2026年1月31日土曜日

プロフェッショナルとは何か

 


プロフェッショナルとは何か


― ゼネラリストとスペシャリストを混同し続ける日本社会へ


日本のビジネス界を見渡すと、長年変わらない「基本的な勘違い」があります。それは、プロフェッショナル、ゼネラリスト、スペシャリストという概念の区別が、極めて曖昧なまま使われていることです。言葉だけが一人歩きし、レベルセットが行われないまま議論が進む。その結果、抽象度の低い、噛み合わない会話が延々と続く。これは日本のビジネスシーンの慢性病と言っていいでしょう。

添付した1枚目のスライドでは、「プロフェッショナル」を中心に、ジェネラリスト、スペシャリスト、エキスパートという概念を整理しています。ここで最も重要なのは、プロフェッショナルとは職種や専門分野の名称ではなく、姿勢であるという点です。

プロフェッショナルの前提にあるのは、顧客第一主義、すなわち「真のニーズに応える」ことです。自己満足でも自己中心でもない。常に相手の価値を最大化するために、自分をどう使うかを考える存在です。

ところが日本では、専門知識や技能を持っている人、つまりスペシャリストを「プロ」と呼んでしまう傾向が強い。極端な話、「うちはスペシャリストしかいません」と胸を張る会社すらあります。しかし、専門性があることと、プロフェッショナルであることはイコールではありません。スペシャリストやエキスパートは「スキル中心」の世界にいます。一方でプロフェッショナルは、スキルを含みつつも、それをどう使い、どう統合し、誰のために価値を出すのかという「働き方・生き方」の問題なのです。

2枚目のスライドでは、プロフェッショナルを支える三つの柱として、People Management、専門性、自己管理能力を示しています。

ドラッカーが繰り返し述べているように、マネジメントとは他人を動かす技術ではありません。本質は「自らをマネジメントすること」にあります。これは新渡戸稲造が『武士道』で語った「克己(こっき)」と同義でしょう。自分をコントロールできない人間が、他者をマネージできるはずがないのです。

政治家は英語で “Law Maker” とも呼ばれます。法律を作り、私たちの税金を使うことを国民からアウトソースされている、れっきとしたプロフェッショナルのはずです。それにもかかわらず、今の政治にプロフェッショナルの姿が見えないのはなぜでしょうか。責任と権限の概念を理解せず、言葉だけで場を取り繕う。その姿は、ビジネスの世界とも不気味なほど重なります。

プロフェッショナルとは、決して「できる人」ではありません。自分に満足せず、常に次の壁に挑み続ける人です。一つ壁を越えれば、また次の壁が現れる。その過程を苦行ではなく、楽しみとして引き受ける。論語にある「知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばず」という言葉の通り、楽しみながらやっている人の中からしか、本物のプロフェッショナルは生まれません。

小林秀雄は「模倣は独創の母である」と言いました。完璧に模倣できた地点が、プロフェッショナルのスタートラインです。エリック・クラプトンも、ジミー・ペイジも、ジェフ・ベックも、最初は徹底したコピーから始めています。中途半端な理解のまま「オリジナリティ」を語るのは、単なる自己満足に過ぎません。

黒澤明監督の映画『七人の侍』は、実に見事なチームビルディングの教科書です。リーダーは同質な人材を集めるのではなく、技量も性格も異なるプロフェッショナルを集め、全体としてのバランスを取ります。ムードメーカー、無口な達人、参謀役、橋渡し役。それぞれが自分の役割を理解し、自律的に動く。これこそがプロフェッショナル集団です。

今の日本では、新卒一括採用やハウツー偏重の教育が、「自分を知る(know yourself)」機会を奪っています。流行のスキルを追いかけるだけでは、死ぬまで漂流者のままです。ブログや日記を書くことは、自分とのコミュニケーションを始めるための有効なツールでしょう。

結局のところ、プロフェッショナルとは肩書きではなく、覚悟です

自分を律し、学び続け、楽しみながら壁を越え続ける。その姿勢を持つ人が増えない限り、日本はこれからも「埋もれたまま」なのでしょう。

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2026年1月30日金曜日

タコツボ社会という病理

タコツボ社会という病理

日本社会から世界へ広がる「自閉的共同体」の弊害

この図は、もともと日本社会の構造的な問題、いわゆる「タコツボ社会」の弊害を表現するために描いたものです。

タコツボ社会とは、組織や集団がそれぞれ狭い内部論理に閉じこもり、全体最適や他者との連携を顧みなくなる状態を指します。

日本の大企業を思い浮かべると、その姿は分かりやすいでしょう。製造部門、販売部門、物流部門、財務管理部門が、それぞれ自分たちの論理と都合で動き、横の連携が極端に弱い。部分最適は追求されますが、全体として会社がどこへ向かっているのかを誰も把握していない。結果として、非効率や責任の所在不明が常態化します。

この構造は、日本の教育システムにも色濃く表れています。

学校教育では、国語、数学、理科、社会、英語といった教科ごとに、多くの「柱」を次々と立てていきます。それ自体は知識を身につけるという意味で必要な作業です。しかし問題は、その柱同士をつなぐ「梁(はり)」が、ほとんど意識されないまま教育が進む点にあります。

知識をどう統合し、現実の社会や人生にどう結びつけるのか。本来ならば最も重要な問いが置き去りにされたまま、教育は大学受験へと突き進みます。そして入試が終わった瞬間、それまで必死に立ててきた柱は役目を終えたかのように忘れ去られていきます。学んだ知識が社会生活や現実の問題とどう関係するのかを考える機会は、ほとんど与えられません。

これはまさに、知のタコツボ化です。教科という名の壺の中で知識を詰め込み、壺の外とのつながりを考えない。その延長線上に、社会に出てからも全体を見渡せず、自分の担当領域だけに閉じこもる人間が生まれていくのは、ある意味で必然なのかもしれません。

このタコツボ構造は、戦前・戦中の日本にも重なります。

昭和の戦争を振り返れば、日本帝国において陸軍と海軍が事実上バラバラに行動していたことはよく知られています。国家存亡をかけた局面でさえ、組織間の連携や相互理解が欠如していた。ここにも、巨大なタコツボが並列して存在していた姿を見ることができます。

この図の下半分に描かれているのは、そうした「内輪だけの狭いコミュニティ」です。

外部の声は遮断され、異なる価値観は拒絶される。内部では自己正当化が繰り返され、やがて他の共同体に対して敵意すら向けるようになります。閉じこもるだけでなく、他者に対して攻撃的になるのが、この構造の危険な特徴です。

最たる例として、この図では宗教を象徴的に描いています。

本来、宗教は人間の内面を支え、倫理や節度をもたらすものだったはずです。しかし、共同体が自閉化すると、宗教は排他的なアイデンティティ装置へと変質します。「自分たちだけが正しい」「外は敵だ」という思考が強化され、反目と対立が固定化されていきます。

そして、この構図は宗教に限りません。昨今の世界情勢を見渡すと、強大な軍事力や経済力を持つ国家や巨大組織が、外部からの監視やコントロールを受けないまま、自分たちの利益と面子のためだけに行動している姿が目に入ります。閉じこもるだけでなく、他の共同体に対して攻撃的になる。その姿は、巨大化した自閉的共同体そのものです。

一方で、この図の上半分は「本来あるべき姿」を示しています。

組織は別であっても、人間である以上、相互理解と相互扶助が可能なはずです。立場や役割が違っても、対話を通じて相手の状況を想像し、必要であれば手を差し伸べる。そこには壁はあっても、完全な断絶はありません。

この上半分を貫くキーワードが「寛容」です。

寛容とは、相手に迎合することでも、無条件に許すことでもありません。自分とは異なる価値観や立場が存在することを認め、その存在を前提に関係を築こうとする態度です。教育においても、組織においても、国家においても、この寛容がなければ統合の梁は架かりません。

タコツボ社会の怖さは、当事者自身がその閉塞に気づきにくい点にあります。壁の内側だけが世界になり、外が見えなくなる。その状態が長く続くと、疑問を持つこと自体が裏切りとみなされるようになります。そうして社会は静かに、しかし確実に硬直していきます。

30年前に描いたこの図の問題意識は、残念ながら色あせるどころか、いまや日本社会を超え、世界全体の課題として私たちの前にあります。だからこそ、この図は過去の回顧ではなく、現在への警鐘として、改めて読み直されるべきものだと傲慢なジジイは思うのです。

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2026年1月29日木曜日

人生を400メートル走として考える

 
人生を400メートル走にたとえて考えてみます。

一番重要なことは、人生は不可逆的だという点です。
つまり、二周目はありません。一周のみです。

そして人生は、「100メートル走」でもなければ、「フルマラソン」でもありません。

400メートル走は、短距離のようでいて、実は過酷な中距離走です。

最初から最後まで全力疾走はできない。
かといって、ペースを誤れば、最後に必ず失速する。
この感覚は、人生の実感に驚くほどよく似ています。
アスリートでもない私が言うのも少し滑稽ですが、それでもこの比喩は捨てがたい。

人生のスタート地点は直線ではなく、第一コーナー付近に置かれています。つまり私たちは、生まれ落ちた瞬間から、すでにカーブを走らされている存在だ、という前提です。

家庭環境、教育、社会制度、時代背景。

自分では選べない条件の中で、身体はすでに傾き、遠心力を受けながら走り始めている。

人生は「よーいドン」で公平に始まるわけではありません。
すべての人が「gifted」ではないのです。

第1コーナー(20代)──スタートダッシュの誘惑

20代は、第1コーナーです。

多くの人が、ここでスタートダッシュをかけたくなります。
努力、根性、勢い、成功体験。確かにスピードは出ます。
しかし、400メートル走で最初に飛ばしすぎると、後半に必ずツケが回る。
人生も同じです。

ここで重要なのは、自分の軸足を確認することです。
自尊心とは何か。自分は何を武器に走るのか。
それを見極めないまま飛ばすと、後半で必ずフォームが崩れます。
恋愛もする。結婚もする。親になるかもしれない。
人生が一気に複雑になり始める時期でもあります。

第2コーナー(30〜40代)──バックストレッチへの備え

30代から40代にかけては、第2コーナーからバックストレッチに入る局面です。
まだ走れる、という感覚がある一方で、40歳を超えたあたりから、勢いだけでは通用しなくなります。

前半でどれだけ無理をしたか。
どれだけ自分の体力・能力・環境を冷静に把握してきたか。
それが、このあたりで明確に表れ始めます。難しいですね。

この時期に必要なのは、ペース配分の再設計です。
惰性で走り続ける人と、一度フォームを整え直す人との差が、
静かに、しかし確実に開いていきます。

バックストレッチ(50代)──不可逆の変化を受け入れる

50代は、人生のバックストレッチです。
ここで初めて、多くの人が気づきます。
――人生は不可逆的だ、という事実に。

体力は落ちる。回復は遅くなる。
若い頃のように無理は効かない。
だからこそ重要になるのが、「状態測定」です。
他人と比べるのではなく、自分の現在地を正確に知ること。
それができなければ、最後までは持ちません。

第3コーナー(60代)──力を抜くという技術

60代は、第3コーナーです。
ここでは、あえて「頑張らない」ことが戦略になります。
肩の力を抜き、無駄な緊張を手放す。
人生後半では、「力を入れる技術」よりも、「力を抜く技術」のほうが重要になるのです。

若い頃に身につけた「頑張り方」が、
人生後半ではむしろ足かせになることもあります。 

第4コーナー──最後の直線に向けて

第4コーナーに入る前までに、

何度でも読み返せる本。
気の置けない友人。
いくつかの趣味。

こうした「支点」を持っているかどうかが、最後の走りを左右します。

400メートル走の最後は、気力だけではどうにもなりません。
最後のチャンスは確かに存在しますが、それは奇跡ではありません。
それまでの走りの結果なのです。

人生は、やがて「私」から「公」へと重心を移していきます。
自分のためだけに走る人生から、
自分の経験や失敗が、誰かの役に立つ走りへ。

それは、社会に尽くせ、という話ではありません。
自分の経験や失敗が、誰かの役に立つ局面が増えていく、という自然な変化です。

残りの時間をどう楽しむか。
  
考えるためのフレームワークとして、
人生を400メートル走として捉えることには、十分な意味があるように思います。

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2026年1月28日水曜日

きんぴら


この年になりますとね、晩ごはんの献立いうもんが、
だんだん決まってきます。

わたしにとって、きんぴらごぼういうもんは、
「まあ、あったら箸のびるな」いう副菜やおまへん。
これはもう――思想ですわ。人生観ちゅうてもええ。
もっと言うたら、老後の指針みたいなもんです。

細う細う切ったごぼうに、牛肉の旨味がじわぁっと絡んで、醤油はちょっと濃いめ。
最後に、古式醤油なんかチョロっとたらすと、よろしおまんな。
鷹の爪が、これがまた赤うて勇ましい。
それをな、うっかり噛まんように避けながら、
口に運んだ瞬間ですわ。

……ああ。これや。完成してますなぁ。

きんぴらは、えらいもんです。最初から前に出てきよらん。
「わしを食え、食え」と主張せん。けど、後から効いてくる。
じわぁーっと、噛むほどに。食感がええですな。

これがまた、不思議なもんでしてな。
これがもう、人生の後半戦そっくりですわ。

若い頃はね、ステーキやの、鶏の唐揚げやの言うて、騒ぎます。
トロもそうやけど脂がのっているんがええ思うてた。
ところが、人生半ばも過ぎますと、
「今日のきんぴら、ええ出来やなぁ」
こんなこと言う自分がおる。

