今年も長野から杏がやってきて杏ジャムになりました。
暴力の独占
マックス・ウェーバーが定義した主権国家は「暴力の独占を有する」ということでした。一定の領域において単独の主体(国家)が暴力に関する権威・権限を行使する状態を定義したものです。ここで重要なのは、こういった独占に正統性(レジティマシー)があるかどうかという事 です。
東京都ほどの規模になると一つの国家のようです。独裁国家や共産主義にはレジティマシーは存在しませんが、日本は半分国家ですが、支配者の言いなりになる専制国家ではないはずです。だとすると、リーダーを選ぶ場合、レジティマシーが問われるべきです。
レジティマシー
普通の国や大都市の支配関係はどうあるべきか? 支配される側(例えば東京都民)は、いつ、いかなる理由で権威を受け入れるのか? 支配する側の正当化の手段とはどういったものなのか?
マックス・ウェーバーはレジティマシーを以下の3つで説明しています:
- 「永遠の昨日」の権威; 昔から妥当していることによって、またそれを守ろうとする習慣的
な態度によって神聖化された 習俗。 - リーダーの資質(カリスマ性も含む)に対する支配される側のコミ
ットメント 。 - 合法性による支配。
どういった組織でも同じです。ある人が誰かについていくとき、そこには「レジティマシー」があるべきです。
今の日本は「動機は不純で責任はとらない」ということだと思う。メディアはジャーナリズムとは程遠く情動(エモーション)に埋没している。たちの悪い大衆人化している。責任感のない人たちにジャーナリスティックな役割を与えるのは危険極まりないのです。多くの国民は騙されますから。
政治のために生きるか、政治で生きるか?
マックス・ウェーバーに「仕事としての学問 仕事としての政治」という有名な講演があります。政治を仕事にする人には2種類あって、政治のために生きるか、政治で生きるか(生計を立てる) を議論しています。この2つは明確に分離できるものではないのですが、政治で生計を立てる職業政治家は、サラリーマンのような有給の役職者か、業績に対して手数料を受け取るか、現物支給や現金を受け取るしかないのです。
政治という仕事の理解と政治家に必要な資質の両面を根本から考え直さないと、東京都知事選のような状況になるのです。
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