 また、日本の近代化は西欧の先進技術や考え方を一つ一つ意味を考えながら日本語に翻訳することにより成し遂げられました(福沢諭吉や新渡戸稲造の貢献は偉大です)。 外国語をそのまま使うのではなく、概念を理解し各国語(日本では日本語)に翻訳する。 適切な言葉がないならば作る。 そうやって発展途上国は学習しながら先進国になっていったのです

施光恒先生は、英語をラテン語に重ね合わせ、日本の教育を英語化(≒ ラテン語化)することは日本の近代化の真逆、つまり、国を発展途上国に逆戻りさせる愚民化政策であると言っています。 私も繰り返し言及していますが、全ての学生に対して過度な英語教育は必要ないのです。母語の授業を減らされるだけ、多くの学生さんたちは情緒が育まれず英語も中途半端になってしまいます。

ジョージ・オーウェルの小説『1984』にはニュースピークという新語が出てきます。

『1984年』の舞台となる国は思想や言論に厳しく統制が加えられています。 物資は欠乏し、国民は、テレスクリーンによって昼夜を問わず屋内でも屋外でも行動が監視されています。言語はニュースピークというものです。 ニュースピークは、思考を単純化し、思想犯罪の予防を目的として成立した新語です。語彙の量を極端に少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされて、この言語が普及すれば、反政府的な思想を表現することができなくなるというものです。

言葉を単なる手段、つまり、道具(ツール)だと考えたら、仕事や生きることが無味乾燥で味気ないものになります。 会社のような組織は合理性が支配するのですが、本質には有機体としての人間が存在します。時間をかけて人と人の信頼関係、仲間意識などが醸成されていきます。 そこには文化や習慣を背景とする母語があるのです。

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2015年7月13日月曜日

流れを読む

伊勢神宮 五十鈴川

変化を好まない?

今の日本には変化を好まない人が多すぎる


意地悪な見方かも知れませんが、変化に弱いことを承知しているため、自己防衛からなのでしょうか? 変化に弱い人というのは固定観念が強いものです。 学校の勉強がよくできて知識があり過ぎるためなのか、持っている知識をもとに自分の損得勘定に拘り過ぎる傾向があります。 世間では極めて優秀だと思われているのですが、実は状況が変化するとついていけなくなってしまいます。 リーダーにはもっとも相応しくないタイプです。

流れを読むためのセンサー


勝負に流れがあるのと同様に、人生にも流れがある


その人生の流れをつかむためには、まず流れを感じとらなければいけません。 感じとるための敏感なセンサーが必要なのです。センサーは訓練で鋭敏にできます。感度のいいセンサーが必要になる環境に身を置くことです。 蛸壺の中、つまり、鈍感なセンサーしか持ち合わせない人たちの中にいると、自分のアンテナはいつまでたっても鋭敏にはなりません。 阿片窟のジャンキーのように鈍い感度が心地よく感じるようになります。

Premature と Intensity

流れを読むことと同様に大事なことは勝つまで粘ること

迅速な判断は頭がいいからだという人もいますが、私は人生の勝負としては失敗だと思います。 成熟度が足りない、つまり、premature ということなのです。勝つまで粘ること、最後までねばり強く勝負する者が強い。 勝つまでやる。 苦戦に耐える、不幸に耐える。 それが強靭性で、英語でいうところの intensity だと思います。

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2015年7月10日金曜日

指導者の器

Screen Addiction
July 6th 2015, The New York Timesより

1980年代、大阪で中学教師をやっている友人が学級崩壊のことを話していました。相当ひどい目に遭ったのかも知れません。友人は、中学生は恐ろしいから高校に移ると言っていました。

1990年代後半から10年ほど日本の学校はゆとり教育を推進しました。2009年に帰国した私は中学高校のカリキュラムを調べて驚きました。その後、学力の著しい低下から、ゆとりはダメだと言って見直しが始まったのは皆さんご存知のことと思います。

振り返ってみると、ゆとり教育って誰のための教育だったのでしょう? 何が良い点で、何が課題だったか(明らかに学力低下は課題の一つですが)、そして継続する良い点と改善すべき課題から総合して考えだされたAction Planが、グローバルに対応する人材の育成なのでしょうか?

恐らく戦後何十年も継続しているのでしょうが、特にここ数十年、指導者の「器」でない人たちが多すぎるように思いませんか? 教育だけでなく、政治もビジネス界にも共通する問題です(もちろん、自分のことは棚に置いてですよ)。

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2015年7月6日月曜日

心技体とは?

多くの勝利と一つの敗戦から何を学ぶか?

心技体とは一般に精神力(心)・技術(技)・体力(体)の総称だと言われています。 少し、心技体について考えてみました(いつものように上から目線ですよ)。

世間では心技体のそれぞれが優れていて、且つ、全体のバランスがとれていることが重要視されていると思います。 勿論、正しいのですが、それだけでは足りないような気がします。

一つは、タイミングが大事だということです(英語でいう 
PEAKING AT THE RIGHT TIME)。人生って、博打ではなく勝負なのですが、勝負に勝てる人は、最上のコンディションを決戦の時にピタリと持っていける人です。総合的に心技体のバランスがとれていても、決戦のタイミングに調子を合わせることができないと意味がありません。スポーツであれば、準決勝で燃え尽きて決勝で本来の力の100%が出ないということでは困るのです。欧米、特にアメリカ人の精神力の強さは、普段の100%の力量を決戦で120%にする集中力があることです。

二つ目は心技体の3つは同列ではないということです。福沢諭吉の子育てポリシーは、子供には9歳までは身体をつくることだけを要求し、知識の習得は身体ができてからだというものでした。体が出来ていないと、技(術)や心(精神)は積み上がっていかないと考えているのです。体が強靭であるということは、想像以上に重要なのです。

要するに、心技体の一つ一つを深堀したり、三つのバランスをとることだけを考えるのではなく、体力(健康)が基礎となることや、決戦に合わせて気持ちを最高潮に昂らせることが重要であるということを理解すると、教育や更には社会に出てからパフォーマンスに幅が出てくると思います。

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2015年7月5日日曜日

経験から勘を養う

会津に行ってきました

実践で鍛えるって大事です。それも魅力的な人たちの中で経験を積むことは非常に大事なことです。それは勘が養われるからです。 理論だけでは勝負の勘は養われません。勝った時の達成感や、負けたときの悔しさがないと駄目なのです。 

頭の良し悪しなんて、実は大した問題ではないのではないかと思うのです。 ほんの少しの違い、その違いは質と量共に充実した経験の積み重ねから来る勘です。

場数を踏んで勘を生む引き出しの数が多くなってはじめて自信のある言葉が生まれます。 だから、歳を取ってその人の雰囲気や魅力が出てくるものなのです。

















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