人はこうして、知らん間に成熟していくんですなぁ。

そもそも「きんぴら」いう名前からして、只者やおまへん。
坂田金平。金太郎はんの息子さんやそうで、怪力無双の豪傑です。
ごぼうの歯ごたえと、唐辛子の辛さを「強さ」に見立てた江戸の人の感覚、
これは大したもんです。

今は健康食品やらサプリやら、山ほどありますけど、
ごぼう一本で「強うなれ」言うてた昔のほうが、よっぽど核心突いてますわ。

戦争中の話になりますけどな、
自分らも食うもんあらへん時代に、
捕虜に木の根を食わせた言うて、虐待やと責められ、処刑された兵隊さんもいたと聞きます。木の根言うたら、今やったら健康食ですわなぁ。

木の根……つまり、ごぼうですわ。
なにをかいわんや、ですな。

さて、関西と関東の話もしておきまひょ。
関東のきんぴらは、ごぼうと人参だけ。
余計なもん入れへん。
武士みたいなもんですな。
潔い。

ところが関西は、牛肉入れよります。
これは文化です。
出汁と牛肉を愛してやまん土地柄ですさかい。
豊かで、現実的。

わたしはと言いますと、
濃いめの味付けに牛肉入り、しかもごぼうは極細。
関東の理屈と、関西の欲望を、ちゃっかり両取りしてます。
人生も料理も、ハイブリッドが一番ですわ


「最後の晩餐、何食べたい?」
こう聞かれたら、迷いません。
きんぴらごぼうでええ。
いや、「で」やない。
「が」です。

イエス・キリストはんの最後の晩餐は、えらい厳粛やったそうですが、
もしわたしの幕引きが許されるなら、

白いご飯に、
ちょい濃いめのきんぴら、
大粒の納豆、
きゅうりとなすの漬物。
味噌汁は、じゃがいも・玉ねぎ・わかめの三種入り。

これで十分。
静かに箸を伸ばして、
「ああ、いろいろあったなぁ」
そう振り返れたら、それでええ。

正岡子規はんも、病床で食べ物のことばっかり書いてはりました。
「糸瓜食いて痰のつまりし仏かな」
死ぬ間際まで、食うこと考えてた。
悲しいようで、どこか可笑しい。
生きるいうのは、食べたいと思うことやと、
子規はんは教えてくれてる気ぃしますな。

歳取ると、先のこと考える時間が増えますなぁ。
財産や墓の話も大事ですけど、
そこに「食」を入れてもええんと違いますか。

最後まで、何を「うまい」と思えるか。
それが、生きる意欲そのもんです


きんぴらのごぼうを噛みしめて、
牛肉の旨味を感じて、
「ああ、うまいなぁ」
そう思えてるうちは、人生、まだ終わってまへん。

きんぴらごぼういうもんは、
噛まんと、味がわかりません。

人生も、どうやら同じようでしてな。

おあとがよろしいようで。

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2026年1月27日火曜日

お金や契約を超えて、人が人を支えるとき ――質の高い人間関係が人生を豊かにする理由

 

人間交際の幅が広く、しかもその質が高ければ高いほど、人生は豊かになる

これは精神論でも理想論でもありません。現実に社会を生き抜いてきた人であれば、誰もが肌感覚として知っていることではないでしょうか。上の図は、そのことを非常に分かりやすく示しています。

左側に描かれているのは「公」の世界です。そこでは、お金や契約書がなければ他者は動きません。合理的で公平ではありますが、関係性は薄く、取引が終われば縁も切れます。現代社会の多くは、この「公」の論理で動いています。

一方、右側の図は「私」を中心とした人間関係の広がりを示しています。相互の「信頼と尊敬(trust & respect)」を土台に、知識や経験が共有され、時には契約書も報酬もなく、自然に手を貸してくれる人がいる。そうしたネットワークの層が厚いほど、人は孤立せず、困難にも耐えられるのです。

「甘え」が成立する場所は、どこへ行ったのか

私は以前、土居健郎の『甘えの構造』を引きながら、次のように書きました。

今の日本は「甘え」の解釈もアヤフヤだし、甘えや友情なんていうのもきわめて薄っぺらで、土居先生が『甘えの構造』で説明している「内」と「外」が曖昧になっていると思います。真の意味で甘える場所がなくなっているのではないでしょうか?

本来、人間関係のコアは家族にあり、その次に友人があり、さらに「楽屋」のような仲間と時間を共有する場があります。楽屋とは、緊張すべきステージとは異なり、失敗も弱さもさらけ出せる場所であり、同時に修練の場でもあります。

ところが今の日本では、ステージと楽屋の境界が曖昧になりました。緊張すべき場では緊張せず、緊張をほぐすための楽屋が存在しない。時間を共有し、成功も失敗も共に経験して友人をつくる手間を省き、SNSの「友達」が友達になったつもりになる――あまりにも安易です。

適度に甘えられる環境は、誰かが用意してくれるものではありません。自分で時間をかけて作るしかないのです。

信頼と尊敬がなければ、ネットワークは育たない

甘えの前提は「trust & respect(信頼と尊敬)」です。相手を尊敬するには、自分自身も尊敬されるよう努力しなければなりません。甘えの過剰は相互依存に堕しますが、健全な甘えは、人を自立へと導きます。親子関係、特に父と息子の関係は、一生をかけた trust & respect 構築のプロセスだと私は思っています。

この視点は、福沢諭吉の言う「人間交際」とも重なります。福沢は教育の要諦として、「智」「徳」そして「人間交際」を挙げました。知識やモラルだけでは不十分で、人と人との関係を築く力こそが文明の基礎だと見抜いていたのです。

映画『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)は、その逆説を鮮烈に描いています。世界最大のSNSを作った主人公が、実は最も人間交際が苦手だったという皮肉。承認を求めるあまり、唯一の親友を失っていく姿は、「成功の代償とは何か」「お金より大事な価値とは何か」を私たちに突きつけます。

人間関係は「訓練」であり、「時間」を要する

アメリカのサマーキャンプの話も、人間関係が「訓練」であり、「時間」を要するものだということを象徴的に示しています。

サマーキャンプでは、子どもたちは数週間から数か月、見知らぬ他人と寝食を共にします。異文化交流と自立心の修行の場です。最初は衝突も摩擦も起こります。価値観も習慣も違う。しかし、共同生活のなかで役割分担が生まれ、助け合いが必要になり、喧嘩をしながらも、信頼と尊敬が少しずつ積み重なっていく。友情は、イベントではなく「過程」なのです。

重要なのは、そこに近道がないという点です。人間関係は効率化できません。評価シートもKPIもありません。時間を共にし、失敗を見て、時には我慢し、それでも関係を続ける――その積み重ねの先にしか、質の高いネットワークは生まれないのです。

現代社会は、あらゆるものを「契約」と「成果」で測ろうとします。それ自体は悪いことではありません。しかし、その論理だけで人間関係まで処理しようとすると、社会は極端に脆くなります。少しの失敗、少しの対立で、関係は簡単に切れてしまうからです。

だからこそ、「お金や契約を超えた関係」が人生のセーフティネットになります。困ったときに「契約外だけど、ちょっと手伝うよ」と言ってくれる人がいるか。利害が一致しなくても、「あなたのことは信頼している」と言ってくれる人がいるか。それは、運ではありません。若い頃からの選択と、積み重ねの結果です。

最後に、あえて厳しいことを言えば(高齢者の特徴ですね、、、)、質の高い人間関係を持つには「覚悟」が要ります。時間を差し出す覚悟、面倒を引き受ける覚悟、そして自分自身も評価される覚悟です。楽な道ではありません。しかし、その覚悟を引き受けた人だけが、年を重ねるほどに人生が豊かになっていく。

お金は失えば取り戻せます。契約は更新できます。しかし、信頼と尊敬で結ばれた人間関係は、人生そのものを支える「資本」です。

それを持っているかどうか――
その差は、思っている以上に大きいのです。

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2026年1月26日月曜日

政治が幼く見える理由――親として考えたい「言葉」と教養の話

 

AIが「答え」を出す時代に、
人間に残されるのは、水面下で育つ力だ。


日本の政治を見て、私が考えていること

母国語の語彙が豊かで、表現の幅が広いほど、思考の空間も広がるのではないか。頭の中に言葉が多く存在すれば、それだけ考えを行き来させる余地が生まれる。逆に、使える言葉が少なければ、思考そのものが平板になってしまう。これは理屈というより、長年生きてきての体感です。

久しぶりに日曜朝の政治討論番組をテレビで観ました。大概は車の中で断片的にラジオで聞くのですが、 テレビで見ると、その酷さがよりはっきりします。 議論以前に、言葉が荒く、感情が表情に表れ、小学校の学級会のような政治家が多い。話している内容以上に、「この人は、どれだけ自分の言葉で物事を考えてきたのだろうか」と、そこが気になってしまったのです。言語は、その人の教養や人格を隠さずに映し出します。

もっとも、私自身も偉そうなことは言えません。語彙や表現力の乏しさに愕然とすることは、今でもあります。ブログを書くという行為は、書き手の力量を容赦なくさらすものです。その覚悟がなければ続けられない。そう思いつつ、 もう若くはありませんから 、今さら取り繕っても仕方がないと開き直って40年以上ぐだぐだと日記を書いています(年寄りは傲慢ですからね、、、、)。

突然に衆議院選挙が始まりました。日本の政治を見ていると、「政治ごっこ」という言葉が浮かぶことがあります。海外で暮らした時間が長かったせいで、私の感覚がずれているのかもしれません。しかし、テレビカメラの前で感情を制御できず、理念よりもその場の受けを優先する姿を見ると、どうしても幼さを感じてしまいます。

その原因の一つは、教養の欠如ではないかと考えています。教養とは単に知識量のことではありません。世界の歴史の流れをどう理解しているか、自分の国が国際社会でどんな位置にあるのか、そして自分自身が国民から何を託されているのかを、どれだけ自覚しているか。それらを含めた「生き方」そのものだと思います。

福沢諭吉は『学問のすすめ』で「人望」について語りました。多くの人から「あの人に任せておけば大丈夫だ」と思われること。それが教養の一つの形ではないでしょうか。権威や肩書きではなく、その人の姿勢や言葉、振る舞いから自然と伝わるものです。

政治と教育は切り離せません。国のビジョンが曖昧なままでは、教育も根を失います。義務教育は、子どもたちに日本人としての自信と希望を持たせる場であるべきだと思います。良いところも、失敗した歴史も、感情論ではなく、きちんと教える。それができなければ、考える力は育ちません。

私は本を読むとき、著者と議論するように読んできました。ページの余白に反論を書き込み、納得できないところで立ち止まる。本と格闘する経験は、思考の基礎訓練になります。討論番組が討論にならないのは、こうした訓練が不足しているからかもしれません。

オルテガは『大衆の反逆』で、凡庸さが権力を握る危険を指摘しました。思想を持たないまま声だけが大きくなり、創造的な少数を敵視する。マス・メディアやSNSが発達した現代では、その傾向はより強まっています。自分で考える努力を放棄した社会は、外からいくらでも誘導されてしまうでしょう。

それでも、私は絶望だけを語りたいわけではありません。教育を通じて、母国語で考える力を取り戻すことは可能だと思っています。AIが普及する時代だからこそ、自分の頭で問いを立て、判断する力が一層重要になります。

日本の政治に違和感を覚えるのは、政治家だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもある。そう自戒しながら、これからも考え続けていきたいと思います。上手な答えは出なくても、考えることをやめない。それだけは手放したくありません。

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2026年1月25日日曜日

精神のリレーは、どこで途切れたのか ――本を読まなくなった日本と、子どもたちに何を手渡せるか

 
北斎の地方測量の図

江戸時代という「成熟した社会」


私は、江戸時代を高く評価しています。もしかすると、日本人が最も安定し、最も「幸せ」に近い時代だったのではないかとさえ思うのです。それは決して、貧しさや身分制度を美化したいという意味ではありません。むしろ、江戸社会が持っていた身の丈に合った統治、共同体のサイズ感、教育と道徳の在り方に、現代の日本が失ってしまった多くのヒントが隠されていると感じるからです。

明治政府は、幕藩体制を解体し、西欧型の近代国家を急いで作ろうとしました。しかし、その近代化はどこか「上滑り」でした。国家のために働くという意識を、制度としては導入できても、精神としては根付かせることができなかった。結果として、日本人にとっての統治の単位は、国家ではなく、最後まで「村」や「地域共同体」に留まったのではないでしょうか。

江戸時代の社会は、藩という分権的な構造のもと、村落共同体が生活と秩序を支えていました。人々は顔の見える関係の中で生き、過度な競争や中央集権的な管理とは無縁でした。コントロールスパンとしては、まさにそこが限界であり、同時に最適解だったのだと思います。

教育も同様です。全国に三万以上存在した寺子屋は、庶民のための実に優れた教育システムでした。教師と生徒という関係ではなく、師匠と弟子、人と人との信頼関係を軸に、「教える」よりも「学ぶ」ことが重視されました。年長者が年少者を教え、知識だけでなく、徳や振る舞いを自然に身につけていく。これは、現代のeラーニングや画一的な教育制度では決して代替できないものです。

また、江戸時代の日本人は、決して内向きではありませんでした。いわゆる「鎖国」とは、世界から目を閉ざした政策ではなく、宗教を侵略の道具としない国々と選別的に交流する、極めて現実的な外交戦略でした。ペリー来航以前に、欧米が日本を高度な教育水準と治安を誇る国として認識していた事実は、もっと知られてよいと思います。

