2020年6月13日土曜日

ポストコロナの未来(6)

Tokyo 2020 の旗が三密の旗に変わりました

先日麻生大臣の「民度」発言が問題になっていました。メディアが大騒ぎするような問題ではないのですが、、、。どうして「ethical(倫理的)」って単語を使わなかったのでしょう? ポストコロナの世界は国民一人ひとりの倫理観を上げるしかない。大臣の発言が何であれ、すぐに全否定したら議論の幅が広がらないのです。

次のパンデミックやポストコロナの様々な問題に対応するには、結局は一人ひとりの倫理(ethic)に委ねられる部分が大きいのです。そうであればこそ教育の意味は大きい。日本の教育を全否定するのではなく、良かった部分(相対的に「民度」が高い)を残し、教育の意義の本質を議論すべきでしょう。

アメリカと中国で暮らした(子育ても含む)経験からすると、衛生観念が上とか下とかじゃなくて、日本とは感性が大きく違うということです。アメリカの小中学生はリンゴをたべならがトイレに行って、トイレの棚の上(場合によっては床)に食べかけのリンゴを置いて、用を足したらリンゴをピックアップして何事もなかったかのように食べだしますからね。

ポストコロナ以降の世界で世界が議論しなくてはいけないのは、地球全体の生態系の問題や世代間や地域間での公平化の問題です。私的利益(国)と公共の利益(地球)を戦争で解決するしかないのであれば、次回はついに地球の破滅でしょうね。

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2020年6月6日土曜日

ポストコロナの未来(5)

新一年生

ポストコロナを考えた場合、どの問題の解決策も簡単ではありません。しかし、究極的には「教育」が基礎の部分にあると思われます。結局は一人ひとりの倫理観にゆだねられている部分が多いからです。きまりきった知識を教えるのが教育じゃない。「教育=受験」と思い込む呪縛をとき、自己の在り方と闘って行く能力を身につける教育に転換すべきです。今から始めても結果がでるのは30~50年後です。

「9月入学」導入見送り 長期的課題として検討継続方針 | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200603/k10012455961000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001&fbclid=IwAR289rIV22WTcEcpzIlJuC4C7z6OdRw4i1-fKnNJQR0AIkKvfx_u9Fivnn0

学習の目的性や、そもそも「学習の意義とは何か?」を問い直すべきでしょう。学習の公共性や倫理性が自発的に芽生えるのを待つという考えもあるでしょうが、恐らく待っていては日本はもっと沈むでしょう。ゴルフでもいくら練習しえもスイングが間違っていればうまくなりません。「9月にしたら国際競争力がつく」と言っている知識人や学者も少なからずいるようですが、もっと「教育に意味を見出すこと」を考えてもらいたい。

ポストコロナの世界の課題として、環境問題、情報化の問題、異文化理解の問題、個と公共の問題 等々あると思いますが、結局は一人ひとりの倫理観に委ねるしかないのです。一人ひとりの主体的な倫理観です。そして全体として高いレベルの国が生き残って行く。

だとすると、教育の意義はとても重要なものです。 西欧では近代以降、教養教育から専門教育へと移行しました。ところが近代の反省から、個々の知を総合的に見渡す視点の重要性がフォーカスされだした(専門知識の必要性は衰えませんが)。日本の教育改革の議論はこれを見落としていないでしょうか?今の日本は、ポストコロナどころかポストモダンにも追い付いていない。もっと自らを疑ってもいいと思います。

幕末まで戻る勇気はあるか?

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