2025年8月28日木曜日

「臣」としての政治家か、それとも「従属者」としての日本か

誰の臣なのか?

多くの評論家やメディアのコメンテーターは、直近の参議院選挙で自民党が少数与党へと転落した現状を背景に、政治家に必要なのは「政治とカネの体質を刷新すること」と「国民生活に直結する課題への政策対応の迅速化」であると説いています。そして、それらは防衛費や安全保障政策とも切り離せず、政治家には「臣」としての責任や品性が求められるのだと結論づけます。

しかし、こうした言説は間違っていないのですが、あまりに表層的です。問題の根は、はるかに深いところにあります。

そもそも戦後日本の政治構造そのものが、アメリカに従属する体制のもとで形成されてきました。憲法、日米安保、教育制度、そしてアメリカ礼賛のメディア――いずれも占領期GHQが設計した枠組みにすぎません。それが八十年ものあいだ温存され、自民党はその「管理者」として権力を維持してきました。もはや自党の結党の精神が何であったのかすら忘れ去り、その存在意義は「従属体制の存続」へとすり替わってしまったのです。

そして忘却の病は、政治家だけに限られません。日本人全体が「聞きたくないことは聞かない」という態度に慣れきり、「自分は何者か」という根源的な問いを避け続けてきました。国家とは何か、日本精神とは何か――そうした基盤を忘れ去った結果、経済成長や安定という虚構に依存する社会が形成され、その土台は空洞化してきたのです。

評論家は「政治家に臣の意識を」と言います。しかし問うべきは、「この国の政治家は誰の臣なのか」ということです。本来ならば国民と天皇陛下に仕えるべき立場が、実際にはアメリカ体制に従属する存在へと成り下がっている。この事実に触れずして「責任」や「品性」を論じても、問題は何一つ解決しません。

今日の政治の恐ろしく低レベルな有様は、単なる偶然や一時的な失政ではなく、戦後八十年体制の必然的な帰結です。自民党は結党の精神を忘れ、日本人自身もまたアイデンティティを自ら放棄してきた。その果てに、日本は「臣」どころか「従属者」としての姿を甘受しているのです。

我々が本当に問わねばならないのは、アメリカに与えられた枠組みの中で「責任」や「品性」を議論することではありません。「日本とは何か」「日本精神とは何か」――この国の独自の成り立ちを取り戻すことです。それを忘れ続ける限り、日本は「眠たくなるような政治」に埋没し、未来を失った国として漂流し続けるほかないのです。

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