明治以降、無理な近代化は多くの歪みを生みました。その矛盾の隙間に軍国主義が入り込み、昭和の十五年戦争へと突き進み、敗戦後はアメリカの庇護のもとで「思考停止の平和」と「自己欺瞞」が続いています。国家の独立とは何か、日本人の誇りとは何かを、正面から考える機会は、先送りされ続けてきました。

江戸時代の人々は、落語や時代小説に象徴されるように、ユーモアと余裕を持ち、葛藤や緊張と共に生きていました。多様性があり、均一ではなかったからこそ、個人と集団の間に健全な摩擦が存在していたのです。今の金太郎飴のような社会より、よほど成熟していたのではないでしょうか。

グローバル化とは、無国籍になることではありません。自分の立脚点を明確にし、他者と向き合うことです。江戸時代の日本人が自然に持っていた愛郷心や倫理観は、日本のアイデンティティの重要な欠片です。それらをゼロから作り直す必要はありません。忘れ去られたものを、一つひとつ拾い集め、つなぎ直せばいいのです。

江戸時代を見直すことは、過去に逃げることではありません。日本人がどこから来て、どこで道を誤ったのかを知るための、未来への作業なのだと思います。
  
では、精神のリレーは、いったいどこで間違ったのでしょうか。
  
本を読まなくなったこと、それ以上に、「物語を共有しなくなったこと」が決定的だったと思います。今の日本では、精神のリレーが完全に途絶える可能性すら出てきました。これは大げさではありません。由々しき事態です。しかも、生成AIの中途半端な理解は、その断絶にさらに加速度を与えています。

だからこそ、私は、江戸時代の小説や時代劇の価値を、あらためて見直すべきだと考えています。もし公共性という言葉に意味があるのなら、政府がファンドしてでも、時代劇を作り続ける意義は十分にあるはずです。

害を及ぼすことしかないテレビ番組、特に「報道番組」と称しながら思考を奪うだけの番組を無くし、日本の文化や精神を未来へリレーする物語に投資する。これは懐古ではなく、未来への戦略です。

江戸時代を学ぶとは、過去に戻ることではありません。日本人が何を大切にし、どこで受け渡しを誤ったのかを知ることです。精神のリレーを、もう一度つなぎ直す。その作業を放棄した社会に、未来はないのだと思います。

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2026年1月24日土曜日

なぜ日本は「狡猾(したたか)」になれなかったのか ――事実の隠ぺいと自己欺瞞、そして失われた政治感覚

 何を守り、何を子どもへ渡してきたのだろうか?

<正論>日本の国際政治上の威信維持へ「狡猾の感性」を復権させるとき
東洋学園大学教授・櫻田淳  2026/1/22 08:00

https://www.sankei.com/article/20260122-NK6UUOGF7JKRFBIHT3ZRPSC6WI/


永井陽之助の名前を目にして、久しぶりにその議論を思い出しました。それは、日本が国際政治の現実をどう見誤ってきたか、という問題です。 永井氏といえば、エリック・ホッファーの翻訳で知られていますが、同時に、日本の国際政治論に「現実を見る目」を持ち込んだ人物でもありました。

事実の隠ぺいや自己欺瞞の歴史は、どの国にもあります。アメリカにも、イギリスにも、フランスにもあります。問題は、それが存在するかどうかではなく、それを「自覚している人がどれだけいるか」ではないでしょうか。私には、日本はこの点で、他国よりも厳しい状況にあるように思えます。

中国共産党は、その典型でしょう。彼らは自らの正統性が脆弱であることを、少なくとも内心では理解しています。だからこそ、狡猾であり、計算高く、国際社会に対して仮面を使い分ける感性を持っている。これは道徳的に評価すべきことではありませんが、政治的現実としては否定しがたい事実です。

アメリカも同じです。トランプ氏の振る舞いは、しばしば中国の習近平と比較されますが、私には両者は本質的に似た存在に見えます。共産党という組織ではなく、「トランプ帝国」という個人に権力が集中しているだけの違いです。そこに理念があるかどうかより、力をどう使うかが優先されている点では、大差はありません。

では、日本はどうでしょうか。日本はしばしば「威信」を語りますが、そもそもアメリカの強い影響下にあるこの国に、失われるほどの威信が本当に残っているのか、私は疑問に思います。道徳を語る一方で、現実政治における計算や狡猾さを軽視し、結果として誰にも本気で相手にされない――そんな立場に陥ってはいないでしょうか。

和魂洋才や面従腹背といった言葉が示していた明治の気骨は、もはや一ミリも残っていない。そもそも明治の近代化そのものが、精神の近代化を本気で引き受けたものだったのかと問えば、答えは心もとない。制度や技術は西洋から急ごしらえで移植したが、内面の自立や批判精神までは育たず、近代化は結局、表層的な西洋化にとどまりました。

昭和の敗戦後、日本はその反省すら十分に行わないまま、今度はひたすらアメリカ化へと突き進んだ。とはいえ、昭和の時代には、ほんの数ミリではあれ、反骨精神を保ち続けた知識人が存在していたようにも思います。ところが現在はどうでしょうか。「敵」と「味方」を峻別する本質的な政治感覚や、立場や価値観の「濃淡」や「差異」を読み取る感受性は、どれほど雑巾をしぼっても、水一滴すら出てこないほど枯れ果ててしまった。

櫻田淳氏が述べる「狡猾の感性」とは、道徳を捨てることではありません。むしろ、道徳や倫理の価値をよく理解したうえで、それをいつ、誰に対して、どのように使うのかを判断する能力のことです。「国際政治では力こそがすべてだ」という単純な現実主義に流されることも、逆に、きれいごとだけで世界が動くと信じることも、どちらも危うい。

日本に必要なのは、純粋さでも、潔癖さでもなく、自分たちが置かれている現実を直視する冷静さではないでしょうか。自己欺瞞に気づかないまま道徳を語ることほど、国際政治の場で危険なことはありません。永井陽之助が語った「狡猾の感性」は、いまこそ、日本が取り戻すべき感覚なのだと思います。

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2026年1月23日金曜日

この国で、子どもに“考える力”は育つのか――選挙前に、親が立ち止まって考えたいこと

 
井の頭通りに日が昇る
この道を、誰が、どんな言葉で照らすのか


この国で、子どもに“考える力”は育つのか

選挙が近づくたびに、私はどうしても同じ違和感を覚えます。

それは特定の政党や政治家への好き嫌いというより、「この国の政治や言葉のレベルは、子どもたちに胸を張れるものなのだろうか」という、もっと根の深い不安です。

母国語である日本語は、本来とても豊かな言葉を持っています。語彙が豊かであればあるほど、頭の中で考えられる空間は広がります。考える力とは、知識の量ではなく、言葉の奥行きなのだと思います。ところが、日本の政治家の発言を聞いていると、言葉が軽く、感情的で、どこか子どもっぽく感じられることが少なくありません。言葉が浅ければ、思考も浅くなる。そのことが、そのまま政治の質に表れているように見えるのです。もちろん、私は政治家ではないので、自分の事は棚に上げています。

政治がしっかりしなければ、教育は成り立ちません。

外交、国防、経済、そして教育は本来、一本の線でつながっているものです。ところが日本では、教育だけが切り離され、「いい学校に入る」「テストで点を取る」ことが目的になってしまいました。その結果、子どもたちは忙しくなりすぎ、自分で考えるための“余白の時間”を失っています。

私は、子どもにとって本当に必要なのは「閑暇(かんか)」だと思っています。何も予定のない時間、ぼんやりする時間、考え込む時間です。塾や習い事が悪いわけではありませんが、大人が良かれと思って与えすぎると、子どもは自分で判断する力を育てる機会を失ってしまいます。自分で選び、自分で決める経験こそが、将来の自立につながります。

教育の根っこにあるのは、家庭です。どんな生き方が大切なのか、何を恥だと思い、何を誇りに思うのか。そうした価値観は、教科書よりも、家庭の会話や大人の背中から伝わります。だからこそ、政治が無責任で、言葉が軽く、誰も責任を取らない社会は、子どもにとって決して良い環境とは言えません。

選挙になると、耳ざわりのいい言葉があふれます。「平等」「優しさ」「支援」「みんなのため」。どれも大切な言葉です。しかし、言葉だけで現実は変わりません。努力や責任、そして「自分は何を引き受けるのか」という覚悟がなければ、社会は成り立たないのです。

アメリカのケネディ大統領(JFK)はかつて、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」と語りました。もし同じ言葉を日本の政治家が口にしたら、戸惑う人も多いかもしれません。それほどまでに、私たちは「与えられる側」でいることに慣れてしまったのです。

でも、子どもたちにそれを引き継がせていいのでしょうか。流れに身を任せるのではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の人生を選び取る力。その力を育てることこそ、親世代である私たちの責任ではないでしょうか。

選挙は、未来への問いかけです。

誰に投票するか以上に、「どんな社会を子どもに手渡したいのか」を考える機会だと思います。政治を他人事にせず、言葉の軽さに慣れてしまわず、家庭からもう一度、考える力を取り戻す。その小さな積み重ねが、この国を少しずつ変えていくのだと、私は信じたいと思っています。

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2026年1月22日木曜日

私たちの住む街は、どこから来たのか ――『警視庁物語』と『鉄人28号』が教えてくれる戦後のリアル


本題に入る前に、まず二つの作品について簡単に触れておきたいと思います。どちらも、いまの子育て世代の親御さんにとっては、名前すら聞いたことがないかもしれません。

『警視庁物語』は、1950年代後半に制作された映画シリーズで、戦後まもない東京を舞台に、警視庁の刑事たちが集団で事件を捜査する姿を描いた作品です。派手なアクションやヒーロー的活躍はなく、実際の街並みの中で、聞き込みや地道な捜査を重ねる様子が淡々と描かれています。当時の東京の空気を、ほとんど記録映像のように残している点が特徴です。

一方の『鉄人28号』は、同じ時代に連載が始まった漫画で、巨大ロボットを操る少年が活躍する物語です。一見すると子ども向けの空想作品ですが、物語には警察組織が深く関わり、戦後の社会不安や復興期の日本が背景として描かれています。ロボットという非現実的な存在を通して、当時の現実が映し出されている作品です。

私が『警視庁物語』と『鉄人28号』を特別に好んでいる理由は、この二つの作品に共通して「戦後の地続きにあるリアリティ」が色濃く描かれているからです。物語としてのジャンルは、刑事映画と少年向け漫画・空想科学作品と大きく異なりますが、その根底に流れている時代の空気には、驚くほどの共通性があります。

私は、戦争を直接体験した世代でもなく、終戦直後の混乱を生きた世代でもありません。しかし、自分自身が形作られていったのは、まさに「戦後」という時間が連続した延長線上にある社会でした。焼け跡は姿を消しつつも、価値観や人々の記憶、社会の歪みは、まだあちこちに残っていた時代です。その感覚と、『警視庁物語』や『鉄人28号』の世界観が、私の中で自然につながっているのだと思います。

とりわけ『警視庁物語』が描いている昭和30年代の東京には、戦後日本の生々しい現実がそのまま刻み込まれています。上野や浅草、新宿といった街並みは、いまの整然とした都市の姿とはまったく異なり、舗装されていない道や、仮設のような建物が残る混沌とした風景が広がっています。一方で、建設中のビルや新しい鉄道が映り込み、高度経済成長の入口に立った社会の熱気と不安が同時に感じられます。これは単なる舞台装置ではなく、復興途上の日本そのものを記録した「生きた映像」だと感じます。

事件の背景に描かれる人々の姿もまた、戦後の傷跡と直結しています。混乱期に身分を偽って生き延びた人間の不安、地方から都会に出てきたものの、居場所を見つけられずに困窮する人々、戦災孤児が成長した先に待っていた厳しい現実。こうした要素は、犯罪を単なる悪としてではなく、時代が生み出した歪みとして浮かび上がらせます。そこに、戦後社会のリアリティがあります。

一方で、『鉄人28号』もまた、空想科学という形をとりながら、戦後の現実をしっかりと内包しています。巨大ロボットが登場しても、物語の中心にあるのは、警察組織や大塚署長の存在であり、社会秩序を守ろうとする大人たちの姿です。超人的なヒーローがすべてを解決するのではなく、「組織の一員」としての警察が描かれる点は、『警視庁物語』と通底しています。

刑事たちは泥臭く聞き込みを重ね、夜を徹して議論をしながら、一つひとつ事件を解決していきます。その姿には、戦後の不安定な社会の中で、法と秩序を積み上げようとした時代の意志が感じられます。私にとって、それは単なるノスタルジーではなく、自分自身が育ってきた社会の「原風景」を見つめ直す行為でもあります。

『鉄人28号』が空想というフィルターを通して描いた戦後、『警視庁物語』が現実の街角から切り取った戦後。その両方が示している「地続きのリアリティ」こそが、私がこの二つの作品に今なお強く惹かれる最大の理由なのです。

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2026年1月21日水曜日

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

 

正解を探すのではなく、関係を読み直す。
AI時代に、国語が本来育ててきたはずの力。

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

~ 共通テスト現代国語と、ある事件をきっかけに

「性的ディープフェイク」で女性芸能人に似せたわいせつ画像を作成し、会員制サイトに掲載した疑いで、警視庁が31歳の男を逮捕した――そんなニュースを目にしました(2026年1月20日、読売新聞)。

AIを使って実在人物の性的画像を生成し、販売していたという内容です。いわゆる「性的ディープフェイク」と呼ばれる、新しい形の性暴力犯罪だとされています。映像や画像そのものはAIが作り出した虚構ですが、被害を受けるのは現実の人間です。技術の進歩が、人の尊厳を踏みにじる形で使われてしまったという事実に、私は強い違和感と不安を覚えました。

このニュースをきっかけに、今年の大学入学共通テストの現代国語の問題を読み返しました。

出題文は、桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」です。そこでは、美術とは作者が意味を一方的に伝えるものではなく、鑑賞者や社会との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張が語られていました。私はこの考え方に深く共感しました。意味は作品の内部に閉じているのではなく、人と人、人とモノとの関係性の中で立ち上がるものだ、という視点です。

この「関係性の中で意味が生まれる」という考え方は、美術鑑賞に限らず、情報を受け取る態度そのものにも通じるのではないでしょうか。フェイク情報の多くは、単独で提示され、文脈や他の視点から切り離された形で流通します。一枚の刺激的な画像、一つの断定的な言葉だけが孤立して提示される。だからこそ、それが事実であるかのように見えてしまうのです。

逆に言えば、複数の情報源、異なる立場、反証の有無などを照合し、情報を関係性の中に配置し直すことで――いわばコンステレーションを描き直すことで――初めて見えてくるものがあります。これは、桜井氏の言う「贈与としての美術」と同じ構造ではないかと感じます。つまり、フェイクを見破るには、個々の情報の真偽だけでなく、その背後にある関係性まで含めて考える必要がある、ということだと思います。

コンステレーション

「コンステレーション(constellation)」は主に「星座」という意味ですが、転じて「多数の人工衛星群」や「一群の要素が構成する配置・まとまり」などを指し、ユング心理学やデジタル通信分野でも使われる言葉です。

ただし、この話を国語教育、とりわけ大学入試の現場に当てはめてみると、話は少しややこしくなります。

高校の現代国語は、本来、価値観の多様性に触れ、思考の幅を広げるための教科だったはずです(これは私の独自解釈かもしれません)。ところが、受験の現場では、思考をできるだけ限定し、設問の意図に最短距離でたどり着くスキルが求められます。予備校の現代国語講座を見ても、効率よく点数を取るための「型」が前面に出ています。自由に考える力は、むしろ邪魔者扱いされているようにも見えます。

最後に、改めて考えたいと思います。AI時代に本当に必要なのは、あらかじめ用意された正解を素早く当てる力ではなく、断片的な情報を文脈の中に置き直し、関係性を組み替えて意味を立ち上げる力ではないでしょうか。そして、それこそが本来、国語教育が担ってきた、あるいは担うべき役割だったのではないか――教育の素人の私はそう感じています。

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2026年1月20日火曜日

国語教育、本当に“考える力”を育てていますか? ――共通テスト現代国語から考える

点数にならない思考の痕跡

今年の大学共通テストの現代国語を見て、正直なところ、複雑な気持ちになりました。

出題された桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」は、限られた抜粋からでも、きわめて示唆的な文章だと感じました。美術とは、意味を一方的に伝達するものではなく、他者との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張には、私は全面的に同意します。これは美術論にとどまらず、深層心理学で言うコンステレーション、すなわち関係性の中で意味が立ち上がるという考え方にも通じるものだと思います。

ところが、その文章を素材として作られた設問を見たとき、私は強い違和感を覚えました。文章の思想の深さと、設問の性質との間に、あまりにも大きなギャップがあるのです。もちろん、全国一斉試験である以上、採点の公平性や効率性が最優先されるのは理解できます。しかし、その結果として、著者が本当に語ろうとしている核心部分――関係性の中で意味が生成されるという動的な思考――は、ほとんど切り落とされてしまっているように見えました。

私は共通一次試験以前の世代で、センター試験も共通テストも経験していません。したがって、これはあくまで外野からの、しかも無責任な高齢者の感想にすぎません。それでも、昨日あらためてYouTubeで予備校の現代国語講座をいくつか見て、違和感は確信に近いものになりました。そこでは、文章をどう読むかよりも、どう「処理」すれば7〜8割の点数を短期間で取れるか、というテクニックが前面に出ていました。効率的ではありますが、高校の国語教育や、出題者が掲げているはずの理念とは、どうも別の方向を向いているように感じました。

整理すると、高校の授業、受験準備(塾・予備校)、試験問題、大学での4年間、そして社会人生活の間には、いくつもの断絶があります。高校で学んだ内容は、受験の段階で「点数」に変換され、管理しやすい形に加工されます。そして入試が終わった瞬間、その多くは泡沫のように消えていく。これは、ある意味で日本文化らしいとも言えますが、あまりに惜しい話です。さらに言えば、授業設計と現場の教師の間にもギャップがあり、現代国語と歴史など他教科との統合、いわば「梁」が存在しないため、知は柱のまま、やがて一本一本倒れていきます。

高校の現代国語の教科書と、予備校の国語講座を比べてみて、決定的な違いにも気づきました。高校国語は、本来、視野を広げ、価値観の多様性を学ぶためのものだったはずです。一方、入試問題で求められるのは、思考の幅を狭め、型にはめ、正解を一つに収束させるスキルです。自由な思考は、序列化しにくく、管理しにくいからです。

こう考えると、現行の受験制度は、高校国語教育の目的を事実上否定しているようにも見えます。皮肉なことに、いまのAI時代に本当に必要とされている「考える力」や「統合的な知」は、高校国語が本来目指していた方向にこそあります。それを受験が真逆の方向に引っ張っている。この矛盾を、学校も塾も、ある程度わかっていながら、システムを変えない。どこか、見て見ぬふりをしているようにも感じます。無責任だとは思いませんか?

拙宅の近くには、教育評論家の有名人が住んでいます。つかまえて聞いてみたい気もしますが、たぶん武蔵野警察に通報されるでしょう。冗談はさておき、日本の教育問題は、それほど根が深いのだと思います。そしてAIの時代だからこそ、点数化できない思考や、人と人、人とモノとの関わりの中で、少しずつ育っていく理解や気づきを、もう一度大切にする必要があるのではないでしょうか。
 
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2026年1月19日月曜日

なぜ教育は、劣等感を手放せない人を育ててしまうのか ――「理想との距離」では測れないもの

最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。

ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。


比較しない人生と、「自分の軸」

私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。

その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。

中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。

この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。

劣等感と優越感は、同じ根から生える

劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。

そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。

政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。

これは決して珍しい話ではありません。

国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」

日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。

国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。

教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。

これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。


同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している


「未熟さ」を生きるという態度

私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。

未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。

劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。

劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。

少し、大げさですかね?

AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか

ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。

この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。

しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。

人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。

むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。

他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。

劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。

AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。

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2026年1月18日日曜日

子どもに“自由”を教えられていますか? ――人生の自由度ランキングを読んで、親として考えたこと

人生の自由度ランキングと、日本人の「自由」

先日、あるビジネス誌に「人生の自由度ランキング」という記事が掲載されていました。世界価値観調査をもとに、「自分の人生をどの程度自由に動かせると思っているか」という問いへの回答を国別に比較したものです。結果は、日本が世界で下から3番目。レバノン、ギリシャに次ぐ低さだそうです。

https://diamond.jp/articles/-/380018

この数字を見て、「やはり日本は不自由な国なのだ」と絶望する人もいるかもしれません。一方で、記事の筆者は慎重です。この調査は社会制度としての自由度を測っているのではなく、日本人の人生態度、つまり慎重さや期待値の低さを反映しているにすぎない、と説明しています。人生が自由だと感じていなくても、日本人は比較的幸福であり、「不自由でもあまり嘆かない国民性」があるのだ、というわけです。

なるほど、統計の読み方としては誠実だと思います。ただ、私はこの記事を読みながら、どうしても引っかかるものが残りました。

私は、アメリカ企業で働き、アメリカで20年ほど家族とともに暮らしました。子どももアメリカで育てています。また、中国で働いた経験もあります。ですから、ここで述べることは、全くの想像や伝聞ではありません。もちろん、私の見解が正しいと主張するつもりもありませんが、少なくとも実体験に裏打ちされた感覚ではあります。

高校一年のとき、夏目漱石の『私の個人主義』を読みました。それが直接のきっかけだったかどうかは分かりませんが、私はその頃から「自由と責任」という言葉について、妙に考えるようになりました。もっとも、学校の勉強とは一線を画し、正直に言えば、授業をサボって喫茶店に行くための言い訳に使っていた面もあったと思います。学校をサボって大阪ミナミの喫茶店にいると、不安になる。その不安を打ち消すために、哲学的なことを考えている「つもり」になっていた、というのが実態でしょう。

それでも、漱石の言葉はいまも頭のどこかに残っています。漱石は講演の中で、次のように述べています。

「自己本位といふ事は、利己主義といふ意味ではない。
他人の自由を認めた上で、はじめて成立つものである。」


この一文は、私にとって長いあいだ、自由を考える際の基準のようなものになっています。

ビジネス誌の記事が扱っている「自由」は、「人生を自由に動かせると感じているか」という主観的な感覚です。しかし、私がアメリカで感じた自由は、それとは少し異なるものでした。自由とは、選択肢が多いこと以上に、「選んだ結果について自分で引き受けること」を求められるものだったからです。転職も、異動も、教育も、失敗も、基本的には自己責任です。自由である分、常に緊張があり、安心はありません。

一方、日本では、人生を「自由に動かせるとは思っていない」人が多いにもかかわらず、幸福度はそれなりに高い。これは美徳とも言えますが、別の見方をすれば、「自由を行使しなくても回ってしまう社会」にうまく適応してきた結果とも言えるのではないでしょうか。

自由を感じないことと、自由がないことは、本来は別の問題です。

健全な迷子と、不健全な迷子
――自由とは、正解を与えられない状態に耐え、考え続ける力でもある

しかし、自由を使わずに済む状態が長く続けば、やがて自由そのものを求めなくなります。漱石が警告したのは、自由を奪われることよりも、「自由を扱えなくなること」だったのではないか、私はそう思います。

人生の自由度ランキングは、日本社会を断罪するためのものではありません。ただ、「自由をどう感じるか」ではなく、「自由をどう使い、どこまで責任を引き受けてきたか」を、私たち一人ひとりが考え直すきっかけにはなるはずです。数字そのものよりも、その数字を前にして何を考えるのかが、いま問われているのだと思います。

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2026年1月17日土曜日

AI時代に露呈する日本教育の構造的欠陥

 
AIに何を教えるかではなく、AIの答えをどう疑い、どう判断するか。
その力を、日本の教育は育ててきただろうか。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40097

フェイクニュース時代に必要な“科学リテラシー”とは?AI、SNS全盛で混沌とする社会を生き抜く術
横上菜月( Wedge編集部)


日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか

生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。

しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?

日本の教育は考える訓練になっているか?

日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。

欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。

この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。

受験システムが破壊する思考の連続性


さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。

直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。

つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?

ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。

これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。

国語教育と受験の致命的な乖離

問題は、
  • 現代国語の内容を設計した人々
  • 受験テクニックを教える塾・予備校
  • 現場の教師
この三者の間に、埋めがたい断絶があることです。
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
  • 思考のフレームワーク
  • 抽象化する力
  • 異なる価値観を往復する知性
を育てたかったはずです。

しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。

結果として、
  • 学校で習う国語:視野を広げ、多様な考え方を学ぶ
  • 受験で求められる国語:思考を限定し、迷わず切り捨てる
という正反対のベクトルが同時に存在することになる。

善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。

AI時代に露呈する日本教育の弱点

生成AIは、この問題をさらに露わにします。

AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。

コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。

教育を変えなければ、未来は変わらない

日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。

フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
  • 母国語で深く考える力
  • 科学的根拠を確率として評価する態度
  • 思考の幅を広げたうえで判断する知性
です。

教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。

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2026年1月16日金曜日

AIハルシネーション政治 ――考えている「ふり」の世界

 

考えているように見える。
だが、何も考えていない。

イアン・ブレマーの2026年の世界10大リスク

イアン・ブレマーは、アメリカを代表する国際政治学者であり、世界の政治・経済リスクを分析するコンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創設者です。国家間の軍事衝突や金融危機だけでなく、テクノロジーや社会変化が民主主義に与える影響を読み解くことで知られ、各国政府やグローバル企業の意思決定に大きな影響を与えてきました。

毎年発表される「世界10大リスク」は、未来予測というより、世界が見落としがちな「構造的な危うさ」を可視化する警告として注目されています。

イアン・ブレマーは、2026年の世界的リスクの一つとして「ユーザーを食い尽くすAI」を挙げました。

彼が最も警戒しているのは、AIが人間を超えることではありません。人間が考えなくなることです。おこがましいですが、これは私がコロナ禍のころから言い続けてきたことでもあります。

ここで重要なキーワードがあります。
「AIハルシネーション」です。

ハルシネーションとは、AIが「それらしく聞こえるが、事実でも理念でもない答えを、もっともらしく作り出してしまう現象」を指します。一見、筋が通っているように見える。言葉も整っている。ところが、よく見ると根拠も責任も現実認識も欠けている――それがAIハルシネーションです。特に現実認識、いわゆる as-is に弱い。原因と結果の間に立ち、同じ目線で丁寧に考えるようなことは、基本的にしません。

考えている「ふり」をする新党結成の正体

昨日発表された、野党同士による新党結成のニュースを聞いた瞬間、この言葉が頭をよぎりました。

立憲民主党の野田佳彦代表は、「200人近く擁立しなければ比例票が出てこない」と語ったそうです。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、「選挙目当てではない」と述べるにとどまり、目標数すら示しませんでした。
  • 理念は語られない。
  • 国家像も語られない。
  • 政策の一致点も検証されない。
あるのは、「それっぽい言葉」と「選挙にかかわる数字」だけです。

これは熟議の結果なのでしょうか。それとも、「野党が勝つための最適解を出せ」と入力し、AIが吐き出したハルシネーション的アウトプットなのでしょうか。私のこの疑問、なかなか面白いと思いませんか?

ブレマーが警告するAIの最大の危険性は、エンゲージメント――つまり人を動かす効率――を最大化するために、意味や真理を切り捨ててしまう点にあります。そこでは、「正しいかどうか」ではなく、「反応を得られるかどうか」だけが価値基準になります。少し立ち止まって、よく考えてみてください。

今回の新党構想は、まさにそれと同じ構造を持っています。
  • 勝てそうかどうか
  • 数が取れるかどうか
  • 動員できるかどうか
これらはすべて「出力」であり、「目的」ではありません。にもかかわらず、政治の中枢がそこだけを語っているように見えます。

AIハルシネーションの怖さは、「間違い」よりも「空虚」にあります。完全な虚構ではない。しかし、そこに責任を引き受ける主体がいない。――日本の政治に、実によく似ていませんか?

今回の新党結成も、同じ匂いがします。失敗したとき、誰が何を誤ったのかを説明できない。なぜなら、最初から「なぜそれをやるのか」が存在していないからです。日本の大規模な業務改革プロジェクトを思い出す方も多いでしょう。

ブレマーはこう言います。

熟議民主主義には、独立して考え、情報を持ち、積極的に関与する市民が必要だと。しかし今、日本の政治が示しているのは、その正反対です。考えず、感じず、ただ「それらしい回答」を並べる。これはAIに支配される未来ではありません。AIの振る舞いを真似てしまった人間の劣化です。

AIには理念もビジョンもありません。しかし、人間までそれを放棄したとき、民主主義は単なるアルゴリズムになります。理念もビジョンもない日本の政治とは、残念ながら相性がいい。

今回の新党結成は、政治的決断とは言いにくいでしょう。政治を装ったAIハルシネーションなのです。

ブレマーの警鐘は、シリコンバレーだけに向けられたものではありません。すでに、日本の政治状況そのものに、はっきりと響いています。

――人間は、まだ自分で考えているのでしょうか。

この問いに答えられない政治に、未来を語る資格はありません。

***

2026年1月15日木曜日

寛容さという、いちばん難しい技術

 
20年ほど前、ニューヨーク郊外タリータウンにて。
いま思えば、このときも、Yさんは変わらぬ距離感で隣に立っていました。


寛容さという、いちばん難しい技術
――Yさんの十回忌に寄せて

先輩であり、友人でもあったYさんが亡くなって、今年で十回忌を迎えます。同じ会社にいたのは1983年ごろからですから、付き合いは三十年以上になります。1990年ごろ、ドイツ駐在中だったYさんご一家が、ニューヨークの私の家に遊びに来てくれたこともありました。

振り返ってみると、いちばん強く思い出されるのは、Yさんとの散歩です。
私たちは何度も、お茶の水の聖橋で待ち合わせました。そこから湯島へ、谷中へ、時には上野まで、特に行き先を決めるでもなく、さまざまな話をしながら歩きました。仕事の話、技術の話、時事の話、ときには取り留めのない雑談。歩く速度も、会話の間も、いつも不思議と心地よかった。

途中で、Yさん行きつけの蕎麦屋に立ち寄り、ヘギ蕎麦を食べるのも楽しみの一つでした。向かい合って蕎麦をすすりながら交わす、とりとめのない会話が、なぜかとても心地よかったのです。

Yさんと最後に話したのは、亡くなる数日前の電話でした。

会話の内容は、ほとんど覚えていません。
ただ、そのときの自分の態度だけが、妙に鮮明に残っています。私は年下のくせに、Yさんに対していつもダメ出しをしていました。電話口でも、些細なことでつっかかる。すると空気は一気に重くなり、電話を切ったあと、決まって自己嫌悪に陥っていました。最後の電話も、結局そんな感じでした。

それでもYさんは、私の話を遮ることなく、最後まで聞いてくれました。
意見が違っても、声を荒らげることも、表情を変えることもない。ただ、受け止めてくれる。今思えば、あれは「我慢」ではなく、「寛容」だったのだと思います。なぜ、あのときもっとYさんの話に耳を傾けられなかったのか。聖橋から谷中まで、あれほど一緒に歩いた時間がありながら、その意味を十分に受け取れていなかった気がします。

Yさんは、ITのスペシャリストでした。
企業の現場で技術を磨き続け、晩年には農林水産省のCIO補佐官として、行政の中枢にも関わっていました。理屈に厳しく、技術や制度には妥協しない。その一方で、人に対しては驚くほど柔らかかった。その両立こそが、Yさんの本質だったように思います。

今はAIの時代です。

10年が経ち、生成AIが当たり前のように使われる時代になりました。
フィジカルAIやロボットの話題も現実味を帯びてきています。こうした変化を前に、寛容さとは何か、人間はAIとどう向き合うべきか――そうしたことを、Yさんともう一度、歩きながら議論してみたかったと思います。
けれども、それはもう叶いません。

AIは間違える、信用できない、といった声も多く聞かれます。しかし、異なる仕組みで考える存在を、私たちはどれほど理解しようとしているでしょうか。思えば私は、生きている人間であるYさんに対してさえ、理解する前に裁いていたのかもしれません。今になって思えば、ずいぶん傲慢でした。

社会は、異質な存在や新参者に対する一定の寛容さによって成り立ってきました。それは甘さではなく、責任であり、強さでもあります。排除ではなく、筋を通す。その姿勢を、Yさんは言葉ではなく、態度で示していました。

高齢者になって振り返ってみると、自分の最大の欠点は「寛容さが足りないこと」だったと痛感します。年を重ねるほど、それは簡単には身につかないものだと分かってきました。

けれども、聖橋から湯島へ、谷中へと一緒に歩いたあの時間と、Yさん、あなたの変わらない態度は、十年経った今も、私に問いを投げ続けています。寛容さという、いちばん古くて、いちばん難しい技術を、私はまだ学び続けているのだと思います。

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2026年1月14日水曜日

カレーライスの夜に――遠藤賢司の誕生日

 
細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、松本隆(ドラム)
結成したばかりのはっぴいえんどのメンバーが演奏に参加している

遠藤賢司の代表曲の一つに「カレーライス」(1971年)という曲があります。この歌ほど、時代の空気や変化を表現した曲は、他にはありません。

1970年、三島由紀夫が自決しました。国家だの精神だの、やたらと重たい言葉が世の中を飛び交っていた頃です。ところが若者たちの現実はというと、狭いアパートでカレーを食べ、「肉はないけどジャガイモが入っている!」などウキウキしている。遠藤賢司の「カレーライス」は、そのどうしようもない落差を、真正面から歌った。

外では誰かが腹を切っているのに、こちらはカレーを食べている。冷たい話に聞こえるかもしれませんが、これは無関心ではありません。歌にしたのですから。大きな理想や物語が崩れ去ったあと、信じられるものが「自分の手の届く日常」しか残らなかった、というだけの話ではないでしょうか?

全共闘世代が挫折し、サルトルやカミュの言う「反抗」も、だんだんと居場所を失っていきました。若者は実存主義を語らなくなった。いわば「祭りの後の静けさ」。遠藤賢司は、その後始末を引き受ける世代だったのだと思います。燃え尽きたあとのバリケードの後を、じっと見つめていた人です。

当時、私は高校に入ったばかりでした。大阪の府立高校の校門にはバリケードがまだありました。しかし、空気が変わったのを肌で感じました。「カレーライス」の翌年には、吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットし、音楽は反抗よりも生活や恋を歌い始めます。政治の季節が終わり、生活の季節が始まったのです。

ただし、遠藤賢司はどちらにも乗りませんでした。彼は自分の音楽を「純音楽」と呼びました。流行にも政治にも寄らず、ただ自分の魂が震えた分だけ音にする。だからこそ、50年以上経った今も、「カレーライス」を聴く人が絶えないのでしょう。

1月13日は遠藤賢司さんの誕生日です。亡くなってから今年は10回忌。

夜中にカレーライスを作って食べました。玉ねぎを牛脂で炒めてガラムマサラと一緒のレトルトカレーに投入しました。大きな理想が崩れても、人は腹が減り、鍋をかき混ぜる。その静かな肯定を、エンケンは歌っていたのだと思います。決して虚無的ではない。虚無的だったら遠藤賢司は死ぬまで歌い続けなかったと思います。2026年の日本のほうが虚無的です。

今夜もどこかで、誰かがカレーを食べながら「カレーライス」を思い出しているはずです。エンケンはきっと空の上で、「ワッショイ!」(エンケン後期の歌)と笑いながら、その匂いを嗅いでいるのではないでしょうか。

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2026年1月13日火曜日

AI時代の日本が見失ってはならないもの ――言葉を失う教育と、現物現場で鍛えられるAI

 

現物と現場で鍛えられる知能が、産業を支えている

「AIで日本はもう手遅れだ」。

最近、こんな言い方をよく耳にします。随分と自虐的ですね。その根拠として挙げられるのがChatGPTです。生成AIの進化を前に、日本は完全に出遅れたという論調です。しかし、AIをChatGPTだけで語るのは、あまりにも視野が狭いと思います。概念の理解が追い付いていない。

私自身、文章のチェックにChatGPTを使うことがあります。便利ではありますが、使いすぎると、どこか無難で、考える手触りのない文章になってしまう。思考の途中をすべて省略できてしまうからです。

日本では以前から、本を読まなくなり、国語力が低下していると言われてきました。文章を最後まで読めない、前提を共有できない、行間を想像できない。これは教育の問題であると同時に、社会全体の問題です。Eメールさえ書かない、ほとんどをチャットで済ませてしまう。これが、ビジネス現場の実際です。

国語力とは、単に文章を書く技術ではありません。物事を順序立てて考え、他人の考えを追い、自分の立場を言葉にする力です。この土台が弱いまま、子どものころからChatGPTを多用すれば、考え抜く前に答えが提示される。これは教育に関わる人たちに、ぜひ理解してほしい点です。

もう一つ大変重要な点は、ChatGPTはAIの一部にすぎないという事実です。一方で、日本が本来強みを持つのは、現実世界で動く「フィジカルAI」です。産業用ロボットや介護ロボットなど、安全性と信頼性を重視する分野では、日本の設計思想は今も生きています。

フィジカルAIを支えるのは、現場を理解し、因果関係を読み取り、言葉で共有する力です。つまり、ここでも国語力が問われます。

AI時代に必要なのは、速く答えを出す人間ではなく、考え、選び、技術を道具として使える人間でしょう。

もっとも、私は高齢者です。

今のところは、最近始めたサキソフォンのことだけを考えていれば十分なのですが、いけません。ついつい余計なことを、口に出したり、書いたりしてしまいます。最近のブログも長すぎますものね。説明過多です。

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2026年1月12日月曜日

日本はどこへ向かっているのか――ロードマップ(続編)

 

これからの世界を、生きていく世代


毎日のニュースを見ながら、「これは自分の生活や、子どもの将来と本当に関係があるのだろうか」と感じたことはないでしょうか?

国際情勢や安全保障の話題は、難しく、どこか遠い世界の出来事のように語られがちです。しかし、親として考えてみると、それらは決して無関係ではありません。どんな価値観のもとで社会が動き、どんな力関係の中で国が判断を下しているのかは、子どもたちがこれから生きる環境そのものを形づくるからです。

いま私たちが直面しているのは、
  • 善悪ではなく力が支配する世界
  • 大人が説明を放棄すると、子どもは空気だけを学ぶ
今回は、専門家の議論ではなく、親の立場から、今の世界と日本のあり方を考えてみたいと思います。

「世界のヤクザ化」と日本の立ち位置を、現場感覚から考える

本稿は、特定の「思想」や「立場」から世界情勢を論じるものではありません。親米でも反米でもなく、右翼でもリベラリストでもない、ごく普通の一個人が、長い時間と複数の現場をくぐり抜けてきた経験から感じている違和感を、言葉にしておこうという試みです。

結論から述べます。

現在のアメリカ、中国、ロシアは、私の感覚では「仁義を失ったヤクザ組織」に近い振る舞いを見せています。これは感情的な罵倒ではありません。秩序がどのように保たれ、どのように壊れていくのか、その構造についての話です。

任侠とヤクザの決定的な違い

私が1970年代半ば、10代を過ごした大阪ミナミの世界には、少なくとも二つの層がありました。一つは、いわゆる任侠の世界、つまり理念としての姿です。そこでは、弱い者を守ること、筋を通すこと、仁義を切ることが重んじられていました。また、越えてはならない一線については暗黙の了解があり、何よりも約束を破ることが最大の恥とされていました。

もう一つは、そこから堕落した、ただの暴力団です。こちらは利益最優先で、恐怖によって支配し、嘘や裏切り、言い訳が常態化しています。上に立つ者は責任を取らず、外面だけは立派に整える。両者の違いは明確でした。

任侠とは、秩序を保つための暴力です。一方、ヤクザ化とは、秩序を壊すための暴力です。この区別を見失うと、世界で起きていることは理解できません。

冷戦期までのアメリカには「仁義」があった

私が長く身を置いてきたアメリカ社会を振り返ると、かつては国家としての「仁義」が確かに存在していました。それは、WASPが支配していた時代であり、アメリカに余裕があった頃でもあります。少なくとも当時のアメリカは、条約を重んじ、同盟国への配慮を一応は示し、「最後の一線」を守ろうとしていました。

ルールを破るときでさえ、建前としての理由を語ろうとしました。これは、国家レベルにおける任侠的な振る舞いだったと言えるでしょう。もちろん、完全に清廉だったわけではありません。しかし、「筋を通しているつもりではあった」という点に、一定の秩序が存在していました。その均衡が、ベトナム戦争あたりから徐々に崩れていったのです。

いまのアメリカは「ヤクザ化」している

近年のアメリカを見ていると、その変質は明らかです。約束よりも国内政治を優先し、同盟国を便利な下請けのように扱い、利益がなければ切り捨てる。しかし、責任は取らない。そして自分たちの暴走は「正義」と声高に叫ぶ。

これはもはや「親分」でも「任侠」でもありません。看板だけが残った暴力装置です。アメリカと長く関わってきた人ほど、この違和感を強く覚えるのではないでしょうか。

中国・ロシアは最初から「仁義を持たない型」

一方で、中国やロシアは少し性質が異なります。彼らの特徴は、仁義よりも面子を重んじ、約束よりも力関係を優先する点にあります。弱者保護という発想は乏しく、ルールは支配者の都合で書き換えられます。

彼らは、任侠から堕ちた存在ではありません。最初からヤクザ的な統治構造を持ってきた国家です。だからこそ、交渉の作法も前提も、西側の感覚とは根本的に異なります。

日本が一番まずい立場にいる理由

問題は、日本の立ち位置です。日本は今も、義や恥、約束といった任侠的価値を、どこかで信じています。しかし、相手はすでにそれを共有していません。それでもなお、「きっと分かってくれる」と期待してしまう。

私が10代を過ごした大阪ミナミの感覚で言えば、これは「もう仁義が通じない組織相手に、昔の筋を期待しているカタギ」です。最も危険な立ち位置だと言わざるを得ません。

私の視点について

私は、日本社会の内側も、アメリカの組織の内側も、そして暴力が日常に近かった空間も、すべて現実として見てきました。だから、親米でも反米でもなく、特定のイデオロギーに依拠しているわけでもありません。ただ、「空気が変質している」という事実に気づいているだけです。

この感覚は、メディアに登場する多くのコメンテーターや国際政治学者には、必ずしも共有されていないように感じます。

まとめ

私が一貫して書いているのは、独立宣言ではなく交渉であり、感情ではなく条件であり、夢想ではなく現実です。これは、仁義が崩れた世界で、それでも生き延びるための最低限の知恵だと考えています。

最後に、問いを一つに集約します。
「世界がヤクザ化したとき、日本はどう振る舞うべきか」。

答えは一つです。仁義がある前提で動くのをやめ、仁義がない前提で、しかし自分たちは任侠心、つまり筋を失わない。そのために必要なのが、これまで提示してきたロードマップなのです。

※本稿で用いる「ヤクザ」という表現は、特定の個人や集団を指すものではありません。秩序や責任、約束といった倫理が失われた状態を説明するための比喩として用いています。

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2026年1月11日日曜日

日本はどこへ向かっているのか ――落語家が語る、この国の主権回復ロードマップ

 
架空の上方落語家

日本の組織はなぜロードマップが描けないのか

――そして究極のロードマップとしての「植民地からの脱却」

日本の組織は、目の前の課題処理や現場対応には強い一方で、「中長期の道筋」を描くことが驚くほど苦手です。企業経営でも、行政でも、そして政治・外交でも、この弱点は繰り返し露呈してきました。本稿では、まずロードマップとは何かを簡潔に整理し、日本人がそれを苦手とする理由を概観した上で、究極のロードマップとしての「日本の植民地的状況からの脱却」について考えてみたいと思います。

ロードマップとは何か

ロードマップとは、目標達成までの道筋を「いつ・誰が・何をするか」という時間軸で整理した進行計画表です。単なる計画書ではなく、最終ゴールとそこへ至るマイルストーンを可視化し、関係者間で共通認識を持ち、進捗を管理するための「地図」のようなものです。

重要なのは、ロードマップは不変の聖典ではなく、状況変化に応じて更新される前提の「思考の道具」だという点です。未来を正確に予測するためではなく、変化に耐えうる判断基準を持つために存在します。

日本人はなぜロードマップが苦手なのか

日本の組織文化では、合意形成を重視するあまり、無難で曖昧な計画に落ち着きがちです。また、最初から完璧な工程表を作ろうとするため、変更が許されず、結果として環境変化に対応できなくなります。現場の実行力は高いものの、長期的なビジョンを外部環境と結びつけて描く「戦略的思考」が弱いとも言えるでしょう。

さらに、不確実な未来に旗を立てること自体が「責任リスク」として忌避され、誰も明確なロードマップを言語化しようとしません。その結果、日本の多くの組織は「その場しのぎの最適化」を積み重ねながら、気づけば方向感覚を失っていくのです。

今の日本人に万人受けするトピックだとは思えないので(私は正しいと思っていますが)、架空の上方落語の師匠に説明してもらいましょう。これは、黒船来航から継続する日本の姿なのです。


究極のロードマップ――日本の植民地的状況からの脱却

さて皆さん、よう考えてみてくださいな。
日本がいま一番ロードマップ要るんはどこや思います?
会社経営でっか? AIの普及でっか?
ちゃいまんねん。そこやない。

ほんまに要るんはな、政治と外交。
もっと言うたら、「戦後日本が、どうやって主権を取り戻すか」という話でっせ。

ここで、はよ言うときまひょ。
このロードマップ、「独立宣言したれ!」とか、「アメリカと縁切ったれ!」いう話とちゃいます。そないなスローガン、大声で叫ぶんは、日本人いっちゃん得意や。で、いっちゃん失敗してきたやり方でもある。

要るんはな、

「従属してへん!」言うて目ぇ背けることやなくて、
「あ、わしら、ここは従属してますなあ」
と、ちゃんと直視して、それを交渉の材料に変えていくことなんですわ。
そのための、現実的な工程表――これが「ろーどまっぷ」でんねん。

まず大前提。ここ大事やから、よう聞いておくれやす。
最初から「独立」を目標に掲げたらあきまへん。
これが一番あかんとこです。

日本はな、長いこと「対等な同盟や言うてます」
口では言いながら、実際は「ほぼ全面依存」
いう、二枚舌で生きてきましたんや。

東京の空、誰が仕切ってます? 日本政府ちゃいます。
安全保障の最終決定権、どこにあります? 実質、アメリカですわ。

でもな、これは現実でんねん。
戦後処理の結果として、そうなっとるだけの話です。

問題はな、この現実を「そうですねん」と公に認めんと、
「うちは独立国家です」言うて、自分で自分をだましてきたことですわ。

ロードマップの第一歩はな、
「こうなりたい!」いう目標設定とちゃいます。
「いま、どうなってまんねん?」いう現状認識です。

まず、日本は主権に制限のある国や、
いうところから始めな、話は一歩も進みまへん。

次の段階にいきまひょ。

従属を、ちゃんと見えるようにして、言葉にする。
これが第1段階です。

安全保障の話で言うたら、
在日米軍が動くとき、日本政府に「それアカン」言う拒否権がない。
日米地位協定は、左右対称やなくて、片っぽに重たい。
有事のとき、最終的に誰が指揮するんか、これもはっきりしてる。

これをな、「同盟の現実」として、白書や政府文書にちゃんと書きなはれ、いう話です。
反米やないですよ。
交渉の土俵を整えるだけの話ですわ。

経済や制度も同じでっせ。
アメリカが制裁したら、はいはい言うて自動追随。
半導体、エネルギー、金融、為替。
「ここは日本だけでは決められまへん」
いう分野を、ずらっと並べて整理する。

これも感情論ちゃいます。
事実の確認です。

さて、ここまで来て、やっと交渉が始まります。
第2段階、従属を取引条件に変える、ですわ。

皆さん、ええですか。
従属いうんは、タダやないんです。
nothing is free、いうやつですわ。

日本に価値があるから、アメリカは日本を手放さへん。
在日米軍はな、日本守るためだけやおまへん。
アメリカの世界戦略にとって、えらい大事な拠点ですわ。

日本はな、土地、安定、地理的な位置。
これ、全部カードとして出してます。

ほな、その対価、もろて当たり前やないですか。

駐留経費、どないなっとるんか、もっと透明に。
基地使うときの事前協議権、もうちょい広げまひょ。
日本の周り以外で使うなら、条件つけまひょ。在日米軍基地を「世界中どこでも無料で使える踏み台」にしない、という最低限の主権行使ですワ。

これは「同盟壊す」話やない。
同盟を現実にするための交渉です。

中国の話も同じですわ。
米中対立の最前線に立たされて、日本が背負うリスク。
これ、ちゃんと数字で出して、
「これだけのコストかかってまっせ」
言うて、見返り要求せなあきまへん。

エネルギーの保証、制裁時の国内補填、
技術流出防止の共同責任。
全部、取引条件に落とし込むんです。

第3段階

主権はな、一気に戻りまへん。
少しずつ、機能ごとに回復していくもんです。

司法、情報、外交。
このへんから、ちょびっとずつ裁量を取り戻す。
「同盟強化」いう看板掲げて進めてもええ。
大事なんは、中身ですわ。

ほんでな、一番しんどいんが第4段階
国内への説明です。

交渉にはリスクがある。
アメリカは圧力かけてくる。
一時的に経済的にしんどなるかもしれん。

でもな、
何も考えんと従い続けて、
暴走するアメリカ、中国、ロシア、
そんな巨大国家に巻き込まれるリスクと比べて、
どっちが現実的か。
それを国民に問いかけなあきまへん。

最後に、これだけは覚えといてください。
独立いうんはな、宣言するもんやない。
交渉を積み重ねた結果、
「あれ、気ぃついたら、だいぶ独立に近づいてまんな」
いうもんです。

アメリカがほんまに尊重するんは、
感情で叫ぶ自立論者やない。
現実をわかった上で、話ができる交渉相手です。

坂口安吾が『堕落論』で言うた通りですわ。
「対等な同盟」いう幻想、いっぺん捨てなはれ。
属国である自分を、ちゃんと直視しなはれ。

いっぺん、精神的に堕ちる。
そっから、現実の交渉に立ち上がる。

それがな、
ほんまの意味での「究極のロードマップ」ちゅうもんでっせ。

――どうでっか、皆さん。
拍手する前に、ちょっと胸に手ぇ当てて、考えておくんなはれ。

おあとがよろしいようで

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2026年1月10日土曜日

ミネアポリスの銃声が問うもの ――ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える――

 
迷子になる勇気

これはアメリカの話から始まりますが、読み進めるうちに「結局、日本の話じゃないか」と思ってもらえたら成功です。子どもたちの世代に、何を引き渡すのか――そんな回り道の文章です。

ミネアポリスの銃声が問うもの

ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える

年初から、世界では衝撃的な事件が相次いでいます。ベネズエラ、イランといった国々で起きている出来事は、日本でも比較的大きく報じられています。しかし、同じ時期にアメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで起きた射殺事件は、それらと同じ重さで受け止められているでしょうか。私は、このミネアポリスの事件こそ、今のアメリカの本質を鋭く突きつける出来事だったと考えています。

事件は、ICE(米移民税関捜査局)の捜査官が、37歳の女性レニー・ニコル・グッドを射殺したものです。連邦当局、すなわち国土安全保障省やトランプ大統領は、「女性が車を武器化し、捜査官を轢こうとした」「捜査官は自己防衛として発砲した」「これは国内テロにあたる」と主張しました。

一方で、ミネアポリス市長、市議会、ミネソタ州知事、民主党幹部らは、捜査官の行動を「無謀(reckless)」と断じ、連邦政府の説明を「プロパガンダ」「ガスライティング」とまで批判しました。複数の動画では、ICE捜査官が車に接近し、ドアを開けようとした直後、車が動き出した瞬間に至近距離から発砲し、SUVが制御を失って衝突する様子が確認されています。現在、FBIが捜査に入っています。

この事件の背景には、トランプ政権が不法移民や福祉不正を理由に、ミネアポリスへ約2,000人の連邦捜査官を派遣していた事実があります。特にソマリア系移民コミュニティが集中的に標的とされてきました。事件現場は、2020年にジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイルという近さであり、抗議は全米に広がりました。治安悪化を理由に、公立学校が休校する事態にまで発展しています。

この事件を報じたイギリスBBCの姿勢は、非常に示唆的です。BBCは、連邦政府の公式説明と、地方政府や市民側の主張を並列に紹介していますが、細部を読むと、単なる中立ではありません。トランプ政権やICEの主張には必ず引用符を付け、市長や州知事、目撃者、映像証拠を丁寧に積み重ねています。「捜査官がどれほど近距離にいたのかは明確でない」という一文は、致命的な正当防衛だったかどうかに疑義を呈する含意を持っています。

さらに、BBCは意図的に言葉の温度差を可視化します。
連邦側は「weaponise」「domestic terrorism」といった強い言葉を使い、地方側は「reckless」「propaganda」「gaslighting」という言葉で応じる。この対比は、アメリカ国内で事実認識そのものが分裂している現実を、読者に体感させます。

BBCが「ジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイル」と明記したのも偶然ではありません。これは、この事件を単なる治安問題ではなく、「連邦権力 × 人種・移民 × 武装警察」という、アメリカが抱え続けてきた構造問題の再燃として位置づけよ、という無言のメッセージです。BBCの本音は、「これは事故ではなく、移民政策が都市空間で武力衝突を生む段階に入った」という警告にあるように思えます。

ミネアポリスという都市の歴史も、この事件を理解する重要な補助線です。1990年代以降、ミネアポリスにはソマリア系移民だけでなく、ロシアやウクライナなど旧ソ連圏、東欧からの移民が多く流入しました。ロシア語だけで生活できる地域が存在したほどです。

この街は、冷戦後の世界の矛盾を吸収し、アメリカの活力そのものを体現してきた都市でもありました。優秀で意欲的な移民たちが、経済と社会を支えてきた現実があります。

その都市で今、連邦捜査官が市民を射殺し、市長が「この街から出ていけ(leave the city)」と叫ぶ。この発言は、感情的な暴言ではありません。これは、連邦制というアメリカの制度そのものがきしむ地点を正確に突いた、明確な政治行為です。

日本の感覚では、市長が国に向かって「出ていけ」と言うことは想像しにくいでしょう。しかしアメリカでは、連邦政府、州政府、地方自治体が対等な緊張関係にあることが前提です。市長の発言は、「連邦政府は万能でも絶対的上位でもない」という建国以来の思想に忠実なのです。

今回、市長が恐れているのは、治安維持という名目が、恐怖による管理へと変質している点です。その結果として市民が死んだ。だからこそ「出ていけ」なのです。これは混乱ではありますが、同時に「統治を問い返す力」がまだ生きている社会の姿でもあります。

対照的に、日本ではどうでしょうか?

日本の報道は、おそらくこの事件を「移民政策をめぐる混乱」「トランプ政権の強硬姿勢」といった平板な枠組みで処理するでしょう。誰がどの権力として、どこまで踏み込んだのか。なぜ市長が連邦政府を拒絶したのか。そうした核心には触れられないでしょう。

その理由は、日本が戦後、「統治される側」であり続けたことにあります。治安や権力を批判的に分析する言語が、意図的に育てられなかったのです(これは思考力でもあるのですが)。戦後日本でアメリカが行ったのは、住民の合意による統治ではなく、管理でした。秩序回復を名目に、治安・司法・教育・報道が再編されました。

ミネアポリスで起きていることと、戦後日本の占領統治は、驚くほど似た構造を持っています。しかし、大きな違いがあります。日本では市長が「出ていけ」と言えなかったこと、メディアが占領の正当性を疑えなかったことです。その結果、統治を疑う言語、つまり、思想そのものが育たなかった。

だからこそ、日本メディアがこの事件を淡く、遠く報じるとしたら、それはアメリカへの配慮ではなく、日本自身の問題なのです。このミネアポリスの事件は、「アメリカのジレンマ」なのですが、統治とは何か、権力はどの瞬間に市民の命を奪ってよいのか、地方の正統性はどこから生まれるのか。それらを私たち自身に突きつける、普遍的な問いなのだと思います。

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2026年1月9日金曜日

新しいサキソフォン

 
右手の中指でF#キーを押しています


昨年のブログで、修理に出した古いサキソフォンをきっかけに、私のサックス生活が始まったことを書きました。その続きです。

一年ほど吹いてみて、さすがに楽器の世代差を感じるようになりました。思わぬ音が出るたびに自分の未熟さを棚に上げ、楽器のせいにしたくなる日々です。そこで、長い逡巡の末、新しいサキソフォンを購入する決断をしました。

選んだのはヤマハのアルトサックス。仕上げはアンラッカーです。
理由は単純で、「使い込むことで変わっていく楽器」を、人生の後半で持ってみたかったからです。

ただし、ここで一抹の不安が生じました。

アンラッカーの渋い経年変化が出るのが先か、それとも自分の健康寿命が先か。まさかサキソフォンの酸化と競争することになるとは思いませんでした。

機能的にはハイF♯キーも付いており、理屈の上では以前より吹きやすいはずです。ところが現実は甘くなく、期待するほど音は言うことを聞いてくれません。新しい楽器が来たからといって、腕前まで新品になるわけではないようです。

それでも不思議なもので、1ミリでも前に進んだ気がすると、それだけでうれしい。誰に評価されるわけでもない自己満足ですが、今の自分にはそれで十分だと感じています。私は元々承認欲求は強くはありません。

クリスマス前に届く予定の新しい相棒は、結局、年も押し迫った29日に手に入りました。

今日も相変わらずピーヒャラピーヒャラと音を外しています。
それでも吹き続けていれば、楽器も自分も、少しずつ変わっていくはずです。そう信じて、しばらくはこの根競べを楽しもうと思っています。


A New Saxophone

Not long ago, I wrote about how my life with the saxophone began—sparked by an old horn I sent out for repairs. This is the sequel.

After about a year of playing, I could no longer ignore the generation gap between the instruments. Every time an unexpected note jumped out, I conveniently blamed the sax, quietly shelving the fact that I’m still a beginner. Eventually, after a long stretch of hesitation, I made the decision: I’d buy a new saxophone.

I chose a Yamaha alto, finished in unlacquered brass. The reason was simple. In the later half of life, I wanted to own an instrument that changes as you use it—one that ages along with you.

That’s when a small anxiety crept in.

Which would come first: the deep, weathered patina of an unlacquered sax, or the end of my own healthy years? I never imagined I’d be racing a chemical process—oxidation—at this stage of life.

On paper, the horn should be easier to play. It even has a high F-sharp key. In theory, things should be smoother than before. Reality, of course, had other plans. The sound doesn’t always obey. A new instrument doesn’t magically upgrade the player.

Still, there’s something strangely satisfying about feeling even a millimeter of progress. No applause, no audience—just quiet self-approval. These days, that feels like enough.
The new partner I was expecting before Christmas finally arrived on the 29th, just as the year was closing in on itself.

Today, as always, I’m still missing notes, making that familiar squeal and squawk.

But if I keep playing, I believe both the instrument and I will change—slowly, unevenly, but surely. For now, I’m content to enjoy this small, stubborn race.

(Photo: pressing the high F-sharp key)

一把新的萨克斯

不久前,我写过一篇文章,讲述自己是如何与萨克斯结缘的——起因是一把送去维修的老乐器。这篇文章,可以算是那段故事的续篇。

大约吹了一年之后,我再也无法忽视乐器之间的“代沟”。每当有一个不该出现的音符突然蹦出来,我总会很顺手地把责任推给萨克斯,悄悄把“自己仍是初学者”这个事实搁置一旁。犹豫了很长一段时间后,我终于下定决心:买一把新的萨克斯。

我选择了一把雅马哈的中音萨克斯,未经上漆的黄铜表面。理由很简单。人生的后半程里,我想拥有一件会随着使用而变化的乐器——一件能够与我一同老去的东西。

就在这时,一丝小小的不安浮现出来。

究竟哪一个会先到来:无漆萨克斯那种深沉、风化般的包浆,还是我自己健康岁月的终点?我从未想过,在这个人生阶段,竟然会和一种化学过程——氧化——展开赛跑。

从理论上说,这把乐器应该更容易吹奏。它甚至配备了高音F♯键。按理说,一切都该比以前顺畅。但现实当然另有安排。声音并不总是听话。一把新乐器,并不会自动升级演奏者。

即便如此,哪怕只是感觉到一毫米的进步,也会带来一种奇妙的满足感。没有掌声,没有观众,只有对自己的默默认可。如今,这样就已经足够了。

我原本期待在圣诞节前到来的这位新搭档,终于在12月29日抵达——正好赶在这一年即将收尾的时候。

今天也和往常一样,我依旧会吹错音,发出那种熟悉的尖叫和怪响。

但我相信,只要继续吹下去,乐器和我都会改变——缓慢、不均匀,却是确定无疑的。此刻,我很满足于享受这场小小而固执的赛跑。

(照片:按下高音F♯键的瞬间)


***

2026年1月8日木曜日

「病院はある」時代の終わり ――救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

 
「病院はある」時代の終わり

救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

「どんなに良心的に頑張っても、病院はつぶれる」

https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251224-GYTET00001/

下町の中小病院を率いてきた三代目院長の言葉が、胸に重くのしかかります。

読売新聞が報じたこの記事は、医療関係者にとっては「今さら」かもしれません。しかし、患者や家族の側にいる私たちにとっては、ようやく突きつけられた現実でもあります。

病院は、いつでもそこにあり、困ったときには受け入れてくれる。
そんな前提が、すでに崩れ始めているのです。

三次救急は「入り口」にすぎない

昨年11月、身内が自宅で倒れ、日赤病院に救急搬送されました。
日赤は三次救急医療機関です。命に関わる重篤な状態を、24時間365日で受け止める、日本の医療の最後の砦です。

しかし、そこに長くはいられません。
状態が安定すれば、必ず転院になります。

一か月後に転院し、そして昨日、ようやく退院しました。
治療の流れとしては、今の日本ではごく当たり前のことです。

三次救急は「治す場所」ではなく、命をつなぐ場所
その後の時間は、地域の中小病院や療養型施設、あるいは在宅医療に委ねられます。

20年で、病院は確実に変わった

振り返れば、この20年、私は否応なく病院に通い続けてきました。
母、父、叔母、義父、義母――入退院と介護を繰り返す中で、多くの病院を見てきました。

進化した部分も確かにあります。

  • 検査や画像診断の精度

  • 医療機器の高度化

  • 電子カルテやオンライン連携

一方で、テクノロジーの進化が、人の余裕を奪った側面もはっきりと見えます。医師は忙しく、看護師は疲弊し、病院全体が常にギリギリで回っている。

効率化の名のもとに余白が削られ、現場の「人間力」に過度な負担がかかっています。

病院は「経営体」でもあるという現実

読売新聞の記事が突きつけているのは、医療の中身以前に、病院経営の破綻です。診療報酬は抑えられ、物価と人件費は上がり続ける。

職員を多く抱える病院ほど苦しく、診療所のほうが儲かるという歪んだ構造。

「老人が増えるのに、なぜ病院がつぶれるのか」

それは、医療が市場経済ではないからです。
患者が増えても、収入は増えない。
むしろ、重度化・長期化するほど、病院は赤字になる。

この現実を、私たちはあまりにも知らなさすぎました。

「地域包括ケア」という美しい言葉の裏側

2026年現在、日本の医療は「病院完結型」から「地域完結型」へ移行しています。地域包括ケアシステム――聞こえは良い言葉です。

しかし、現場を歩くと、こうも感じます。

それを支える人も、金も、もう足りない。

病院、介護施設、在宅医療、行政。
連携すべき主体は増えましたが、誰かの負担が減ったわけではありません。

さらに外国人労働の問題も絡み、現場は複雑化する一方です。

見舞う側から、入院する側へ

私自身も年を重ねました。
最近は、病院を「見舞う場所」ではなく、「自分が入るかもしれない場所」として見るようになりました。

すると、見える景色が変わります。

  • 個室か、多床室か

  • 面会制限の現実

  • 退院後の生活設計

病院は、万能の避難所ではありません。
そこに「居続けられる」という前提そのものが、すでに幻想なのです。

日本の医療は、かなり危うい

はっきり言えば、日本の医療はかなりヤバい状況にあります。
制度の限界は、もう見えています。

だからこそ、50代・60代の「高齢者予備軍」が考えるべきことは明確です。

  • どの病院が、どんな役割を担っているのかを知る

  • 介護や療養の現実を、元気なうちに学ぶ

  • 健康管理を「自己責任」で引き受ける覚悟を持つ

基本は、自助努力です。

医療は「魔法」ではありません。
社会全体が痩せ細る中で、支え合いにも限界があります。

それでもなお、現実を直視し、備える人間から、次の時代を生き延びていく。今回の経験を通じて、私はそう強く感じました。

何だか、日本という国の現状とも重なります。
アメリカ依存を続けるのか、それとも真の独立の道を歩むのか――。

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2026年1月7日水曜日

そのニュース、子どもに説明できますか? ――親世代が直面する「思考停止メディア」の正体

 

社会の木鐸とは何か?


――沈黙する日本のジャーナリズムと、饒舌なコメンテーターたち――

「社会の木鐸」という言葉があります。本来は、権力や時代の空気に警鐘を鳴らし、社会に時間的・思想的な奥行きを与える存在を指す言葉です。木鐸は叩かれて音を出すものではなく、自ら響くから意味がある。しかし、近年の日本のジャーナリズムを見ていると、どうも拡声器と化してしまったように見えます。しかも音量だけはやたらと大きい。

今回のアメリカによるベネズエラ攻撃をめぐる日本の報道を見て、その思いは一層強くなりました。事実関係は断片的、背景説明は乏しく、国際政治の文脈はほぼ消失しています。代わりに並ぶのは、スタジオで頷き合うコメンテーターの「お気持ち」と、司会者の「分かりやすいまとめ」です。分かりやすいのは結構ですが、浅いものを分かりやすくしたところで、浅さが際立つだけではないでしょうか。

欧米のメディアも、もちろん完全に清廉潔白ではありません。スポンサーの影響も受けますし、政治的バイアスもあります。しかし、少なくとも「何が争点で、どこが分かっておらず、誰の利害が衝突しているのか」を整理しようとする最低限の知的誠実さは保たれています。ところが日本では、その手前で話が終わってしまう。原因は明白です。日本のメディア自身が、日本という国を相対化して理解しようとしていないからです。

政治の話になると、日本の報道は急に情緒過多になります。怒り、悲しみ、正義感――いずれも大切な感情ですが、それらが事実や構造分析を押し流してしまっては本末転倒です。マックス・ウェーバーが語った「レジティマシー(正統性)」の議論など、ほとんど耳にすることがありません。誰が、なぜ、どのような正統性をもって権力を行使しているのか。国家も都市も、そこを問わずに語れるほど単純ではないはずです。

にもかかわらず、テレビに登場する「知識人」や「有識者」たちは、疑念を投げかけるよりも、場の空気を整えることに熱心です。異論は「炎上リスク」、沈黙は「大人の対応」。こうして議論は痩せ細り、思考の筋肉は衰えていきます。本来、信念と疑念がぶつかり合うことで思想は鍛えられるはずですが、今や疑念そのものがマナー違反のように扱われているのです。

日本のジャーナリズムが劣化した理由は、一つではありません。記者クラブ制度、視聴率至上主義、広告依存、そして教育の問題。特に教育の影響は深刻です。受験を目的化した教育は、問いを立てる力ではなく、正解を当てる技術だけを磨いてきました。その結果、「分からないことを分からないと言う」「仮説を立てて検証する」といった思考の基本動作が社会全体で弱体化しています。

面白いのは、中国の若者の方がこの点ではよほど健全だという事実です。彼らは人民日報や国営テレビを鵜呑みにしません。「報道の逆を考える」というリテラシーが、皮肉にも全体主義体制の中で育っている。一方、日本では「自由な報道」があるはずなのに、それを無批判に消費するだけの大衆が量産されています。トーマス・ジェファーソンの言葉を借りるなら、「新聞ばかり読む人は、何も読まない人より教養がない」という状況が、テレビを含めて拡張されているように見えます。

かつて小林秀雄は、敗戦直後の講演で「人生観」という言葉の軽さを指摘しました。今の日本は、その軽さを思想だけでなく、報道にも持ち込んでしまったようです。重たい問題を、軽やかなトークで処理する。その場では分かった気になりますが、何も残らない。まるで栄養バランスを考えないファストフードのような報道が、毎日大量に消費されています。

社会の木鐸とは、本来、不人気で、面倒で、時に嫌われる存在です。叩かれても黙らず、空気を読まず、問い続ける。ユーモアとは、その厳しさを和らげるための知性であり、決して思考停止の潤滑油ではありません。しかし今の日本のメディアは、ユーモアを「笑い」に矮小化し、皮肉を「悪意」と誤解しているように見えます。

坂口安吾は「もっと堕落しろ」と言いました。堕ちきることで、初めて目が覚めるかもしれない、と。日本のジャーナリズムも、もしかすると今はその段階にあるのかもしれません。どこまで堕ちるのか、いつ目覚めるのか、それは分かりません。ただ一つ言えるのは、社会の木鐸が沈黙したままでは、国家の未来図は決して描けないということです。

木鐸は、誰かが叩いてくれるのを待つものではありません。自らの内部に空洞を持ち、響く準備ができているかどうか。その問いは、メディアだけでなく、私たち一人一人にも向けられているのだと思います。

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2026年1月6日火曜日

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実 ――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

 
群れを離れたとき、はじめて思考が始まる

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実


――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

年明け早々、米国はベネズエラを急襲し、マドゥロ大統領を拘束・米国に移送しました。この行動をめぐり、日本でも評価は大きく二分しています。

一つは、国際法違反としてトランプ氏を厳しく非難する「国際法支持」の立場。もう一つは、中国の世界的な拡張行動を牽制・抑止するための現実的な一手として、トランプ氏の判断を評価する立場です。

意見が真っ二つに割れる――この光景自体が、敗戦後80年にわたって続いてきた日本の特徴を象徴しているように思えます。

私はアメリカに長年住み、中国についても1970年代、文化大革命後期からウォッチしてきました。学者ではありませんので、細部の分析には限界がありますが、日本人として、どうしても考えざるを得ないことがあります。

それは、私はこの二つの立場のどちらにも与しない、ということです。

現実を見て、現実に生きるという視点

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、国際法の観点から見れば問題がある行動です。一方で、現代の国際社会が、「国際法だけで動いている世界」ではないことも、否定しようのない現実でしょう。

注)私は国際連合や国際法を全く信じていません。現職の政治家が、国連や国際法を金科玉条のごとく信奉する姿勢は、国民に対して無責任だと考えています。

BBCなど欧米メディアも、この行動を単なる「暴挙」と断じる一方で、その背後にある地政学的意図――とりわけ中国への牽制――を冷静に分析しています。

問題は、トランプ氏が正しいか、間違っているかではありません。
問題は、日本がどの立場で、この現実を見ているのか、です。

従属国として生きるなら、その覚悟が要る

もし日本が、これからもアメリカの従属国として生きるのであれば、それならそれで、その立場にふさわしい発言や行動を選ぶべきです。従属国である以上、外交姿勢も、世界へのメッセージも、当然変わってきます。

しかし日本は、現実を直視せず、「対等な同盟国である」という幻想で自らを覆い隠してきました。その姿は、外から見れば、敗戦国としての屈辱的な立場を誤魔化しているように映っている可能性があります。

そして最近、私はこう思うようになりました。

日本は自己欺瞞をしているのではなく、自分が屈辱的な立場にいるという現実そのものを、理解していないのではないか、と。
 
ヤクザ社会に学ぶ「立場を知る」ということ

少し極端な例えかもしれませんが、ヤクザ社会には子分の仁義や掟があります。一人前になるには、その立場をわきまえ、掟の中で耐え、学び、力を蓄えるしかありません。立場を誤認した子分は、組織の中でも外でも生き残れません。

日本も同じではないでしょうか。

まずは、自分たちが従属的な立場にあるという現実を認めること。そこからしか、成長も、交渉も始まりません。

独立という選択肢と、その重さ

日本が真の独立を目指すという道もあります。しかしそれは、イバラの道です。安全保障、経済、外交、すべてにおいて、あらゆる困難を引き受ける覚悟が求められます。長期的な低迷を経験する可能性もあるでしょう。

それでも私は、日本はいつか、真の独立を目指すべきだと思っています。そしてそのときこそ、アメリカと「対等なパートナー」になれる。

皮肉なことに、トランプ氏のような現実主義者は、その話にこそ乗ってくる可能性があるのではないでしょうか。日本にとってのチャンスです。

交渉の余地は、現実の中にある

例えば、自衛隊の訓練を有料で米軍に委ねる(実際、すでに一部では行われています)。あるいは、日本の刑務所運営の一部をアメリカにアウトソースする。突飛に聞こえるかもしれませんが、こうした具体的な取引こそ、トランプ流の交渉の俎上に載り得る現実的な材料です。

重要なのは、「対等であるふり」をやめることです。「ごっこ」の世界からの脱却です。まずは従属国であるという現実を認め、その立場から交渉を開始する。そこにしか、次の段階はありません。

坂口安吾が突きつけた地点

ここで、私の頭の片隅には、どうしても坂口安吾の『堕落論』(1946年)が引っかかります。敗戦直後の日本で安吾は、「堕落しろ。まだ堕落が足りない」と言いました。それは投げやりな破壊ではなく、幻想や建前をすべて失い、人間が本来の姿に立ち返るための過程でした。

堕落の本質は孤独にある、と安吾は言います。集団の幻想に安住せず、一人荒野に立ち、そこから這い上がれ、と。今の日本に必要なのも、まさにその地点まで降りていく覚悟ではないでしょうか。

トランプの行動が、日本に突きつけたもの

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、是非以前に、日本に問いを突きつけています。あなたは、現実をどう見るのか。そして、その現実の中で、どの立場で生きるのか。

分断された意見のどちらに与するかではなく、現実を見据え、そこから日本の進む道を考える。今、日本に最も欠けているのは、その覚悟ではないでしょうか。

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2026年1月5日月曜日

袋詰めカウンターは戦場だった ――スーパーで見た「老い」とプライドの正体――

 
袋詰めカウンターは静かな戦場になる

2026年、令和8年の幕開け

お正月、いかがお過ごしでしたか。

私はといえば、我が家の愛犬・チャーリーのドッグフードを買いに、1月4日の初売りで賑わう近所のスーパーへ繰り出してまいりました。わりと規模の大きなスーパーです。

そこで目撃した光景が、あまりに「現代日本」を凝縮した地獄絵図、もとい、シュールなコントのようでしたので、少しばかり書いておこうと思います。

聖地「袋詰めカウンター」の決闘

昨日のスーパーは、昼前だというのに凄まじい混雑でした。
店内を見渡せば、右も左も、前も後ろも高齢者。

正月早々、ここが老人ホームか、はたまたパラレルワールドの永田町かと思うほど、見渡す限りのシルバー、シルバー、シルバー。もちろん、そのシルバーの一人は私自身なのですが。

私は今では一般的な「セルフレジ」が嫌いです。
レジ係とのほんの短い会話を大事にしているからです。

ですから、あえて「人のいるレジ」に並び、会計を済ませ、戦利品を袋に詰めるべくパッキングのカウンターへと向かいました。

やっとの思いで見つけたわずかなスペース。
そこでチャーリーのドッグフードをカゴから出そうとした、その時です。

突如として、隣でいさかいの火蓋が切られました。

出演者は、70代後半とおぼしきお二人。
スペックはほぼ同等。お二人ともカッコいい防寒ジャンパーを羽織り、人生の荒波を乗り越えてきた自負が、その鋭い眼光から滲み出ています。

いさかいの発端?
正直、わかりません。

カゴの角が少し触れたのか、レジ袋の広げ方が気に食わなかったのか、あるいは「お前の顔がそもそも新年にふさわしくない」といったレベルの言いがかりかもしれません。

武器を持たない、世界一激しい「口撃」。

喧嘩の内容は実に些細なものでしょう。しかし、その熱量は凄まじい。

「お前、さっきからマナーがなってないんだよ!」
「マナーだと? どの口が言っとるんだ!」

スーパーの若い店員さんは、遠巻きに「またか……」というような、死んだ魚の目で見守っています。仲裁に入る気配など微塵もありません。おそらく彼らにとって、これは日常茶飯事、あるいは「野生の動物番組」を見ているような感覚なのでしょう。

「かつての自分」を捨てられない悲哀

一般的に、高齢者のトラブルは、「認知機能の低下」だの「身体的ストレス」だのと説明されます。医学的・行政的な解説によれば、「易怒性(いどせい)」がどうとか、「前頭葉の萎縮」がどうとか。しかし、私の目の前で展開されているこの決闘を見て、私は確信しました。

これ、単なる「プライドの衝突」です。

彼らは決してボケているわけではありません。むしろ、頭の回転は驚くほど速い。

相手を罵倒するためのボキャブラリーの豊富さといったら、最近のSNSの誹謗中傷など足元にも及ばないほどのキレがあります。

問題は、彼らが「かつての自分」を背負ったまま、スーパーの袋詰め台という、極めてパーソナルな空間に降り立ってしまっていることです。

現役時代、部下を従え、大きなプロジェクトを回し、「俺の指示が絶対だ」と信じて疑わなかった時代。

その栄光という名の透明な鎧を脱げないまま、令和8年のスーパーで、「レジ袋がうまく開かない」という現実の無力さに直面している。そのギャップから生じるイライラが、隣の「同じような鎧を脱げない爺さん」にぶつかるのです。

まさに、鏡合わせの自分を殴っているようなものです。

私という名の「鏡」

喧嘩を見ながら、私はふと、ビニール袋を広げようとして、指先がカサカサで滑りまくる自分の手を見つめました。

「年寄りって、いやだな……」

私も今、同じ舞台に立っている。私もまた、セルフレジを嫌い、自分のやり方に固執し、混雑に思いっきりイラついている。

20代、30代の皆さんは思うでしょう。「自分はあんな風にはならない」と。

しかし、前頭葉は裏切ります。
自然の摂理には抗えません。

あんなに優しかったお父さんが、あんなにスマートだった上司が、ある日突然、スーパーの袋詰め台で「場所を譲れ!」と叫ぶ戦士に変貌する。

それは、老化という名のマイクロソフトの強制アップデートなのです。
しかも、元に戻す方法はありません。

2026年、新年の誓い

50代、60代の「予備軍」の皆様。
君たちは今、トレーニング期間にいます。

「自分が正しい」と思った瞬間に、心の中で「他人も正しい」と自分に言い聞かせる練習をしておかなければなりません。さもないと、近い将来、あなたは私の隣で叫んでいるかもしれません。

結局、お二人の決闘は、一方が現場を立ち去ることで幕を閉じました。
勝者は不在です。

残されたのは、気まずい沈黙と、散らばったレジ袋の残骸だけ。

私はチャーリーのドッグフードを抱えて帰路につきました。家に戻り、チャーリーの無垢な目を見て、少しだけ救われた気持ちになりました。

彼には「プライド」も「スペック」も「かつての肩書き」もありません。ただ、「今、ここにあるおやつ」に全力で感謝するだけです。彼はひたすら今を生きているのです。

「歳はとりたくないものだ」

これは真理かもしれません。
しかし、歳をとることは止められません。

ならばせめて、私は「袋詰め台で譲れる老人」になりたい。もし私がスーパーで誰かと怒鳴り合いをしていたら、どうぞ優しく諭してください。

令和8年。鏡の中の自分と喧嘩をしないために。

令和8年、本年も「謙虚な前頭葉」を大切に過ごしてまいりましょう。

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